狭山事件一問一答─冤罪論の疑わしさをめぐって

狭山事件に関しては確定判決の疑わしさが指摘される一方、冤罪論の側も突っ込みどころ満載です。ここでは冤罪論の疑わしさについて、まとめてみます。


Q.石川一雄さんは事件当時、読み書きができなかったといわれています。本当でしょうか?

A.ウソです。石川は石田養豚場に住み込みで働いていた当時、週刊誌や新聞や交通法規の本や自動車構造の本を読んでいた、と石田養豚場経営者の石田一義さんに証言されています。

「石川は、私の家に居るとき、読んでいたものは歌の本とか週刊明星が主でしたが、私が野球が好きで報知新聞をとっていると、この新聞の競輪予想欄を見ては、しるしをつけていたし、私の家でとっている読売新聞も読んでおりました。また、去年の12月ごろ、石川が自動車の免許証を取りたいと言っていたとき、私が免許証をとるとき使った交通法規の本と自動車構造の本を石川に貸してやったら、それを少し読んでいるのは見ました」(検察供述調書。1963年6月8日)

また、サンケイ新聞1963年5月24日付朝刊には、石川一雄が手帳を持っていたことが報じられています。その手帳にはフランク永井の歌の歌詞が書かれていました。
歌詞を書いたのが石川当人なのか、友人だったのかは不明ですが、本当に読み書きができないなら手帳になど用がないでしょう。
また、手帳に歌詞が書かれていてもそれを読むことはできないでしょう。


Q.石川一雄さんはもともと読み書きを知らなかったので獄中で字を覚えたと聞きました。本当でしょうか?

A.第75回公判における被告人陳述(1974年5月23日)で、石川はこのように発言しています。

昭和42年(1967年)ごろから、私は文字の読み書きを拘置所の中で、独力ではじめたのです。控訴審になってから、外部の人に無罪を訴えるためには、もはや自分自身の手に頼るしかないと思い、猛勉強をしたのです。そのころには、外部から手紙をもらうようになりました。当初は読めないから担当の看守に読んでもらったのですが、もちろん返事は書けません。母に『少年手紙宝典』という本を差し入れしてもらい、また拘置所にある仮名ふりの本を私の専用に貸してもらって読み書きを同時に勉強したのです

この発言は、狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.288や部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『無実の獄25年 狭山事件写真集』p.87(解放出版社、1988年)に引用されています。

しかし1963年9月6日、まだ1審が始まったばかりの段階で石川は関源三さんに俳句入りの立派な手紙を書いています。「1967年ごろから」という石川の発言には重大な矛盾があり、とうてい信じられません。

石川はまた、朝田善之助あての手紙(1970年9月24日)の中で

「浦和にいたときの私は字の読み書きは全く出来ませんでしたので、私共の担当看守の森脇さんという人に、書いてもらっていたので、」

とも書いています。石川が浦和拘置所から東京拘置所に移されたのは、1964年4月30日です。浦和にいたとき石川が自筆の手紙を書いていたことは、すでに見た通りです。ここでも石川はウソをついているわけです。

1963年9月6日、石川一雄が関源三さんにあてて書いた手紙。
脅迫状の「ツツんでこい」「もツて」と同様、「ツたエてください」と書いている。


Q.脅迫状には詩的な表現技法が使われており、事件当時の石川さんはこのような詩的表現技法に親しむ機会がなかったので脅迫状の筆者ではありえない、という狭山弁護団は主張しています。本当でしょうか?

A.石川一雄は歌が好きな人です。フランク永井やこまどり姉妹、石原裕次郎、三波春夫などがお気に入りだったようです。
好きな歌の歌詞を手帳に書きつけておくほどの歌好きなら、歌詞を通じて自然と詩的表現技法に馴染んでいたのではないでしょうか。いうまでもありませんが、歌詞って詩なんですよね。
そうすると狭山弁護団の言い分は信憑性が怪しくなってきますね。


Q.狭山弁護団の藤田一良弁護士によると、石川一雄さんは万年筆を持っていなかったし、家にも万年筆はなかった、だから万年筆で脅迫状に「少時」と書くことはありえない、とのことです。本当でしょうか?

