心とは何か (生命言語心理学)

――心の構造と機能――
人間とは何か?
心とは何か?心の三要素とは何か? ――心は人間の行動の根源である
 今ここから、あなたは心理学に革命を起こすことができます。それは<心理学革命>です。

人間は欲の塊(カタマリ)、感情の動物――それを言葉でひねくり回し意味づけしながら生きています。人間の行動の源となる「心のしくみと働き」について考えてみましょう。その上で、心を癒したり強くする方法や、社会との関わり方についての提案をします。
 
心には、求める心、感じる心、考え話す心があります。それらが心の三要素――欲求・感情・言葉なのです。人間の心の構造は、無意識的な動物的要素 ①欲求・感情 ②動物的知性 に、言語的思考を伴う意識的な人間的要素③を加えて構成されています。
欲求感情(情動):  内的動因(欲求刺激)に対する感情反応が二次的動因となる(相依的刺激反応性)。
 ②動物的知性: 欲求情動に支配され学習・洞察を行う知覚的判断・直示的(知覚的)操作能力
 ③人間的知性: 言語的認識による情報の脳内的操作(想像/創造)と直示性を越えた思考・感情反応
 
 (「心の構造と機能」を理解するために、まず「脳の機能モデル」で心と身体の関係をご覧下さい。) 

心の三要素(心の方程式)――欲求・感情・言葉・・・・心= f 欲・情・言
【なぜ心の三要素が「知・情・意」ではなく、「欲・情・言」なのか】
【仏教の心と生命言語説――三毒と心の三要素】
 ――貪瞋痴と欲情言の関連と悟りへの道――
【心の形成と個性・人格――相互理解のために】
        「心とは何か」(パワーポイント用)

動物の心、人間の心
 動物: 個体⇒欲求(情動)・感情⇒(学習経験)⇒ 直示的刺激反応性
 人間: 個体⇒欲求(情動)・感情⇒(学習経験)⇒ 知的創造・願望⇒ 内的刺激反応性
     言語による知的好奇心(欲求)と疑問の解明・知的再構成(文法の生得性の根源)


情動(感情)の捉え方
 <言語は認識(思考)の手段だけでなく,行動(情動表現)の一形態でもある。>
 <知覚や行動と分離した概念・言語的思考、言語記号による情報操作>

感情をどう捉えるか? : 感情は、生きるために欲求を充足する反応(行動)過程で、内外の変化に反応して快・不快を判断・表現し、さらなる反応(行動)の動因となり、行動を推進(または抑制)する働き・機能である。

メンタルモデル論と心の構造──言語的思考と論理 ジョンソン=レアード
 【生命言語説の論理】論理の根源を中心にまとめる(我々の立場)。
 【心理論理(mental logic)説】ジョンソン=レアードによる説明
 【メンタルモデル(mental model)説】ジョンソン=レアードの説

『ヒトはいかにして知恵者となったのか─思考の進化論』 ヤーデンフォシュ>
「心の理論 Theory of Mind」 プレマック
「心の理論」という概念について
『心の先史時代』 スティーヴン・ミズン
・英語のmind と日本語の「心」の違い、「心の理論」の用語上の問題点

心を強くする方法 フロイト批判 思考と言語 生命とは何か

事例:心の構造とはたらき 心と脳の関係 マズロー批判 


心の構造・心の方程式 : 心= f 欲・情・言)  mind=f(disir/emotion/word) 

人は、心でもとめ 目でみつめ 耳できき 肌でふれあい 心で感じます。
  そして、言葉で考え、欲求と感情を調整し、自分の意思と情報を伝えます。
  心には、求める心、感じる心、考え操り語る心があります。
  それらが心の三要素――欲求・感情・言葉なのです。
  心には、あなたの経験して得た多くの情報が記憶されています。
  その経験があなた自身を作っています。
だから、
  あなたの心の構造を知ることは、あなた自身を知る ことになります。
  自分とは、身体が心を宿し、心が身体を動かしている存在です。
  私たちそれぞれ(個性)がもつ独自の欲求・感情・言葉を正しく理解しましょう。
心の正しい理解が、心を強くし、正しい判断と行動を導きます。
 
欲求は、動物行動の基本的動因であり、個体によって強弱、敏鈍、粘淡など(生得的気質)に違いがある。哺乳類では個体と種族の維持に分類され、さらに人間では、意識的な言語的構想力によって二次的(もっと)人間的欲求に拡大する欲求が充足されれば快(肯定的)感情、されなければ不快(否定的)感情が起こり、次の 快の追求または不快の回避に向かう。詳細
個体維持 (生命一個体の誕生から個体死まで、自己中心的・主体的生存欲求の基本)
   [エネルギー代謝] 呼吸,休息・睡眠,飲食・排泄,採集・狩猟(内的恒常性)
   [安全保持] 苦痛回避,快楽追求,好奇心,防衛,安全・権力(個体安全性)
   [一般的感情] 自己表出:模倣・学習,探索,承認,遊び,優越(発達享楽性)
種族維持 (個体死の限界を超えて、生命の永続的・社会的生存欲求の基本)
   [異性関係] 性愛(恋慕・性交),配偶関係(子育て・家族)
   [母子関係] 育児(母性),保護,依存,自立(成長)
   [集団関係] 安全・安心,互助・援助,秩序・権威,協同行動(協働)
   人間的欲求 (人間に特有で、言語的構想・創造力にもとづく二次的・習得的・文化的欲求)
   [一般的欲求] 一次的欲求の言語化、創造性と文化的欲求(求快避苦)
、自己像の意味づけ
   [観念的欲求] 快・不快状況の合理化、因果性の追求、目標実現(空想・探求・why⇒宗教等)
   [物質的欲求] 自己強化(医術・武術等)、自然加工(道具・火等)、社会経済的発展
    [社会的欲求]自己主張・表現、社会的行動の意味づけ・制度化(祭礼・儀式、宗教・経済・政治)


 
感情は、欲求充足のための無意識的反応であるとともに行動の肯定的または否定的原動になる。
   感情は、肯定的、否定的、意志的感情に分類でき、その反応様式は記憶・学習・蓄積される。肯定・
  否定の対立的感情は、生存欲求の充足における選択・判断・価値観の基準となる。意志的感情は、
  欲求や感情の言語的意味づけと関わり、時空の広がり(または究極・永遠)への執着をともなう。詳細
肯定的感情

   [一般的感情] 快,満足,自由,安心,喜び,楽しみ,おかしさ,公正等、
   [社会的感情] 連帯,愛情,保護,優しさ,安全,解放,感謝等(利他的)
   [優越的感情] 優越,自信,自尊,勝利,所有,支配等(利己的)
否定的感情
   [一般的感情] 不快,空虚,不安,悲哀,恐怖,当惑,失望、疲労,不正等、
   [社会的感情] 孤独,憎悪,怨恨,怒り,嫉妬,閉塞,負債等(排他的)
   [劣等的感情] 劣等,不信,自虐,敗北,拘束,恥辱,罪悪等(自虐的)

意志的感情
   好奇,希望,期待,願望、意欲,信念,義務,正義,挑戦、祈り、退行等、
   (自己の意図や目的、欲求や希望を実現するか、実現したときの感情、充実感・達成感、祈り、感謝、
   または否定的な持続的感情。言語を持つ人間にもっとも特徴的で、好奇・疑問欲求等に起源をもつ)
 
