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さくら隊殉難碑ノート

一九六一年九月一日広島演劇鑑賞会機関紙第九号掲載

一九四五年(昭和二十年)八月六日、移動演劇さくら隊の丸山定夫は広島付近で活動中、広島市堀川町九九(現宝塚劇場南裏)のさくら隊宿舎で、薄田研二の長男、高山象三や園井恵子たち八人とゝもにピカドン(原子爆弾)にやられた。

広島がひどくやられたことをしり東京からかけつけた八田元夫、槙村浩吉の二人は「タイビ島にいるレンラクたのむ。ガン」と一寸四方(いっすんしほう)の、ちぎれたボール紙に鉛筆で一字一字刻みつけるように書かれた丸山定夫の筆跡を受けとり、ガンさんはまだ生きていると喜び苦労に苦労を重ねて、鯛尾(たいひ)島から移送された呉線小屋浦(こやうら)国民学校(小学校)収容所のどんづまりの部屋で、土気色(ときいろ)になった丸山定夫をやっと見つけ出した。ガンさんはこの二人に「来てくれたか、来てくれたか、ウウウウ………」と、うめきながら、爆発するような声が……あとは泣き声にかわってしまった。

それから宮島の禅寺の宿舎にやっと救い出し、運び帰って心暖かい看護中、用事で外出した八田元夫が帰宿したときに丸山定夫は誰にもさよならもいわず、またいわれもしないで死のカーテンの蔭(かげ)へ消え去っていた。

八月十五日、敗戦の玉音放送をきいて骨と皮ばかりになった腕をしみじみ見ながら「こんなにダメになってしまった。しかし、また芝居ができる世の中になったんだね。二年待ってくれ、この体をなおしてきっといゝ芝居をしてみせるよ」と精いっぱいの頑張りを見せていたガンさんも、打撲傷と裂傷とガンマ線の初期的兆候に肋膜(ろくまく)と肺炎を併発した致命的肉体には、ついに屈した。時、八月十六日の夜明であった。

さくら隊では丸山定夫、高山象三、園井恵子、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子、笠絢子小室喜代ら九人を原爆で失い、一九五五年原水爆禁止世界大会の日に移動演劇さくら隊原爆殉難碑が平和大通りに、新協劇団、文学座、俳優座、ぶどうの会、劇団民芸、中央芸術劇場、演劇人戦争犠牲者記念会等の努力で建てられ、広島を訪れる演劇人や愛好家の想(おも)いを豊かにしている。本年の広島平和集会大行進の東部班は、さくら隊原爆殉難碑の前に全員平和の祈りと戦争への怒りを深くしたことであり、年々八月六日八時十五分前後にはこの殉難碑の前で想(おも)い豊かに深く頭をさげ黙祷(もくとう)を捧(ささ)げる人たちが多くなってゆくことは、名優ガンさんを失った穴は埋め難く再び帰り来(きた)らずとはいえ、私達にとってはうれしい想(おも)いである。

(「『ロンドの青春』平和と演劇を愛した大月洋の足あと」より)

広島市民劇場初代事務局長

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