平安時代

桓武天皇の即位
白壁王のあと、皇位を継いだのが桓武天皇です。
西陣に住んでます-天皇家-藤原家系図
氷上川継の乱
782年1月10日川継の資人であった大和乙人が、密かに武器を帯びて宮中に侵入し発見されて逮捕されるという事件が起きた。
乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画があることを自白する。
内容は、同日の夜、川継が一味を集めて北門から平城宮に押し入り、朝廷を転覆しようというものであった。
11日、川継を召喚する勅使が派遣されたが、川継はこれを知って逃亡したので、三関の固関と川継の逮捕が命じられた。
14日に至って川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。
川継の罪は死刑に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされた。川継の妻藤原法壱も夫に同行した。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。
さらに連坐して、法壱の父である参議藤原浜成はおりから大宰員外帥として大宰府に赴任していたが参議を解任された。
浜成の属する藤原京家はこれをきっかけに凋落に向かう。この後、京家出身の公卿は、浜成の子藤原継彦が非参議の従三位、孫の冬緒が大納言となったのみで、やがて歴史から消えてゆくこととなる。
3月、藤原浜成の娘を妻に持つ三方王も、連座の罪で、妻の弓削女王(父は三原王、祖父は舎人親王)と共に日向国に流罪となりました。この結果、天武系の血統が絶えました。

長岡京遷都
彼はまず、天智天皇系の都であった平城京、大和の地を捨てて山背国へ遷都することにします。
784年藤原種継の勧めに従い、山背国乙訓郡長岡に遷都した。
遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。
実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。
785年種継は暗殺された。事件の背景には、大伴・佐伯氏らとの対立、さらに種継と皇太弟早良親王との対立があったといわれる。
犯人は大伴継人ら、反藤原氏勢力で死刑に処せられました。
長岡京は、事件後も都として使われていたが、天皇の側近者の死亡や疫病の流行などが相次ぎ、再び遷都が計画された。
さらに、天皇の異母弟の皇太子早良親王(さわら)も陰謀に関わったとして捕らえられ、淡路へ流罪となるのですが、彼は無罪を主張し、抗議のため絶食して死にました。その後、天皇家と藤原家に次々と不幸が訪れました。
早良親王の怨霊?
786年  妻の藤原旅子の母の藤原諸姉が死去
788年  妻の藤原旅子が死去
790年  皇太后の高野新笠が死去
790年  皇后の藤原乙牟漏が死去、皇太子の安殿親王が病気
792年  長岡京で二度の大洪水









宮都の変都 
天皇    年代   都 
持統天皇 694年 藤原京
元明天皇 710年 平城京
聖武天皇 740年 恭仁京
聖武天皇 744年 難波宮
聖武天皇 744年 紫香楽宮
聖武天皇 745年 平城京
桓武天皇 784年 長岡京
桓武天皇 794年 平安京

こういった中、桓武天皇の信頼が厚い和気清麻呂は桓武天皇に対し、水害に見舞われやすい長岡京から立地条件の良い場所へもう一度遷都することを進言します。
793年、桓武天皇は和気清麻呂の進言を取り入れ、造営中であった長岡京を諦めて新たに都を造営する場所を山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどのぐんうだむら・現在の京都市)に決定、早速造営を開始させます。
同時に副都であった「難波宮」を廃止します。
794年、造営中の新都を「平安京」と名付け、長岡京から遷都します。ここから華やかな平安時代は幕を開け、平安京は明治に至るまでの約1000年以上の永きに渡って日本の首都となるのです。

