眠っていても主と共に

2009111日 主日礼拝 召天者記念礼拝

聖書 箴言1923 Ⅰテサロニケ51-11

説教 兼子洋介牧師

「眠っていても主と共に生きる」

 教会というところにいると、時々耳慣れない言葉、つまり教会というところを知らない人にとっては、漢字がイメージできない言葉に出くわすことがあります。わたしたちは今、召天者記念礼拝として、この11月最初の礼拝をささげていますが、この召天者という言葉もまた、一度耳で聞いただけではイメージしにくい、いわば業界用語ならぬ教会用語だと言うことが出来ます。漢字にして言えば、召されるという意味の召、天の御国という意味の天、物質ではなく人間を表す者。これで召天者です。まさに、天に召された者を思い起こし、記念する礼拝、ということになります。そういう言葉を使って、わたしたちは今日、礼拝している。

 けれどもこの召天者という言葉。この言葉は、まだ洗礼を受けてこの教会のメンバーになっていない人でなくても、つまり、ずっとこの教会で礼拝をささげてきていて、この礼拝の意味をよく知っている人でも、実はつっこみどころがある、なかなか微妙な言葉です。とは言っても、この言葉を使っちゃまずいとか、他の言葉のほうが相応しい、ということではありません。ですから、あまり過激な言い方をして、つっこみどころがある、などと声高に言うべきではありませんし、この言葉を使うのに、皆さんが遠慮する必要はありません。

 しかし、それにしても、今日、この日の礼拝でこそ、召天者記念礼拝という言葉の本質について、意味について、改めて考えてみるということは、わたしたちの信仰生活にとって、とても大事なことだと思うのです。召天者という言葉について、それが何を意味しているのか、再検証する。それは、わたしたちが生き、そして死ぬということをどう理解しているのか。教会はこのことをどう伝えていくのか。そうしたことに関わってきます。

 わたしたちは、何となく、この言葉を使うというわけにはいかない。この言葉に、わたしたちの信仰が詰まっているんだと、言えなければならない。なんで召天者を思い起こして礼拝をささげているのか、このことがどうして、わたしたちの喜びなのか。このことを確認する日として、今日のこの日を過ごしたいと思うのです。

 考えてみると、教会というところは、業界用語ならぬ教会用語に満ちています。教会の人ならば分かるけれど、その外に出たらよく分からない。そういう言葉が少なくないのです。現に、この召天者という言葉にしても、単語登録でもしておかないと、パソコンやワープロではすぐに変換できません。そんな日本語ないよ、と、冷淡に突っぱねられます。パソコンのソフトではご丁寧に、赤線でこれはおかしいよ、と注意してきます。

 そんな言葉ですから、この言葉の意味を、わたしたちはわたしたちの仕方で、明らかにしなければなりません。この、公の、すべての人に開かれている礼拝で、先に死んだ者を召天者と言い、その生涯を思い起こして礼拝する意味というものを、わたしたちは公に明らかにするのです。

 何度も言いますが、これは、放っておいても意味を理解してもらえるような言葉ではありません。世間に召天者という言葉はないのです。またさらに、日本語の専門家に言わせれば、召天者と書いて、天に召された者、という意味を持たせるのは、漢語の用法としてはちょっとおかしいそうです。召天者と書いたら、普通は天を召す者という意味になってしまう。天に召されるという意味なら、「被」召天者と言って、被害者の被という字をくわえて、被るという意味を持たせなければならないそうです。

 まあだから使ってはまずいとか、これに代わるよい言葉があるとかいうことはないので、今、わたしたちが使う言葉としては、この召天者というのが適切だろうと思うのですが、それだけに、意味というものをはっきりさせなければなりません。語学的には筋のよろしくない使い方をしてまで、この、天という字と召すという字で表したい信仰がある、と、公に言い表そうとしているのです。

 参考までに、他に代わる言葉がないかと考えてみますと、同じ礼拝を、永眠者記念礼拝と言う場合があります。これのほうが優れているのならば、長老会で話し合ってさっさと改めればいい、という話になるわけですが、こちらは信仰的に考えて、本当に教会の信仰に合った言葉かというと、残念ながら召天者に劣ると思います。

