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4)四の間 レイナードはなぜ倒産したのか(再録)

 現在、全日本選手権フォーミュラ・ニッポンはワンメイクシャシーを用いたレースとなっている。しかしそれ以前の国内トップフォーミュラは、長年にわたってFIA規格であったF2あるいはF3000で開催されていた。そこには、ヨーロッパはもちろん、国内のコンストラクターから個性あるシャシーが参戦していた。
 
 しかし時代は移り変わり、まずはヨーロッパでワンメイク化への流れが生じた。その最大の原因は、シャシーの高性能化に伴うコスト高騰にあった。その結果、複数のコンストラクターが技術競争をすれば、その開発コストでコンストラクターが疲弊してしまうという問題、開発コストを回収するためにはまとまった台数を販売する必要があり、市場規模的にシェアを分け合うだけの余裕がないという問題が生じた。
 
 ヨーロッパでは96年のレギュレーション改正時、国際F3000選手権をシャシー、エンジンともにワンメイク化することが決まった。しかし国内ではワンメイク化をよしとはせず、従来のF3000規定を引き継ぐ形でJAF-F3000規定を定め、事実上日本独自の規格でフォーミュラ・ニッポンを開催することになったのはご存じの通り。
 
 しかし前述したようにフォーミュラカーのみならずレーシングカーの開発コスト増大という問題から逃れることはできず、当初はローラ、レイナード、Gフォースなど複数のコンストラクターが参戦したものの、急激な淘汰が起き、事実上レイナードのワンメイクレースと化していった。だがそのレイナードすら、伸展するレーシングビジネスの中で躓き、02年3月に倒産する。
 
 その時点で唯一のシャシー供給コンストラクターであったレイナードが倒産したため、屋根の上でハシゴを外された形になったJRPは、04年に予定していた車輌の切り替えを1年前倒しとし、03年にシャシーのワンメイク化に踏み切った。そして現在に至っている。
 
 近年、国内独自のフォーミュラカーレース・イベントとしてファンの興味を引き、参加チームのモチベーションを上げるためにワンメイクからの(部分的)脱却を模索する動きがある。F・ニッポン立ち上げ当時、ワンメイク化論者であったわたしも、今はその動きに賛同するものである。だが、その前になぜワンメイクレースに至ったのかを改めて確認しておく必要があるだろう。というわけで、レイナード倒産について取材執筆した原稿を発掘してきたので紹介しておく。レイナードの運命を今振り返ることで、現在モーターレーシング界、とりわけレーシングカー・コンストラクターが置かれている状況の理解が進めば幸いである。(初出:月刊レーシングオン06年7月号)
 
『フォーミュラ・ニッポンのワンメイクを理解するために』
 
■レイナードの誕生と発展
 2001年9月11日、世界貿易センタービルに旅客機が突入する光景をアメリカ人はもちろん日本人を含め世界中の人間がTV画面を通しリアルタイムで目撃した。しかしこの同時多発テロが、レイナードというレーシングカーコンストラクターの運命を変えると悟った者は果たしてどれだけいただろうか。

 レイナード・モータースポーツ社は、1973年に元レーシングドライバーであったエイドリアン・レイナードがその後マーチF1チームへ加わるビル・ストーンとともにオリジナル・フォーミュラフォード(FF)の車体を開発したことに端を発する。手元の資料では明確ではないが、レイナードの名前で初めて世に送り出されたのは74年のFF1600だったようだ。その後、レイナードはFF1600、FF2000で大成功を収め、その評価を元にフォーミュラボクゾールなどワンメイクシリーズに対する車体供給を受注するなどしてコンストラクターとしての経営を軌道に乗せる。
 
 その後85年に初のF3、853を開発、VWエンジンを搭載したマシンは、アンディ・ウォレスが乗ってなんとイギリスF3選手権開幕戦で事実上のデビューウィンを飾る。その後も853は突進しラルトの反撃を受けるまで6連勝、18レース中7勝を挙げて、注目のマシンとなった。
 デビューしたレイナードF3は先進的だった。F3では初めてフルカーボンコンポジット構造のモノコックにグラウンドエフェクトを意識した空力ボディを備えていたのである。翌86年もレイナードはF3を舞台にラルトと格闘して実績を残し、イギリスのマイナーフォーミュラから飛び出し世界的メーカーへの第一歩を踏みだした。
 
