デュインの歴史

本項ではデュインの歴史について説明する。

デュイン総合府旗

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・デュインと近隣国、フェーカポレス地域(暗森地域)(上記の地図はアポステリオリ的であるため、修正中である。)

概要

ヴィッセンスタンツはデュインの先住民である。ヴィッセンスタンツと言っても、中には二つの民族がこれで表されている。ヴィッセンスタンツ人(viccenstantzer, ヴィッセンスタンツェー)橋和子人(farxvark, ファーシュヴァーク)である。また、アルテナ人(altena)がサラスにアルテナ魔法で現れ、定住している。

ヴィッセンスタンツ人と橋和子人

メイユラング領より、東側から船でやってきたと思われるのがヴィッセンスタンツ人である。phil.120年頃には、デイシェスの沿岸のアルマート川(almart)の東側にヴィッセンスタンツ王国を立てていた。初代国王エヴィルフィーア王(Evirfiia)は、各地を静定し、王族領以外は王族直下に属する貴族に領地を分割して統治させる代わりに、貴族には税収を求めた。
南方の大陸側から北方に渡ってきた一族の末裔が橋和子人である。サニスやイェテザル・ポルトジャール周辺に幾つかの別氏族の集団である村を構成して暮らしていたが、ヨサトカソド村(yosatokasodo, 中頭村)の首長ワカテカソド(wakatekasodo, 作頭)はヴィッセンスタンツ王国西方パニアルのインファイルカナル(infairkanal)領の領主ファイルフィーア(fairfiia)と手を組み、橋和子人の幾つかの村を従え、インファイルカナル領に編入させた。この功績を認め、エヴィルフィーア王はワカテカソドにはインファイルカナル領とは違うインファイルハシワコ領の領主として貴族階級に認めた。また、その後はインファイルハシワコ領に属さない橋和子村群については、ヴィッセンスタンツ王国の搾取に反対し、ワカテカソドを倒すために村が集結して、ワラシャリト国(waraxalito, 我等流国)が成立した。ワシャリト国は、村の直接民主制による議決から上部に決定を上げる直接民主制国家であったが、村や村クラスタのことはそれら独自で他や国家に関係し無い限り自由に議決できたので高い地方分権性もあった。
これによってワラシャリト国とヴィッセンスタンツ王国の二台対決体制が整った。これは、phil.250ほどのことである。

ワラシャリト国の敗走

Phil.391年にワラシャリト国ヒジテワカト村(離作村)は一応の和平状態にあったヴィッセンスタンツ王国インファイルカナル領に侵攻した。これに対して、領主ファイルフィーアは国王に兵を要請。国王は即時的に五千七百の兵士をインファイルカナル領に派遣し、ヒジテワカト村の武装勢力を完全に制圧、ヒジテワカト村を制圧した。ワラシャリト側はヴィッセンスタンツ王国に和平交渉の準備が在ると報告し、「ヒジテワカト村の譲渡、インファイルカナル領捕虜の無条件解放、損害の賠償と奴隷提供、これを守る場合のみ和平を保つ」を定めたヒジテワカト停戦協定を締約した。この協定後、百年平和と呼ばれる国家間紛争が無い時代が流れた。
Phil.424年にワラシャリト国の最高首長に上がったビチテロマ(bititeroma, 出頭)は、全村自決を求め各村の答えを求めると、ヒジテワカトの奪還を返した。これによりビチテロマは全村攻撃自決を号令し、インファイルカナル領に攻勢を掛けたが、今度は停戦協定の無視ということで王族領はこれに三万の殲滅兵、3万の侵略兵、三人の貴族(インファイルカナル領主ファイルフィーア、インファイルハシワコ領主ワカテカソド、王国領貴族院議長ベレンファール)を送った。これによってワラシャリト国は致命的なダメージを受け、ヴィッセンスタンツ王国の配下となり、インファイルハシワコ領、インファイルヒジテ領、インファイルビチテ領、インファイルジェコイテ領に分けられ、それぞれはヴィッセンスタンツ人領主によって統治されるようになった。

アルテナ人出現

Phil.457年、現在のサラスにアルテナ人がアルテナ魔法によって出現する。西方の警備を担当していたヴィッセンスタンツ王国インファルカナル領が異変に気づき、王族領の公認を受けて交流を始めた。現地サラスは王国の領土ではなかったが、アルテナ人の自治を認める代わりにヴィッセンスタンツ王国アルテナトラップ領(altenatrap)として、漁獲物を税として払うように取り決められた。

ヴィッセンスタンツ紛争

phil.805年、Xelken.valtoalは独自の調査網によってデュイン・デイシェス地域に侵入、原住民の国家であるヴィッセンスタンツ王国に「古理語服従・徹底抗戦・王政破壊」の『アルマト三条項』を提示した。これに憤怒したヴィッセンスタンツ王ルンスフィーア二世(runsfiiaⅡ)は、これに締約 せず、Xelken.valtoalに宣戦布告を行った。しかし、圧倒的な軍隊と兵士の量、ウェールフープによる攻撃方法によってハルマット王国を敗走さ せた。これに伴って持病を患っていたルンスフィーア二世は崩御し、後継人であるアルムフィーア王子(almfiia)にその王位を継承した。アルムフィー ア王は、xelkenがデュイン近海の航海術を知らないということに着眼点を付け、シェルタズャートに王都を遷移した。