 確かに、言葉の意味だけを言えば、永眠者記念礼拝の方が、どこの誰が読んでも分かる、日本語的には明快なものです。でも、残念なことに、これでは画竜点睛を欠いていると言わざるを得ません。なぜなら、これでは復活信仰も分からなければ、ましてや、今ここで何で一緒に神礼拝をしていると言えるのかも、分からなくなるからです。

 永眠者という言葉。この言葉は、文字通り、死というものが永遠に眠ることだと言っています。肉においても、霊においても、その人は永遠に眠っている。そう言い表しています。これは、わたしたちの信仰とは相容れません。わたしたちは、永遠に眠ると思って、教会で葬りの式を行ったりは、していないからです。

 だいたい、永眠者という言葉を掲げて礼拝をしながら、今日読んだ第一テサロニケ5章の言葉は、読むことが出来ません。このみ言葉は、はっきりと、死の眠りが永遠ではないことを信じ、言い表しています。5章に先立つ4章では、イエス・キリストが再び世に来られるその時、いったい何が起こるのかが語られています。キリストに結ばれて死んだ人たちが復活すると、はっきり語られているのです。これを受けて、その日その時がどのようにやってくるか、それが5章で語られているのです。

 ですから明らかに、このテサロニケの信徒への手紙を読みながら、永眠者という言葉を使うのは、しっくり来ません。「眠りに就いた」という言い方は、4章以来ありますが、しかしその眠りが永遠のものであるとは考えていないのです。

 ですから、わたしたちは「永眠者」を記念しつつ、この「永眠者」と共に、礼拝をささげることはできません。永眠という言葉の理解には、肉の体も霊の体も、すべてが終わった、という意味が含まれています。終わった人は、残念ながら、礼拝をささげることができません。

 しかし!しかし、わたしたちが今ここで、共に礼拝をささげている信仰の先達は、肉においては眠り、霊においては今なお共に礼拝をささげながら、主の再び来られる復活の日を待ち望んでいるのです。この、「待ち望む」、ということを、先に葬られた先達と共有しながら、わたしたちは礼拝をささげています。肉の体は眠りにつきつつも、その魂が今、天に召されていて、やがて主イエスが再び来られるとき、この眠りに就いていた肉の体も伴って生きるものとされる、復活の命に与ると、信じているのです。

 ですから余談ですが、永眠者記念礼拝はまずいにしても、「就」眠者記念礼拝、眠りに就いた者という意味で就職の就を使って表現する、ということは、もしかしたら検討の価値があるかもしれません。眠りに就いた者を思い起こし、彼らと共に礼拝をささげる。そういう意味なら信仰的に共感できます。とは言っても、これまた教会用語以外の何物でもありませんし、音だけを聞いて漢字を連想できる人は、教会員でもなかなかいないと思いますので、現実的かというと、ちょっと首を傾げざるを得ないかもしれません。

 ともかくわたしたちは、「召天者記念礼拝」という言い方で、この礼拝をささげています。ここに言い表された、既に眠りに就いた者の信仰と、この信仰を受け継いで、今共に主の再び来たりたもうを待ち望むわたしたちとが、「共に」神を崇める礼拝をささげているわけです。この共通点について、テサロニケの信徒への手紙は、「目覚めていても眠っていても、主と共に生きる」と言います。今、目覚めて礼拝をささげているわたしたちも、先に眠りに就いた先達も、主と共に生きている。それがこの礼拝では明らかにされているのだというのです。

 ここで注意しなければならないのは、今ここで、生きた肉体をもって礼拝しているわたしたちと、先に召された先達とが、「同じように生きている」ということを意味しているわけではない、ということです。確かに、同じ信仰に立ち、同じことを待ち望む、という点では一致しているのですが、だからと言って、「死というものがあやふやにされる形で」、同じだなどとは言えないのです。死んで眠りについた者と、生きてこの地上にあるわたしたち。主を待ち望む信仰では同じですが、それは、「死というものをあやふやにする意味で」同じだというわけではないのです。

 今日は、「眠っていても主と共に生きる」という題をつけましたが、これは実は、よくよく注意しなければいけない表現になっています。というのも、これは永眠はおろか、実は就眠という言葉にも潜む、死というものに対するあやふやな理解を助長する側面を含んでいるからです。ですからやはり、就眠者ではなく、召天者がいいと、わたしは思っています。

