日本のオーディナリー型自転車の歴史

 日本のオーディナリー型自転車の歴史

大津 幸雄 
 
はじめに
 

日本にいつ頃オーディナリー型自転車が現れたかは、不明瞭な部分が多い。それは、いつ頃に自転車が日本に現れたかと同様難しい問題である。特にオーディナリー型自転車に関する資料は乏しい。中でもオーディナリー型自転車が写っている写真は極めて少ない。ほんの数点あるに過ぎない。これからこの少ない資料をもとにオーディナリー型自転車の歴史を説明しなければならない。果たして如何ほどその真実に迫ることができるか不安は残るが、なんとか話を進めたいと思う。今後はこの会議を出発点として、グローバルな視点から更に資料収集を行い、例えば税関の当時の輸入貨物資料とか外国から日本への輸出積荷関係書類などからも究明したい。そして、より深くオーディナリー型自転車の歴史が解明され、一つの歴史体系となることを願っている。私は以下に説明する事項から、日本のオーディナリー型自転車の歴史は約10年間に絞り込むことができると考えている。その理由は、1885年から1895年の間にオーディナリー型自転車に関する資料が集中しているからである。

それでは前置きはこのくらいにして、これから具体的な資料を元にそのあたりを明らかにしていきたい。
 

重要な新聞記事

 その日わたしは、次の新聞記事に目が止まった。それは、1988年9月15日付けの産経新聞である。(図1)その新聞のタイトルには、「国友鉄砲かじ師が自転車作り」とあった。この自転車は静岡県の旧家で発見されたもので、特に次の点が重要な部分だ。製造年とその製造場所が自転車のフレームに刻印されていたことだ。そのフレームの一部には、次のように書いてある「明治24卯年四月上旬国友作之」とある。国友は現在の滋賀県長浜市国友町である。国友村は、1543年のポルトガル人による鉄砲伝来の後,その製造技術が国友村にも伝えられ,戦国時代末,織田信長らの諸大名の需要に応じて,堺とともに鉄砲製造で繁栄した地域だ。江戸時代に入り、1817年に鍛冶職総代となった国友藤兵衛〔1778-1840〕は一貫斎と号し,科学者としてもすぐれ,空気銃や反射望遠鏡を製作したことも伝えられている。

この自転車の前輪は、1.05メートル。後輪は0.48メートルである。サドルまでの高さは、1.15メートルと、それ程大きなものではない。車輪は木製で、タイヤは鉄帯である。前輪には泥除けも付けられており、ほぼ完全な形で発見されたのである。自転車を作った最初の日本人の職人は、鉄の加工技術を習得していた鉄砲鍛冶職人と推定されていたが、これはそれを裏付ける重要な発見である。宮田自転車の宮田英助も元はこの鉄砲鍛冶職人であった。この国友の自転車は現在東京の江戸・東京博物館に展示されている。(図2)。我々はそれをいつでも見ることができる。

 

(図1)1988年9月15日付、産経新聞  

(図2)江戸・東京博物館蔵
 
 
日本での名称
日本ではオーディナリー型自転車のことを一般にダルマ自転車と呼んでいる。この名前の由来は、ちょうどダルマさんを横倒ししたときの形に似ているからである。ダルマは言うまでもなく中国禅宗の祖とされる高僧。インドに生まれて、470年ごろ海路中国に渡り、嵩山(すうざん)少林寺で修行した。彼の座禅する姿からダルマという人形がうまれ、その後この人形はご利益があると言われるようになり人々に大変親しまれるようになった。
 

オーディナリー型自転車に初めて乗った日本人

帝国大学の広田理太郎、和田義睦、同理科大学の田中館愛橘、沢井廉の四名は自転車クラブを設立した。これは、朝野新聞(明治19年3月28日付)に載っている。彼らが日本で最初にオーディナリー型自転車に乗ったかは、軽々に断定することはできないが、かなり早い時期であることは間違いない。この時のメンバーの一人、田中館は、後年に次のように語っている。

「この頃の自転車は、足踏みの回転を鎖引で拡大するような構造のないもので、前輪は大きく後輪は小さくて、之に乗ると一時馬に乗ったようなものであった。この会は一台の自転車を買う資金を出し合って之を購入し、大学中を乗り回して運動の一種としたものである。ゴムタイヤなどは大の贅沢もので、我々の買い入れたのは無論鉄輪の頑強なものであった。」