言語、人間に固有の本質であって、人間の反応や行動から独立して、内的に情報処理(思考・記憶)可能な音声による信号(刺激)である。
言語は感情を刺激・抑制し、欲求を方向づけ、認知や思考の手段となって価値観や人生観・世界観を構成し、心と行動の枠組みをつくる。
欲求と感情は、心の生理的・動物的基盤(刺激反応性)であり、言語は意識的な心の想像・記憶・判断(情報処理)機能 をもつ。(情報処理の失敗は、人間の生存活動を疎外する)。
精神分析における意識(化)や自我・超自我は、言語的思考や意味づけによってはじめて成立する。
言語は、他の動物のような無意識的刺激反応性にもとづく単なる音声信号ではなく、主語・述語・目的語等による論理を記号化した音声信号である。それによって、人類は、情報処理の面で創造的構想力の飛躍的進歩を遂げた。 詳細言語とは 思考と言語 さらに詳細
 
 
【 「心の三要素」から見る強い心の条件 】⇒ 詳細
欲求追求の持続力と欲求不満耐性があること
②否定的感情が過敏でなく、意志的感情が言語的に強化されていること
③知的(言語的)情報処理能力とそれにもとづく欲求・感情のコントロール力があること
◇自分の心は自分でマインドコントロールしましょう 。心の正しい理解、正しい知識が、心を強くする条件となります。心についてもっと多くを知りましょう。それがあなたの心を自律させ強くする唯一の道です。
 
 「人間は問うものであるがゆえに話すものである。動物は問うことが
 できないゆえに語ることができない。」 
K.レービット「世界と世界史」
 ※これは正しくないかもしれない。正しくは「人間は話すものであるがゆえに問うものである。動物は語ることができないできないゆえに問うことができない。」であるが、問うことの重要性を述べている点では有効である。西洋的知性にとっては、アリストテレスのように、問うこと(知ること)が人間にとっての自然かもしれないが、「問い続けることができる」のは、言語の獲得による。
 
 
【 なぜ心の三要素が「知・情・意」ではなく、「欲・情・言」なのか 】
 心を「知・情・意」の三要素に分類するのは、ドイツ哲学からの輸入であるとして、日本では広く受け入れられています。とくに教育分野で、心における三者のバランスが、望ましい安定的な人格として求められることが多いようです。しかし、それぞれの要素が、脳科学から見て正しく理解されているのでしょうか。また、心を理解するのに、十分説明できると言えるでしょうか。

 心の要素を「知情意」すなわち知性、感情、意志の三要素(『広辞苑』の定義)で考えたときの不十分さは、「欲求」の欠落にあります。人の動因・動機の基本は欲求であり、「人間は欲に手足の生えたもの(欲のかたまり)」という常識的な俗説を無視しています。知情意の要素は、心を客観的に捉えるよりも、欲求を卑しいものとみなし、「調和的な心」を前提に考え分類されたもので、脳生理学的にも説明困難なものです。

 とくに「意志や意欲」についての心理学的な説明は、欲求を無視しては語れません。また知性は、低次の知力としては他の動物にもありますが、人間的な思考力や理性という高次の情報処理能力としては言語に由来するものです。感情についても、「他者への思いやり」のような徳性的側面での捉え方になっており、否定面も含めて心を正しく理解するものとはなっていません。単に道徳的な要請だけでは心の理解は困難です。

 それに対し生命言語説における「欲情言」すなわち欲求、感情、言語を心の三要素として捉えた場合、欲求・感情(情動)という動物的基礎の上に、人間的な言語を加えることによって、知性や意志に代わる客観的な脳科学的説明が可能になります。

 言語は一般に意思の伝達手段としてのみ捉えられがちですが、言語表現の法則(文法)に関わる創造的思考や高度な情報処理を成立させるきわめて人間的なものです。そればかりか言語は、生活世界を言語化(知性化)し、その刺激(言語は音声刺激としてだけでなく、知的刺激としても機能する)によって欲求や感情をも制御することができるのです。ものの見方や考え方、価値観などは、教育や試行錯誤によって経験的に学習されるとともに、言語化した知識によって自らの人生観や世界観を創るのです。

 また感情は、快・不快の反応によって接近・回避等の行動の方向性を決めますが、そればかりでなく、言語的・観念的目標(夢や希望、目的や信仰等)に対する反応として「意志や意欲」の感情を形成します。「~したい」「~するつもり」等の感情は、個体や種の存続欲求を越えた人間特有の感情です。詳しくは、「感情と行動」のページをご覧下さい。
 
 
 
【仏教の心と生命言語説――三毒と心の三要素】
 ――貪瞋痴と欲情言の関連と悟りへの道――
 仏教の始祖釈尊(ブッダ)は、悟りの道の実践的探求者であるとともに最高の心理学者でした。彼は弟子達に日常の修行についての教えを説きましたが、その中で人生苦の根本煩悩とされる「貪(ドン)瞋(シン)痴(チ)」(貪欲・怒り・無知)の三毒は、解脱(悟り)のために克服すべき否定的心の代表的状態でした。
 原始仏典である『ブッダのことば(スッタニパータ)』(中村元訳)ではこれを次のように表現しています。
 
  「74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。」(『ブッダのことば』中村元 訳)      ⇒⇒ここに続く
 
 
 
【心の形成と個性・人格――相互理解のために】
① 心は、欲求・感情・言語の三要素によって構成されている。
② 心は、言葉や行動(脈拍・発汗等生理的反応、表情を含む)にあらわれる。
③ 心は、内面を観察することができず、外面で欺くことができる。
④ 心は、遺伝と環境によって形成され、知的自覚によって変容できる。
⑤ 心は、個人の行動様式を規定する個性や人格の本質である。
⑥ 心は、欲求や感情反応の強弱・敏鈍・粘淡等の遺伝的要素による個性をもち、その個性は環境や教育の習得的要素によって拡大または縮小する。   ⇒⇒続く

 
 ◇ 自分の心を知ろう ― 心の探究は楽しい ―
  <心の構造> <心の三要素> 
  心のしくみは、次の3つの要素でできています。
  生きたい、生き続けたいという生命共通の欲求
  好きか嫌いか、快か不快か、良いか悪いかという選択の感情
  そして、欲求と感情に意味づけし、行動を方向付ける人間特有の言葉
   これら3つの要素を、あなたの心の中に発見してください
  そして、あなた自身の人生の意味と
  あなたにつながるすべての人々の人生への思いを感じてください。


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 ◇動物の心、人間の心      (以下は『人間存在論』の一部です)

 心の定義とその解明については研究者が様々に試みている。動物と人間の両者において「心」とは、外界の刺激を受容(認知)し、内的外的に反応・行動する過程における大脳中枢の内的過程である。我々は、人間の「心」を英語のdesir(欲求), will(意志). emotion(情動), feeling(感情), sentiment(情感), intelligence(知性), mind(精神), mentality(知力), reason(理性)を含む広い概念と捉える。これに対して、動物は人間の心を特徴づける言語的抑制(自己抑制)によってもたらされるwillやsentiment、 mentalityや reason を欠いている。

