児堀 功

     はじめに

 
 
 空海の高弟で『性霊集』の編者として知られる真済の伝記のうち、最も早い時期に成立し後世の真済伝のもととなったのが、紀長谷雄の撰した「東大寺僧正真済伝」(『紀家集』巻十四所収。以下、『紀家集』卒伝)と『日本三代実録』貞観二年(860)二月二十五日条の真済卒伝(以下、『三実』卒伝)である。両卒伝(以下、『紀家集』卒伝と『三実』卒伝の両方をさす場合このように表記)の内容は大同小異で、前者をもとに後者が書かれていることが坂本太郎氏によって指摘され<1>、さらに、小山田和夫氏によって詳細な両卒伝の比較や記述内容の検討がなされている<2>
 両卒伝と後世の一部の真済伝とで内容に相違があり、問題となっている事績に、高尾籠山と内供奉十禅師補任がある。両卒伝には、真済が高尾山に十二年籠り、「嵯峨天皇」にその苦行を評価され内供奉十禅師に任じられたとされているが、その年代は明記されていない。記載順を時系列に沿うものとすると、二十五歳=天長元年(824)に伝法阿闍梨となったとする記事の後、承和三年(836)に渡唐に失敗したとする記事の前なので、天長元年から籠山し、渡海直前に内供奉十禅師に任ぜられたと解釈できる。後世では、貞享元年(1684)成立の智灯『弘法大師弟子伝』が、この説をとっている。
 一方、五巻本『東寺長者補任』貞観二年条の真済卒伝には「承和七年正月六日、為内供」と、両卒伝にない具体的な補任時期が記されており、天保十三年(1843)刊の道猷『弘法大師弟子譜』はこれに拠っている。五巻本『東寺長者補任』は、寛永十一年(1634)までの記事を載せるが、貞治六年(1367)までの当初本に後人が書き継いで成立したものといわれている<3>ので、これに従えば、承和七年補任説は十四世紀後半まで遡り得る。
 享保四年(一七一九)に懐英が編纂した『高野春秋編年輯録』(以下、『高野春秋』)も「承和七年庚申春正月六日、真済任内供奉十禅師」としており、これには「詳于僧綱補任」との注記がある。『僧綱補任』に拠ったというのが事実なら、承和七年補任説は平安末期まで遡る可能性がある。ただし、小山田氏の指摘するように、現存の『僧綱補任』には該当する記事がない。
 小山田氏は、興福寺本『僧綱補任』承和十年条の裏書や『元亨釈書』真済伝において、内供奉十禅師補任の記載順が両卒伝と異なり遭難帰朝後となっていることを根拠に、『高野春秋』の承和七年補任説を採用し、次のように補任の経緯を推定している。すなわち、天長元年に伝法阿闍梨となった後、高尾山で十二年籠山の修行に入った真済は、承和二年三月の師空海の死去にあたり入唐を決意、承和三年五月に遣唐使船に乗り進発したが、七月に大宰府を出た後遭難して空しく帰朝、改めて高尾籠山を開始し修行中の承和七年正月六日、嵯峨上皇にまで聞こえた苦行により内供奉十禅師に任命されたとする。
 現在、この見解が事典類<4>に採用され通説化しているが、いくつか無視しがたい問題点がある。遭難帰朝後の高尾籠山に史料的根拠がないこと、『性霊集』編纂など他の事績との関係が十分検討されていないこと、『僧綱補任』『元亨釈書』『高野春秋』といった後世の史料をほぼ無批判に採用していることなどである。
 本稿では、これらの問題点をふまえつつ高尾籠山と内供奉十禅師補任を中心に真済の伝記について再検討してみたい。それは年代の推定にとどまらず、事績の真偽そのものを問い直すことになるだろう。



   一 高尾籠山について

 
 次に掲げるのは『紀家集』卒伝<5>と『三実』卒伝<6>を、記載順に沿って内容項目別にしたものである。

A 出自と生い立ち

 紀

 真済、俗姓紀朝臣、左京人也。祖正五位下田[      ]弾正正六位上御薗。法師、少年出家、修[     ]通外伝、莫不獦渉。

 三

 真済者、俗姓紀朝臣、左京人也。祖正五位下田長、父巡察弾正正六位上御園。真済、少年出家、学大乗道、兼通外伝、夙有識悟。

B 空海に師事し伝法阿闍梨となる
 

 紀

 從大僧都-空海、受真言教。大師見其器量、特加鍾愛、遂授両部大法、為伝法阿闍梨。于時年廿五、時人驚之。

 三

 從大僧都-空海、受真言教。大師-海公鑑其器量、特加提誘、遂授両部大法、為伝法阿闍梨。真済時年廿五、時人奇之.


