那珂川からの導水で霞ヶ浦は浄化されるか

―導水事業の霞ヶ浦と那珂川の水質に及ぼす影響―


高村 義親(茨城大学名誉教授)

まず、水質の基礎知識を学びましょう!

 1)水質は、ミリグラム/リットルの話です。1 ミリグラムは1/1,000 グラム。身近には、一円玉は、1グラムの重さです。ですから、一円玉の1,000分の1に相当する重さの物質(窒素、リン、有機物など)が1 リットル(紙パック牛乳1 本)の水に溶けたレベルが、これからお話しする水質の世界です。耳かき1杯は何十ミリグラム!

 2)窒素、リン酸、カリは肥料の三大要素としてご存知ですね。あらゆる生物に不可欠な元素です。窒素はタンパク質・アミノ酸、リンはDNA・遺伝子などを作るのに必要です。植物・藻類は窒素と、リンがあれば、空気中の炭酸ガス(CO2)、水(H2O)、光を利用して繁殖します。生命のある有機体(物)が作られるのです。

 3)湖・沼・池、堀では、窒素とリンが増えると(これを富栄養化と言います。)、まず浮遊性の微細藻類が増えます。高密度に増えたのがアオコです。流れている川では浮遊性藻類は繁殖できません。河床の石には、ケイ藻などの付着藻類が硝酸態窒素とリン酸態リンを利用しています。湖沼に比べ、川の付着藻類の増殖は少ないので、窒素は硝酸態、リンはリン酸態という形態で河川水に残存しています。

 

.はじめに

   霞ヶ浦導水工事事務所の平成1920年度事業概要説明会の資料(1)には、この事業の目的と効果①「水質の浄化」・"霞ヶ浦、桜川に浄化用水を導水し、水質を改善します"、と書かれている。国土交通省は意見書(2)においても、「霞ヶ浦の湖水を希釈するとともに、湖水の滞留時間を大幅に短縮することになるから、霞ヶ浦の水質浄化に効果を発揮する」、「COD値を年間平均値で1リットル当たり0.8ミリグラム低下させることが可能」と主張している。これに呼応するように、県及び県内37市町村で構成する霞ヶ浦導水事業建設促進協議会(会長:橋本茨城県知事)は、「霞ヶ浦の水質が依然として大幅な改善には至っていない状況にあることから、霞ヶ浦導水事業を早期に完了させ、霞ヶ浦の水質浄化を行っていく必要があります」という趣旨の霞ヶ浦導水事業促進について要望書を国土交通省並びに財務省に提出している(平成197月)。また、霞ヶ浦流域の多くの人々も、那珂川の清流をイメージして、導水事業により霞ヶ浦の水質が画期的に改善されるかのように思っている。しかし、那珂川の水質の現況および「流れのある河川」と「停滞した湖沼」の相違からすると、導水事業の目的①「水質の浄化」の科学的根拠はきわめて薄弱である。那珂川の河川水を霞ヶ浦に導水することにより、霞ヶ浦は、むしろ水質の悪化が懸念される。すなわち、導水事業は、霞ヶ浦の富栄養化による水質汚濁をさらに進行させ、アオコの発生機会を増大させる可能性がある。導水事業は、茨城県霞ヶ浦水質保全条例と湖沼法に則した湖沼水質保全計画の自己崩壊につながる問題である。

 

Ⅰ 那珂川導水の霞ヶ浦水質へ及ぼす影響

1)霞ヶ浦より窒素濃度の高い那珂川―霞ヶ浦の富栄養化を促進-

霞ヶ浦の水質汚濁対策は、窒素・リンによる富栄養化防止がターゲットである。流域から流入する窒素、リン(特に無機態のイオン)を栄養源にして増殖するいわゆる"アオコ"(藻類)とその分解物の蓄積による有機性水質汚濁である。したがって、霞ヶ浦水質保全条例も湖沼水質保全計画も、流域と湖底からの窒素およびリンの排出・溶出をいかに抑制させるかということを基本としている。