動物 : 個体⇨ 欲求(情動)感情⇨(学習経験)⇨ 直示的刺激反応性
 前にも引用したように、チンパンジーは、直接的刺激(例えばキャンディーの量)に動かされると、少量で多量を得るというような反語的な洞察ができない。「欲しいものに完全に目を奪われて、いわばその場面から一歩下がって、現実の文脈の下に欲望を抑えることができない」(ディーコン,T,W 1999 p486)のである。


人間 : 個体⇨ 欲求(情動)感情⇨(学習経験)⇨知的創造・願望⇨ 内的刺激反応性
 人間の心は、言語の介在によって直接的に欲求や環境の刺激がなくても、心の中(脳内)に一定のイメージ・状況を思い描き(言語操作・思考・想像)、そのイメージを実現しようとすることができる。

言語による知的好奇心(欲求)と疑問の解明・知的再構成(文法の生得性の根源)
「現代のヒトがミステリー、科学的発見、パズル、ユーモアをどんなに好むか、そしてそれを解決したときの快感を考えてみよう。アルキメデスが『ユーレカ!』[われ発見せり]と叫んで裸で街に駆けだしたという話は、真偽はともかく、この体験をよく捉えている。そのような洞察を得たときのポジティブな情動は、ただの認知的行為以上のものがある。当たり前のことを再符号化することに内在する喜びは、思考をそのようにバイアスする適応の重要な強化である。」(ディーコン,T,W.邦訳 p495) 欲求の充足には快的感情が伴う。知的好奇心は言語(符号)化されて疑問文の形式(what, how, why 等)で表される。その疑問解明の形式が文生成(知的再構成・創造)の法則である。従って、文(言語活動)には欲求や感情が含まれるが、同時にそれが人間の観念的・創造的活動であり、行動を方向付け、コントロールすることになる。

 
 情動(感情)の捉え方(分類)

 感情心理学者D.エヴァンズ(Evanz)は、情動(emotion)を基本情動と高次認知的情動に分類している(エヴァンズ,D.『感情emotion』遠藤訳 2005 岩波書店)。すなわち人類に普遍的で生得的な基本情動として「喜び、悲痛、怒り、恐れ、驚き、嫌悪」と、普遍的であるが、文化的差異があり社会的に形成されてくる高次認知的情動として「愛、罪悪感、恥、てれ・決まり悪さ、誇り、羨み、嫉妬」である。我々は前編において情動と感情を区別したが、現代感情心理学では両者を区別し分類する観点が定着しておらず、エヴァンズにおいてもemotion, passion, sentiment, feeling, mood, を”emotion”の一語で片づけようとしている。
 それに対し我々は、欲求の分類(『人間存在論前編』p81)と関連づけて情動と感情を区別し、「感情は,内的外的変化に対する大脳皮質的反応で,情動的起源をもち,感情が高揚すると情動反応(身体的生理的反応)を誘発する。感情は意志や意欲・思考などの大脳前頭連合野の機能により,情動よりも持続的な反応である。(『前編』p102)と定義づけることによって、情動と感情の複雑さを整理することができた。例えば情動を感情から分離することによって、感情を「肯定的」「否定的」「意志的」感情に3分し、東西思想の根本的相異について明らかにすることができた。
 エヴァンズの長所は、ダーウィンの著作を踏まえて「情動表出の進化」という観点によって説明しようとしたことである。例えば猫が恐れで毛を逆立てることと人間の同様の判断は説明できるが、「なぜ悲痛なときに泣くのか」は説明できない。

 情動に対する我々にとっての関心事は、情動のコントロールが言語の理解によってより可能になるということである。

<言語は認識(思考)の手段であるだけでなく,行動(情動・表現)の一形態でもある。>
 西洋哲学は人間の言語的認識をどのように解釈するかの歴史であった。世界の存在に完全性を求める哲学者は,言語を相対化することができず,言語的認識によって観念的な完全な世界を創造し,それらの根源に神を想定した。しかし世界が変化そのものであり,不変なるものは人間の創造であることを感じとった哲学者は,言語を名辞として相対化し,哲学の対象としようとした。前者は観念論の系譜に入り,後者は経験論または唯物論の系譜にいれることができる。

<知覚や行動と分離した概念的思考>
言語は音声信号と,意味・概念とから成立している。類人猿に概念操作はない。それは信号刺激とその概念意味を分離できないからである。類人猿には信号の意味は存在しても,それを知覚や行動と分離して,意味(概念・情報)のみを操作・処理できないからである。人間固有の思考は概念自体が処理されるのではなく,信号操作によって概念(意味・情報内容)が創造的に処理されるのである。
 
 
◇メンタルモデル論と心の構造──言語的思考と論理 ジョンソン=レアード

 認知心理学者のジョンソン=レアード(Johnson-Laird,P.1983)は、
人間が物事の理解のために、頭の中で経験的につくるイメージや観念(概念・知識)を「メンタルモデル(mental model)」と名づけた。人間は、すでに獲得されたこのメンタルモデルを用いて新たな問題解決や物事の理解(推論・演繹=deduction)を促進するこの考え方は、イメージや観念よりも、「心(頭)の中」にあるモデル(模範的な型)を基準にするという意味で、説明的で理解しやすいため、経営学やデザインの研修や学習によく使われている。
 
 しかし、人間の認知や判断の本質、とりわけ言語的思考や認知・判断とその動機となる欲求・感情との関係については言及されていない。そこで思考・推論・論理の過程や構造、成立根拠を明らかにするために、我々の「生命言語説」の概略を提示し、彼の批判する「心理論理説」と彼の自説である「メンタルモデル説」を著書『メンタルモデル』(1983)によって比較する。

【生命言語説の論理】論理の根源を中心にまとめる(我々の立場)
①生命存続にとって有用か否か、安全か危険かの認知・判断が、欲求充足と刺激反応性の原則に基づいて行われる。これらの原則は、生命存続を目的とした論理的整合性のもとに認知・判断(問題解決)される。例えば、「若草が空腹を満たす」「どの草が美味しいか」「その場所は安全か」等々である。(すべての動物)
 
②認知対象の運動・質量・構造等(何が、どうあるか)の認知が中枢神経で処理され、その結果が学習・記憶される。例えば、「獲物はどこに現れるか」「ねらいやすい獲物はどれか」「危険性はどの程度あるか」「仲間との関係をどうとるか」等々の課題解決が可能となる。(発達した中枢神経をもつ動物)
 
認知対象の関係性──空間・時間(どこに、いつ)、因果・縁起(なぜ)等が認知され、高度な対象理解や課題解決ができる。例、「わなを逃れて餌をとるのはどうするか?」「檻の入り口をどうして開けるか?」「ボスを騙して彼女に近づくには?」(高等哺乳動物)
 
言語による対象の再構成と創造的論理・課題解決──対象(事実と想像)の言語記号化と状態の表現・叙述、主体の判断・意図の表現・伝達→→言語的思考・推論・論理・文法の成立(何をどのようにwhat, how推論・表現・課題解決するか
 