C 真済までの真言付法の系譜
 紀 其[ ]次大日如来、以瑜伽無上秘蜜、故伝金剛薩□、々々々々々、伝竜猛菩薩、々々々々、伝於[    ]、[      ]金剛智、々々々、伝於不空、々々、伝於恵果、[  ]空海、々々、伝於実恵与真済。然則法[   ]大日如来八代弟子、当朝第三阿闍梨也。
 三  (記事なし)


D 高尾籠山と内供奉十禅師補任
 紀   即入高尾山、不出十二箇年。嵯峨天皇、聞□苦行、授内供奉。
 三  真済、入愛当護山高尾峰、不出十二年。嵯峨天皇、聞其苦行、為内供奉十禅師。

.
E 渡海遭難
 紀

 承和九年遣唐之日、銜命渡海、中途漂蕩、舟舶破裂。法師、纔駕一筏、随波而去、泛泛然不知所到。凡在海上廿二日、其同乗者卅余人、皆悉餓死。法師唯仏是念、自然不飢。南嶋人遙望海中、毎夜有光、[  ]尋之、拯得著岸。皮膚腐爛、尸居不動。□人哀憐渉旬養療。

 三  承和之初、遣使聘唐。真済、奉朝命、随使渡海、中途漂蕩、船舶破裂。真済、纔駕一筏、随波而去、泛泛然不知所到。凡在海上廿三日、其同乗者卅余人、皆悉餓死。所活者、真済与弟子真然二人而已。真済唯仏是念、自然不飢。豈非如来冥護之所致哉。南嶋人遥望海中、毎夜有光。恠而尋之、拯得著岸。皮膚腐爛、尸居不動。嶋人憐愍、收而養療、遂得帰本朝。

F 僧綱補任と空海への大僧正位追贈
 紀  天皇、擢任権律師。文徳天皇、甚尊重、授権少僧都、無□[ ]僧都、遂擢僧正。於是抗表、請譲先師空海、中情懇切、至于二至于三。天皇感動、更贈以大僧正位。禅林栄焉。
 三  仁明天皇、擢権律師。文徳天皇、見甚尊重、為権少僧都、未幾転権大僧都、少頃為僧正。於是真済抗表、請以僧正位譲先師空海、中心懇切、至于再三。天皇感激、贈空海法師、以大僧正位。緇徒栄之。

G 神護寺経営
 紀  又特表、建□重宝塔於神護寺、造五大虚空蔵、置[  ]、及加度年分三人、春秋二季永設法事、令読虚空蔵・十輪等経、鎮国家也。其遺跡至今不墜。
 三  真済表請、建一重宝塔於高尾岑神護寺、造五大虚空蔵菩薩像、安置塔中、置七口僧及度年分三人、春秋二季永設法会、転読虚空蔵・十輪等経、以鎮護国家也。守其遺跡、至今修之。