霞ヶ浦は、湖沼法に基づき、湖沼A・湖沼Ⅲ(当面Ⅳ)類型に指定されている。湖沼Ⅲ類型に定められた全窒素の環境基準は0.4 mg/L以下である。

那珂川の全窒素濃度は平均1.45 mg/Lであるのに対し、霞ヶ浦西浦のそれは0.885 mg/Lである。那珂川の総窒素は霞ヶ浦より1.6倍以上も高い。その上、含まれている窒素は、アオコの増殖に最も適した硝酸態窒素である。那珂川の硝酸態窒素濃度は1.27 mg/Lであるのに対し、霞ヶ浦0.21 mg/Lと著しく低い。那珂川の硝酸態窒素濃度は霞ヶ浦の7.8倍も高い。霞ヶ浦のような、停滞した湖沼では植物プランクトンが、硝酸態窒素をよく利用して増殖するために湖水中の硝酸態窒素濃度は低いのが一般的である。那珂川の硝酸態窒素は、霞ヶ浦に流入すれば、アオコの増殖栄養素となり、ひいては有機物(COD)の生産を促進する。窒素について言えば、全窒素(硝酸態および亜硝酸態)の高い那珂川導水は、霞ヶ浦の富栄養化をさらに促進し、水質をさらに悪化させる可能性が大きい。那珂川からの導水が、"霞ヶ浦の湖水を希釈するとともに、霞ヶ浦の水質浄化に効果を発揮する"ことは不可能である。国の主張には科学的に誤りがある。  

 

2)那珂川の全リン濃度も富栄養化―湖沼類型Ⅳに相当―

  那珂川の全リン濃度は、平均0.043 mg/Lであるのに対し、西浦湖心の全リンは平均0.109 mg/Lである。那珂川の全リンは霞ヶ浦の二分の一以下の低さである。霞ヶ浦に比べれば濃度は低い。しかし、湖沼類型Ⅲの霞ヶ浦の全リン濃度の環境基準は0.03mg/L以下であので、那珂川の全リン濃度平均0.043 mg/Lは湖沼類型Ⅲの霞ヶ浦の環境基準を越えている。湖沼の環境基準からすれば類型Ⅳに相当する。那珂川の全リンの主たる成分は植物プランクトンの利用しやすい無機リン酸態リンである。霞ヶ浦に導入されれば、アオコの発生原因となりうる濃度である。那珂川の全リン濃度は霞ヶ浦に比べれば低いとはいえ、全リンについても決して霞ヶ浦に導水するにふさわしい水質ではない。

 

3)"流れる"那珂川と"停滞した"霞ヶ浦―有機物(COD)は湖内で作られる―

20022004年の西浦(湖心)のCODは、平均7.6 mg/Lである。それに対し、那珂川(御前山村野口)の平均COD2.0 mg/Lである。那珂川は、有機物(COD)濃度の低い、まさに清流の名にふさわしい水質である。河川の環境基準(生活環境の保全)類型Aに当てはめられる高品位の水質である。導水事業は、「霞ヶ浦の湖水を希釈する」「CODを低下させる」と国が説明する根拠はここにあると思われる。しかし、有機物の少ない那珂川の清流をイメージして「霞ヶ浦の浄化」に役立つと論ずるのは下記に述べるように、科学的に重大な誤りがある。

"有機物の少ない清流"は、あくまでも那珂川という"流れ"のある河川に生まれ、那珂川を流れている水である。これが"停滞"した閉鎖性の霞ヶ浦に導入された時は別である。すなわち、ひとたび霞ヶ浦に入れば、富栄養化した停滞した湖水に変わる。那珂川の窒素・リンのレベルは高く、アオコの発生する条件を満たしている。しかも、その形態は、植物プランクトンの利用しやすい硝酸態窒素と無機リン酸態リンである。したがって、那珂川導水は、霞ヶ浦のアオコ発生を促進し、発生したアオコ藻体およびその枯死分解物は湖水中の有機物濃度(COD)を高めることが予測される。

 一庫大路次川は大阪府、兵庫県の県境、猪名川郡付近を流れ、知明湖(一庫ダム)に注ぐ一級河川である。鮎の釣れる川として知られ、猪名川漁協が事業者となっている。河川の外観は澄明であり、水勢のかなり強い流れのある河川である。"流れ"のある澄明な"清流"も停滞した閉鎖性水域の一庫ダムに流入すれば、アオコの絶好な生息環境に変化する。一庫大路次川が一庫ダムに流入する河口部とダム湖の境目にはアオコが発生し、集積している。

"流れ"のある川と、"停滞"した閉鎖性の湖では水環境は根本的に異なり、そこに生息する藻類、微生物などを含む生物相が異なる。アオコは閉鎖性の停滞性水域を生息環境として好む微生物の一群。霞ヶ浦流入56河川でも、アオコが発生した例はない。那珂川のCODが低くても、霞ヶ浦に導水されて停滞すれば、一庫大路次川・一庫ダムと同様な現象が起きることが予測できる。茨城県のパンフレットでも、「窒素やリンを栄養源にして、植物プランクトンが増えすぎるとCODが上がるだけでなく、アオコが発生したり、悪臭が発生したり霞ヶ浦の水質が悪化します」と記されている。

 