蝦夷を征討せよ!
Photo_4奈良時代末期から平安時代初期の武官・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ,758-811)は、東北地方の征討・経略(統治)に非常に大きな貢献をした人物であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が信奉した第二代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)としても有名です。794年頃に征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初代の征夷大将軍と解釈する見方が有力ですが、当時は東国支配の長を征東大使や征夷使とも呼んでいました。坂上田村麻呂は、797年に桓武天皇によって征夷大将軍に任命されています。
征夷大将軍という臨時の官職名の前提には中国の中華思想と律令政治があり、天命を拝受した天子(皇帝・天皇)が夷狄(いてき=野蛮な異民族)を征伐するという意味合いがあります。
実際には、奈良時代から平安時代にかけての関東以北(坂東以北)の陸奥・出羽地方(奥羽地方)の原住民(蝦夷)が、必ずしも野蛮・凶暴だったわけではありませんが、大和朝廷(天皇)中心の日本国の内地拡大の正統性を示すために『蝦夷征討(未開の異民族の征伐)』という言い方が為されています。
中華思想の華夷秩序によって、天皇の在所(朝廷)がある大和・山背(山城)など近畿地方周辺を『文明圏』と考え、その文明圏から遠く離れれば離れるほど『未開の異民族(蝦夷)』が支配する領土に入っていくという地理感覚が当時の貴族(公家)にはありました。
大和朝廷の軍事力による『奥羽地方の蝦夷攻略』というのは、飛鳥時代や奈良時代から続く『東国支配の延長上』にありました。律令制を整備しようとした聖徳太子の登場以降、中央集権的な日本国の領土を関東以北(奥羽地方)に広げようという政策が続いていました。
724年に東北支配の拠点となる多賀城が大野東人(おおののあずまんど)によって建設され、
762年には藤原朝葛(ふじわらのあさかり,葛の字は正確には「けものへん」が必要)によって多賀城の補強工事が為されました。
719年に朝廷は奥羽地方を統治する官職として按察使(あぜち,地方行政の監督官・令外官)を制定し、
780年には紀広純(きのひろずみ)が按察使を務めていましたが、夷俘(俘囚=朝廷に帰属した蝦夷)出身の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こしました。
多賀城を襲撃した伊治呰麻呂は食糧・財物を収奪して放火しましたが、この反乱に対して平城京の朝廷は、征東大使・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)、征東副使・大伴益立(おおとものますたち)・紀古佐美(きのこさみ)を陸奥の多賀城に派遣しました。
しかし、藤原継縄率いる蝦夷征伐のための官軍は伊治呰麻呂らの俘囚軍に圧倒されて敗戦し、光仁天皇は征東大使を藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)に置き換えて再度戦いを挑みますが反乱の鎮圧に失敗します。
784年から桓武天皇は本格的に陸奥地方の反乱の制圧に取り掛かり始めます。
桓武天皇の二大業績は『長岡京・平安京の造都(中枢の強化)』と『陸奥地方の征討・経略(周縁の拡大)』ですが、この二つは長岡京遷都のある784年以降同時並行的に進められていくことになります。古代の昔から明治時代に至るまで、日本は京都・江戸(東京)に中央政府を置いて南北に領土を拡大していきましたが、平安時代には南方にいた異民族の隼人(はやと)は大部分が既に朝廷の権威に服属していました。
784年に、持節征東将軍・大伴家持(おおとものやかもち)、副将軍・文室与企(ふんやのよぎ)と大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らの兵力が陸奥の多賀城に向かいました。
老齢の大伴家持が征東将軍に任命された背景には、前回の陸奥遠征で讒謗(ざんぼう)によって処分された大伴益立の汚名を雪ぐという本人の意志がありましたが、家持は目立った戦果を上げることができず785年8月に陸奥の地で客死(かくし)しました。
大伴家持(718-785)というと『万葉集』の編纂に関与した歌人としての顔が有名ですが、大伴氏は元々軍事貴族であり大伴家持自身も朝廷の武門としての自負を持っていたようです。
桓武天皇の御世には合計して5回の蝦夷征討(東北征討)が実施されますが、1回目(大伴家持)と5回目(坂上田村麻呂)の蝦夷征討では実際の戦闘は行われず、5回目の征討(804年)の二年後(806年)に桓武天皇は崩御しました。
桓武帝の蝦夷征討や蝦夷の指導者・アテルイ(阿弖流爲)については、『日本紀略』や『続日本紀』などの史書に記述が残されています。
788年第一次征討では紀古佐美が征東大使、多治比浜成が副使となり5万2800余名の兵士を率いますが、胆沢に本拠を置く蝦夷の賊帥・アテルイ(阿弖流爲)に巣伏村の戦いで大敗を喫して撤退しました。