H 失志隠居
 紀  (記事なし)
 三  天安二年八月、文德天皇寝病。真済侍看病於冷然院。大漸之夕、時論嗷嗷、真済失志隠居。
 
 Dで『紀家集』卒伝は、真済を空海、実恵に次ぐ第三阿闍梨だとする記事に続けて、「 即入高尾山、不出十二箇年」としている。記載順が時系列に沿うとは限らないが、助字「即」があるので、天長元年、二十五歳で伝法阿闍梨となった直後に高尾籠山に入ったと解釈できる。「十二箇年」というのは正味十二年間ではなく、数えでの十二年<7>だろうから、天長元年開始なら、終了は承和二年、入唐請益僧として渡海する前年となる。
 何らかの理由で渡海前に十二年籠山を達成できなかった場合、小山田氏が推測するように、遭難帰朝後、あらためて十二年籠山を開始することもあるかもしれない。だが前述のように、『紀家集』卒伝は伝法阿闍梨となった直後に入山し十二箇年出なかったと明記しているし、『三実』卒伝にも帰朝後にあらためて籠山に入ったと解釈できる要素は見当たらない。籠山時期は天長元年から承和二年と断定できよう。
 ただし、当該時期の高尾籠山には、以下に述べるように疑わしい点がある。
 密教宣布に尽力すべき立場の伝法阿闍梨になりながら、直後に十二年もの長期籠山に入るのは不可解である。比叡山ですでに指導的地位にあった円仁が、師最澄によって天台僧必須の修行と定められた十二年籠山を自らも成すべく、弘仁十四年から籠山した例はあるが、山を出て広く衆生を利済すべきとの周囲の声に抗しきれず、結局、六年目の天長五年に中止している<8>。まして十二年籠山の定めも、おそらくは前例もない真言宗では、周囲の理解は到底得られないだろう。
 たしかに真済の場合、二十五歳と若く出家からの年数が短いので、さほど不自然ではないかもしれない。「時人驚之」とあるように、世間では真済が伝法阿闍梨となったことは驚きであり、修行不足と見る向きもあっただろう。だが、そこで自ら修行不足を認めるかのように十二年籠山に入れば、灌頂を授けた空海の面目は丸つぶれであり、師をないがしろにするに等しいのではないか。
 また、真済は『性霊集』序において編纂の事情を次のように述べている。
夫其詩賦哀讃之作、碑誦表書之制、所遇而作。不仮草案。纔了不競把、無由再看之。弟子憂金玉糅谿石、歎蘭桂圧秋艾。侍坐而集記、略得五百以来紙。兼摭唐人贈答、稍挙警策、雑此帙中。編成十巻、名曰遍照発揮性霊集。
 師空海は草案を作らず即座に文章を書き上げるので、出来上がるそばから写し取っておかないと再び見ることができない。そこで真済は師の作品を集成して後世に残すべく、侍坐集記し約五百枚におよぶ紙を得て、それをもとに『性霊集』を編纂したというのである。
 現行『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代を推定できる最も新しい作品は、天長五年二月に宮中で催された陸奥出羽按察使伴国道の送別の宴<9>で贈った詩とされる「贈伴按察平章事赴陸府詩」(巻三)で、このほかにも天長四年九月の「天長皇帝為故中務卿親王捨田及道場支具入橘寺願文」(巻六)、天長四年五月の「天長皇帝於大極殿屈百僧雩願文」(巻六)など高尾山以外の場所で書かれたとみられる天長年間の作品は少なくない。それらの作品を真済が侍坐して書き取ったとすれば、両卒伝の記述は事実に反することになる。
 『性霊集』編纂のための作品収集に関しては、在唐時の空海真筆の控文の存在が指摘されているほか、真済が空海に師事する以前、真済以外の秘書役が作品を書き取ったとも推定されている<10>。真済の天長年間の侍坐集記を否定する見解は見当たらないが、高尾山から出られない真済の代わりに、一部の作品を他の者が書き取った可能性もないとはいえない。
 ただし、籠山修行とは山門を出なければ良いというものではなく、修行に完全集中するために山に籠るもののはずである。「俾禅余之憩来、時時披対此文」と余暇の読み物とされる『性霊集』の編纂自体、籠山修行中の活動としてはふさわしくないのではないか。
 『性霊集』の成立時期は、空海在世中の晩年<11>とも入寂直後<12>ともいわれるが、いずれにせよ、空海最晩年の作品が収められていないので、収集作品を分類し取捨選択して十巻に編む最終的な編纂作業が承和二年までの籠山期間に行われていることはほぼ確実である。「纔了不競把、無由再看之」といった事情のため作品収集を空海在世中に行うのは仕方ないとしても、最終的な編纂作業は籠山修行を終えてからでもかまわないはずである。籠山して修行に集中しようとする者の行動としては、やや不自然ではないだろうか。高尾籠山と『性霊集』編纂の両立は考えにくい。
 たしかに、『性霊集』序に「西山禅念沙門真済撰」とあるので、当時の真済は「西山」=高尾山に住し、「禅念沙門」の自称どおり修行生活を送ってはいただろうが、それは十二年籠山にそのまま結びつくものではない。真済の師空海は、来朝し大宰府にいた新羅の青丘上人宛の書簡<13>に「高雄寺金剛道場持念沙門遍照金剛」と自称し、「貧道久閉禅関、不能迎慰」と、久しく山寺に籠っているため、上人を出迎えに行くことができないと詫びたうえで、「入京日必専候」と、上人の入京に際しては必ず会いに行くと約束している。誓いを立てて何年も籠り続けているというのでなく、山寺での修行生活を基本としつつ、必要に応じて山を出るのである。真済の生活も同様であったのが、誇張されて十二年籠山と伝えられた可能性も考えられよう。
 両卒伝が記す真済の高尾籠山は、事実でないという決定的な証拠こそない<14>ものの、事実とみなすには不自然な点が多い。真偽不明の事績とすべきだろう。