A.ウソです。石田養豚場経営者の石田一義は、次のように証言しています。

「石川が家へ来てから字を書く所は見ておりませんし、石川の書いたものも見たことはないが、家へ来たとき、青インクの小瓶を箱に入ったまま持っていたし、万年筆も持っていて、1回石川とジョンソン基地へ残飯上げに行ったとき、入門証を書くとき、石川から万年筆を借りて書いたことはあったが、石川がボールペンを持っているかどうかは知りません」(検察供述調書。1963年6月8日)

嘘つきは弁護士の始まりです。まあ、無理やり善意に取れば藤田さんは万年筆とボールペンを間違えたのでしょう。そんな重大なことを間違える弁護士に仕事が務まるものかどうか知りませんが。


Q.当時の被差別部落の人たちは読み書きができなかったと聞きました。本当でしょうか?

A.ウソです。被差別部落の人たちの識字率が低かったのは事実ですが、みんな読み書きができなかったなどという事実はありません。
現に、石川一雄が住み込みで働いていた石田養豚場の石田一義さんは被差別部落の人ですが文盲ではなく、新聞を読み、自動車の交通法規の本などを石川に貸してやったと証言しています。
被差別部落出身でも、努力して医師や法曹や大学教授になった人もおり、要は人それぞれです。
被差別部落イコール貧困・文盲、というのは偏見にすぎません。


Q.石川一雄の筆跡は狭山事件の脅迫状とは全く違う、というのは本当でしょうか?

A.ウソです。冤罪論者は、よく狭山署長あて上申書を引き合いに出して「脅迫状の筆跡と違うのは一目瞭然」と喧伝しています。しかし、石川が書いた他の筆跡を見ると脅迫状そっくりです。
狭山事件の5年前に書かれた勤務先あての早退届も「つ」を「ツ」と書いたり、アラビア数字と漢数字を混ぜて「5月1日」を「五月1日」と書いたりする癖が脅迫状と一致しています。
容疑を認めた後で石川が書いた手紙も、筆跡やあて字の使い方が脅迫状にそっくりです。
したがって、狭山署長あて上申書は、当時まだ容疑を否認していた石川が無理に筆跡を変えて書いたものと見るべきでしょう。
なお、このときの上申書の文面もウソのアリバイを申し立てる内容でした。

左が脅迫状の「え」「江」。右が石川一雄の「え」「江」「エ」。

左が脅迫状の「な」。右が石川一雄の「な」。

左が脅迫状の「す」。右が石川一雄の「す」。

左が脅迫状の「ツ」。右が石川一雄の「ツ」。

左が「け」。右が石川一雄の「け」「げ」。

脅迫状の全文。
「車で行くから」を「車出いくから」、「一分でもおくれたら」を「一分出もをくれたら」などと、ひらがなで「で」と書くべきところを漢字で「出」と書く癖がある。
また「つつんでこい」を「ツツんでこい」、「もって」を「もツて」などと、ひらがなで「つ」「っ」と書くべきところをカタカナで「ツ」と書く癖がある。

1964年8月21日、石川一雄から関源三にあてた手紙の一部。
「来てくれなくてもいいですよ」を「来て呉れなくも言い出すよ」、「あつかましいお願いですが」を「あつかましいお願い出すが」などと、ひらがなで「で」と書くべきところを漢字で「出」と書く癖がある。


Q.大野晋という偉い国語学者が「脅迫状を書いたのは石川さんではない」と鑑定したそうですが?

A.大野鑑定は、上述の狭山署長あて上申書だけを対象としたものです。石川一雄による他の筆跡は対象としていません。
したがって、今日では冤罪論者からも「他の筆跡も含めて鑑定すべきだった」と批判されています。
脅迫状の筆者が本当に石川一雄ではなかったかどうか、総合的に判断するためには狭山署長あて上申書だけでは不充分です。
大野晋は国語学の権威ですが、だからといって大野鑑定を盲信するのは合理的な態度ではありません。


Q.被差別部落出身ではない何者かが部落民に濡れ衣を着せる意図で遺体を部落の近くに埋めるなどの工作をおこなった、と主張する人もいます。本当でしょうか?

