心に残った言葉たち

個人的に、感銘を受けた言葉や文章を載せていきたいと思います。

徳島県にある、フリースクールTOEC(エック)自由な学校(小学生対象フリースクール)の代表伊勢達郎さんの文章がとても良いので、抜粋したものを載せておきたい。育児中の方、教育者には、ぜひ読んでほしい。

トエック抜粋

  第1回 はじめに 〜自分を生きるという究極の力〜

モノや便利さを追いかけ続けた社会の在り方は、今大きく揺らいでいます。教育界のふり幅というのは激しくて、勉強ばかりでなく、ゆとりも大事と自由保育やゆとり教育ができて、でも学力が下がってはだめというのでまた揺り戻しがきて。

基礎学力は大事、スポーツも大事、しつけは大事、英語も大事、自然体験活動も大事。あれもこれも大事。もちろんそうなんですけど…。不安になった親は次々とサッカーだ、学習塾だ、お絵描きだと教室に通わせるので、子どもたちの日常は忙しく、自由な時間はどんどん奪われてしまっています。

子どもによかれと届けられる指示やアドバイス、情報はおしなべて過剰と言わざるをえません。結果的に子どもたちの創造性や主体性を搾取してしまっています。 また、「勉強がんばって でも勉強ばかりでもダメよ」というふうにダブルメッセージ(相矛盾するメッセージ)となっていることも多いので、子どもたちは(親自身も)それにとらわれ、ふりまわされがちです。自分の気持ちや意志が自分でわからなくなってしまっている子は、とても多いように思えます。子どもたちから伝わってくる今の学校社会は、ボクの想像以上に同調圧力といおうか、みんなと一緒でなければいけないといった空気が支配しているようです。素の自分を表現できず、キュウクツな想いをしている子どもが実に多いのです。

同様に、親も教師もキュウクツな思いをしてしまい、子どもや教育に自信が持てなくなっています。みんなが外で遊んでいるのに、ひとり部屋で本を読んでいる。という相談を親からも教師からも受けたことがあります。それのどこが問題なのかと思うけれど、親も教師もすごく悩んでいます。

さて、ボクはTOECの事業はそこを突き抜けることができると思っています。

事業の特徴
・少人数であること
・「気持ちは裁かれない」そのままを認め、聴く人が存在すること
・僕らの意図を超えた「自然」「プロセス」から多くの事を学んでいること
・スタッフ(教師)はやりたいことや学びたいことに人や場所をつなぐ役割であり、自らも学ぶ人であること
・あらゆる活動は子ども自身の関心や好奇心を起点としていること

競争に支配された消費型の産業社会はいずれ終わるでしょう。その向こう側のドアを開きたいし、そこに目覚めることは大人の責任だと僕は思います。モノは壊れても回復するけれど、人や自然の回復は簡単にはいかないでしょう。もはやそんな地球レベルの問題になっているのですから。「ポスト産業社会」それを根っこにしたうえでないと、知育も体育も徳育もないと僕は思います。

TOECの自由な学校は、いわゆる学力やスポーツの成績など、目先の評価では負けるかもしれません。うちに来なければ悩まなくていいこともたくさんあると思います。

しかし、本来の心の神話というか「自分自身を生きる」ということをたどっていくならば、道ははっきりと見えている。この道をスタッフも親御さんも一緒に語っていこうとスタートして、僕たちは今日もその道の途上で子どもたちと試行錯誤して日々過ごしているわけです。

一人一人が本来の主体性を発揮して、健やかに「自分を生きる」ことができるように。自分への自信(セルフエスティーム)の有無は、何ができる、できない、強い、弱い、ということに由来しません。自分の存在そのものへの肯定感なので、ありのまま、まるごと受け止めるところからしか育たないのです。

人の評価や他者との比較に誰もが疲れてしまいがちな社会のなかで、自分の弱さや今の不十分さをサラリと受容しながら、比較の世界に生きずに、のびやかに自分になっていくこと。僕はこの究極の力を支持するし、信頼もしているのです。

   第14回 フリーキャンプでみんなの瞳が輝くわけ

それは簡単なことなのだ。つまりは、全員一緒のこと(同じプログラム)をしなくてイイ。各々やりたいことはやりたい。やりなくないことはやりたくないと言える。ただそれだけ。それだけで、子どもたちの瞳は輝きはじめ、いっぺんにいきいきとしはじめる。

今、日本中に5000校、10000校あるともいわれる自然学校や全国の学校現場でおこなわれる自然体験活動は、ほぼ例外なく体験学習法(※)と呼ばれる考えで構成されている。昨今文部科学省を挙げて、全国展開を図っているアクティブラーニングに基づく授業法もその延長上にある。それらはもちろん、軍隊もどきのキャンプや生徒の気持ちや状況を無視した教師中心の一方的な授業とは違う。子どもたちの自主性や体験を重視する方向性も十分うかがい知ることができる。