 我が国の関係者も、新興勢力レイナードの速さには早くから注目、85年度全日本F3選手権の最終戦には早くも853がデビュー、87年にはロス・チーバーがシリーズチャンピオンとなって徐々にシェアを伸ばしている。ラルト全盛だったF3界におけるレイナードの台頭は、アルミモノコックからカーボンモノコックへの技術革新の流れが後押しをしたものだった。
 
 アルミモノコック時代には、様々な中小コンストラクターがF3シャシーを開発、実戦に登場させた。しかしカーボンコンポジット技術は高度でしかも開発資金が必要かつ製品そのものも高価にならざるをえず、結果的にコンストラクターの淘汰を引き起こした。生存競争に生き残れるコンストラクターは限られており、早くからカーボンコンポジット技術を武器にしていたレイナードは先達を押しのけて生き残りシェアを世界的に拡大するのである。
 
■開発コスト増大と路線転換
 勢いに乗ったレイナードは88年、国際F3000選手権向けに88Dを開発、シリーズへ送り込んだ。それまでの国際F3000選手権では老舗ローラとマーチがシェア争いを繰り広げ、少数派のラルトとワンオフのダラーラが加わるという図式で闘いが展開していた。そこに新興レイナードが殴り込んでジョニー・ハーバートがデビュー戦で優勝し、猛威を奮うのだ。当時は国際F3000選手権よりもF1グランプリに近いシリーズと言われていた全日本F3000選手権でもローラ、マーチをはじめとする複数コンストラクターが並立して戦っていたが、そこへ88Dが割り込み、その後の戦況を変えていく。

 F3同様、F3000もカーボンコンポジット構造のモノコックは当然のものとなり、空力性能を追究するために風洞実験がシーズンを通して必要不可欠になると、開発コストが高騰し、企業の体力が問われる時代が始まっていた。マーチはほどなく活動を休止した。ローラは経営難もあってレイナードにシェアを奪われるようになり、開発費を確保できずに戦力が低下してさらに顧客がレイナードへ流れるという悪循環に陥った。というのも、カーボンコンポジット製のモノコックを新規開発するには、最低10基弱の販売台数を確保しなければ採算が取れなかったからだ。シェアに偏りが出来ればその偏りはどんどん拡大し、コンストラクターの淘汰が進んで事実上のワンメイク状態になる。
 
 FIAはこうした状況を理解してか96年、国際F3000をシャシー、エンジンともワンメイク化し、ローラはこの入札に応じて勝って、コンストラクターとして生き残る事に成功した。(ちなみにその後フォーミュラ・ニッポンがワンメイクシャシーとして導入したローラB351は、02年度国際F3000用ワンメイクシャシーとしてローラがFIAから受注したB2/50の流用版である)一方レイナードはF3000から上位、すなわちF1あるいはアメリカのCART(現チャンプカー)でのビジネスへ目を向け、開発の主力を移行していく。
 
■アメリカでの成功
 F3が軌道に乗ればフォーミュラフォード開発を止め、F3000が軌道に乗ればF3開発を止め、F3000の場合は日本がフォーミュラ・ニッポンを旧F3000規定に準じた形式で開催続行したため少々話は違ったが、やはりレイナードは目標をより上位のカテゴリーへと向けてきた。旧来のコンストラクターが、様々なカテゴリー向け商品ラインナップを広く揃えようとしたのに対し、レイナードは一点集中上昇主義をとった。
 
 これはレイナードの方針というよりも、レーシングカーの開発コストが高騰したため企業戦略として好むと好まざるとにかかわらず、近代コンストラクターとして進まねばならない道だったのかもしれない。もっとも、F1進出計画はなかなか軌道に乗らず、90年代初めのプロジェクトは結局他のコンストラクターにバラ売りされたりもしている。94年にデビューしたパシフィック・レーシングがデビューさせたマシンは、元々はレイナードが基礎開発したコンポーネントを流用したものである。

 一方、アメリカ進出は大成功を収めた。94年にCARTシリーズにシャシーを供給するとデビュー戦でマイケル・アンドレッティの手により優勝を納めその後一気にシェアを広げる。その成績は実に01年まで通算約150勝、95年から01年まで7年連続でコンストラクターズ・チャンピオン獲得という有様だ。この間、アメリカは好景気の中にあり、CARTシリーズ自体が繁栄し出走台数を集め一大市場となっていた。CART用シャシーは1台約5000万円と単価も高かったが、絶好のタイミングでシェアを確保したことがレイナードにとっては幸運でもあり、ある意味ひとつの境界線を超えるきっかけにもなった。
 