この話から明らかのように、其の自転車の種類はオーディナリー型であったことが理解できる。また、オールスチール製の最新式のものではなく、木製の旧式ダルマ自転車であったことも分かる。この自転車が外国から輸入されたものか、それとも国産か、はっきりしないが、私は日本で作られたものではないかと思う。なぜなら車輪のタイヤが鉄帯であり、この自転車は数多く現存するからだ。すでにこの時期、日本人は自転車を作る技術を習得していたに違いない。もしそれが輸入自転車であるならば、恐らくタイヤはゴムで作られ、車輪を含むほとんどがスチール製の自転車であったろう。それからもう一つ重要な点は、恐らく日本で最初に設立された自転車クラブかも知れないと言うことだ。たとえそうではなくとも、かなり早い時期に設立された自転車クラブと思われる。一般には、日本最初の自転車クラブは「日本輪友会」であると言われている。このクラブは、明治26年(1893)に設立されている。
 

自転車クラブの始め

わが国で最初の自転車クラブは、明治26年に発足した日本輪友会だと言われている。 しかし、明治19年には先に紹介した帝大の自転車会が設立され活動していた。確かに組織とか内容などを比べると、帝大の方はむしろクラブと言うよりもグループに近い形態で、まだ自転車クラブという認識もなかったようである。自転車の所有台数もオーディナリーがたった1台で、メンバーも4人であった。それから見れば日本輪友会は、組織も内容も充実していた。やはり日本では初期の本格的な自転車クラブと言ってよいだろう。以下は、自転車専門雑誌「輪友」(第17号、明治36年3月10日)の記事である。メンバーの一人であった石川 信氏が当時を回顧している。

 前略・・・恐らくは私共が発起となって組織した日本輪友会というのが、最も魁けて設けられたものだろうと思います。丁度私共が日本輪友会というのを組織したのは明治26年の5月のことで、その当時はまだ当今のように自転車の乗り手も少なく、又車も彼のダルマ形という車が大部を占めて居って、あとは木製の二輪車と三輪車・・・・此の節名古屋あたりで電信配達夫が乗って居りますような車の外は、今の空気入り安全車という自転車は実に東京市中でも10台とは無かった位でありました。今から考えてみればその頃は今日流行の安全自転車の極く来たての時分であったと思われます。話しが少し横道に入りますが、私は性来自転車のような種類のものが大好きでありますから、木製の自転車輸入されてかの秋葉の原に初めて貸し自転車屋が出来た時分から好んで乗りまして、それからダルマ形の自転車にも乗って歩きましたが、どうもダルマ形というのは御承知の通り何しろ前輪が極めて大きいのに、後輪は又極めて小さいので少し体が前にかかると後輪が跳ねるので危険で堪らないのです。・・・後略

 この記事から明治26年頃はダルマ形自転車が主流だったことがわかる。安全車はまだ少数であった。 そして、次の記事はあるサイクリングの日の出来事である。

 前略・・・最も大輪のダルマ形の自転車に乗って居った某氏が、非常な速力でやってきた所へ急にうねくった道だったもので、ハンドルを取り損なって遂に其の婆さんの売って居る屋台店へ突き当たったのです。そうすると何しろ某人の乗っていた自転車は前輪の直径が6尺もあるすばらしい高い車なので、乗って居った某氏は屋台店の天井へ自転車からのめって落っこちながら・・・後略

 このクラブの初期の頃はまだダルマ自転車によるサイクリングが行われていたことも分かる。そしてこのような失敗談も記録されたのである。
 

日本人の好奇心を刺激したアメリカ人

私は以前、「 80日間世界一周」という映画を見た。この映画の中で従者パスパルトゥが町の中を優雅にオーディナリーに乗っているシーンがあった。しかし、ジュール・ベルヌの原作にはその様な自転車は出てこない。この小説の時代設定は1872年のことであり、まだ、オーディナリー型自転車は初期の段階で、パスパルトゥが乗っていたような最新式のオーディナリーはなかった。もしジュール・ベルヌがオーディナリーの流行期に存在したなら、多分この自転車に強い関心を持ち、オーディナリーでの世界一周を小説にしたであろう。 私はベルヌの小説が好きで、33年前に集英社から出版された全集をすべて読んだ。挿絵にも興味があったので、わざわざ東京、日本橋の丸善に行き、アセット社の原書も購入したほどである。ベルヌの話はこれくらいにして、オーディナリーでの世界一周に話を戻そう。