A.政治的な立場からそのような主張をする人もいますが(たとえば大江健三郎のように)、真犯人が明らかになっていないと言いつつ「真犯人は被差別部落出身ではない」と断定するのは論理矛盾です。冤罪論者の亀井トムも伊吹隼人も真犯人が部落民である可能性までは排除していません。


Q.脅迫状にはあて字は多いが誤字は一つもない、これは高学歴者が低学歴者を装って書いた証拠だという人もいます。本当でしょうか?

A.ウソです。脅迫状に誤字はあります。まず「西武園」の「武」の字の点がありません。「園」の「袁」の衣部も書き方が間違っています。
「時」の書き方も不正確です。「時」のつくりの「寺」は「土」と「寸」で合計3本の横線がなければならないのに、脅迫状の「時」は横線が2本しかありません。
いずれも、ちょっと見ただけではわかりにくい誤字です。ついでに言えば「武」の書き順も間違っていますね。正しくは横線二本の次に「止」を書くのに、
二本目の横線と第七筆をつなげて書いてしまっています。
高学歴者が低学歴者を装って捜査撹乱を狙うなら、もっとわかりやすい露骨な誤字を連発するのではないでしょうか。字を裏返して書くとか、わざと誤字を書く方法はいくらでもあります。
言い換えると、このようなわかりにくい誤字が書かれていること自体「高学歴者が低学歴者を装って書いた文章ではない」ことの証になるかもしれません。

Q.警察に逮捕されてからの石川一雄さんの筆跡やあて字の使い方が脅迫状に似ているのは、留置場で何度も脅迫状の文面を筆写させられ、心ならずも脅迫状を手本にして字を学ぶ羽目になってしまったからだ、という人もいます。本当でしょうか?

A.ウソです。逮捕される5年前に石川一雄が書いた上申書にも「つ」を「ツ」と書いたり、「ツ」を「川」のように書いたり、アラビア数字と漢数字を混ぜて「5月1日」を「五月1日」と書いたりする癖があらわれています。
1958年5月1日、当時の石川一雄が勤務先に出した早退届。
「頭痛」を「ずツ」、「5月1日」を「五月1日」と書いている。


Q.石川さんが書いた字を見ると「はらい」ができていないのに、脅迫状の字はきちんと「はらい」ができている、だから石川さんは脅迫状の筆者ではあり得ないんだ、という説もありますが?

A.早退届の字を見ると「はらい」はできていますよ。「ツ」の第三筆をご覧ください。むしろ「はらい」のお手本のような書き方と言ってもいいでしょう。
つまり、1958年に早退届を書いた段階では「はらい」ができていた人が、1963年、「はらい」を多用した脅迫状による犯罪事件の容疑者になった後は「はらい」を書かなくなったわけです。筆跡をごまかしていると見るのが妥当でしょう。
なお、「はらい」がうまくできないのは左手で字を書いた時の特徴でもあります。早退届や脅迫状の字を右手で書き、上申書の字を左手で書いたとしたらどうでしょうか。


Q.半沢英一という数学者が確率論の手法で「脅迫状の筆者が石川一雄である確率はゼロに近い」と鑑定したそうですが、信憑性はどうでしょうか?