  二 内供奉十禅師補任について

 
 小山田氏が採用する『高野春秋』の承和七年正月六日という補任時期は、両卒伝の記述と決定的に矛盾するものではない。補任理由とされる十二年籠山の達成年次である承和二年よりも後だし、任じた「嵯峨天皇」=嵯峨上皇が崩御する承和九年より前である。
 だが、問題がないわけではない。承和七年正月六日補任説をとる道猷『弘法大師弟子譜』は、この補任時期に関して次のように注記している。
三代録以山居一紀似為承和已前事。宜更考。
 『三実』卒伝が高尾籠山を承和以前のことのように記していることから、籠山時期と補任時期の整合性に疑念を示しているのである。承和七年補任では、籠山達成から補任までの間隔が開き過ぎて「嵯峨天皇聞其苦行、為内供奉十禅師」という記述にそぐわないし、補任記事は「承和之初」の渡海遭難記事の前にある。両卒伝の記述は、渡海前の補任と解するほうが自然といえよう。
 小山田氏は、遭難帰朝後の補任と推定する根拠として、次の二つの史料を挙げている。
 興福寺本『僧綱補任』承和十年条裏書
真濬(略)従空海和上、更両部大法皆瀉瓶。時廿五、為伝法阿闍梨。大日如来八代弟子、本朝第三阿闍梨也。随師入唐、帰朝之間、海上会逆風、同道三十余人死了。真濬及弟子真然、纔駕筏海上廿三日。南島人養之。帰朝籠高尾山、十三年苦行。嵯峨天皇聞食其徳行、為内供奉。