「80日間世界一周」の時代から15年目にして、だれも挑戦しようと思わなかった大冒険を成し遂げた男が現れた。それは、アメリカの青年トーマス・スチィーブンスである。先ず彼は手始めにアメリカ大陸の横断を成功させ、その足でニューヨークから世界一周の旅に出発した。それは、1885年のことである。今日ではかなりの日本人が、自転車による世界一周を成し遂げている。だが、国によっては非常に治安の悪いこの時代に成功させたことは驚嘆すべきことである。それに、当時の最新鋭の自転車と言っても、乗るのに不安定なオーディナリー型自転車であり、現代の変速機付きの自転車と比べれば格段の違いであった。日本人による初の自転車世界一周は、1902年に、中村春吉が成功させている。この時期の自転車はすでにセーフティーに変わっており、タイヤも空気入りのものが使用され、現代の自転車と余り変わらなかった。スチーブンスのこの世界一周旅行は、その後、彼自身によって「A ROUNDTHE WORLD ON A BICYCLE」の書名で刊行されているが、邦訳は残念ながらされていない。日本語訳が待ち望まれるところである。スチーブンスの世界一周旅行の旅程は次のとおりである。

 カリフォルニア州オークランド(1884年4月22日出発)・・・ニューヨーク・・・リバプール・・・ロンドン・・・パリ・・・ウイーン・・・コンスタンチノーブル・・・ペルシャ・・・アフガニスタン・・・カスピ海・・・コンスタンチノーブル・・・カルカッタ・・・広東・・・長崎・・・(1886年11月)・・・横浜・・・サンフランシスコ(1886年12月17日到着)

 この旅程を見ると、コンスタンチノーブルに2度立ち寄っているが、これはスパイ容疑でアフガニスタンに入国できなかったためである。 当時日本の新聞に載ったスチーブンス関連の記事は次のとおりである。

時事新報、1886年7月19日付。

 米国人トーマス・スチィーブンスは、二輪の自転車にてサンフランシスコとニューヨークの間を旅行した後、アウチング雑誌の特別通信者となって世界一周を思い立ち、昨年4月にニューヨークを出帆して英国に上陸し、英国を自転車にて横切り、それより汽船に乗ってフランス国に到着し、さらに自転車にてフランス、ゲルマン、オーストリア、トルコ、ロシアを旅行し、テヘランよりメシート(ペルシャの都府)に行かんとするにあたり、露国政府に出願して、北京に達するまでのロシア領旅行免許を得、その旅費に当てんとて、露国の通貨までも買入れ旅行をなしたるが、ペルシャの国境に至り突然露国官吏に捕らえられ、露領を旅行すべからざる旨を言い渡されたれば、やむを得ずアフガニスタン国を経過せざるを得ざる事となりたるが、アフガン人は他国人民よりも外国人を嫌悪することはなはだしければ、旅行中には、種々の困難に出会い足るよし。同氏は年齢22歳にして、すこぶる勇敢なる人なるが、旅行中は外套の裏に入れ得べきだけのもののほかは、何たる荷物も携えざりしと、米国新聞に見ゆ。