⑤上記①②③は動物における直観的・直接的認知(論理の基礎)、④は人間に特有の言語的思考で、脳内に記憶された対象(情報)や想像的対象について認知・推論・論理構成が可能になる(創造的思考・論理)。
 
⑥人間の心(mind)は、表象やイメージを伴う言語記号の論理的操作だけでなく、欲求や感情、直観的認知や判断(暗黙の推論)を含む。論理的操作の推進力は、欲求や感情を動機とする問題意識と課題解決欲求(好奇欲求、合理化欲求、安定欲求)である。「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」(アリストテレス『形而上学』)

【心理論理(mental logic)説】ジョンソン=レアードによる説明
・「心の中に論理が存在する
・「推論は命題論理(propositional calculus)である」(ピアジェ)
・「人間は合理的思考ができる」
・「思考の法則は論理の法則そのものである」
・「言語(文法)を学ぶことは論理を学ぶことである。」
・「子どもは自分の行動を内面化(心的操作)することで命題的思考を習得する。」(ピアジェ)「意識的思考は合理的である。」
・「形式論理(三段論法を含む)では、演繹が正しいのは内容ではなく形式による。」
・「子供たちは言語の形で正い推論に出会う。そして、彼らは文法的な規則を獲得するのと同じ方法で、それらから推論規則を抽象化する。」(学習理論)

※→レアードの批判:実際のところは、大人は一貫した論理的思考を人前で見せることはない。そのため、学習理論では、子供は正しい推論とまちがった推論を区別することができると仮定していることになる。しかし、どのようにして論理が心の中に形成されるのか、我々の論理機構は生得的なのか、説明されていない。
 また、ピアジェは、子供は自分自身の行動を内面化し、そしてそれを内省することによって論理を構成すると主張した。そして、命題的思考を習得するのは、この内省過程により生じる心的操作から発生してくるとする。ピアジェの成果には優れた点も多いが,彼は,実行可能な手続きを構成するという立場から発達プロセスを述べることはなかった。
 結論として、放棄すべきなのは、「人は合理的思考をする能力がある」という命題ではなく、「思考能力の根底にあるのは心理論理である」という考えである。論理がなくても妥当な推論がありうる。一度思い切って推論の心的規則について考察するのを止めると,推論の心理学をもっとよく理解することができる。そして、ヒューリスティク(発見的)な原則が必然的に導出できる新しい推論機構(メンタルモデル)の理論を発展させることができる。

※→ 生命言語説からの批判レアードの指摘は正しいが、思考・推論・論理の成立における生物学的根拠が欠如している。論理の生得性を問うよりも、まず人間以外の動物の認知と行動における論理性を追求するべきである。動物の認知と行動の様式には、すでに生存のための合理的・適応的な認知と思考・推論の形式(論理)が含まれている。人間の言語はそれらの過程と形式を言語化(文法化)し、記号情報として表出することによって、欲求や感情から独立的に情報(言語・記号)処理できるようになった。しかし、欲求や感情からの独立は可能的なものであり、数理論理学でさえ欲求や感情の影響なしに成立しなかったであろう。コンピュータには欲求も感情も必要はないが、そのソフトをプログラミングし操作する人間には、欲求と感情が生起して初めて有効な働きをする。


【メンタルモデル(mental model)説】ジョンソン=レアードの説

①心理学者が見落としている(形式論理に見られない)「暗黙の推論」は、代名詞のように「ただ一つのメンタルモデルを形成する仕組みからメカニズムが成り立っている。・・・・このため推論処理は、非常に高速に行うことができる。」また「この推論は自動的に働くものである。」(1988 p150 下線は引用者による。以下同じ)
 
②「形式的、ないし構文論的観点から見ると、論理とは、推論規則の集合もしくは推論図式によって前提から結論を形式的に導出するものである。しかし、メンタルモデルに基づいた明示的な推論なら、推論規則や形式的な道具立てを用いる必要がない。」(p153)
 
③「自然言語は非常に強力で、形式的な推論規則では完全に包含できない暗黙の『論理』を記述できる。」(p165)
 
④「子供は最初に表現の真理条件を学習する。つまり結合子[そして等]や限量詞[多少等]などが真理条件に、どのように関与するかについて学習する。そしてさらに、言語についての知識を獲得して初めて、ことばで表現した推論ができるようになる。」(p170)
 
⑤「メンタルモデルを用いて前提を解釈するという方法によって、強力な表象システムが得られる。このため、メンタルモデルの理論は、自然言語によって展開される議論のすべてとは言わないが、そのほとんどを扱うことができるまでに拡張できる。」(p170)

 まず、上記の【生命言語説の論理】でも述べたように、刺激反応性による欲求充足の過程は、十分に論理的である。例えば、欲求Dは、刺激Sによって反応Rを引き起こす(D→S=R)。また刺激Sは、反応Rを引き起こすことによって欲求Dをもたらす(S→R=D)。欲求が直ちに充足されない状況では、危険が迫ればその危険についての、的確な認知が必要であるが、その場合も「何が危険であるか、どのように危険に対処するべきか」の論理的認知(推論)過程が必要になる。また食餌の探索・獲得では食料のありかや、獲得方法についての直知的直感的洞察が必要となる。これはあらゆる欲求充足過程において見られることであり、このような生存における問題解決の過程こそが、人間の言語的認知・思考と推論・論理の背景にあるのである。
 ①の引用では「暗黙の推論」は、中枢の発達した高等動物にも見られるが、類人猿では、ボスや仲間に対するグルーミングによる接近・親和行為などは、生理的欲求とともに暗黙の推論が働いていると思われる。また、②の引用における「明示的推論」も、類人猿に見られる「欺き行為のような高度な戦術は、反射的・本能的な行動というよりも、相手の様子をうかがいながら慎重に行われているという報告を勘案すれば、②の定義から、言語は用いないが比喩的な意味で明示的な推論ということができる。
 動物との比較で、論理学上の真理条件について述べれば、④に述べているように人間の子供は幼少期に表現上(言語に限らない)の真理条件をゲーム等を通じて学習するが、高等動物も模倣・学習によって真理条件を獲得する。自然の脅威の本質や、天敵や仲間の行動の真ねらいを見抜いて、個体の欲求を実現し安全を維持することは認知能力の進化の要件である。真理の追究(真理条件)とは、事実を認知し対象の運動原理・意図・目的を的確に把握し、現象に潜む虚偽にだまされないことである。
 
ジョンソン=レアードが、旧来の論理学の欠陥を見抜き「言明は、それが実世界に対応していれば真であり、対応していなければ偽である。」(1988 p514)として、③のように自然言語の意義を評価し、フレーゲを次のように批判したことは人間言語の意義を理解する上で大きな貢献になるだろう。すなわち、「フレーゲは、命題の真理条件とそのことに気づく心的な過程との区別をする努力を重ねたにもかかわらず、プラトンのイデアの呪縛から逃れられなかったのは皮肉である」(1988 p522)と。
 ただし、ジョンソン=レアードにおいては、自然言語の論理性の根源とその効用が言及されていない。言語をもたない類人猿は、直接的知覚対象(刺激)が、現前しない限り推論・思考は起こらない。類人猿は高度な思考能力を持つが、記憶されたメンタルモデル自体によって推論することができない。イメージや表象(メンタルモデル)による推論・思考は、言語記号による操作・推論によって初めて可能になる。
 