※体験学習法とは
体験→気づいたことを分かちあう→話しあいやアドバイス→一般化したことを再び次の体験へと活かす…という循環の中で自ら学んでいくプロセスをいう。その構成は主催者や指導者のねらい・目的を効果的・効率的に達成するため、指導対象者や環境・流れを考慮しあらかじめプログラムデザインされている。

しかしだ。それらはとどのつまりが指導者の願いや目的を達成すべく、綿密にプログラムが構成されたものだ。指導者はそのプログラムを子どもたち全員が体験するようにあの手この手(動機づけしたり、ほめたり、しかったり、競わせたり)で指導する。そして、願いや目的のとおりに全部の子どもたちがたち振る舞うようになることを教育効果と呼び、その指導の的確さや巧さを指導力と呼ぶのだ。

したがって、決められたプログラムをやりたくないとかそれ以外をやりたいという子どもたちは様々なアプローチで変容を求められることになる。例外なく、指導対象となるし、否定されたり問題児とされることも少なくない。みんなと一緒じゃないのは反社会的で協調性がないということらしい。

余談ながら、様々な変容を求めるアプローチが功を奏さない時、安易に発達障害だとかLD(学習障害)だとかを持ちだして片付けてしまう傾向は明らかに強くなっている。紙面を別にまた触れたいが、これは個々を尊重し共感的に関わってゆくこととは違うということを明言しておく。

よく誤解されるのだが、やりたいことを全部やれるとかやりたくないことはやらなくていいと言っているのではない。当然やりたくても、様々な事情でやれないことはある。そのことで思い通りにならないことを学び、時にあきらめることを学ぶ。また、あきらめずに話しあいや創意工夫で、やりたいことへと近づける過程(プロセス)の中で、様々な手応えのある学びを子どもたちは経験する。これは、指導者主導の学びのプロセスにのっかることより格段に意味のあることだ。

また、やりたくないことでも当然やらなければならないことはある。しかしそれらは時間や安全や集団の秩序など、様々な制約や枠組みが強いるものなのだ。彼らが悪いのではなく、やらないことが都合が悪いだけ。やりたくない気持ちは裁かれることはなく、そのまま受け止められ行動や言葉の協力を求めるだけだ。

もう一度確認。やりたくない、別なことがやりたい、は指導者にとりプログラムにとり都合が悪かっただけであって、その子どもたちは悪くない。問題児ではない!ワガママは思い通りにしようとする企ての方ではないか!思い通りにしようとするねらいや目的、つくりこんだプログラムが生みだしたまさにゴースト(本来存在しないもの)なのだ。ウソのようだが、このからくりが解けるだけで子どもたちは解放され、いきいきする。

「さあ、そこでフリーキャンプだ。」

簡単なことだ。ゴーストを生みだすねらいや目的を手放し、あらかじめつくりこんだプログラムを捨てればいい。みなさんご一緒にもやめる。えー!それなら「教育」ではないのでは?と。あの手この手の指導があってこそ「教育」というが、はたしてそうだろうか。

そもそも子どもは指導される「対象」ではない。遊び、学ぶ「主体」そのものだ。主導権は彼らにある。自由な場で発露する主体性や意欲の価値ははかりしれないものだし、保障すべきものだ。過不足のない支援が届けられたらそれでいいのだ。自由の中、自らの意志でやりたいことをやる。子どもたちは自然や人とふれあい、出会う。「教育」はその時プロセスがその場に連れてくるものだし、一人ひとりに必要な分だけ運ばれてくるものだ。

つくりこまれたり、過剰な指導のプログラムにのっかる「教育」とは似て非なることだと指導者は了解する勇気が必要だ。しかもその指導こそが、依存性や受身を助長することということも自覚する必要がある。子どもたちは実は知っているのだ。楽しく、有意義そうな体験活動、大いに盛り上がった後にこう言うだろう。「終わり?もう自由?遊んでいい?」このタフさこそ、信頼に値するものだし、支持すべきものだ。

もうひとつ。フリーキャンプのスタッフはその子を思いどおりにするために苦悶するあの手この手の指導から解放されている。そして、その指導者の眼差しは指導すべき子を問題児として見る「ノット OK」のまなざしではなく「イッツ OK」のまなざしのはずだ。スタッフがいきいきするのも当然だ。その場も暖かく促進的になるだろう。場に力が宿るのだ。

某有名自然学校のスタッフが、トエックのスタッフが子どもたちと関わる姿を見て、「一緒に遊んでいる…!」「一緒に笑っている…!」「一緒に語りあっている…!」と驚愕していた。彼の現場では、緊張し、管理し、指導する。その悪戦苦闘がガンバッテイル証なのだ。

フリーキャンプはその子がその子でいいのだから、イイコもワルイコも存在しない。スタッフもまた然り。フリーキャンプをとおし、子どももスタッフも今の自分を認め、自由になってゆくところなのだ。

えー、ほんまに共感と信頼の中、自分を表現する時、人は成長・調和へと向かうのか? YES!
ホンマに?なんでぇ?