時事新報、1886年12月4日付。

 兼ねて本紙に記せし自転車にて世界一周を企てたる米国人スチーブンス氏は、去月21日横浜丸便にて長崎に着し、23日同地を出立して陸地を例の自転車にて神戸を経て横浜に来り、同港より米国に帰航する由なるが、同氏は年28、9の人にして、昨年4月にニューヨークを出立して英国に渡り、それよりパリ、ウイーン等を経て土京コンスタンチノーブルに出で、欧州にて時日を消費すること2ヶ月、同年8月10日欧州を出立して、彼の名所旧跡に富み旅人に取りいとも愉快なる小アジアを周遊し、それよりペルシャに入り、首府テヘランにて冬を送り本年の春に至りアフガニスタン、インドを経て支那に入らんとしたるに、アフガニスタン人は氏の周遊を何か政治上の目的よりいづるものなるべしと疑い、氏が種々陳弁して政治上の目的に出るに非ず、純然たる漫遊なりと説明するをも信ぜず、体よく謝絶してペルシャ国境へ帰らしめたれば、氏は止むを得ずそれより後戻りてカスピ海に出で、これよりコーカサスの鉄道にて再びコンスタンチノーブルに行き、今度は汽船にてインド・カルカッタを経て支那の広東に達したるなり、されば僅かに陸地の300マイルを通行する能はざるがため、終わりに海上6000マイルを航せざるを得ざるに至れり。

 これらの新聞記事を見ても、当時スチィーブンスのニュースが大変話題になっていたことが分かる。しかし、今まで日本の自転車史では余り紹介されることはなかった。この辺で、改めて彼の業績を評価する必要がある。 私は、彼が日本人に与えた影響は大きかったと思う。東海道を走る彼の姿を好奇の目で見た日本人は多かったはずだ。恐らく次に紹介する徳川慶喜もその一人であったに違いない。
 

オーディナリーに乗った最後の将軍

明治維新の後、十五代将軍徳川慶喜(1837-1913)は静岡県紺屋町の元代官屋敷(現、浮月楼)で閑居していた。この地には明治2年から明治21年まで過ごしている。 彼は既に謹慎を解かれ、自由の身になっていた。三十代の若さで隠居した彼は宗家からの仕送りで、経済的にも何不自由なく暮らしていたのである。 新しいものが好きで、カメラ、猟銃、油絵、自転車などたいへん多趣味であった。その中でも、特に一時は自転車に熱狂し、当時まだ珍しかったこの時期に従者を連れ、毎日のように自転車を乗り回した。其の自転車はニッケル鍍金された眩いばかりの舶来製オーディナリー型自転車であった。派手好みの将軍にはピッタリの自転車だ。ただ残念なことに写真好きでもあった将軍は、その自転車に乗る雄姿を従者に撮らしていない。私は、その自転車は、たぶんアメリカで作られたオーディナリーであったと思う。それは、1年前に東海道を行く、トーマス・スチィーブンスを好奇の目で見たに違いないからである。コロンビア製のニッケル鍍金された素晴らしいオーディナリーであった筈だ。自転車を発注したことが静岡大務新聞(明治20年2月5日付)に残っている。それから「家扶日記」には、次のような興味深い記述もある。

明治20年2月、御家従4人へ度々自転車御供有之候に付 靴之料3円ずつ下され候事

毎日のように彼にお供をした従者に靴代として3円与えていることである。彼は従者の靴が痛むほど、毎日静岡市内を乗り回したことがこの日記で分かる。

また、当時同じ静岡にいた松本亀次郎もこのことを目撃している。彼の日記にも次のように書いている。

明治20年1月13日快晴。午後2時散歩の際、徳川将軍及び二公子が自転車を召されて市中御散歩を相見たり。

ここに出てくる二公子とは、徳川家達と昭武の兄弟である。

 「家扶日記」は幕末から明治維新後も慶喜の側近くにいた新村猛雄、梅沢守義らが交代で書いた当番日誌。

 

(図3)徳川 慶喜、この写真は茨城県立歴史館蔵
 

ダルマ型自転車を愛用した人々 

明治20年ごろ、印刷局の役人であった左近司某(左近 允)はダルマ型自転車で芝の新堀から神田橋の印刷局まで毎日通勤していた。 そして、麻布に住んでいた油商の北村友吉君も大のダルマ型自転車の愛好者であった。こんなエピソードも残っている。

和田倉門外の三菱ヶ原(注、現在の東京駅北口の「丸の内」で三菱が政府から払い下げを受けた土地の俗称。)でダルマ型を練習しているうち、やや自信がついたので実際に走ってみようと人通りの少ない和田倉門内へ入ってみた。すると前方から政府のある高官が馬車で退庁してくるのに出くわした。北村はその馬車の通過を待とうと宮城の石垣に寄りかかったところ、身体の傾斜が度を過ぎて、元の姿勢に戻ることができず、飛び降りることも出来ない状態におかれてしまった。何しろ人通りがほとんどない場所だけに、頭を石垣にもたせて人の来るのを待つ以外になく、頭がヒリヒリして苦しんだという。1時間以上はそのままの形で我慢していたが、やがて宮内省の使丁らしい人が通りかかったので、頼んで身体を起こしてもらってことなきを得た、という話である。