791年第二次征討では、征東大使・大伴弟麻呂を副使の坂上田村麻呂が補佐して、初めて蝦夷軍に大勝利を収めることに成功します。
793年にはそれまで『征東大使』と呼ばれていた東北討伐軍の長の官職が『征夷大使』と改められており、桓武天皇の蝦夷経略に対する意気込みの強さが表れています。
794年には大伴弟麻呂が史上初の征夷大将軍となっていますが、蝦夷との実際の戦いを指揮して卓越した武勇を見せ付けたのは坂上田村麻呂でした。
797年第三次征討では、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されており、朝廷の陸奥地方における勢力圏を多賀城の北部へと拡大しました。蝦夷との戦いに勝利した坂上田村麻呂は多賀城の北に陸奥統治の拠点となる胆沢城(いさわじょう)を造営し、その後、胆沢城は官衙(かんが=行政機関)としての役割を果たすようになっていきます。
第三次征討の翌年に当たる802年には、蝦夷軍の指揮官であったアテルイ(阿弖流爲)とモレ(母礼)が胆沢城に投降してきますが、平安京に移送されたアテルイとモレは坂上田村麻呂の助命も虚しく処刑されました。胆沢城の更に北には軍事的な前線基地としての役割を果たす志波城が803年から造営され始めますが、天災被害を受けることの多かった志波城の機能はすぐに徳丹城(とくたんじょう)へと移されました。
蝦夷を平定した坂上田村麻呂の奥羽経略の拠点は多賀城・胆沢城・徳丹城(志波城)となりましたが、桓武天皇の深い信任を受けた田村麻呂は『征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位下・陸奥守鎮守将軍』という陸奥・出羽地方の全権大使としての肩書きを得るまでに昇進しました。蝦夷反乱を鎮圧して東北地方(奥州地方)を日本の領土に組み込んだ坂上田村麻呂は、その後、『武人の鑑』として神格化されていき胆沢の鎮守府八幡宮には田村麻呂の剣や弓矢が奉納されて武家の崇拝の対象となりました。
第50代・桓武天皇と坂上田村麻呂による東北征討の後には、
808年に第51代・平城天皇が藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)を陸奥按察使に任命し、
810年には第52代・嵯峨天皇が文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を陸奥按察使・征夷大将軍(811年)にしています。
文室綿麻呂の蝦夷軍に対する決定的な勝利と対立的な蝦夷の日本各地への強制移住によって、蝦夷は次第に日本国へと同化していくことになります。
907年に編纂された『延喜式(えんぎしき)』によると日本各地に『俘囚料』という行政支出が見られるので、『服属した俘囚の同化政策』の推進のために俘囚の人たちの強制移住が行われたことがわかります。
桓武天皇の陸奥地方経略以前の時代には、東北地方の先住民を『蝦夷』と呼んでいたのですが、坂上田村麻呂や文室綿麻呂の征伐によって朝廷に服属する蝦夷が増え、蝦夷は『俘囚(ふしゅう)』や『夷俘(いふ)』と呼ばれることが多くなりました。『俘囚』には朝廷に完全に服属した異民族という意味合いがあり、『夷俘』という場合には中央政府への服属や同化の程度が弱い蝦夷という意味があります。しかし、蝦夷の人たちは朝廷の軍事力によって強制的に服属させられたわけですから、比較的安定した9世紀以降にも何度か俘囚による反乱蜂起が起こることになります。
『三代実録(さんだいじつろく)』という史書によると、出羽地方(秋田県)で
878年に『元慶の乱(がんぎょうのらん)』という俘囚の反乱蜂起が勃発したといいますが、この反乱の原因は秋田城司・良岑近(よしみねのちかし)の俘囚に対する重税と抑圧・差別にありました。
元慶の乱の平定には、備中国司の藤原保則(ふじわらのやすのり)と蝦夷の言語に精通していた鎮守将軍・小野春風(おののはるかぜ)が当たりました。
官吏側の苛烈な悪政に反乱の原因があると理解していた藤原保則は、俘囚(夷俘)の反乱に対して武力鎮圧を用いずに小野春風を起用した対話外交の懐柔策で臨み、俘囚たちを自発的に投降させることに成功しました。
元慶の乱の後には暫く俘囚の大規模な反乱は影を潜めますが、11世紀には、俘囚長・安倍頼良が源頼義に反旗を翻す『前九年の役(1051-1062)』と俘囚の清原氏が滅亡する『後三年の役(1083-1087)』が起こっています。
以上、平安京の造営、蝦夷征討の2本が桓武天皇の政策の代表で、このほか、東北や九州など戦争が激しい、もしくは予想される地域以外は軍団制にかわって健児(こんでい)の制(郡司の子弟に国府などの守備をさせる)を採用したり、地方行政の監視を強化するための勘解由使(かげゆし)の新設したのも特筆できます。
この勘解由使は、国司や郡司といった、今で言う都道府県知事の交代の際、前任者が今までの仕事できちんと、租税の納入や官有物を管理してきたかどうか、引き継ぎの後任者がチェックし、OKを出す際の書類である解由状が適正かどうかを審査する役人で、不正を取り締まろうというものです。
さて、意欲的に進められた桓武天皇の造営事業と蝦夷追討でしたが、とにかく財政に負担をかけたようです。
805年、藤原緒嗣(おつぐ 百川の子)の建議、つまり進言によって造都・征夷の事業は中止となり、翌年、桓武天皇は70歳で没しました。


