時代の流れと霞ヶ浦導水事業の根本問題

 川崎 健 霞ヶ浦導水事業による魚類・生態系影響評価委員会委員長

東北大学名誉教授

栃木・茨城両県を流れて太平洋に注ぐ那珂川は、日本最後の清流といわれる。その証拠に、全国の河川へのアユの遡上数が減少しているのに、那珂川への遡上数は増加し、アユの漁獲量は全国最大である。これは、栃木・茨城両県の漁協・漁民の方々が、流域の住民の方々と力を合わせて、この清流を守ってきたからに他ならない。私は、このような努力に深く敬意を表したいと思う。
 ところが、このような大切な川を破壊してしまう事業が、こともあろうに国によって強行されている。私はこのことに怒りを覚えるとともに、影響評価委員会の委員長として、問題点を科学的立場から解明し、那珂川を守る運動に力を尽くしたいと考えている。

導水事業の目的
1. 水質の浄化
2. 既得用水の補給
3. 新都市用水の開発
経過
 ○ 40年以上前の高度経済成長期に構想が立てられ、20年以上前の1984年に建設着手。
   計画概要:那珂川と霞ヶ浦の間に地下40m直径4mのトンネルを掘り、那珂川から霞ヶ浦に毎秒35m3、霞ヶ浦から那珂川に毎秒12m3の水を相互に送ることができるようにする。
   予算:1600億円 完成予定:1993年
○ その後しばしば計画変更があり、現在では
予算:1900億円 完成予定:2015年
那珂川から毎秒15m3  霞ヶ浦から毎秒11m3
○ 2007年9月に国交省から漁協に「那珂川に取水口を造り、アユ迷入の試験をする」と通告。陸上部分のトンネルは、河岸10mまで迫っている。
○ 2008年3月に那珂川関係全漁協が「取水口建設差し止め仮処分」申立。

なにが問題なのか
1.漁業権を持つ関係漁協や茨城・栃木県の全流域自治体の合意を経ぬまま、工事を強行している
2.事業目的がすべて否定されている
○ 那珂川の水を導入しても、霞ヶ浦の水質浄化どころかかえって悪化させる。(後出:高村報告)
○ 都市用水はすでに水余り状態である
この計画は、茨城県の人口が、2010年370万人、2020年400万人という過大な予測に基づいて立てられた。2000年の予測では、2010年316万人、2020年323万人である。しかし、人口は減少局面に入っている。
3.1900億円もの国税・県税(茨城県)の無駄遣い
4.国の行為による環境破壊と国際条約・法律違反
○ 生物多様性条約
生物多様性条約 ( Convention on Biological Diversity ) は、1987年に開催された国連環境開発会議において採択され、会議中に我が国はこれに署名し、1992年に批准し、1993年に発効した。この条約は、"地球上の多様な生物をその生息環境とともに保全すること"を規定している。
○ 生物多様性基本法
 我が国では生物多様性条約に対応する国内法を整備する必要があったが、既存の複数の法律を組み合わせることによって生物多様性が確保されるとの考えから、新法の制定をしてこなかった。しかし、現状は既存の法律の運用だけでは、生物多様性を確保することが困難になり、生物多様性基本法が制定される運びになった。この法律は2008年5月28日に国会で成立し、6月6日に施行された。これまでにも、個別の生物種の保護については、鳥獣保護法、種の保存法、特定外来生物法などがあったが、生物多様性基本法は、一定の生態学的特性をもった生物群集を、その生息環境と一体として、すなわち生態系を一体として保全しようとする、我が国で初めての法律である。
 前文においては、次のように述べられている。"生物の多様性は、人間が行なう開発等による生態系の破壊の深刻な危機に直面している。生物の多様性を確保するための施策を包括的に推進しなければならない。"
 第3条には、「予防的な取組」がうたわれている。これは「予防原則」と呼ばれるもので、82年の国連環境開発会議で初めて示された。これは、生態系破壊の危険が予想される行為については、科学的な知見が揃わない段階においても、その行為を行なってはならない、とするものである。この法律は、これまでの個別的な生物の保全法から一歩踏み出したものとして受け取る重みがある。
○ 生物多様性保全に関する国際条約と国内法から見た「霞ヶ浦導水事業」
霞ヶ浦導水事業は、水系的に見れば、利根川・霞ヶ浦水系と那珂川水系というまったく異質な2つの水系を繋ぎ合わせることであり、生物学的に見れば、まったく異質な2つの生態系を混ぜ合わせることである。このような行為は、生物多様性条約および生物多様性基本法に違反するものであり、条約および法律を遵守すべき国が行なうことではない。
5.那珂川流域住民の健康問題
 ○ 霞ヶ浦/利根川水系における汚染
水野玲子(霞ヶ浦流域と利根川河口域における男児出生比率の低下、科学 70巻2号 113―118、2000、岩波書店)は、次のように述べている。
 "霞ヶ浦の汚染は深刻であり周辺地域からの化学物質の流入量は大きく、過去35年間に霞ヶ浦(西浦+北浦)にダイオキシン総量76kgが集積し、水域のダイオキシン汚染はかなりの部分が過去に使用されたCNPなどの農薬(水田除草剤)が原因となっている。環境ホルモンの半分以上を農薬がしめている現在、霞ヶ浦の水が周辺50万人以上の人に飲料水として供給されている現実に不安はないのだろうか。建設省が行なった河川における環境ホルモン実態調査(1998)では、霞ヶ浦を含む利根川水系で汚染が深刻であった。"
○ 霞ヶ浦/利根川水系流域における男児出生比率の低下
 水野(2000)は、霞ヶ浦に堆積したダイオキシンが,男児出生比率(男児数/出生数:以下男児割合)にどのような影響を与えているかについて考察した。
 日本における男児割合は1950年より上昇し、1970年には0.517になったが、その後低下し、1995年には0.513になった。男の胎児は化学物質によって影響されやすく、性比変化の原因の1つとして、性分化プロセスのもっとも重要な時期(妊娠7-9週)に環境ホルモンに曝露されると、正常な分化や生殖器官の成長が変化したり、妨げられたりする。本来男児になるはずのXY染色体を持つ受精卵が、外からの影響でXY女児になる。つまり遺伝的な男児が機能的な女児になる可能性がある。
 大きな集団で、あるいは一定期間の平均値で、男児割合が0.505を下回れば異常であり、0.500を割り込めば、すなわち男児数が女児数を下回れば、きわめて異常と考えてよいであろう。
 水野(2000)は、1974―97年の24年間を8年ごとにI期(74―81年)、Ⅱ期(82―89年)、Ⅲ期(90―97年)に分け、その間の男児割合の変化を見た。その結果、Ⅲ期の茨城県の男児割合平均値が0.516 なのに対して、霞ヶ浦周辺の行方郡と稲敷郡では0.503-0.504であり、Ⅱ期からⅢ期へかけて大きく低下していることを見いだした。Ⅱ期からⅢ期へかけて男児割合が低下した地域は、霞ヶ浦流域/利根川河口域に集中している。一方、太平洋に面している鹿島郡では、男児割合はⅡ期の0.516からⅢ期の0.526へとむしろ増加傾向であった。
 このように、同じ鹿行地域でも、霞ヶ浦に面する行方郡と太平洋に面する鹿行域では、まったく対照的な変化を示している。このことは、霞ヶ浦の汚染の影響を強く示唆するものであろう。
○ 霞ヶ浦/利根川水系から那珂川水系への汚染の拡散
 それでは、那珂川流域での男児割合はどうであろうか。那珂川流域では、Ⅱ期からⅢ期へかけて男児割合が低下している地域はまったくない。ここに霞ヶ浦のダイオキシンに汚染された水が導入されたらどうなるであろうか。これについては、依拠すべきデータがまったくないのであるが、程度の差はあれ、那珂川への汚染の拡散それに伴う流域住民の健康被害の発生が当然考えられる。
 生物多様性基本法に示された「予防原則」に則って、国は事業を中止し、霞ヶ浦・利根川水系内での環境修復を図るべきであろう。