デュイン・シェルケン政権の成立

phil.807年、xelkenはデュインの政治的・軍事的勢力を掌握し、フォルシンソ計画を実行することでデュインにシェルケン政権による国家勢力を確立する。この間に、各地域へとユエスレオネやカラムディアから拉致された人々がxelkenの指導下に置かれた。この時期に拉致された人々は後に在デュイン・ユーゲ人二世や在デュイン・リパラオネ/ラネーメ人二世の先祖となった。

デュイン戦争

2003年11月 ここで連邦軍諜報部がxelkenの動向をキャッチし該当地域に調査員を送るがみな殺される連邦はこれへの報復としてxelken領地への宣戦布告する。12月、連邦軍とxelken領地の戦争とともに本土におけるxelkenのテロが過激化し経済や安全保障に著しい影響が出始める。phil.2003年1月、Kariaho=Sukarmrei(ハタ王国 王)とAles.skadzyr(連邦政府 総務省大臣)のサニス条約→拉致の規制と引き換えに連邦の戦争に加勢、xelkenが弱力化してくる。 ハタ王国の独裁派がxelkenに加勢、phil.2003年2月 連邦側が勝利。 新国土デュインとして成立。 降伏したxelkenの居住区とともにユエスレオネの人口密度問題の解消を目的に移住制度を開始する。
動員された兵士は18,000,000〜24,000,00で死者は30000~50000であった。
ヴィッセンスタンツ王国は連邦に高度な自治権の保障と引き換えに解体された。

県設置


phil.2003年3月に連邦はデュインにデュイン総合府を設置し現在の八県二自治区の態勢となった。各行政区分に高度な自治を与え文化と言語の保守を促進させるようデュイン総合府に指示した。
県・区名 県・自治区旗
 県都 県歌主な人種
言語
クランタル自治区  Dytykavirna
 リパラオネ人、サイパオプ人 標準リパライン語、サイパオプ語
イェテザル自治区 
 lököyör「同胞よ!」(Rar, rițirming!) リパラオネ人、ラッビヤ人 標準リパライン語、ラッビヤ語
パニャル県
    人型ラーデミン、セベリス人、(原住民A) 裕福リパライン語セベリス語デュイン方言、(原住民語)
デイシェス県  Almart  ヴェフィス人、ズィタラク人 デイシェス・ヴェフィス語、ズィタラク語
サニス県
(仮)
 Benorqa
(古:benauqa
理:benorcha)
  チョルセ人、ユーゲ人 古リパライン語サニス語(サニス・クレオール語)、現代リパライン語、チョルセ語
サラス県    サラス人 サラス語
シェルタズャートゥンデ県    リパラオネ人、ユーゲ人
 古リパライン語、デュイン・ユーゴック語
シェルタスャート県    ヴィッセンスタンツ人 ヴィッセンスタンツ語
ラファンカ県  Uptgitaa
(Aptgitar)
  リパラオネ人、アポート人 リパライン語北洋方言アポート語
リスターメ県    デーノ人、リスターメ人 リパライン語南洋方言リスターメ語
一般に口語ではリパライン語デュイン方言が、文語では標準文語が用いられる。

指定民族

デュイン総合府が固有の文化を保っていると見做した民族である。保護対象部署の分割として参考にされる。

 日本語名称 自称 由来
 ユーゲ系定着者 Hatle シェルケン・デュイン政権による拉致被害者の子孫
 セベリス系定着者  出稼ぎなどで定着したセベリス人
 ヴェフィス系定着者  シェルケン・デュイン政権による拉致被害者の子孫
 サラス人  先住民族の一つ
 ヴィッセンスタンツ人  先住民族の一つ
 リスターメ人  先住民族の一つ
 アポート人  先住民族の一つ
 人型ラーデミン  シェルケン・デュイン政権の使役していた奴隷


デュイン・アレス独立戦争

phil.2010年1月1日にデュイン・クランタル区庁が占領されたことを皮切りにデュイン地域の全体でxelkenのxelken.alesは蜂起を開始した。これは後に賛同したデュイン政府の勢力と連邦軍を含めたサニス条約機構軍の対立に発展し、デュイン・アレス独立戦争が始まった。この戦争は2011年3月3日に連邦側の勝利で終わった。

北洋大地震

2012年にデュイン北洋に起きた大地震により、各地で大きな被害が発生した。津波による被害は甚大であり、沿岸にすんでいた人に対しては国からの援助が行われ仮設住宅が建造された。復興後に与えられた家を売ったりする人間が出てたが、当時は大きく取り上げられなかったため、安値で売られた家屋をマフィアが安く買って、貧者に売られマフィアの定着を誘引した。この粗末な仮設住宅政策は後デュイン政府が非難される原因となった。


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