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丸山定夫原爆死ノート

一九五八年八月七日中国新聞に掲載

真夏の熱気をふくませて下り急行が広島駅のプラットホームにすべり込んだ。宇野重吉や顔見知りの顔が窓から声をかける。宇野重吉と話しを交えていると、丸坊主頭のガンさん(丸山定夫の愛称)が腕を上げ、呼吸しながらしきりにプラットホームを往復して調整運動をしているのが目についた。やがて私を見つけ「やあ、お久しゆう、お元気?」と声を掛けて近づいてきた。私は「帰りに重ちゃんも広島で降ります、丸山さんも久しぶりだから一緒にどうです?」と誘うと「残念だな、今度はちっとも暇がなくて、それに広島は忘れ得ない大切な土地だから降りると離れづらいんでねぇ、重ちゃんも降りるのかそれは残念だなあ」としきりに残念だなあを繰り返していた。一九二四年の真夏のことである。(丸山定夫と広島については薄田太郎氏の”がんす横丁”に書かれている)

一九四五年八月六日、移動演劇さくら隊で活動中の丸山定夫は広島市堀川町九九の桜隊の宿舎で他の八人と共にピカドン(原子爆弾)にやられた。「タイビ島にいる。レンラクたのむ。ガン」一寸四方(いっすんしほう)程にちぎったボール紙に鉛筆で一字一字刻みつけるように書かれた丸山定夫の筆跡を……。

広島がひどくやられたことを知り東京からかけつけた八田元夫(現演出劇場)槙村浩吉(現新制作座)の二人は、ガンさんはまだ生きていると喜んだ。鯛尾(たいび)島から呉線の小屋浦(こやうら)国民学校(小学校)収容所へ、苦労に苦労を重ねて探しあぐんでのぞいたどんずまりの部屋の窓のしたで丸山定夫を見つけ出した。八田元夫、槙村浩吉に「来てくれたか、来てくれたか、ウウウウウ………」と呻(うめ)きながら爆発するような声が……。あとは泣き声に変ってしまった。

「ちょうど朝食が済んで部屋に戻り一息ついて間もなく、ピカッと鈍い光が目を射た。追っかけるように、グワーンガラガラと物凄い音がして目先が暗くなったのと一緒に、天井が押しつぶされたように落ちかゝってきて、そのまゝどしんと叩(たた)きつけられた。思わず「おゝい」と叫んだ。後の方で「おゝいガンさん」って声が聞えた。いま行くぞ、と言いかけるうちに、くらくらっと目の前が真暗になってね、深い深い底へ引き込まれるようにわからなくなってしまった。死ぬって言うのはきっとこのことを言うんだね。それから何時間たったかわからない。気がつくと、どこかでパチパチという音がする。夢中でもがきながらひっかゝったシャツを引きちぎって這(はい)出した。ずっと遠くにうっすらと青空がのぞいていた。このまゝでは死ぬぞと這出し青い空の下に出ると、まわりは一面の火の海。たくさんの人が駆け出している。ぼうぼうと燃える火の中を無我夢中で駆け出し、やっと山のような所(比治山)へ辿(たと)り着いてそのまゝ気を失った。何時間もたったと思う。揺り起され、並ばされ、歩かされた。電車に乗せられた、いやバスだったか?。それから船に乗せられ、大きな建物の中に入れられた。「丸山定夫です、こゝはどこですか」と尋ねた。タイビだと言われた。折よく隣にいた男の人の怪我はかるく帰ると言うので万が一にもと思って、その時厳島(いつくしま)を思い出したんだ。あれが届いたんだね、よかった。よかった。来てくれて助かった。しかしパンツ一つじゃ厳島(いつくしま)まで歩いて行けないね」

