Post date: 2011/08/25 6:22:41
骨茶(岡谷鋼機OB)
私は今、10年前に山の仲間と旅をしたチベットに思いをはせている。1週間足らずの滞在であったが異文化に触れた感激がよみがえる。そのチベットで僧侶や民衆によるデモが行われ、この地を支配する中国政府による鎮圧行動によって、多数の死者、負傷者、検 挙者が出ている。中国政府は、チベットで観光開発を進め、それに付随して多数の漢人が流入してきている。10年前、町から離れた高原で出会ったチベット人の親子、こどもは10歳ぐらいと見えたが、薬草採りに山に入って1週間ぐらいになるという。装備といったものを持っているわけでなく、食事なども簡単に済ませ、夜になるとその場で親子身を寄せて眠るのだろう。高度は4000メートルを越え、夜間は寒さもきびしいだろうに。垣間見た一例ではあるが、彼らの多くは昔から続けてきたそのような生活様式に満足しているのだそうだ。そんなチベット人の中へ、世界に「華僑」の名をとどろかせた漢民族の商人たちが流入したらどういうことになるかは予想がつく。
連華の国
チベットは日本の4倍ぐらいの広さをもつ国だ。国だといっても、現在は中国に併合され、チベット自治区となっている。航空写真で見るとチベットの山々はまさに百葉蓮華の花弁のようである。仏教で、雪のように白い山肌を持ち、蓮華をシンボルとする尊格は観音菩薩で、「法華経」には観音菩薩がチベットを教化の地としたことが説かれているそうだ。チベット人は朝な夕な観音菩薩の真言、オン・マニ・ペメ・フォムを唱える。「蓮の花に栄えあり」との意味と聞く。西チベット・ガリにカイラス山(チベット名カンリンポチェ)、その南麓にマナサロワル湖があり、古来仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、ポン教の聖地とされている。多くのチベット人にとってカイラス巡礼は願望だ。
輪廻転生
チベットの王家の伝説はインドの王家の末裔が初代王とするが、その30代あとのソンツェンガンボ王が即位(581年)し、チベットを統一した。王は臣下をインドに派遣して文字を学ばせ、仏教の普及に努めた。
チベット仏教の特色は輪廻転生の考え方だという。今生きているのは前世の生まれ変わりであり、死ねばまた来生に生まれ変わる。もし今生に不幸だと思うところがあるとすればそれは前世の生き方のせいであると考える。高僧が入寂すると生まれ変わりの者が探索される。僧王ダライラマ、それに次ぐ地位のパンチェンラマとなると全国に探索隊を派遣して候補者を探し、厳しい試験を経て認定される。
ダライラマ誕生
15世紀、チベット仏教4派からゲルク派が教理と厳格な僧院運営を整え、他派を圧して中心的勢力になった。モンゴルから招聘された高僧ソナム・ギャンツォがギャンツォ(海)を表すモンゴル語ダライと僧を表すラマを合わせたダライラマ(3世)の称号を贈られ、ダライラマの称号が誕生した。政敵カルマ派を破って中央チベットを制圧したゲルク派の活仏ダライラマにはかってない権威が備わり始め、ダライラマ5世(1617-82)が初めて「僧王」と呼ばれる。以来、1959年インドに亡命するまで、活仏ダライラマは僧であり王という存在であり続けるのである
五体投地礼のすごさ
チベット人は実に信心深い。巡礼の方法は、通常はマニ車を回しながら真言を唱え、聖なるものの周りを時計回りに回る。これをコルラという。熱心な人はチャクツェル(五体投地礼)と呼ばれる方法をとる。まず直立して、合唱した掌を、額、喉、胸の順につけて手を伸ばし、その後大地に五体を投げ出す。同じ場所で立ち上がると、指先が届いていた位置まで数歩歩いて、再び前の動作を繰り返す。地面に手でかばうことなくドサッと倒れるということだけでもすごい。驚くのは、全行程この歩行法によってカイラス巡礼を果たす人が少なくないということである。東チベットのカム辺りからだとカイラス山麓まで直線距離で1500キロはあろう。一人で、家族であるいは友人と、必要な道具を荷車に積んで、故郷を出発する。車を引いてある程度進むと車を置き、引き始めたところまで戻って五体投地で車まで進む。これを繰り返す。1日にどれくらい進むことができるだろう。道中、施しを受けたり、あるいは働いて路銀稼ぎもするのだろう。2年、あるいは3年、ひたすら真言を唱えて五体投地を繰り返す。人間のなせる業でもっともすごい技ではないかと思う。渡辺一枝さんによると「チベットの人は生きるために祈るのではなく、祈るために生きている」と。そのとおりなのだという気がする。