なぜならそう考えた方が、楽しいじゃないか!

  第23回 ただ在ること(Being)を認めよう

TOECフリースクールが、彼岸花の赤に包まれている。畦、畑の斜面、周囲の田んぼも含め、息を呑む美しさ。ことに夏の間、子どもたちが涼みにくるヤマモモと柿の木の下は群生していて荘厳さが漂う。

子どもたちの歓声から少し離れ、そこにひとりたたずむと、まさに「彼岸」に居るような不思議な気持ちになってくる。もちろん行ったことなどないのだが(笑)。

この場の開放感が僕をちっぽけなエゴから解き放つ。自然とのつながり感が「ひとり」の僕を安心で満たしてくれる。そのまんまで豊かで美しい今にただ感動。

TOEC小学校のある通称「おっきなおうち」の片すみにかくれるようにミト(小2)がドロダンゴを丸めつづけている。「あら、こんなところにいたの。いいところね。」スタッフのスガの声かけはやさしい風。ミトもまた僕同様、安心の中、ひとりでいる。

稲刈りの後の広大な田んぼでは鬼ごっこをする子どもたち。大声を出しながら走りまわっている。マナミ(5)はその様子を畑のある少し高いところから静かにただ見ている。秋風に吹かれるままの髪の毛が気持ちよさそう。器用にこさえた彼岸花の首飾りを首にかけ、ひとりたたずむ姿はまさに威風堂々だ。

ミトやマナミのこういった時の過ごし方は、フリースクールの世界そのものだ。

社会はますます人を孤立させている。他人や周りから切りはなされた自分というせまい自己認識の中に、大人も子どもも閉じこめられがちだ。自分を守るため、カラを固め、他人と自分を比較し、せめぎあう。その上、「何かやらねば」と、もっともっと成長することや何かをなすことへのプレッシャーが常につきまとう。

現代社会はただ在ること(Being)を認めず、すること(Doing)を強迫し続けるのだ。それはゆったりと「今」という瞬間を味わう豊かさの本質を奪う。

みんなといてもひとりぼっちでさみしい自分から、ひとりでいても皆と共にいる安心感へ。走りつづけることから立ち止まり、今を感じるゆとりを。子育てこそスピリチュアル(霊性的)な視点を大切に、親も子どもも存在そのもの、生命そのものを感じ合い愛し合いたいものだ。

彼岸花に包まれながら、僕はただ在ることが認められる場、フリースクールを全身で感じていた。

  第26回 子どもは泣いていい、お母さんも泣いていい

サオリ(5)はここしばらく、お母さんと離れがたい。お母さんが帰ってしまうと、いつもの明るく元気なサオリに戻るのだが、別れ際は決まって泣き顔になる。つらそうなサオリの顔を見ると、お母さんから引き離して抱きとめるスタッフも切なくなる。

サオリはTOECフリースクール入りたての3歳の頃から、あっさりと親から離れ、笑顔でTOECにやってきていた。なので今の状況は意外だし、お母さんも少々困惑気味だ。しかし、こんな時は問題点や原因探しにとらわれないことが大切だと僕は考える。

「幼児がえり」とか「親にもっとかかわってほしくて甘えているだけ」などと、周囲はいろいろ分析し、決めつけたがる。そして大抵、原因を母親に押し付けるので、母親は一層窮屈な思いをする羽目になる。僕はそれをよしとしない。

なぜならまずもって、子どもは泣いていいし、時に寂しくなって当たり前と考えているからだ。問題とするなら、子どもが泣くと親は不安になったり、つらくなったりもするので、その応援に何ができるかということだ。

乳児も同様だ。一日の大半を泣き通し、やっと寝付いて布団にそっとおろすと「ギャー」。そんな日が続くと、確かに母親はどんどん孤立し、心身とも疲れてしまうだろう。虐待や子育て放棄に至らなくても、衝動的に追い詰められる危険性は誰にでもある。

母親に言いたいことは、泣く子どもをいつも「よしよし」と優しく受けとめることができないからといって、自己嫌悪に陥ったり、自分を責めたりしないでほしいということだ。実は泣きたいのは母親の方なのだ。

人は誰も自分の中にもっと愛してほしかったり、思い切り甘えたりしたい小さな子ども(インナーチャイルド)を抱えている。無意識に泣くのをこらえているインナーチャイルドは、当然我が子の泣き声を受けとめられない。自分を受けとめない限り、他者を受けとめられないからだ。

泣いている子どもはきっと「お母さん泣いていいよ」と伝えているのだろう。

TOECフリースクールでは、少しピンチになった親が気持ちを聴きあう心のキャッチボールグループを毎月第3土曜に開いている(無料)。気軽に泣きにお越しください。