薬子の変、起こる
桓武天皇のあとを継いだのが、平城天皇(へいぜい 位806~809年)。
公務員(笑)の削減や行政改革などの推進により、さらなる歳出削減を目指しますが、どうも病気がちで「これは激務に耐えられないな」と考え、さっさと弟に天皇位を譲りました。
こうして即位したのが嵯峨天皇(さが 位809~823年)です。
嵯峨天皇も人員や組織の見直しで朝廷の歳出削減に取り組み、さらに機密事項を扱うとして蔵人所(くろうどのところ)を設置しました。
さらに、平安京の警察機構の充実を狙って検非違使を設置。こうした、今までの令(りょう)に定められていない新しい役職を、令外官(りょうげのかん)といいます。
また、複雑化する法実務を簡便化するため、律令の改正を規定する格(きゃく)、さらに、それを実際に施行するための規則を定めた式を分類、編集した弘仁格式を整備。
さらに、今も良くあることですが、法律をどう解釈するかは読む人によって、意外にバラバラ。そこで、令義解(りょうぎのげ)が編纂されました。

ところで、嵯峨天皇に位を譲った平城上皇は、平城京で静養する内に体調が回復してきたらしい。そうすると「また天皇になりたいなあ」、なんて思ってしまうものです。それを察知し、権力の中枢に返り咲きをと企んだのが側近の藤原仲成と藤原薬子の兄妹。
彼らは、桓武天皇の側近にして暗殺された、藤原種継の子。そして、薬子は長女が平城上皇の妃でありながら、なんと、その平成上皇と男女の仲だったという関係でございました。
まだ桓武天皇が在位だった頃、これを訊いた桓武天皇が薬子を後宮から追放したこともあったとか。が、平城天皇即位により、また元の関係に戻ったとさ。
さて、「貴方なら出来るわ」と、薬子にささやかれた平城上皇。平城京で天皇の如く、色々と命令を出し始めます。嵯峨天皇としてはたまったものではない。役人達にも動揺が広がり、どこから機密が平城上皇側に漏れるか解らない。
そこで設置されたのが、先ほど紹介した機密を扱う蔵人所なのです。天皇が信頼した人間を集め、そのトップである蔵人頭(くろうどのとう)に藤原北家出身の藤原冬嗣が任命されました。さあ、いつでもかかってこい、兄上よ!!
おうよ、のぞむところだ!ということでしょうか。
810年、ついに平城上皇は「都を平城京に戻す」と宣言。
これに対し、嵯峨上皇は直ぐに反撃を開始。たまたま平安京にいた藤原仲成を逮捕し斬首すると、坂上田村麻呂率いる軍勢をを平城京に向けて進軍。
また、その他の拠点にも直ぐ朝廷軍を派遣し、平城上皇を包囲。一度は平城京を脱出した平城上皇と薬子でしたが、逃亡を断念し、お縄頂戴。
平城上皇は出家し、薬子は自害。
僅か数日でクーデターは終了するという、あっけない結果に終わりました。これを薬子の変といいます。
これによって、藤原式家は没落し、冬嗣の北家が繁栄していきます。これ以降北家以外の藤原氏が政権を代表することはなくなり、従って薬子の変は「藤原北家が台頭する契機となった事件」と位置づけられます。藤原氏のライバルは藤原氏以外の氏族に限られていきます。
ちなみに、この事件は日本書紀、続日本書紀に続いて朝廷が編纂させた『日本後紀』に書かれていますが、これには藤原冬嗣が編纂に関わっています。・・・とすると、藤原薬子のことも悪く書いたんだろうなあ・・・なんて推測されたり。
なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。
平城上皇第二皇子高岳親王(たかおかしんのう)は皇太子に立てられていましたが事件後、皇太子をやめされられ、代わって嵯峨天皇の異母弟・大伴親王が皇太子に立てられます(後の淳和天皇)。
平城上皇第一皇子阿保親王は大宰権帥に左遷されます。御存知、菅原道真が左遷された時と同じ処分です。
阿保親王は都から遠く離れた大宰府に14年間を過ごし…14年後の824年、平城上皇が崩御すると嵯峨天皇によってようやく都へ戻ることを許されました。
都へ戻されたといっても罪人の子ということで肩身の狭い立場だったようです。
2年後の826年、阿保親王は息子の行平、業平らに在原姓を賜り臣籍降下させています。
後に平安一の「色好み」として名を馳せる在原業平。この時わずかに2歳でした。