A.結論からいうと、信憑性はありません。
半沢さんは「右肩環状連筆」という現象に着目しました。見慣れない用語ですが、要するにひらがなの「す」「な」などの第一筆と第二筆を丸くつなげて書くことを「右肩環状連筆」と呼んだのです。
この「右肩環状連筆」は脅迫状にはひんぱんに現れるが、石川一雄の他の筆跡にはほとんど現れない、だから脅迫状は別人の筆跡だ、というのが半沢鑑定の論旨です。
この分析は一見論理的に見えますが、実は根本的な欠陥があります。犯行を認めていたころの石川の自供によると、脅迫状は3度の書き損じを繰り返した後、
4度目にやっと書き上げたものだといいます。そうすると、「右肩環状連筆」は字を書くことに疲れたために横着して字画をつなげて書いた結果と考えることができます。
3度の書き損じを経て疲労した状態で書き上げられた脅迫状の筆跡と比べるなら、対照するサンプルもやはり3度の書き損じを経て疲労した状態で書かれた筆跡でなければ
同じ条件下での比較にはなりません。また、脅迫状の筆者が石川一雄かどうか公平に分析しようとするなら、「右肩環状連筆」にとどまらず、
アラビア数字と漢数字を混ぜて書く奇癖や、あて字の癖の類似性についても踏み込んで総合的に論じるべきですが、半沢さんは弁護側に不利なこれらの材料については
うまく反論できていません。半沢鑑定が取るに足らないゆえんです。


Q.狭山事件で石川さんが死刑判決を受けた後、変死者が続出しています。真犯人が口封じのために関係者を殺しているのだと聞きましたが、本当でしょうか?

A.変死者の続出と狭山事件との関係は全く証明されていません。
特に田中昇の死については、亀井トムが謀殺説を唱えていますが、その場に居合わせていた田中の妻の証言からいって謀殺説は成り立ちません。
冤罪論者の中には、腕時計の発見者の小川松五郎さんが控訴審の途中で亡くなったことまで不審死に数えている人もいます。
しかし、1963年当時すでに78歳の高齢だったご老人が亡くなったからといって、それを不審だと思う方が不審ではないでしょうか。


Q.真犯人は中田家の元使用人で、結婚を控えて自殺した奥富玄二だともいわれていますが?

A.奥富を診察した医師の証言によると、奥富は性的不能でした。ですから、被害者を強姦する能力はなかったというべきでしょう。
結婚を控えて自殺したのも性的不能の悩みが関係していた可能性があります。
また、奥富は佐野屋で真犯人の声を聴いた増田秀雄の兄の家でも作男をしていました。
もし佐野屋にあらわれたのが奥富なら、増田秀雄がそう気付くのではないでしょうか。


Q.二審以降の石川さんの言い分によると、石川さんは事件当日、仕事をさぼって所沢でパチンコをしたり、荷小屋で雨宿りしたりしていたそうですが?

A.それが事実とすると、誰からも目撃されていないのが不思議ですね。特に、入間川駅の駅前の荷小屋には3時間以上もいた、ということになっているのに。
石川さんの自宅は入間川駅の近くですから、荷小屋に3時間以上もいたら誰か知り合いに目撃されそうなものです。
そもそも、逮捕される前の石川は「事件当日は朝から夕方まで兄さんと一緒に近所で屋根を直す仕事をしていた」と家族ぐるみで嘘をついていましたね。
逮捕翌日にも嘘のアリバイを主張しつづけ、「屋根を直した家で休み時間にこれぐらいの大きさの煎餅とアンパンをごちそうになった」などと、食べてもいない煎餅やアンパンの大きさまで具体的に説明していました。
もともと嘘をついていた以上、「所沢でパチンコをしていた」「荷小屋で雨宿りしていた」という主張も疑わしいと思われるのは仕方がないのではないでしょうか。

(参考)1963年5月24日、逮捕翌日の石川一雄の供述調書
「本年五月一日に上赤坂の中田栄作さんと云う家に金を二十万円佐野屋のところまで持ってこいと云う脅迫状を持って行ったのではないかと云うことですが私はそんなことは知りません

