-----------------------------10月、なし一つ分のなにかこの電球の作品は、季節、そして風景と身体との関係性について考えたことから生まれた立体作品です。様々な区切りが現れては、曖昧になっていく感覚を形にしています。季節や暦などについて考えることがあります。名前をつけて区切りをつけることと、実際は区切りはなく流れているということ。水や空気といった一旦とりだして区別しても、まぜてしまえばわからなくなるような物質を思い浮かべます。また光を当てることも光が当たらない場所とのゆるやかな区切りを生み、光が消えることでその区切りがなくなる。区切りが出現と消失を繰り返すこと、それに伴いイメージや空間感覚も、明滅するように移ろうような感覚があります。作品の中の、いくつかの袋には水が入っています。袋の水分は全部でなし一つ分と同じ重さ。ある日梨刈りに行って、もいできた梨です。木になる梨、それをもいで食べる時、私と風景や梨は、どこからどこまでがそれぞれなのかと、ふと考えます。水分や養分の観点から見れば、私と風景の間もまた、あいまいな連続体であるのかもしれません。-----------------------------ドライブ、山々と距離に、有袋栽培距離感についての作品です。距離はものを変化させます。スピードが速まり、変化に体がついて行かなくなるからでしょうか。ドライブをしていると所々縮尺が合わなくなるような感覚になります。次々と通り過ぎる山々は、その距離感や角度が変わるたびに、違う姿で現れ、部分と全体の関係がうまく整理できず、同じ山を違う山だと思ったり、違う山を同じ山だと思ったりすることがよくあります。山に接近すると、山の形はあっという間になくなり、木々や草、葉、土となり、離れるとまた姿を表す。その繰り返しの中で感じる、足下からはえる低木と、遠くに見える山々の遠近やサイズが逆転していくような感覚を、作品にしました。私たちと風景の関係は、愛着や親しみによって、唐突にある部分だけ鮮明さをもったりと、常に整然としているわけではありません。部分と全体がひとつなぎであることと同時にバラバラに固有の時空をもっているかのようです。ずっと目印としていた山は、その山を上がり始めると姿は見えなくなり、安心は長くは続かずに、新鮮な不安定との間で揺れ動きます。道中に見たびわの袋がけ栽培は、大切とする部分を区切り育てます。しかし、その部分は袋に隠れてしまい、姿を見ることはできません。その関係性は、山と人との距離感にも重なるようで、風景に袋をかけるように、作品にも袋がけがされています。