 レイナードはアメリカで得た利益を元に、99年にジェミニ・トランスミッションと、アメリカのシャシーメーカー、ライリー&スコットを買収する一方、シーズン中の開発熟成のためインディアナポリスに開発用風洞を備えたオートリサーチセンターを開設するなど、その経営を一気に拡大した。またイギリス国内ではBARとのジョイントに成功し、BARのためにF1グランプリカーシャシーの開発を担当することになって工場を拡張、英国ブラックリーの工場は拡張されて「レイナードパーク」と呼ばれるに至った。

 レイナードについてひとつの伝説が語られるようになった。新たに進出したすべてのシングルシーター・フォーミュラ・カテゴリーで、デビューウインを飾っているというのだ。例外も存在するのだが、技術を先取りしてステップアップを続けたレイナードならではの伝説ではある。(BARでのF1デビューは、まさにその例外である)
 
■レイナードとフォーミュラ・ニッポン
 レイナードは商品ラインアップこそ揃えようとはしなかったが、様々な顧客からワンオフ、あるいはワンメイクプロジェクトも受注してはいた。96年、全日本F3000選手権の後を引き継いで始まった全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(F・ニッポン)も、レイナードにとってはそれなりに大きなビジネスだった。
 
 F・ニッポンを運営するJRPは、国際F3000選手権と一線を画しワンメイク化を嫌って当初シャシーメーカーに制限を加えず、99年度から3年間はレイナード、ローラ、Gフォースの3コンストラクターを指定、シャシー競争を続けさせようとした。しかしローラはすでに新規シャシーをFニッポンのために開発する気はなく国際F3000で用いている安価なワンメイクシャシーの改造版を持ち込んだ。新興Gフォースは新たな市場を開拓すべく意欲作を新規開発したが熟成が十分ではなく、戦闘力を発揮することはなかった。

 これに対しレイナードは、F1とCARTでのビジネスを主軸としたうえで、若手技術者にF・ニッポン用シャシーを新たに開発させた。このシャシーは他国のワンメイクシリーズ等に流用することも考慮したものではあったが、風洞実験を含め本格的な開発体制の下で設計製作されたものであった。勝敗は明白、当初ローラを選んだユーザーもシーズン途中でレイナードを買い直し、Fニッポンは事実上レイナードのワンメイクシリーズと化した。その成績は98年以降01年まで4年連続、通算5回のシリーズチャンピオン獲得と、日本市場でのビジネスの成功を加わってレイナードの経営は頂点に達した。しかしそんなとき、運命の01年9月11日がやってくる。
 
■テロに躓いたレイナード
 同時多発テロは、ソフトランディングを目指していたアメリカの好景気を一気に失速させた。その結果、アメリカレース界におけるスポンサーも急速に減り、市場規模が縮小することになった。景気の失速は、勢いに乗って膨張してきたレイナードのビジネスも直撃した。レイナードは好景気が続くアメリカで、より大きな経営資金を確保すべく、株式市場上場の準備を進めていた。ところがテロの影響で投資家が投資を控え、予定していた上場は不可能になってしまった。これにより予定していた経営資金は集められなくなった。
 
 さらにCARTチームの減少、シャシー販売台数の減少により、拡張した開発施設の維持費、集めた人員の人件費はレイナードの経営を直接圧迫し始め、レイナードの業績は一転、急速に悪化する。グループ企業全体の従業員数は200人を超え、01年度の売り上げは4千万ポンド以上、自動車産業及び貿易に貢献したとして英国政府から数々の公的な表彰も受けてレイナードの経営は順風満帆だったはずだった。しかしその大きな帆に受ける風が止まってしまったのだ。そして02年初め頃からレイナードの経営が危機に瀕しているとのウワサが流れ始めるに至った。
 
 レイナード・モータースポーツの創立者であり代表でもあったエイドリアン・レイナードは、経営を立て直すべく様々な市場で可能性を探る一方リストラを進めながら出資者を探したが、すべての努力は不調に終わった。プレミアF1シリーズと名乗る怪しげなワンメイクレースシリーズのシャシー独占供給契約を落札したものの、シリーズは開催延期となり、経営上の誤算をさらに拡大した。結局会社は日本時間の2002年3月29日、管財人の管理下に入って事実上の倒産をしてしまった。負債総額は300万ポンド(5億6700万円当時)と言われた。
 