 この記事は、「輪界追憶録」(佐藤半山遺稿、昭和初期)に出ている。

次に紹介する兄弟も熱心な愛好者であった。

明治21年、森村開作と兄明六の兄弟はアメリカのゴーマリー&ジェフリー社製のオーディナリーを購入した。この自転車を通学に使用し、或いは土曜日や日曜日にはサイクリングをして楽しんだ。明治26年には東海道をサイクリングしようと言う壮大な計画を立て、5月10日に東京・高輪を出発した。往路はほとんど汽車を使ったが、神戸からの復路はすべて自転車を利用した。最大の難所は箱根越えであった。朝、興津を立ち三島に向かった一行は、この頃既に時間は午後の3時をまわっていた。箱根の上りに差し掛かるころは日も暮れ、おまけに雨が降るという最悪な条件になってしまった。そこで駕籠屋を雇い、後ろから押してもらうことにし、下りにはロープを自転車に結び、後ろから引っ張ってもらい、ブレーキ代わりにして速度を落としながら下った。やっとの思いをして湯本に到着したのが、既に夜の9時をまわっていた。 

この話は明治34年発行の雑誌『輪友』に掲載されている。 

(図4)森村開作と兄明六の兄弟  

(図5)森村 開作
 

メーカ-の始まり

明治22年2月3日付けの毎日新聞に梶野の広告が出ている。そこにはオーディナリー型自転車の効用などが記されている。梶野は、明治12年に横浜市で自転車の製造をはじめた日本でも初期のメーカーである。梶野がどのような自転車を作っていたか分からないが、この新聞広告には一つのヒントがある。ただ、ここで注意しなければならないことは、実際に製作していた自転車がこの絵のとおりであったか、と言うことである。ここに描かれているものは、欧米でも後期のオーディナリーでスチール製の当時としては最新式のものである。現存する日本のオーディナリーを見ると、車輪のスポークなど全て木製であり、この絵のようなワイヤースポークのものは見ない。もし仮に梶野がこのような完成されたオーディナリーを製作していとすれば、既にかなり高度の技術を習得していたことになる。その他のメーカーとしては、明治21年1月創業の帝国自転車製造所などがあった。

(図6)明治22年2月3日付、毎日新聞

(図7)明治21年1月7日付、朝野新聞、帝国自転車製造所の広告
 

陸軍と郵便局での利用

官庁でいち早く自転車を採用したのは、陸軍省と逓信省である。特に軍の場合あらゆる発明品がそうであるように、それが軍事的あるいは兵器として役にたつものかどうか、最初に試される。自転車も当然例外ではなかった。明治29年発行の「自転車術」に、「本邦においても近年『輪』を軍事上に使用することを試み、憲兵隊においては既に専らこれを使用せり。明治23年(編者注;明治25年の誤りか)の頃特別大演習の時輪術熱心の中尉中島某は、片鎖安全、其の他二種を持ち行き、野戦演習地において十分の試験を為したるに、三種中片鎖安全第一の好結果を得たりと云う」

ここで、『輪』とはサイクルで自転車のこと、片鎖安全とは、当時最新式のチェーン付安全車のことである。

明治25年10月23日付けの『時事新報』に、軍用自転車の試験として、次のように書いてある。

「軍用自転車は既に外国にて伝令上欠く可らざるものとして採用せられ居るも我国にては陸軍歩兵中尉中島廉直氏数年間海外に留学中種々研究を為し之を我国においても適用せんと欲し帰朝後は種々苦心の末自宅内に一つの鍛冶場を設け同氏自ら作業し壱個の新式自転車を発明せしが今度の演習地は概して平坦の土地なれば日頃の希望を試験する好機会なりとて左の三輪の自転車を持来れり

一 単二輪車(目下欧米諸国に行はるる式)

一 片鎖安全車(同中尉の発明せしもの)

一 単安全車(仏国軍用式)