女性の名前に「~子」が普及したのは?
今やかなり減ってしまいましたが、一昔前までは綾子だとか、純子だとか、女性の名前には当たり前のように「~子」と付けることが多かったようです(もっとも庶民の場合、昭和初期は”ハツエ”とか”キン”とか、江戸時代に到っては”熊”とか”鍋”とかだったようですが)。しかし、小野妹子に代表されるように、元々は男性に使われる「~子」。
実は、嵯峨天皇が皇女達に「~子」と付けさせたことから、他の貴族も真似して普及したそうなんです。
てなわけで、小野妹子はオカマじゃありませんから!

仏教に新しい風を! 最澄、空海の挑戦
延暦寺
最澄が拠点にした比叡山の延暦寺。当初は比叡山寺と呼ばれ、最澄没後に延暦寺と改称しました。また、南都とよばれた興福寺に対して北嶺(ほくれい)といわれるなど、重要な寺。
のちには織田信長の焼き討ちに遭い、大きな打撃を受けますが、現在でも多くの信仰を集めています。
ところでこの時代。日本仏教界に2大スターが誕生しました。彼らの名前は最澄(さいちょう 767~822年)、それから空海(くうかい 774~835年)。
最澄は近江国(現在の滋賀県)の出身。東大寺で受戒した後、比叡山で修行生活に入ります。その中で、「仏教の中でも天台教学が魅力的だな」と考えるようになり、
804年7月に遣唐使船に乗り込みとして唐へ留学しました。
そして、天台教と真言密教を学んで帰国した彼は、天台宗を開き、奈良を中心に栄えた法相宗など、南都六宗と総称される、既存の仏教勢力から独立した、新しい仏教を開始しました。活動拠点となったのが、比叡山に開いた延暦寺です。

空海は讃岐国(現在の香川県)の出身。修行をしている内に、大和の久米寺で「大日経」をみてから、「密教を学びたい!」と考えるようになり、最澄と同時期に唐へわたりました。そして、青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)という、密教界でもの凄く偉いお坊さんから
「お前さんは超優秀じゃ。よし、ワシの全てを授けよう」
として、密教と、それに必要な多くの経典や仏具、曼荼羅(まんだら)を授けられ、また様々な中国文化も吸収し、2年で帰国。
そして、真言宗を開き、京都の高雄山寺(→神護寺)で活動を開始しました。

これを聞いた最澄は、自身も密教を学んだこともあって
「私も教えを乞いに行こう」
と、空海と親しく交わるようになり、
812年には最澄は空海から灌頂(かんじょう)を授けられました。これは、頭の上に水をそそぎかける、仏教での重要な儀式で、密教でも「秘法を伝える」という重要なものでした。そんなわけで、二人の仲は強固に見えたのですが・・・。
4年後、教義を巡って二人は対立することに。
しかも、最澄の愛弟子が空海の下へ去ったこともあり、とうとう絶交してしまいました。
その後、最澄は法相宗の学僧徳一らと激しく論戦を繰り広げたり、筑紫国(現在の福岡県)や関東地方を巡幸するなど、精力的に活動。「仏法によって国家をまもること(=鎮護国家)」を目標とし、天台宗の地位を上げていき、822年に亡くなりました。ちなみに、その弟子である円仁(794~864年)、円珍(814~891年)は密教の教えを本格的に取り入れます。

 そんな2人も、激しく対立するようになり、のちに円仁グループは延暦寺で山門流を形成。円珍グループは園城寺(三井寺)で寺門派を形成。次第に、両者は激しくぶつかり合うようになり、鎮護国家どころか、朝廷を巻き込んだ、実に厄介な争いを繰り広げてくれましたとさ。やれやれ。