学習・記憶されたメンタルモデル(表象)は、言語記号や直接知覚による刺激がなければ操作・推論できない。人間は内的言語記号の刺激によって、直接的刺激がなくても頭脳の中だけで対象を想起し、思考・推論することができる。言語記号(刺激)は、本質的に経験的に獲得されるものであり、その経験・学習の過程で欲求や感情、イメージや表象と結合している。 
 
 ジョンソン=レアードの「メンタルモデル説」による心理論理説批判は正当なものであるが、それは西洋の観念的論理学の批判ではあっても、真の認知理論、ないし認知論理学を構築したことにはならない。むしろ「メンタルモデル」という表現は、心の構造から心の動機(動因)としての欲求や感情を排除するという誤解を招き、言語の人間的本質を隠蔽するのに役立っている。彼は言語によって構成・表現される命題(文)を、形式論理の枠組みに限定して、メンタルモデルこそが文脈や背景知識を反映していると主張する。しかしそれは誤りである。言語表現(単語・文)は、それ自体に発話の背景や文脈を含んでいる自然言語を基本に考えなければならない。彼は談話(発話文)におけるメンタルモデルの役割を強調するため、その形成と解釈のプロセスを検討して、次のように述べている。

「談話の理解のためには三つのレベルの表現が必要である。一つは、発話の音(文字)を記号化した音素(文字)表現、二つは、発話の表現に近い内容をもつ命題表現、そして、三つ目がメンタルモデルである。メンタルモデルは発話文の表象する命題の真偽に基づいて形成される。・・・文の意味は、合成原理に従えば、文中の単語の意味とそれらの間の構文的な関係によって定まる。
 
 しかし、意味は言語知識を単に反映する抽象物にすぎない。発話の情報内容は意味を越えたものであり、指示対象を決定し、話し手の意図を見いだした後に得られるものである。したがって、文で表現された命題の真偽は、文の意味と(現在のメンタルモデルで表現された)発話の文脈と背景知識に基づく暗黙的な推論とによって決まる。」(『メンタルモデル』邦訳 p481下線は引用者)

 この引用は、メンタルモデルこそが命題(発話・文)の真偽を決めるものであり、発話(言語表現)した限りでの文(命題)の意味は、単なる言語知識の抽象物であって発話の情報内容や意図は表現されず、真偽も明らかではないとしている。しかし、単語や文の意味は単に対象の表示や論理的な記号の羅列なのではなく、その言語を獲得した話者の経験やイメージのすべてが含まれており、またその言語の使用ごとに意識的無意識的な疑問解明(暗黙的な推論)によって経験的に豊かにされ更新されている
 
従って、「メンタルモデル」として特別扱いされるような「発話の文脈と背景知識に基づく暗黙的な推論」は、すでに言語表現の中に含まれており、言語概念の心的内容や意味を、「表象」や「イメージ」「観念」等で表現することに問題はない。むしろ言語によって構成された命題や発話を、「メンタルモデル」という概念によって隠蔽してしまうというところに問題がある。
 その問題は上記引用(p481)において「談話の理解のためには三つのレベルの表現が必要」として、言語表現を音素と命題に分解し、表現し伝達しようとする意味内容をすべて「メンタルモデル」に含めてしまおうとしていることでも分かる。本来モデル(model)とは「小さな尺度・方式」を意味し、高度に人間的言語的な模範・原型となるべきものであり、言語的構想力なくして説明できないものである。
 
ではなぜジョンソン=レアードが、「メンタルモデル」を人間の認知と思考の中心概念とせざるを得なかったのか。それは西洋的論理学の限界を自覚していたものの、言語の謎を解明することがなかったためである。例えば、彼は知覚の対象とその概念化(言語化・モデル化)の関係を理解できずに次のように述べている。

「知覚と概念化とを明確に区別することは難しい。しかし、知覚は、動的で距離の入った3次元のモデルであると考えられる。」(『メンタルモデル』邦訳 p497)

 人間における莫大な量の知覚(記憶された知覚情報)は、通常はまったく概念化されることなく大脳中枢にイメージ・表象・観念として記憶・蓄積される。人間は動物と同じように学習し記憶されたイメージを伴って、知覚される環境の中で日常的に道路を歩き、食糧を求め仲間と共に行動し生活している。動物的な知覚(対象・情報)と
言語による人間特有の概念化は明確に区別することができる。人間は知覚し記憶された知覚(対象・情報)を、興味や関心、欲求や目的に従って「ヒバリ、ダチョウ、鳥等々」のように概念化して、初めて知覚対象を世界の中に位置づけ、内的に操作可能な情報とすることができる。
 知覚した情報(イメージや表象)は、直観的思考や絵画・作曲のように概念化しなくても頭の中で操作(想像や再構成・創造)できると考えるかも知れない。確かに、イメージやそれに伴う感情を厳密に概念化することは、自然とそれに伴う感情を概念化するのと同じように困難である。またその豊かさを表現するのが芸術や文学であると言える。それでは言語記号を用いないイメージ思考(直観やひらめきを含む)の存在を実験的に検証することはできるのだろうか。
 
言語的世界に生きている人間には、心から言語を排除した認識(思考)過程の検証は困難ではないだろうか。おそらく、「知覚と概念化の区別」はできるが、イメージ的思考が中断することになれば言語(概念)が介在せざるを得ないであろう人間の問題解決(思考)能力や創造的能力は、言語の獲得によって初めて可能になったのだから。
 さらに概念的思考能力に検討を加えれば、知覚された個々の対象は、それぞれ異なる固有名詞や抽象名詞で概念化しなくても、「これ、それ、あれ、どれ」という言語記号(指示または疑問代名詞)によって、その場しのぎではあっても概念化している。例えば、我が家を新築する場合、その設計構想は、屋根、窓、居間、台所等の概念を(失念して)用いなくとも、頭の中でイメージを描き組み立てることはできるであろう。意思の伝達であっても対象を共有できる(同じ対象を区別して理解し合える)ならば、「こそあど」の代名詞で、意思疎通も可能である。記憶された知覚を自己の内部で情報操作する場合はおおくの場合「こそあど」代名詞で可能である。
 
「こそあど」は「概念」ではないと言うこともできるが、「これをあれする」のような論理も、これやあれの内容を文脈や背景によって理解し合えることもできるし、対象を指示する記号である限り、概念であり言語記号として存在する。代名詞は曖昧であっても概念を構成する。ソシュールも言語の恣意性について指摘している。知覚は膨大であるが、代名詞による知覚(対象)の操作には、混乱が大きくならない限り、特定の記号を当てる必要はない。しかし知的操作や推論が停滞した場合には(絵画や作曲の場合であっても)、思考や創造的能力を発揮するためには、必ず概念・言語が必要になる。
 最後に、ジョンソン=レアードの「メンタルモデル理論」の限界を指摘しておきたい。
それは彼が指摘する意識の様相の説明不能性と、心をオートマトン(自動装置)として扱うという2点についてである。