以上の三車中単二輪車の中径は四尺六寸片鎖安全車は三尺七寸単安全車は二尺六寸にして速力は平坦なる道路なれば一時間四里の距離を走り十時間乗詰めらるるも宇都宮付近は於泥地多きを以って予定の速力までに至らざるべしと其結果を奏するみともあらば近頃軍事通信上の一進歩と謂うべきなり」

ここで言う単二輪車とはオーディナリー型の自転車である。この時使用されたオーディナリー型自転車の写真と絵が残っている。同中尉が発明したという片鎖安全車はどのような自転車か分からないが、一般的な安全車に一部改良を加えたものであろうか。

郵便局で初めて自転車を採用したのは、明治25年からと言われている。東京郵便電信局の「服務心得」にオーディナリー型自転車と配達員の挿絵が載っている。また、明治28年度の「逓信省年報」には、当時使用されていた自転車の種類が出ていて、そこには、安全形、達磨形、木製普通形とある。これらの自転車が配備されていた郵便局もまだ僅かで、東京、大阪、横浜、名古屋の4局のみであった。そして、その台数も全部で56台に過ぎなかった。最初のころは主に電報配達に利用された。郵便局で最初に採用された自転車の種類はどうやらオーディナリー型であったようだ。

(図8)「日本の歴史」別巻4、中央公論社、昭和42年発行

 

(図9)「風俗画報」明治26年(1893)6月10日発行

 

(図10)錦絵、国利画

 

(図11)逓信総合博物館蔵
 
 

錦絵などに見るオーディナリー型自転車

現存する当時の少ない資料の中で、日本の伝統的芸術である錦絵は貴重な重要資料である。幸いオーディナリー型自転車を描いた錦絵は多数現存している。特に明治25年前後において数多く描かれている。

 

(図12)「東京名所之内吾妻ばし風景」国利画、明治22年

 

(図13)「東京小網町鎧橋通・吾妻亭」明治21年2月18日印刷、探景画

 

(図14)銅版画「吾妻橋」明治21年頃

 

(図15)「東京名所上野公園第三内国勧業博覧会場略図」明治23年(1890)

 

(図16)大日本五港内横浜、明治24年(1891)

 

(図17)現存する数少ない写真の一つ「上野水茶屋」のオーディナリー。特徴として、
前輪に比べ後輪が少し大きい。日本人仕様の舶来車か?それとも国産車か?

 

(図18)明治21年(1888)、『トバエ』第31号、
ビゴーの絵にオーディナリー型自転車に乗る日本人。

 

(図19)「風俗画報」第11号、明治22年12月10日発行、裏表紙にダルマ車。

 

(図20)神戸、川口居留地

 

(図21) ”めさまし”水上自転車、水曲社, 明治20年(1887)
 

現存するオーディナリー型自転車

1978年3月、東京赤坂にある自転車文化センターで明治自転車展が開催された。日本全国から現存する自転車を一同に集め展示した。これにより今まであまり見る機会がなかった珍しい自転車もまじかに見ることができた。この時オーディナリー型自転車も13台集められ、それらの時代背景や製作場所等が論議された。
 

(図22)滋賀県、谷村四郎氏所蔵、前輪97cm、後輪50cm。

 

(図23)三重県関町町民会館所蔵。大変特徴的な形状である。前輪は46cm、後輪33cm。
オーディナリー型コンパクト自転車と言ったところである。

 

(図24)均整のとれた美しいダルマ自転車、塗装に漆が使われている。
前輪105cm、後輪50cm。

 

(図25)東京・ヨシダ自転車製作所所蔵、前輪77cm、後輪49cm、
ヘッドチューブ等モダン的な作りである。

(図26)静岡県、滝口貞雄氏所蔵、前輪92cm、後輪45cm、フレームは鉄製平打ち。

 

(図27)株式会社・昭和インダストリーズ所蔵、前輪107cm、後輪51cm。

 

(図28)半田市郷土資料館蔵、前輪100cm、後輪55cm。漆仕上げの痕跡あり。
 
 

現存するその他の自転車

 

(図29)口之津町民族博物館蔵、明治18年頃のものと伝えられている。

 