 その訳は本年五月一日は兄ちゃんの六造と二人で午前八時頃に私の家の近所の菅原四丁目の

   水村しげさんと言う四十過ぎの

 家に下見板とトタンの張替の仕事に行って午後四時頃までやっていたのです 午後四時頃に仕事も終ったし、兄ちゃんが

   入曽の歯医者に行くからと云って

 バイクに乗って出かけて行ってしまったのです それから私は一人で家に帰って家で遊んでいたのです

 この日はテレビの番組に野球が無かったのでテレビがある四畳半の座敷で寝ころがっていて何処にも出かけませんでした このとき家に居た者は

   父ちゃんとお母ちゃんでした

 妹の雪江は午後五時半頃に入間川の牧野工場から帰ってきて、弟の清は午後六時半頃に東京の高田馬場のロッテ工場から帰ってきたのです

 妹の美智子は友達のところに遊びに行って四時半か五時に帰ってきて兄の六造は入曽の歯医者に行き四百幾らかとられたと云って午後十時頃に、

   皮ジャンパーを着てぐしょぬれになって

 帰ってきたのです

 夕飯を食ったときは兄ちゃんだけがいなかっただけで茶ぶ台(ママ)のところで皆んなで食ったのです、

 食ったものは飯でしたがおかずは知っているが話す必要はありません。

 この日の天気は昼前は晴れていたがポツンポツンと降ってきたのが午後三時半頃で水村しげさんの仕事をよす頃は幾らか多い位に降っていました

 お昼は自分の近くでしたから家に食いにきたのですが水村しげさんの家で

   お昼前のお茶休みにこの位の大きさの煎餅とアンパンを出してくれました

このとき被疑者は拇指と示指で輪をつくり本職に示した

 午後の休みのときも同じ様なものでした。

 私と兄ちゃんが仕事をしているときに知っている人が寄り込んだ様なことはありませんでした。」

このアリバイは作り話であり、のちに石川自身が撤回した。


Q.事件当時の石川さんはどこにでもいるような真面目な勤労青年だったそうじゃないですか。そんな人が人殺しをするでしょうか?

A.事件当日の石川一雄は、当人の供述によると、朝から仕事をサボってパチンコをやっていたそうです。石川のギャンブル好きはパチンコにとどまらず、競輪も好きでした。
建築現場から木材を大量に盗み出したり、農家から鶏を盗んだり、茅を盗んだり、ジョンソン基地からパイプを盗んで売ったりしていたことは当人も認めています。石川の盗癖は子供の頃から続いており、14歳のときから繰り返し警察の世話になっています。「どこにでもいるような真面目な勤労青年」と呼ぶのは無理があります。


Q.警察は被差別部落に偏見があったから被差別部落民の多い石田養豚場を集中的に見込み捜査したのだと言われています。本当でしょうか?

A.ウソです。石田養豚場は盗みや恐喝や暴行の常習犯が集まっていた職場で、被差別部落民からも危険視されていました。
石川一雄の兄の石川六造氏も「あそこにいると人を脅したり暴力をふるったりするようになるから」という理由で一雄に石田養豚場をやめさせ、
自分のところで鳶の手伝いをさせていました。どこの職場でもまともな環境とヤクザな環境の両方があるのと同じように、
被差別部落民が多い職場でもまともな環境とヤクザな環境の両方があるのは当然です。
上司みずから部下に盗みを指示することが常習的におこなわれていた石田養豚場は、間違いなくヤクザな環境でした。
もし石田養豚場が被差別部落民の多い職場ではなかったとしても、警察はやはり石田養豚場に疑いの目を向けたことでしょう。
「ある職場にならず者が多い」+「そして、そのならず者の多くは被差別部落民である」=「ならず者に疑いの目を向けるのは部落差別である」、というのは間違った論理です。
被差別部落民であろうとなかろうと、ならず者が警戒されるのは当然です。


Q.狭山裁判が差別裁判だというのは本当でしょうか?

A.狭山事件の捜査に部落差別が影響したとみるべき根拠はどこにもありません。
狭山事件で早くから石川一雄を支援していた国民救援会は、「狭山裁判=差別裁判」説を否定しています。
数々の冤罪事件の弁護で活躍した正木ひろし弁護士も「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになる」と批判しています。


Q.鴨居の上から突然発見された万年筆の件は警察の不正捜査でしょう。これこそ、石川さんが無実である証拠では?