「意識には、霊性,道徳性,空想性などの様相があり,それらはコンピュータ・プログラムでモデル化することはできない。しかし、これらの機能は、どのみち永遠に説明不能である。科学的な理論においては、心をオートマトンとして扱わざるをえない。このことは決して無意味化や非人間化ではなく,計算可能性に関する科学的な理論からの直接的な帰結である。」(同上 p561)

 まず一つには、意識の霊性、道徳性、空想性が永遠に説明不能であるということについて、否、科学的に説明可能であると言いたい。彼にとって説明不能であるというのは、彼自身が説明しようとする意図・意欲や説明の見通しを持てないからである。その理由は彼の人間観が、西洋的合理主義の限界の中で、言語を相対化したり、欲求や感情についての心理学的理解が不足しているためである。意識をコンピュータプログラミングできないことはそのとおりであり、その点だけの言及で止めるべきであった。ではどのように説明するのか、それは生命言語論にもとづいて本書全体で解明することになる。
 次いで二つには、心はオートマトンとしては扱えないということである。それは心の概念から、上記の意識における霊性、道徳性、空想性を排除したことからも説明できる。心は霊性等を除外することはもちろん、欲求や感情等も除外することはできない。オートマトン(automaton)とは、本来自動機械を指すが、コンピュータ用語として『広辞苑』には次のように説明されている。「コンピュータをはじめとする種々の計算機構の数学的モデルの総称。入力と出力を結ぶ有限個の内部状態を考え、入力により内部状態が変わり、出力は内部状態の関数として定まる。」
 
 この説明によれば、内部状態に霊性等や欲求・感情を設定すればオートマトンとして扱えることになる。しかし彼によれば、霊性等は「永遠に説明不能」であり、心の重要機能としての欲求や感情については検討もされていないから、心の「計算可能性」は扱えるとしても、科学的理論としては偏狭であるし、結果として心を非人間化することにならざるを得ないのである。
 彼は『メンタルモデル』冒頭のプロローグにおいて内観により言語や思考の規則を知ることができないのはなぜか」「論理学を学んでいなくとも、正しい推論を行えるのはなぜなのだろうか」等の9の設問を設け、その問の解明を通じて「人間知性の本質」についての手がかりが与えられると述べた。そして解明の基盤として、「人は世界についてのメンタルモデルを形成しているということ、そして、暗黙的な心的過程によってそれを行っている」(邦訳 p10)と述べている。しかし、彼の理論は西洋思想の限界を超える優れた視点はあるものの、決定的な限界がある。それは我々が本章において理論化している動物的知性(思考)と生命言語論を基盤とする人間知性の比較の欠如である。
 
 人間の思考や推論の仕方を内観すれば分かるように、我々は思考や推論が行き詰まると必ず「何?」「どうしたのか?」「なぜ?」「いつどこで?」等々のような言語的な問を発する。思考や推論はこれらの問の解明である。そして、思考や推論は、言語記号が意味している対象(動物では知覚的対象、人間では創造的、抽象的対象を含む)のイメージや表象が随伴しており、また同時に言語記号がそれらの対象を論理的に構成している。つまり人間の心の論理は、単に言語記号の形式的な組み合わせなのではなく、またメンタルモデルのような暗黙の心的過程があるのでもない。
 
それは生命(動物)の維持存続という明確な目的を持った生存様式、すなわち刺激(環境)を的確に認知し適応的行動を学習・思考・判断する生理的心理的過程に、言語記号による情報処理(問題解決)過程を追加発展させた様式なのである
彼はコンピュータや自己の理論の限界を自覚していたと思われるが、人間の心の構造を生物学的に探求する方法論をもたなかった。そのため、「メンタルモデル」という概念でブラックボックスを作り、言語や推論・意識を解明したことにせざるを得なかった。しかし、メンタルモデルという便利な用語で人間の心の構造や言語的推論の過程を説明するべきではない。
 
人間の心は、生命の根源につながる深遠ではあるが明確な論理をもつ。その論理は、高等動物共通の欲求や感情を基礎に、人間の本質である言語的情報処理能力具現化し、その神妙な創造的・制御的能力によって認知と思考・判断の内的(神経中枢的)過程と行動・表現の外的過程を創り出すのである。




<ヤーデンフォシュ 『 ヒトはいかにして知恵者となったのか─思考の進化論 』>
 外からの刺激に脳(神経系)が反応するとき,独特のパターンを持つささやかな発火(発電)や伝達物質の放出が次々と発生する。これらの活動はほとんど電流と科学物質である。この活動がある場所のあるモジュールで起こると,それが引き金となって,他のモジュールに伝達され脳の内部環境が変化すると,その変化がさらに他のモジュールに変化を引き起こす。こうしてフィードバックの環がつながっていく。このように思考を神経生理学的な過程として捉え,さらに言語の役割を考えることが必要である。

 スウェーデンの認知科学者P.ヤーデンフォシュは『ヒトはいかにして知恵者(サピエンス)となったのか─思考の進化論』において次のように述べている。

本書の主たる論点は、内的世界の誕生がより高度な思考の出現を可能にしてきた①というものである。計画立案、自己意識、自由意志、言語といったより高度な認知能力は、そうした内面世界を前提としている。思考の発達の過程で、人間は現在の周囲の状況から非常に高度に独立することができた。脳の活動は感覚からの直接的支配から分離するようになった。思考は自らの道に飛び立ったのである。②」(邦訳p352-353下線は引用者)

 上記の引用で、下線②の部分は正しいが、①は正しくない。それは彼が、内的世界の誕生をもたらす「想像の力がすべての高等な思考過程の発達にとって、あらゆる点で決定的」(邦訳p77)であり、言語等の高度な認知能力の「前提」になっているという点である。つまり、想像力による「内的世界のシュミレータ」が言語誕生の条件であるという。
 
 彼は、人間の言語や記号を理解する高度な能力を持つボノボを例示して「内面世界がなければ、進化の過程で、計画したり、欺いたり、自己意識や自由意志や言語をもったりすることができるような思考のシステムを構築させえなかった」(同上p93)というが、類人猿に可能な「計画や欺き」と、人間の「自己意識や自由意志や言語」の違いの大きさをまったく理解していない。
 
彼の「内的世界」についての説明は必ずしも明確ではないが、それが言語誕生の前提であるというのは「思考の進化論(on the evolution of thinking)」という著書の副題にはふさわしくない。人間にとって思考の進化は、言語の成立によって飛躍的に高度化し、同時に内面的世界が豊かに発達してきた。言語と思考と進化の関係を実証的に明らかにすることは困難であるけれども(石器と火を使用した原人は言語を使っていたとされている)、彼の次の主張は決定的な誤りがある。

「人類の思考構造のほとんどは、話すことを始めるずっと前から進化に登場していた。言語はただ思考というケーキのころもにすぎない。」(同上p231)
「人間が言語を持ち、他の動物が持たない最大の理由は、我々の方は高度に発達した内面世界を持っているということだ。」(同上p258)

 何が誤りか、すでにお気づきであろう。言語信号(発声)は単なる反射的反応をもたらす音声(警戒や求愛等の発声)ではなく、
話者が言語信号の意味を確定して発語し、聴者がその意味を理解するために判断・思考を必要とし、また、言語信号に対する意味・概念・表象・イメージの情報処理(思考・想像)において、始めて人間的内面世界の豊かさが成立する。
 