 『元亨釈書』巻三、慧解二、真済伝
釈真済(略)又従弘法大師受密法(略)。早授両部大法、為伝法阿闍梨。時年二十五。後入高雄峯不出十二年。承和初、奉勅入唐、洋中舶破。(略)島民哀恤得返本朝。嘗於高尾神護寺建宝塔、安五大虚空蔵像、春秋設大法会鎮護国家。初一紀練行。時弘仁上皇聞其苦修、為内供奉十禅師。仁寿帝勅為僧正。済抗表譲先師弘法。(略)帝義済、贈海以僧正。済便受勅。天安二年八月、天皇寝病。済侍看護。昇遐後失志隠居。(略)
 いずれも空海に師事し伝法阿闍梨となったこと、高尾籠山、渡海遭難、内供奉十禅師補任など、基本的に両卒伝と同一の要素で構成されているが、内供奉十禅師補任の記載順は両卒伝と異なり、渡海遭難記事の後になっている。これを遭難帰朝後補任の表れとしているのである。
 しかし、『僧綱補任』裏書は、『三実』卒伝が「随使渡海」とするところを「随師入唐」<15>と、空海と入唐したとし、渡海中途の遭難を入唐後帰朝する間の遭難とし、渡海前の高尾籠山を遭難帰朝後のこととするなど、単に記載順が両卒伝と異なるだけでなく、内容的にも大きく異なり、かつ明らかに事実に反する。このような荒唐無稽の記事とともに記された遭難帰朝後補任説に信憑性は認められない。
 また、『元亨釈書』において内供奉十禅師補任記事が遭難帰朝記事の後にあるのは、叙述の都合上、僧正補任とともに補任関係をまとめたもので、遭難帰朝後補任としているわけではないとも解釈できる。『元亨釈書』が叙述の都合で両卒伝と異なる記載順をとっていることは、両卒伝では僧綱補任記事の後にある神護寺経営記事を補任記事の前に置き、文徳天皇による僧正抜擢と文徳天皇看病に関わる失志隠居を連続させていることから明らかだし、高尾籠山の時期を「時年二十五。後入高雄峯不出十二年」と、両卒伝同様に二十五歳で伝法阿闍梨となった後、渡海前のこととし、「初一紀練行。時弘仁上皇聞其苦修」と、嵯峨上皇による補任を籠山達成当時のように記しているからである。
 『高野春秋』は「詳于僧綱補任」と注記しているが、小山田氏の指摘するように、現存する『僧綱補任』にある真済の内供奉十禅師補任関係の記事は、前掲の興福寺本の裏書のみである。「詳于僧綱補任」の注記は、興福寺本以外のすでに散逸した『僧綱補任』をさすものと見られる。興福寺本以外の『僧綱補任』で現存するもののうちでは、崇徳天皇の御世(1123-41)の成立とされ、安和二年(969)から長元八年(1035)分と嘉承二年(1107)から保延四年(1138)分が残る水戸彰考館所蔵の二冊本は、初出項に内供奉十禅師補任の日付など詳細な前歴を記しており<16>、承和七年補任説の典拠となった可能性が考えられる。
 とは言え、記事が現存しない以上、承和七年補任説の典拠は不明とせざるを得ない。また、同じ承和七年補任説を記す五巻本『東寺長者補任』において、国史が承和十年とする真済の権律師補任を、承和八年条に「十一月九日任権律師并長者(略)僧綱補任同」とするなど、『僧綱補任』を参照した記事に国史と食い違うものがしばしば見られるように、『僧綱補任』は必ずしも正確でない。承和七年補任説は信頼性を相当割り引かねばならず、両卒伝の記述に即した渡海前の補任を有力とすべきである。
 ところで、入唐直前の内供奉十禅師補任には、京を発つ一年前の嘉祥三年(850)三月に任ぜられた円珍の例<17>がある。このとき円珍は、通常発給されない公験の発給を奏請して認められており<18>、これは、その公験の効果について円珍が「大唐高官無人不愛、皆抄取之」と記しているように、当時の仏教界や朝廷に、唐では内供奉の肩書きが重んじられるとの認識があったことを示している。唐における内供奉僧の地位の高さは、最澄の受法の師順暁、空海の受法の師恵果がともに内供奉僧であったことから、密教の流布とともに広く知られるようになっていただろうし、入唐した最澄が当局に過書の発給を申請する際、わが国で通用している「十禅師」ではなく「供奉僧」の称を用いたのは、すでに入唐前そうした認識を持っていたからだとも推測されている<19>。真済の内供奉十禅師補任が、円珍同様、入唐を前提とするものだった可能性も考えられよう。
 

