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丸山定夫追悼碑のこと

一九五四年八月一日広島民衆劇場機関紙第五号掲載

 

毎年八月六日が近づくと私の胸を酷(ひど)く痛めつける思いが数々あるが、そのなかの一つに九年前の八月六日広島で原爆のために亡くなった移動演劇さくら隊丸山定夫ほか八名の人達の追悼碑のことがある。

過去一度中国新聞芸能記者の人達によって、丸山定夫と宝塚出身の園井恵子の碑が新川場(しんせんば)町のどぶ川のほとりに建てられたが道路整理のため除去されて以来現在(一九五四年)は何も残っていない有様だ。

来広した中央の演劇人たち、新協劇団の八田元夫、ぶどうの会の山本安英、劇団民芸の宇野重吉、文学座の杉村春子、俳優座の永田靖、それに今はフリーになっている信欣三、多々良純のみなさんと逢う度にこの追悼碑の話は色々の角度から話し合われ、特に新協の八田元夫氏とは共に資料を求めて歩いたこともあるのでこのことは私にとって日夜忘れ得べくもないことなのである。(東京には下目黒の羅漢寺にさくら隊殉難碑がすでに建てられている)今年の八月六日は何ともしがたいが来年の十周年には広島の演劇人、文化人、その他の協力を結集して必ず追悼碑を建て、歴史的に残り得る記念事業を実現させたいと心ある人達と話し合っている。

芝居の神様、虫としてガンさんの愛称で呼ばれていた丸山定夫と私が最後に逢()ったのは確か一九三九年、ロケーションで広島を通過の際、広島駅のプラットホームで宇野重吉と話合っているとき、丸坊主の顔をむつゝりしながらやってきて「やあ、しばらく広島は何時でも懐かしいですな」と感慨無量の面を何か寂(さみ)しそうに撫(な)でていたことを憶えている。帰りに重ちゃん(宇野重吉)赤木さん(その当時、信欣三と結婚間もない頃(ころ))も広島へ寄るからぜひ一緒にいかがですかと言ったら「広島はあまりにも懐かしく縁が深くて降りたら当分去り難いからこの度はやめます」と言って去っていったのも忘れ難い思い出のひとつである。

(「『ロンドの青春』平和と演劇を愛した大月洋の足あと」より)

広島市民劇場初代事務局長
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