その意味で言語は、人間の思考というケーキの生地そのものといえるのである。また、後者の引用においては、言語が直立歩行によって喉の構造が変化し多様な発声が可能になったという実証的な観点からしても、人間の「高度に発達した内面世界」が言語を持つ理由とはならない。化石人類の内面世界は、化石の人類学的考察や打製石器の制作・使用方法、火の活用法、埋葬や壁画等を通じて想像するほかない。不明確な「内面世界」や「心の理論」によって、人間言語の本質的重要性を矮小化すべきではない。そこで次に「心の理論」の提唱者の一人であるプレマック,D.(Premack, David 1925~)の主張を検討してみよう。
 


「心の理論」プレマック

 プレマックは、「心の理論 Theory of Mind」という概念によって、チンパンジーには「他者の心の状態」を理解することができるが、ヒトでは約4才以上にならないとこの能力は発揮できないと主張する。「心の理論」とは、他者の心の動きを類推したり、他者が自分とは違う信念を持っているということを理解し説明する機能のことである。自閉症児は「心の理論」が十分機能していないため、社会性が欠如した自己中心的行動を取ってしまうとされる。
 彼は、チンパンジーと幼児の巧妙な心理実験によって、すぐれた人間の認知発達の構造を解明しているにもかかわらず、その成果を「チンパンジーは心の理論をもつか?"Does the chimpanzee have a theory of mind? " 」(1978)という「挑発的な問」(Perner, J 1991)で発表して論議となった。彼は類人猿の心(mind)が、人間の「心」と類似している点を強調しているが、両者の違いの理解すなわち言語使用の意義の理解が不十分なため、人間理解・言語理解・心理解そのものを誤らすことになった。
 彼が「言語や会話能力は『心の理論』を持つための必要条件ではない」、というのは彼の心概念(類人猿にも心があるという考え)からすれば正しい。しかし、「言語を、人の心の興味深い特性のすべてを支える源と見なす傾向」に「同意しない」というのは正しくない。ヒトは類人猿と共通の祖先を持ち、遺伝子的にもきわめて近い関係にあるため、共通の刺激認知と反応行動の様式を持つのは当然の前提である。しかしそれにもまして言語が、認知や行動に及ぼす影響は大きいのである。

 類人猿の安全・食餌・異性等への生理的欲求、眼耳鼻等五感の知覚能力,喜怒哀楽の情動・感情は、ヒトとほとんど同じであり。共感的な交流も可能である。決定的な違いは、直立歩行に伴う自由な手と大脳の発達、そして決定的なのは言語である。なぜ言語を持つことが人間と類人猿の決定的な違いを生み出すのか。それは動物生命の基本的生存様式(刺激反応性)の進化によって、刺激反応的な神経系の情報処理能力だけでなく、音声言語による創造的情報処理(認知と思考)能力の発達により、自然の運動法則を知り、知的再構成をする(知的誤解もあったが)ことよって、自然と社会を支配し自己を制御する能力を獲得しことによる。
 しかし、言語能力に対する彼の理解は、きわめて限定的である。例えば彼は人間の言語の特性を次のように述べている。

「言語は、様々な方法で数々の能力を拡大する。そのうち最も明らかなことは、自らの持つ能力をよりはっきりと自覚させることである。それにより、人はその能力をより効果的なやり方で利用することができる」(『「チンパンジーは心の理論を持つか?」再考』邦訳 p177)

 この人間観・言語観は、彼が「自らの持つ能力をよりはっきりと自覚させること」と言いながら、実は自分自身についてよく知らないことを示している。彼は人間が、なぜ「能力を拡大」できたのかについて分析できない。言語を用いることによる能力の拡大は、人間の「心mind」を、大きく変えた。その言語能力は、単に意思伝達能力の向上だけでなく、言語表現をより的確にするための認識能力をも変えた。また大脳の増大と共に、情報記憶能力、情報操作能力、情報創造能力、自己(感情)抑制能力を、飛躍的に向上させたのである。
 しかし彼自身も当初の「心の理論」の実験の限界を修正して次のように述べている。

「もしチンパンジーが心の理論を持っていたとしても、それはヒトの持つ心の理論よりも弱いものである。これまで、チンパンジーがもっとも示しそうな心的状態は、感覚的状態――見る、欲する、期待する――であることを見てきた。信念となるとずっと疑わしい。とくに進んだ形のものではそうだが、情報の信頼性に関するより弱いものについてすら似たようなものである。自分自身が示すことのできない心的状態を他者に帰属することはありえないだろう。したがって、チンパンジーが帰属できる唯一の心的状態は――もし、何らかを帰属できるとしたら――それは単純なもの、つまり見る、欲する、期待する、だと思われる。」(同上 p197)

 プレマックの「心の理解」は、他人の心の理解というより質問(実験)者の論理の理解である。他人の心は厳密な確認の必要がある場合もあれば、当て推量に探す場合もある。例えば「誤った信念の実験(誤信課題)」(p237)では、置かれたチョコレートの場所を知っているMが、置く場所を変えられた場合、変えられたことを知っている約4才以下の幼少の子どもは、「Mはどこにチョコレートをとりにいくかな?」と問われた場合、MがM自身の知っている場所ではなく、現在置かれている場所に取りに行くと答える。つまりMの心の中(メタ表象)を知らないとされる。しかしチンパンジーは実験者の意図を察知し、このような実験に正解しため「他者の心の状態がわかる」とされる。この実験における人間の幼児への問いかけは一種のトリックであり、質問の意味を理解できるかどうかの問題である。人間への論理的な質問と、チンパンジーへの知覚的な実験とを単純に比較することはできない。
 
 子どもへの質問は難しい。論理自体が理解できるかどうかの問題であって、心の問題を矮小化している。これは実験を設定する研究者に見られる一般的傾向であって言語や心、人間自体に対する一面的理解に基づいている。
心は本来論理や知覚だけの問題ではなく、喜怒哀楽の感情や情動、欲求や願望を含むものであって、人間と動物の同一性と異質性を共に綿密に検討して「心mind」という概念を使用するべきものである。
また、プレマックが類人猿に用いたプラスチック語(彩片語)は、コンピュータによる図形記号と同じく視覚的操作を前提とする実験である。視覚的図形による知的操作と、音声記号による言語操作とは本質的に異質なものであり、言語や心の問題を考える場合には、言語の特殊性こそが人間存在とは何かを明らかにする。(プレマック, D.and A.『心の発生と進化 : チンパンジー、赤ちゃん、ヒト』邦訳 2005)

「心の理論」という概念について
 「心の理論」という概念は、英語表現the theory of mindと日本語訳の双方において不幸な概念である。まず英語表現においてはmind は動詞としての①注意する、②心配するという他者への思いを含みながら、名詞としては知力・知性・記憶等の知的側面と意向・意図・気持等の意志を的側面を概念化している。まずこの用語の創始者プレマックは、mind という人間的な概念を類人猿に適用しようとする。類人猿(だけでなく他の動物も)がmind を持つのは当然であるが、それはヒトのmind とは基本的に異なる。