  三 その他の問題

 
 『紀家集』卒伝は、Cに「空海伝於実恵与真済。然則法[   ]大日如来八代弟子、当朝第三阿闍梨也」としている。空海が伝法灌頂を授けたのは実恵と真済の二人で、真済は日本で3人目の伝法阿闍梨にあたるというのである。  
 元慶二年(878)十一月十一日の真雅言上状<20>によれば、空海付法の伝法阿闍梨は、実恵、真済のほか真雅、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の計十名いる。真雅言上状は後世の文書に引用されたもので、信頼性に問題がないとはいえないが、弘仁十二年十一月の『高野雑筆集』所収の空海書簡<21>が、「東大杲隣・実恵、元興泰範、大安智泉等稍得大法旨趣」としたうえで、「生願已満、応伝亦了」「所有経仏等伝授杲隣・実恵」と隠退して弟子に後を継がせる意向を示しているので、少なくとも杲隣、実恵、泰範、智泉の四人が、真済より先に両部大法を授けられ伝法阿闍梨になっていたことは間違いあるまい。『紀家集』卒伝の記述は明らかに事実に反しており、真済は実際には第六番目以降の阿闍梨である。
 また、『三実』卒伝はEに「所活者、真済与弟子真然二人而已」としている。同船した留学僧真然を真済の弟子としているのである。
 真然に関しては、信頼性の高いまとまった伝記史料がないため、生年すら定かでないなど不明な点が多いが、通説では、空海の弟子で真雅から伝法灌頂を授けられたとされ、真済と師弟関係にあったとはみなされていない。五巻本『東寺長者補任』には、寛平三年条の真然卒伝に「真雅僧正灌頂、真済受法」と、真雅・真済両方との師弟関が記されているが、この説は『弘法大師弟子伝』『弘法大師弟子譜』といった近世の代表的な弟子伝に採用されず、現在に至るまでほとんど顧みられていない。
 実際、通説の根拠となる史料の一つである、『三代実録』元慶六年五月十四日乙卯条所引の金剛峰寺別当真然等牒の文面から見て、真済と真然の師弟関係は考えにくい。
贈大僧正空海、去延暦年中、歴択名山、始建斯寺、為鎮国護法也。承和二年有勅賜年分度者三人、即以九月廿四日天皇降誕之日辰、便於此伽藍試度。至仁寿三年、以彼山途路闊遠、往還多艱、於東寺試度。自後金剛道場闃而稀人。故僧正真雅、嘆其如此、陳請復旧、未蒙裁許、僧正遷化。今当年学徒、絶而不度。既違先皇之勅命、又乖本師之宿願。検海印・安祥・元慶等寺例、各於本寺試度。請於山場課試。太政官商量、国家施制、緇侶得宜。凡在法門、欲无喧訟。縦南嶽学徒、遂不失其所、即山中輦下、何有嫌猜。仍須彼寺貢勾当老ら、簡其学優長、心行整斉者、相共平署、送達東寺、待之毎歳課試、若当年無及科題者、後年可補其闕分。専尽高野之人、不関他寺之衆。然則、先後本師之凝誠自全。彼我紛競之愁緒永断。

 金剛峯寺で行うと定められていた真言宗年分度者の試験が、往還の多難を理由に東寺で行うよう変更されたのは、真済が文徳天皇の寵を得て活躍していた仁寿三年であり、後に真雅が金剛峯寺の衰退を嘆いて試験制度を元に戻すよう申請したものの、裁許を得る前に死去したので、改めて真然らが申請したという。空海と真雅を「先後本師」と呼ぶ一方で、名指しこそしていないものの真済による制度変更を、仁明天皇の命と先師空海の宿願に背くものだと激しく非難している。
 とは言え、『三代実録』の編纂開始は寛平四年(892)五月、完成は延喜元年(901)八月で、真然が没した寛平三年九月の直後にあたる。僧正にまで昇った真然について、誰の弟子かを『三代実録』が誤まって記すというのも、いささか考えにくい。
 通説が真然を真雅の灌頂弟子とする根拠は、さきにふれた真雅言上状に真雅の付法弟子とされていることにあるが、言上状には、真雅の付法弟子として真然をはじめ五人が記されているのに対し、真済の付法弟子は一人も記されていない。真済の地位から見て、あまりに不自然であり、仮に言上状が偽作ではないとしても、そのまま信用するべきではないと考えられる。
 そこで注目されるのが、『三実』卒伝のH失志隠居記事に見える、文徳天皇の急逝に際し看病にあたっていた真済が世論の激しい非難を浴び失脚した事件である。この事件の影響で、真済の付法弟子が差別されたり、真雅などから改めて灌頂を受けたりしたのかもしれない。前掲の真然等牒が真済を師として扱っていないのも、事件が影響している可能性がある。
 『東寺長者補任』の真済受法、真雅灌頂説もあり得ないことではない。受法と灌頂の師が異なる例には、実恵から金剛界大法、真紹から阿闍梨位灌頂を受けたとされる宗叡<22>や、真然から両部大法、源仁から伝法灌頂阿闍梨位を受けたとされる聖宝<23>などがある。
 あるいは、真然等牒の反真済的内容からすれば、渡海前後の短期間、真済と師弟関係にあったものの、受法、灌頂に至る前に離別したと推測するのが、最も無難かもしれない。さまざまな可能性があり、いずれとも決しがたいが、師弟関係にあったこと自体は間違いないだろう。
 