中国による支配と亡命政府
1949年、中華人民共和国はチベットの解放を宣言した。1935年生まれのダライラマ14世は未だ幼く、チベット政府は中国に対して打つ手を持たなかった。翌1950年、中国共産軍は僧院を焼き払いながら東チベットから侵入、翌年にはラサに到着して17か条からなる協約をチベット中央政府につきつけた。協約はダライラマの至高性や伝統文化の尊重などを謳っていたが、この約束は守られることはなかった。1959年3月、ダライラマを中国に拉致しようとしているという風聞の中で、ノルブリンカ宮殿に滞在するダライラマ14世の元に中国軍の幕営から迎えのジープが着いた。民衆がジープを囲んで侵入を拒んでいる間に14世は一般人に変装して抜け出し、インドに亡命する。これがチベット動乱と言われる事件である。
ダライラマ14世が亡命したあと、中国政府はダライラマ14世の地位を否定し、ダライラマに次ぐ地位のパンチェンラマ10世をチベットの代表に据えた。しかしまもなく始まった文化大革命は、チベット社会を容赦なく痛めつけた。パンチェンラマをはじめ多くの僧が投獄され、また重点文物として当局の庇護の下にあったごく少数の文化財を除いて、チベット人の魂というべき文化財がことごとく破壊された(現在は多くが復元されている)。
1989年の騒乱
1980年代になると、外国人に対して固く閉ざされていたチベットへの門戸は、外貨獲得政策もあり次第に解放されるようになった。多くのジャーナリストや旅行者が堰を切って押しかけ、チベットの様子が世界に伝わると同時に、現地のチベット人には海外で活躍するダライラマの情報も伝わり、独立に向けての機運も盛り上がってきた。また市場の自由化はチベット人に生活困窮を強いることになり民衆に不満が高まった。中国政府によって代表に擁立されたパンチェンラマ10世も中国政府の意のままになることを拒んだ。1989年1月28日、10世が「心臓病」によって急逝。謀殺説が流れ、世情は一気に不安定になり、3月5日ラサ大成寺の門前で僧侶による大規模なデモが発生した。当局はこのデモ隊に発砲し戒厳令をしき、関係者の大量検挙を行った。
同年6月に中国では天安門事件が起こり、国際社会に人権軽視政策を印象付けることになった。同年10月、一貫して非暴力で中国に対峙したダライラマ14世の姿勢が評価されノーベル平和賞が授与された。
世界最年少の政治犯
1995年5月、亡命中のダライラマ14世は、検討を重ねた結果、チベット在住の6歳のゲンドンチュキニマをパンチェンラマ11世として公表した。中国政府は直ちにこの童子を拉致し、選出に関係した僧侶を処罰した。同年10月別の少年ゲルツェンノルブを11世と認定させた。拉致された少年は「世界最年少の政治犯」として行方が懸念されている。
もう一度訪ねたい
世界中で独立運動とそれを阻もうとする主権国家との間で厳しい紛争が起きている。いずれも宗教と差別が背景にあって深刻な事態となっている。今回のチベットの問題に対して国際社会は中国に対して人権が侵害されていると非難している。日本政府もならった動きを始めた。しかし自国も独立問題を抱えている国の同調は得られない。中国政府は、内政問題だと他国の干渉を退ける姿勢を貫くだろうが、オリンピック開催を控えて外に対して「開かれた国」であるとの印象は与える必要があろう。
チベットはどこへ行くか。いずれにしても、鎖国状態に戻るようなことはありえない。市場経済に否応なしに引きずられ、古来からの生き方は難しくなろう。しかし今は、ダライラマの写真を持っているだけで拘束されるとも聞く。「祈るために生きる」といわれた人々に信仰の自由が保証される社会の到来を切に願う。機会を見つけてかの地を再度訪れてみたい。そして、前回のガイドは漢人であったが、チベット人にガイドしてもらおう。
(完)
参考文献 石浜裕美子著 図説チベット歴史紀行 河出書房新書