 9.11以前、我が世の春を謳歌していたレイナードは高価なCART用シャシーをスペアも含め年間40台から50台販売していたという。ところがアメリカ経済が失速した途端、その売り上げは半分になってしまった。とはいってもレースは続く。CARTがワンメイクでなくライバルがいる限り、レイナードは従来と変わらぬレベルで車輌を開発しなければならないし、シーズン中も熟成作業を進めなければ対抗は出来ない。対抗出来なければ成績が残せずシェアはさらに減る。レイナードは大成功を収めたがゆえに抜け出せないループの中に入り込んでしまったのである。

 数を売らなければビジネスが成立しなくなったのは、言うまでもなくレーシングカーのシャシーがカーボンコンポジット構造であることが当たり前になり、綿密な風洞実験をするための巨大風洞を1年中稼働させて細部の熟成を常に進めなければ勝負に勝てなくなった結果、レーシングカー開発のコストが高騰したためだ。言い換えれば、レイナードが先取りして成長のきっかけにしたレーシングテクノロジーの進化が、皮肉なことにレイナードを常に成長を続けない限り生き残れない迷路の中に追い込んでしまったのである。
 
■F・ニッポンのワンメイク化
 事実上レイナードのワンメイクレースと化していたF・ニッポンにとっても、この倒産騒動は他人事ではなかった。レイナードの管財人には、元オニクスF1チームでGフォースのディレクターも務めたポール・シェイクスピアが率いるIRMと名乗るグループが接触、レイナードの買収に取りかかった。彼らはCARTやFニッポンに関するビジネスの権利、パーツ製作ライセンスを含めて手中に入れようと考えていたようだ。

 しかしFニッポンを運営するJRPは管財人と交渉し、シーズン前に結んでいた契約に基づきFニッポン用車両に関係するスペアパーツその他関連資材を確保することに成功してIRM抜きでシーズン続行の目処をつけた。この間、IRMはF・ニッポンの現行マシンのスペアパーツや次期車輌についての売り込みをJRPに対して行った模様だが、JRPは当初04年に予定していた車輌の切り替えを1年前倒しにして03年、シャシーのワンメイク化に踏み切りローラの車輌導入を決めた。奇しくも当時ローラの社長、マーチン・ブレインの下でコンサルタントをしていたのは82年にレイナードに加わり、エイドリアン・レイナードの相棒としてレイナード成長の立役者となった後、BARに移籍する形でレイナードから離れた形になっていたリック・ゴーンである。
 
 一方、CARTの方もIRMの思い通りにレイナードの資産を引き継ぐことが出来ず、2座席スポーツカー部門は入手したものの、結局ジョン・ニールセンのRNモータースポーツへ転売する形となってレイナードを全面的に買収しようとしたIRMの目論見はほとんど実現しなかった。ちなみにこのときRNモータースポーツが引き継いだレイナードの2座席スポーツカープロジェクトは最終的にザイテックのものとなった。今年全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)に参戦したザイテック05Sは、元をたどれば倒産時にレイナードが開発していた02年向けシャシーそのものをベースに改良を加えたものだ。

■レイナードの終焉
 レイナードが管財人の管理下に落ちたことが発表されたのは、現地ではイースター(復活祭)を前にした金曜日(3月28日。この年のイースターは31日だった)のことだ。こうしたタイミングで倒産する企業は少なくないという。週末と復活祭の休日が続き、債権者にとっては法的な対抗手段がとれなくなる時期なのだ。また、このとき倒産したのはあくまでもレイナード・モータースポーツ社であって、BARと組んで進めていたF1部門は無関係だったので、エイドリアン・レイナードもリック・ゴーンも路頭に迷うということはなかった。エイドリアン・レイナードの私財が失われると言うこともなかった。
 
 会社整理の潔さとタイミング、その後の悠々自適の生活を眺めて「計画倒産」と囁く向きもあったが、結局レイナード・モータースポーツ社は解散し、従業員や技術者は、ちりぢりになって他のコンストラクターやチームなどレース関係企業へ移籍していった。英国ではモータースポーツ産業は社会的に確立しており、彼らの受け皿はそれなりに存在したのである。こうして、「新興」コンストラクターであったレイナードは進化するレーシングテクノロジーの流れに乗って急成長を遂げて世界を制したが、思いがけない事件がきっかけとなって一気に崩壊した。この崩壊劇は現代レーシングカーコンストラクターが直面する問題を象徴するものだったと言えるかもしれない。(大串 信)
 
(注)以上の原稿は2006年6月の時点で執筆されたものであることをご了承ください。