総括:導水事業の根本問題―ああいうものを造る時代ではないー
この事業は、今から40年以上も前の高度経済成長期に構想が作られ、20年以上前の経済バブルにさしかかる時期に建設が始まった。しかしその後、世界でも日本でも状況が激変した。日本の経済は低成長時代に入り、人口も減少時代に入った。地球温暖化問題に示されるように、世界の諸国民の環境意識が高まり、生物多様性条約が結ばれ、我が国では、生物多様性基本法が成立した。
時代は確実に変わったのである。その中で、霞ヶ浦導水事業の大義名分も意義も、すっかり失われてしまった。そのことは、事業の経過自体が物語っている。工事が進まない。完成予定は22年も後れ、那珂川からの取水予定量も大幅に削減された。モーター数の減った、建ててから15年も経ち、使われることのないまま朽ち果てていく機場の巨大な建て屋の空間は、壮大な国費・県費の無駄遣いの象徴であり、この事業の空しさを物語っている。
それでも国交省は、事業を止めると大失態になるので、止められない。国民よりも役所の面子・都合が優先する。税金の無駄遣いを、意にも介さない。民意を無視して強行する姿勢は、役所益を追い求める哀れな姿と言えよう。
霞ヶ浦導水事業は、諫早湾干拓事業とよく対比される。しかし、決定的に違うのは、那珂川を守るために、全漁協・全漁業者・流域住民が団結して立ち上がっていることである。
諫早湾干拓事業では、干拓による農地造成面積は、減反による県の休耕面積よりも狭いという愚行が行なわれ、有明海の漁業全体が破壊されている。
那珂川においては、このような漁業破壊、環境破壊、国土破壊を許してはならないと思う。立派な那珂川を、次の世代に引き継ぐのは、現世代の責任である。今は、国土を守り、環境をしっかり守る時代である。決めた計画をなにがなんでも押し通す役所の論理を打ち砕く、我が国最初で最後の例としよう。この闘いは、全国民的な意義を持っているのである。