 類人猿が人間を含む他者理解をする場合は、他者との関係が知覚的、直感的で単純な場合に限られる。たとえばチンパンジーのボスは、常に集団の力関係に注意を払うが、それは緊張した力関係が生じている場合(状況)に限られる。しかし人間は直接的な緊張関係が生じていなくても、直接的知覚的脅威や緊張がなくても、そのような状況を想定し、力関係に配慮し理屈付けをして制度的な仕組みを作っているたとえば利害の調整のために、市場や警察、裁判所等の社会制度によって、力関係が理論的に制度化され抑制されるが、類人猿はあからさまな肉体的暴力的力関係で調整する。
 そこにはマキャベリ的洞察も含まれるが、基本的に状況に応じた直接的反応行動に限られる。人間は実験動物を操作・制御・支配できるが、動物にはそれはできない。たまに塀を跳び越え鍵を盗んでケージから逃亡することはあってもである。敵の行動の意図や狙いを見破り、集団内での有利な立場を維持するための「知性」(洞察力・判断力)を持つことは生存のための必然的適応的進化の所産である。
 


『心の先史時代』 スティーヴン・ミズン

 心の世界へ新たな扉を開けようとしたミズン(Mithen,Steven )は、先史時代の人類は何を見、何を考えていたのか、また人間はなぜ文化をもったのかを、心のシステムを解明する進化心理学と認知考古学の最新データを駆使して研究した考古学者である。人類は600万年前に進化の系統樹から猿と分かれ「心」を進化させた。文字や石器の登場以前の先史時代に、人類はその心で何を見て、何を考えていたのだろうか。彼は言う。

 「人間の心は進化の産物であって、超自然の力が作ったものではない。・・・・・言語や意識の性質は、心の先史を理解しなければ──化石資料や考古学的な資料に細かく当たらなければ──理解できないのだということを具体的に示してきた。そして、様々な形で比喩や類推を使用することが人間の心の革新的な特徴ということを見てきた。」(『心の先史時代』邦訳 p282 下線は引用者による)

 ミズンの問題意識は、現代人類の心(mind)の基本構造がどのようなものであるかを知るために、先史時代人の心を知る(認知考古学)必要がある、というものである。彼はこの著作において言語知能による認知的流動性(相互性)が、社会的、技術的、博物的等の知能モジュールの統合を促進させたとして、言語の機能について評価している。しかし、人間を特徴づける言語が、個々人の非社会的思考・知識・情報によって、個別の知能モジュールを統合するように進化する、というのは正しくない。言語はその当初から個々の知能と共に存在したと考えるべきである。例えば、言語を使用したことが化石人骨から確実視されるのであれば、石器の製作において「イシ(石)」や「ワル(割る)」等々や、狩猟・採集における収穫物(シカ、クリ等々)を、自然現象としての対象やその状態、また人間の行動等を言語記号化したことは疑いない。そして他者にそれらを伝達しようとすれば、初期的な文法(主語名詞と述語動詞等の関係)も成立していたであろう
 
ただ、何千年、何万年と停滞的状態が続いたのは、単に単純な道具や社会であってもそのままで適応的であったからにすぎない。言語的思考や知識は創造的な本質をもっていても、適応的なかぎり発達する必要はない。しかし完全な適応というものがありえない以上、自然の変化(気候の変化、収穫増加と人口増、と突然変異等々)に対してより安定的生活様式が求められ、適応的進化(進歩)をもたらすのが、自然の法則である。

 言語の認知と行動の原理を正しく理解できない研究者が、「人間の心」について研究するとき常に饒舌になるが、ミズンの場合もその例に漏れない。確かに先史時代の考古学的な証拠は人間の心の一端を示している。しかし、結論として「比喩や類推」の使用が、人間の心の特徴と言われても、人間の心の本質を捉えたことにはならない。類人猿と異なる人間の文化的営みは、比喩や類推の能力を発揮したであろうが、そのような能力を可能にしたものこそ言語なのである。人間の言語の能力は、道具(石器)の製作だけではなく、それを所有し、伝達しうることにある(類人猿に石器製作を訓練できるであろうが、それを所有し伝達させることはできない)。ミズンなどが提案する社会的知能や技術的知能、そして現世人類の芸術的・宗教的知能とされるものは、「言語的知能」と別に「脳内モジュール」として進化したのではなく、言語の機能(伝達・思考・記憶・創造・知識・行動の抑制等)によって獲得された知能(モジュール)なのである。

 なお、ネアンデルタール人の脳や言語が、現生人類(ホモ・サピエンス)に近いものと考えられるにもかかわらず、数十万年の間、道具や呪術・宗教に発展性が見られないのはなぜであろうという疑問が残る。ネアンデルタール人は、脳容量が現世人類よりも大きいが、前頭葉は発達していない。また上気道(喉の奥)が短いため、分節言語を発声する能力が低かった可能性が議論されている。考古学的には、埋葬はされていたものの呪術的儀礼の痕跡(花粉の存在が供花であったことは疑問視されている)や住居跡が発見されておらず、おそらく現生人類よりも直接的現象に囚われ、想像力や構想力はほとんどなく、従って現世人類の精神的文化(洞窟壁画等)とは大きな開きがあった。またネアンデルタール人の容量の大きい頭脳が何に使われていたか、とくに精神世界については何らかの物的証拠がなければ明らかにできないであろう。
 
 ただ言えることは、想像や構想の能力(情報の統合力)は小さくても、生活に必要な具体的・個別的な事象の情報を記憶するために大きな記憶容量が必要であることは考えられる。人間は、言語による創造的構成力を持ちながら、まずは生活の保障と安全を求めようとする保守性を持つことは、言語を持つようになった化石人類においても、科学技術を発展させた現世人類においても共通する生物的本性である。心の進化の理解のためには、まずは動物の持つ欲求とその評価反応である情動・感情を解明し、言語がどのように認知・行動的役割を果たしているかを明らかにすることが必要となるだろう。心の先史時代(心の進化)の解明も必要であるが、まずは心とは何かを明確にすべきなのである。



・英語のmind と日本語の「心」の違い、「心の理論」の用語上の問題点

心は、欲求にもとづいて知覚情報を受容し、知的情緒的反応(快と苦)と判断を伴いながら認知処理(選択・判断・構成)し、適応的行動を行う過程とそれらの内容である。
② 英語のmind は、辞書的には理解、思考、記憶、意向など知性的な頭脳の働きを意味し、欲求や感情、意志・意欲など、より深層の精神活動は含まない日本語の「心」は、英語のmind だけでなく、感情、心情、愛情を意味するheart や魂soul を含む広い概念である。従って、the theory of mind を「心を読む理論」または「知性の理論」とすれば誤解を生むことが少ないのではないだろうか。
③ 「心の理論」という用語で、類人猿の「心」(洞察・推測・理解する能力)と、人間の言語的「心」とを公平に比較することに無理がある。類人猿がもつ他者の意図や情報(信念)を見抜く能力を「誤信念課題」や「欺き行動」によって説明することは正しいとしても、それを「心の理論」という概念で説明することは「心」の本質理解を誤解させることになる。従って、誤解を避けるためには、類人猿が他者の意図や知的情報を洞察・推理・理解する能力を研究し表現する概念は、「心の理論」のような曖昧な概念ではなく厳密で科学的概念を使用すべきである。

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