A.いいえ、「警察が不正捜査をしたか・しなかったか」と「石川一雄が冤罪か・冤罪ではないか」は別の話です。
鴨居の万年筆の真相は不明ですが、一般論として、ホシは確かにクロなのに警察が手柄を焦って不正捜査に走る場合がよくあります。
小野悦男の首都圏連続女性殺害事件では警察による不正捜査が判事に認められて無罪判決が出ましたが、真犯人は間違いなく小野でしょう。
大阪府警の刑事による遺失物横領容疑者への恫喝事件にしても、刑事に恫喝された男は結局容疑を認め、余罪も含めて有罪になっていますね。
「警察が不正捜査をした」イコール「被告人は無実である」とは限らないのです。


Q.石川さんが一審で犯行を認めていたのは、「認めれば10年で刑務所から出してやる」という警察との「男の約束」を信じてしまったためだそうです。そんな約束が本当にあったんでしょうか。

A.石川は無罪主張に転じた9ヶ月後になっても関源三にこういう手紙を書いていますね。

「又日高町に疎開されたそうですが私の家の者が何か関さんに悪くいったのでいずらくなって(ママ)移られたのですか。そうでなければ長年住みついたところを離れるわけがありませんね。もし父や兄がそんな事を言ってたのなら私は残念でなりません。だって関さんに話したのは関さんから言われたのではなく私から話したのですもの。今度父が面会に来たらそれとなく聞いてみて連絡します」(1965年6月22日付)

警察との「男の約束」というものが本当にあったとすれば、それを反故にして9ヶ月も経った後で警察官にこんな親しげな手紙を書いているのは辻褄が合いません。


Q.石川さんに中田家の場所を訊かれたと称する内田幸吉は、一審第5回公判の法廷では石川さんを見て「そうです、そうです、この人です」と言っていたのに二審では「古いことではっきりしたことはわかりません」と言っているよね? こんな証言、当てにならないんじゃないの?

A.時間が経って記憶が薄れてからの証言より、記憶が新しいうちの証言の方が信用できるのは当然でしょう。
なお、内田幸吉宅には1964年9月29日、石川の補佐人の荻原佑介という政治ゴロが押しかけて脅しをかけた形跡がありますむろん、このような証人威迫行為は違法です。
また、狭山闘争には荻原佑介以外にも暴力的な極左分子が熱心に肩入れしていました。内田幸吉は石川に不利な証言をすることで放火・暴行・火炎瓶投擲などのテロ攻撃を受ける可能性もありました。
内田が二審で「古いことではっきりしたことはわかりません」という証言に転じた背景については、そのような事情を勘案すべきでしょう。
内田は、目撃証言をただちに警察に届け出なかった理由を弁護人から訊かれて「ただ恐ろしかったのです」と繰り返していました。
結局、悪い予感が的中し、実際に恐ろしい局面に立たされたというわけです。


Q.確定判決の内容には不明瞭な点がありますね。

A.確かにその通りです。確定判決の内容がすべて正しいわけではないでしょう。「未解明の事実がある」ことは最高裁もはっきり認めています。
だからといって一足飛びに「石川さんは冤罪だ」ということにならないのは当然です。
「未解明の事実がある」イコール「被告人を無罪にすべきだ」ではないのです。


Q.石川さんが犯人じゃないとすると、奥富玄二、石田登利造、石田一義、石田義男、東島明、中田健治、この中の誰かが犯人なの?

A.その問題を検討するには、最低限、彼らの血液型と筆跡とアリバイは基本情報として抑えておかなければなりません。
しかし、亀井トムも殿岡駿星も甲斐仁志も伊吹隼人も、そういった基本情報すら持たぬまま、ああでもないこうでもないと空想や願望を交えて口々に適当な推理を組み立てている、これが現状です。
これではお話になりません。群盲象を評す、と申しますか。「石川一雄が真犯人ではないという前提のもとに、手持ちの不完全な情報だけでパズルを組み立てたらどうなるか」という思考遊戯、単なる推理マニアのお遊びに過ぎません。
一方、捜査当局は彼らの血液型も筆跡もアリバイも抑えた上で容疑者から外したわけです。
確定判決の内容に疑問点があるとはいえ、市井の推理マニアの主張がどれもこれも確定判決に輪をかけて不合理で支離滅裂で荒唐無稽なのは、無理からぬことというべきではないでしょうか。(基本的に敬称略)QLOOKアクセス解析