   おわりに

 
 本稿の論旨をまとめておこう。
 十二年籠山を承和三年の遭難帰朝後とする通説は史料的根拠がなく、籠山時期は天長元年から渡海直前の承和二年と断定できる。ただし、その籠山には、伝法阿闍梨となった後の行動として不自然、時期的に『性霊集』編纂と重なり、序文の「侍坐集記」と矛盾するなどの疑問点がある。空海同様に修行生活を基本としていたのを、十二年籠山と誇張して伝えた可能性があり、真偽不明の事績とするべきである。
 内供奉十禅師補任の時期に関して、小山田氏が『高野春秋』の承和七年正月六日説を採用する根拠とした、『僧綱補任』承和十年条裏書および『元亨釈書』のうち、前者は荒唐無稽で信憑性がなく、後者も解釈によっては根拠たり得ない。また、『高野春秋』に典拠として注記された『僧綱補任』は、彰考館本の可能性があるものの、記事が現存しない以上、不明とせざるを得ず、信頼性を評価できない。両卒伝の記述から自然に解釈できる、承和三年五月の渡海より前の補任を有力とすべきで、その場合、円珍同様に入唐を前提とする補任だった可能性がある。
 『紀家集』卒伝が真済を空海、実恵に次ぐ第三阿闍梨としているのは、明らかに事実に反し、実際は、第六番目以降である。
 『三実』卒伝は真然を真済の弟子としており、空海の弟子で真雅の灌頂を受けたとする通説は、真済の弟子でもあったと改められるべきである。真済失脚の影響を考慮すれば、真済を付法弟子なしとする真雅言上状は信用できず、真然が真済の付法弟子だった可能性も否定できない。ほかに『東寺長者補任』の真済受法、真雅灌頂説や、真済とは受法、灌頂に至る前に別れたなど、師弟関係のあり方にはさまざまな可能性が考えられる。
 

  註

 
  1.  坂本太郎『六国史』「日本三代実録」(吉川弘文館、1970年)。
  2.  小山田和夫「真済について―実恵・真紹との関係―」(『立正史学』四二、1978年)。
  3.  『群書解題』第五(続群書類従完成会、1960年)。
  4.  『国史大辞典』(吉川弘文館、1986年)、『日本史大事典』(小学館、2000年)。
  5.  引用は『紀家集』(宮内庁諸陵部、1978年)より。
  6.  引用は新訂増補国史大系『日本三代実録』(吉川弘文館、1966年)より。
  7.  たとえば『智証大師伝』(『続群書類従』第八輯下)によれば、円珍の十二年籠山は天長十年四月十五日開始、承和十一年満紀出山で正味十一年間。
  8.  『慈覚大師伝』(『続群書類従』第八輯下)。
  9.  『日本紀略』天長五年二月甲寅条。
  10.  飯島太千雄「空海真跡の控文の出現で判明した『性霊集』の成立事情」(『密教文化』149、1985年)。
  11.  渡辺照宏・宮坂宥勝校注『三教指帰・性霊集』解説(岩波書店、1965年)。
  12.  勝又俊教「遍照発揮性霊集と高野雑筆集」(『豊山教学大会紀要』2、1974年)。
  13.  『性霊集』巻三「与新羅道者詩并状」。
  14.  長谷宝秀編『官符等編年雑集』(『弘法大師全集』第五輯、密教文化研究所、1978年。初版1910年)所載の「高雄寺最初定額僧交名」には真済の名がないが、近年、武内孝善「泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性―」(『高野山大学論叢』37、2002年)によって、交名に高雄山寺が定額寺となった天長元年当時まだ具足戒を受けていないと見られる者が複数含まれることなどが指摘され、信憑性を否定されている。
  15.  「使」と「師」の違いに関しては単なる誤字の可能性もある。
  16.  平林盛得、小池一行『僧歴綜覧』解題と本編(笠間書院、2008年。初版、1976年)。
  17.  註7前掲書。
  18.  嘉祥三年三月二日治部省牒と円珍記の付箋(『平安遺文』巻一、95号)。
  19.  本郷真紹「内供奉十禅師の成立と天台宗」(『仏教史学研究』28、1985年)。
  20.  「本朝伝法灌頂師資相承血脈」(『大日本古文書』家わけ19、醍醐寺文書之一、279号)所載。
  21.  『定本弘法大師全集』第七巻(密教文化研究所、1992年)、107-108頁。
  22.  『三代実録』元慶八年三月二十六日条、宗叡卒伝。
  23.  『聖宝僧正伝』(『続群書類従』第八輯下所収)。
 
 

 

 

 
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