Ⅱ 霞ヶ浦湖水の那珂川に及ぼす影響

1)清流の汚濁―難分解性有機物―

  那珂川の約4倍の有機物(COD)を含む霞ヶ浦湖水は、疑いもなく那珂川の清流を汚濁する。霞ヶ浦導水は、まさに那珂川への汚染の拡大である。

最近、霞ヶ浦、琵琶湖など多くの湖沼で、湖水中の溶存態有機物中に含まれる難分解性有機物の増加傾向が問題になっている。難分解性有機物は、微生物によっても分解されず、下水処理場で処理分解することが出来ない有機物である。したがって、下水処理場放流水中に比較的高い濃度で存在している。難分解性の有機物は、水道水の浄水過程で塩素処理によって発がん物質トリハロメタン等生成する原因物質になることが知られている。霞ヶ浦のCODの平均8 mg/L17年度)の内62%が溶解性有機物である。その6595%が難分解性有機物と推定されている。環境基準をはるかに上回り、しかも難分解性有機物の多いCODを飲料水にすることにより、霞ヶ浦流域では、人への健康影響がいつか顕在化するのではないかと、危惧されている。

導水事業により、霞ヶ浦の湖水が、渇水時の那珂川に送水された場合、霞ヶ浦から持ち込まれるアオコ藻類、難分解性有機物、カビ臭物質、アオコ毒素は那珂川の水質、生態系に今までにないマイナスの影響を及ぼすことは必至だろう。霞ヶ浦湖水の一部が飲料水源として利用された場合は、霞ヶ浦流域と同様に、人への健康リスクに係わる問題が生じる。

 

)アオコの生産する毒素とカビ臭の問題

 霞ヶ浦に発生するアオコは、藍藻(現在はシアノバクテリア)と呼ばれるバクテリア(細菌)に近縁な生物である。 "アオコ"原因生物は、いずれも毒素を生産する。よく知られているのが、ミクロキスティス属アオコの生産するミクロキスティンという毒素である。肝臓障害・肝ガンの原因となる毒素で、マウス致死量は体重1キロ当たり50?100マイクログラム。マウスとヒトは違うが、50 kgのヒトに換算すれば致死量は5ミリグラムという猛毒である。WHOでは「飲料水1リットル当たり1マイクログラム以下」とされている。

 霞ヶ浦では、ミクロキスティス属が減少してオシラトリア属、フォルミディウム属が発生するようになってから、魚介・水道水の"かび臭"が顕著になった。原因物質は、    

2-メチルイソボルネオール、ジオスミンと同定されている。カビ臭物質は1 ppb (1 ppm1/1000)という極低濃度でも、ヒトの官能で認識される。そのため、上水道、水産業、水産加工業は大きな打撃を被っている。また、霞ヶ浦上水道の浄水処理過程において、カビ臭物質を除去するために活性炭を大量に使用することを余儀なくされている。

 那珂川の渇水時に、霞ヶ浦の湖水が送水された場合、湖水中の"アオコ"毒素とカビ臭物質は那珂川の水産漁業と市民の飲料水に深刻な影響を与えるおそれがある。 日本一を誇る"那珂川の鮎"2-メチルイソボルネオール、ジオスミンなどカビ臭物質で汚染される可能性は否定できない。また、上水道については、活性炭、バイオフィルムなど高度の浄水操作が新たに必要になると思われる。

 

おわりに

  水質の立場から見れば、霞ヶ浦導水事業は、霞ヶ浦・那珂川の両水系にとって、なんのメリットもない。霞ヶ浦は、那珂川の硝酸態窒素と無機リン酸態リンにより、那珂川は霞ヶ浦の有機物(COD)と粒子性リンにより、それぞれの水系の汚染は拡大する。那珂川は、更に、カビ臭、アオコ毒素、難分解性有機物による汚染も付加される。このことは両水系の生態系、生物多様性、漁業、住民の暮らしと健康等々へ重大な影響を及ぼすだろう。

霞ヶ浦流域の市町村や住民が、「水質の浄化」を期待することは「大いなる誤解」としか言いようがない。なぜなら、上に述べてきたように、那珂川の河川水が霞ヶ浦に導入されるようになれば、霞ヶ浦の富栄養化による汚濁は一層進行する可能性が高いからである。国に指定されている霞ヶ浦の湖沼類型Aおよび湖沼Ⅲ類型の環境基準は勿論"当面の暫定基準"の達成も一層困難になると思われる。"泳げる霞ヶ浦"を目指した市民の水質保全活動も「茨城県霞ヶ浦水質保全条例」に基づく行政活動も、目標を失うであろう。霞ヶ浦導水は、湖沼法に則した「霞ヶ浦水質保全計画(第五期)」とは矛盾した事業である。