 というのも、この眠りという言葉。主と共に生きるという言葉。この言葉は、人の死というものを、なにか「仮眠」を取っているかのような、甘い理解へと誘うところがあります。「あの人は死んで遠くに行ってしまったわけではない。今もあなたのそばにいる」、というような言葉に通じやすいのです。こうした言葉は、一見慰めに満ちていますが、わたしたちが現実に直面する、死という厳粛な事実を、悪くいえば心理的にごまかしてしまうものでもあります。「あの人は死んだんじゃない、眠っているだけだ…」。こういう言葉も一瞬、喪失感を埋めてくれますが、やはり死という現実は、変わらずわたしたちの前に立ちはだかってくるわけです。このことに対して、眠りに就いただけ、という言葉は、実に無力です。そんな言葉ではすまされない圧倒的な喪失感が、死という現実には、あるのです。

 ですから「眠る」という言葉や、安易に使われる「主と共に生きる」、という言葉には、注意が必要です。死の現実が軽視されたとき、「主と共に生きる」は容易に、わたしたち「人間と共に生きる」に変換されます。いったん眠っている程度の理解では、死も、生きているわたしたちのすぐそこにあって、行ったり来たりしながら一緒にいるような話になってしまいます。ですから眠るという言葉一つをとっても、その意味を、信仰的な内容を、確認しながら使う必要があるわけです。

 翻って、聖書が言う、「主と共に生きる」、であるとか、「眠りに就く」、という言葉は、単なる慰めではありません。一時の気休めの言葉ではないのです。それは、キリストがわたしたちのために死なれた、という10節の言葉でも明らかなように、死の淵の先にある、復活の希望です。死を避けて語られる希望ではなく、人の死の先に示される、力強い希望なのです。「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」という言葉は、その前に記されている、「わたしたちのために死なれた」キリストの歩みによって、与えられています。

 ですから、わたしたちが今ここで思い起こしている信仰の先達についても、同じことが言えます。確かに、眠っていても生きている。わたしたちと同じように礼拝している。けれどもこの先達は、キリストの復活に与る前、これまたキリストと同じく、肉の体において「死に引き渡されて」いるのです。このことを、わたしたちはごまかすわけにいきません。ごまかしの先に、希望を見出しているのでは、ないのです。

 わたしたちは今、キリストと共に、肉においては死に引き渡された信仰の先達が、キリストによって、死んで後の行き先を「神の国」へと変更され、神をほめたたえる幸いに与っていることを確認しているのです。「天に召される」という言葉の背後には、実はこうした、キリストの名のもとに葬られた者の生涯についての、確かな希望と信仰があるのです。

さらにこの手紙は、5章の中で、今、生きて礼拝しているわたしたちを奮い立たせるかのように、あなたたちは眠っているわけでも、暗闇の中にいるわけでもないことを語ります。死に引き渡された者の希望を語るのみならず、今、ここで肉の体をもって、先達と共に礼拝するわたしたちにも、わたしたちにしかできない使命があることを、伝えるのです。

 キリストの名のもとに葬られた者は、決して暗闇の中にいるのではありません。その点では、わたしたちと同じです。こうやって礼拝をささげ、キリストがわたしたちのために死なれ、復活されたことを信じている点では、同じ光の子とされています。しかし同時に、あなたたちは今、生きて、肉体をもって礼拝をささげている者として、あなたたちにしか出来ない業のために、立てられているのだと言うのです。

 ここでは、「身を慎んでいましょう」という言葉が繰り返し語られています。これこそ、実はわたしたち、生きて、肉の体をもって歩む者にしかできないことです。さらに言われているのは、最後の11節で、「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」ということです。向上する、というのは、わたしたちが今生きて、礼拝生活を続けながらだからこそ与えられる、成長のことです。み言葉に聴くたびに、わたしたちのうちにキリストの姿が見えてくる。わたしたちの人生を導き、支えているのがどなたであるかを知り、希望を持つことが出来る。こういうダイナミックな前進の歩みは、まさにキリスト者の生きた生活にこそあります。そしてこの歩みの中にあって、わたしたちにはもはや、盗人のようにやってくる、いつ来るとも知れない主の日におびえる必要はありません。わたしたちが信仰を持って歩む、ということは、いつ来るとも知れない主の日に向けて、備えを持って歩めている、ということです。