(図30)1999年、7月30日、テレビ”開運なんでも鑑定団”に登場したダルマ自転車、
評価額は以外にも低く30万円であった。
 
 

オーディナリー型の終焉

安全型自転車が日本に輸入されるようになったのは、明治25年頃からである。明治26年6月発行の『猟の友』という雑誌に、次のようにある。

「・・・今流行する自転車は安全(セーフティー)と唱へ其車輪大ならず前後概ね同直径にて28吋又は30吋なり其の輪の直径大ならざる如此を以って誤って墜落するも疵くるの憂いなく之れ安全の称因て起る所以なり前輪大にして後輪小なるものは之の憂なきを安ぜざると其速力の度に於て安全車に比してはるかに及ばざるを以て新に之を購買する者なきに至れり、・・・」とある。

 この時期がオーディナリー型自転車から安全車へ移行する転換期であったことが分かる。
 

あとがき

以上述べたことは、まだ歴史の断片であるに過ぎない、今後も徐々にではあるが、新しい資料が発見され、このオーディナリー型自転車の歴史が明らかになって行くと思う。この小論での結論として、日本のオーディナリー型自転車の歴史は約10年間と考えられる。その理由は以上見てきた通り、1885年から1895年の間に資料が集中しているからである。少ない資料ながらこの10年間に絞り込むことができたからだ。10年間は短いようであるが、この10年間が残した歴史はその後の自転車発展に大きく貢献していることは、いまさら言うまでもない。

私たちは今でも自転車のシルエットを思うとき、オーディナリーのあの美しいデザインが思い出される。看板やあらゆる自転車のデザインにこのシルエットが採用される所以でもある。

参考文献

  • 「家扶日記」徳川慶喜関連、明治20年
  • 「亀次郎日記」松本亀次郎 明治20年
  • 「学びの手車」転輪館 明治22年
  • 「風俗画報」第11号、第168号、第178号 明治22年から? 
  • 「自転車術」渡辺修二郎著 少年園発行明治29年
  • 「中学世界」月刊雑誌、第2巻第3号から4号 博文館明治31年
  • 「運動界」雑誌 明治33年から明治35年?
  • 「自転車」月刊雑誌、快進社 明治33年から大正10年頃?
  • 「輪友」月刊雑誌、輪友社 明治34年から大正?
  • 「簡易自転車修繕法」佐藤喜四郎著 快進社明治35年
  • 「自転車全書」松居真玄著 内外出版協会明治35年
  • 「自転車指針」梅津大尉著、快進社 明治35年
  • 「猟輪雑誌」月刊雑誌、猟輪倶楽部 明治35年から明治36年?
  • 「輪界」月刊雑誌、輪界雑誌社 明治41年から明治45年?
  • 「清輪」月刊雑誌、清輪時報社 明治43年頃
  • 「横浜成功名誉鑑」横浜商況新報社 明治43年
  • 「輪界追憶録」佐藤半山遺稿 昭和2年頃
  • 「堺の自転車」堺輪業協会 昭和14年
  • 「自転車の一世紀」自転車産業振興協会編 昭和48年
  • 「発明の歴史自転車」佐野裕二著 昭和55年
  • 「自転車 -85年版資料目録」日本自転車史研究会編 昭和60年
  • 「自転車の文化史」佐野裕二著 文一総合出版 昭和60年
  • 「自転車の文化史」佐野裕二著 中公文庫 昭和63年
  • 「自転車・機械の素」INAX BOOKLET  昭和63年
  • 「自転車の歴史」D、アンドリッチ著 平成4年
  • 「自転車文化センター所蔵目録」日本自転車普及協会編 平成4年
  • 「轍の文化史」斉藤俊彦著 ダイヤモンド社 平成4年
  • 「資料で語る日本の自転車史」自転車文化センター編 平成5年
  • 「くるまたちの社会史」斉藤俊彦著 中公新書 平成9年

 

謝 辞

この小論を書くにあたり、私は下記の人々から大きな援助を受けました。この場を借りお礼申し上げます。
マイケル・ブライアン、佐野裕二、今井彬彦、梶原俊夫、斧隆夫、小林恵三、渋谷良二、
齊藤俊彦、三輪健治、八神史郎、須賀繁雄、中村博司、ドナルド・スピ-ディン、小池一介の各氏。