四十度の熱は下がったが裂傷に打撲は赤チン。火傷(やけど)は油薬。ほかにアスピリンしかない野戦病院を思いはかって八田元夫と槙村浩吉は丸山定夫を厳島(いつくしま)まで運ぶことにした。町の人達の厚意で縞(しま)のワイシャツと小倉(こくら)のズボンを貰(もら)った。ワイシャツの袖を通すだけでも一騒(ひとさわ)ぎ。満身これ傷。顔は土色にむくみ立ち上がるとくらくらとめまいを起し、同時に首の骨がぽきっと音をたてゝ「痛い」と言う。両脇から抱きかゝえるようにして恐る恐る歩き出した。二歩行っては休み、三歩行ってはくらくらとめまいで止る。

「やっぱり無理だ、明日担架を持ってこよう」「そんなこと云わないで連れていっておくれよ」心細さに地団太(じだんだ)を踏むような口のとがらし方だ。四、五丁の距離(一丁は約一〇九メートル)を三十分もかゝり、二時間待って乗った汽車は海田駅止まり。海田で数十分待たされて、小屋浦(こやうら)から広島まで三時間半。日もとっぷり暮れ九死に一生を得て宿舎の禅寺に着くと、寺の住職に「私は亡者です。どうぞよろしく」とおどけたように頭をこっくり下げた丸山定夫。被爆六日目八月十二日のことであった。

翌日十三日、桜隊の他の八人(高山象三、園井恵子、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子等)を探すために八田元夫一人だけ残って全部広島市内に出かけた。前夜は一晩中うなされていたが、ひっそりとなった方丈で初めて昏(こんこん)々と丸山定夫は眠りはじめた。口元が動いて何かつぶやく。夢を見ているらしい。急に目をぽっかりあけ、あたりを見まわし「象ちゃんと園井君今来()なかった」夢とわかってがっかりと自責に耐えられない表情が寂(さみ)しい。やがて広島に出かけた連中が帰ってきた。「駄目でした五人分の骨が出てきました」「やっぱり、そお……」丸山定夫は小声で言うと、くぼんだ眼をじっと曇らせて深い絶望感に落ち込んでゆき、暫時唇をかみしめていたが、喉をふるわすように「すまない俺はどうすればいゝんだ」と直視するにしのびない苦悶(くもん)の極の丸山定夫であった。

八月一五日敗戦の玉音放送を聞いて、骨と皮ばかりになった腕をしみじみ見ながら「こんなに駄目になってしまった、しかしまた芝居のできる世の中になったんだね。二年待ってくれ、この体をきっと治していゝ芝居をやってみせるよ」とはるか遠くへ思いをはせるようなまなざしを向けた。

翌十六日も、また芸備線方面を探すためにゲートルを巻き立ち上がろうとする八田元夫の右手を丸山定夫はぐっと引き据え「今日も行くのかい、昨日一日留守だったんだ今日はいておくれよ」「ガンさん、象ちゃんや園井君のことも心配だろう。僕か槙村が行かなきゃ、探し手はいないんだよ。じゃ槙さんに残ってもらって……。なるべく早く帰ってくるからね」。こくりこくりと子供のようにうなづいた。部屋の入り口で振り返ると、その眼がじっと追いすがっていた。

汗と埃(ほこり)にくたくたになり辛うじて宮島口の連絡船終便で八田元夫はやっと宿舎の禅寺に帰ってきた。

暗い電灯の下、床の間よりに丸山定夫の静かな寝姿。寝息さえ立てない静かさ。半眼がうっすら見開いている。はっと思って額に手をあてゝ見ると、すでに冷たい。「槙さん槙さん」寝入りばなを起こされて、きょとんとした顔で起き上がる槙村浩吉。「ガンさんが、ガンさんがもういけないんだ」「いま何時ですか」「十一時」「じゃあ三十分たつただけだ。別に苦しんでもいなかったんですけどねぇ」。

打撲傷と裂傷とガンマ線の初期的兆候に肋膜と肺炎を併発して打ちひしがれたように丸山定夫は誰にもさよならも言わず、また言われもせず、黙って静かに死のカーテンの彼方ヘ冷たく消え去った。

八月一六日の夜更けであった。

(「『ロンドの青春』平和と演劇を愛した大月洋の足あと」より)

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