 そしてもう一つ、生きて、肉の体をもって礼拝をささげることが出来るわたしたちだからこそ、できることがあります。それは、生きた者同志、伝道する、ということです。わたしたちはついつい、向上、というと、何かが上手になることや、人間的に立派に見えるようになることを考えてしまいます。しかしわたしたちの向上とは、このキリストの体としての教会と無関係にある向上ではありません。この教会が、いよいよ声高らかに、召天者と共に命の主なる神をほめたたえ、さらにその輪の中に、一人でも多く、招かれていくこと。これこそが、わたしたちが生きて、目指すべき向上です。そしてそのためにこそ、身を慎む。キリストの香りを放つものとなる。罪の悪臭ではなく、赦され、肉の体が死んでも生きる希望を放って、生きていくのです。これこそが、わたしたちが今、生きている者としてなすべき礼拝生活、信仰生活だと言うのです。そしてさらに言えば、この生活の中においてこそ、キリストの名のもとに葬られた先達と、共に歩んでいる、共に生きているということが出来るのです。

 わたしたちは、今こうして生きて歩みながら、主の日の礼拝へと招かれています。それは、既に死んだ者、召天者と、何から何まで同じところにあることではありません。わたしたちはどうしても、命の生き死にについて、この手の内に収めることが出来ません。自分の好きなように、命を扱うことは出来ません。今肉の体を持って生きているわたしたちと、召天者の間には、神にしか司ることの出来ない隔たりが、厳然と横たわっています。

 しかし、これらの違いがあり、役割がありながらも、わたしたちは一つです。わたしたちは、この礼拝があるから、礼拝する信仰を共にするから、一つだと信じて、これらの兄弟姉妹、信仰の先達を思い起こすことが出来るのです。

 実際、召天者記念礼拝のご案内というものを皆さんにお配りしていますが、そこにはこう書いてあります。「富田林教会では毎年11月の第一日曜日の礼拝を「召天者記念礼拝」と位置づけ、すでに天に召された当教会の諸先輩方、兄弟姉妹を偲びつつ、共に神の前に集う礼拝者として、礼拝を捧げる機会を設けています。信仰の先達たちが私共と共に歩んだ軌跡、そうした富田林教会の歴史と伝統を生きて築いた足跡を、しっかりと見据えながら、思いを一つにして、教会を形成してまいりましょう」。ここでは共に神の前に集う礼拝者として、ということが語られ、なぜ、先に天に召された一人一人を思い起こして礼拝するのかというと、それはこの一人一人が、今なお共に礼拝者である。だから今ここに共に礼拝をささげるのだ、という理解が示されています。天に召された者を思い起こしながら、一緒に、神様への礼拝をささげる。だから、召天者記念会ではなくて、召天者記念「礼拝」なのだということです。

 これが、この教会の公式な信仰であり、態度です。ここに思い起こしている一人一人と同じ信仰を受け継ぎ、わたしたちは礼拝をささげていく。リレーのバトンを引き継いでいく。そういう信仰を表明しています。ですから、召天者記念礼拝という言葉には、とても大事な意味が込められています。天に召されているけれども、今なお一緒に信仰を持って礼拝をささげる側にいる。間違っても、天に召された者が、礼拝をささげ「られる」側には行ってしまっていない。このことをはっきりさせる言葉です。彼らは死してもなお、わたしたちと同じ、礼拝者なのです。神ならぬ「人」として、礼拝者であるということは、魔法のような力によって、死んだ人をわたしたちのもとに取り戻すようなことは出来ない、ということです。確かにその点で、わたしたちには寂しさがあります。悲しさがあります。けれどもわたしたちは、いわゆる死んで仏になるというような希望ではなくて、死んでもなお、共に礼拝するという喜びを与えられています。仏になってしまったら、それはもう、わたしたちの手から離れて礼拝される側でしょうが、違うのです。召天者は、天上の礼拝に連なる者です。この礼拝と、わたしたちのささげる地上の教会の礼拝が一つである。だからこそ、わたしたちは召天者を記念しつつ、共に礼拝をささげるのです。

 箴言は次のように言います。「主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りに就き災難に襲われることはない」。このように生き、眠りに就いた先達と、このことを望み見て礼拝するわたしたち。この固い絆を確認して、歩みだしたいと思います。

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