空海のお話パート2
では、ここで空海に話を戻しましょう。
816年から、修禅の道場として高野山に金剛峰寺を開く事業を開始。
さらに、嵯峨天皇から京都の東寺を与えられ、教王護国寺として鎮護国家の根本道場としました。
加えて、高雄山寺を神護国祚(こくそ)真言寺と改称します。
この3つが、空海の拠点といえるでしょう。
また、空海は東寺の隣に綜芸種智院を建設し、仏教だけではなく儒教と道教も教える、日本初!一般庶民向けの教育機関を設立します。
さらに、土木事業にも精通していた彼は、故郷讃岐国の満濃池や、大和国の益田池の造営にも尽力。
さらに、嵯峨天皇、それから唐で一緒に学んだ友人の橘逸勢(?~842年)とならんで「三筆」と呼ばれる書道の達人としても名を馳せました。色々なことをやったもんですなあ。
ちなみに、いまでも多くの人が巡る四国八十八カ所、すなわち「お遍路」。
これは、空海が修行したといわれる足跡をたどるもので、平安末期から行われていたそうです。巡礼の順番も、鎌倉時代ぐらいからほぼ固まってきたようで、江戸時代から特に盛んになったそうですね。

承和の変
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823年嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位した。
833年嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に伝えられた。
仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。
嵯峨上皇による大家父長的支配のもと30年近く政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こらなかった。
この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。
良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。良房は道康親王の皇位継承を望んだ。
道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。
840年、淳和上皇が崩御する。
842年7月には、嵯峨上皇も重い病に伏した。
これに危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢である。
彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。
阿保親王はこれに与せずに、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に健岑らの策謀を密書にて上告した。皇太后は事の重大さに驚き中納言良房に相談した。当然ながら良房は仁明天皇へと上告した。
7月15日、嵯峨上皇が崩御。
7月17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。
皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。
7月23日になり政局は大きく変わり、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津を捕らえた。
仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃した。
藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となった。また、春澄善縄ら恒貞親王に仕える東宮職・春宮坊の役人が多数処分を受けた。
事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた。
通説において、承和の変は藤原氏による他氏排斥事件の初めで、良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。
しかし承和の変の最大の意味は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨-仁明-文徳の直系王統を成立させたことであろう。
仁明天皇は同年4月以後、内裏の修理を理由として当時恒貞親王が居住していた冷然院内に滞在しており、天皇の警護を名目として院内に滞在していた天皇側の兵が、いつでも皇太子を囲むことが出来る状況下にあり、皇太子の側で天皇に対する呪詛がおこなわれているとか、謀略の企みがあるなどという噂がさかんに流れていたともいう。
しかし良房が、この事件を機にその権威を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いたことは事実である。

清和天皇の即位と応天門の変
858年、文徳天皇が亡くなると、惟仁親王が9歳で即位します(清和天皇)。
866年4月28日応天門と呼ばれる朝堂院(国家儀式を行う場所)の正門が炎上しました。
伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をのろって火をつけたものだとされた。
大内裏にある門の名前はそれぞれの門を管理する豪族や貴族の名前が付けられていて、今回の「応天門」はもともとは「大伴門」と言って「大伴門」→「応天門」となったそうです。
つまり「応天門」は「大伴氏(伴氏)が守っていた門」で大伴氏(伴氏)からすれば一族の象徴みたいな門なんです。
藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。
参議藤原基経がこれを父の太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。
8月3日、備中権史生の大宅鷹取が応天門の放火の犯人は伴善男とその子伴中庸であると訴え出る。
鷹取は応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の子女が善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたと言われる。
告発者を保護し、虚偽の告発であった場合に処罰するための法規に基づいて、鷹取は左検非違使に引き渡される。
天皇は勅を下して大納言南淵年名、参議藤原良縄、参議菅原是善らに伴善男の取調べを命じた。
伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問されるが(杖で打ち続けられる拷問を受けていた可能性もあり)、彼らは犯行を認めなかった。
しかしその後の取調べで、伴善男に対し「伴中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、善男は観念して自白したという。
9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。
伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に、またこれに連座した紀夏井は土佐国、伴河男は能登国、伴夏影は越後国、伴冬満は常陸国、紀春道は上総国、伴高吉は下総国、紀武城は日向国、伴春範は薩摩国に流された。
また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。
藤原氏の勢力削減を図った伴善男であったが、結果として伴氏らが一掃され藤原氏の権勢が増す事となった。
事件は国宝「伴大納言絵詞」に詳しく描かれている。
なお、摂政というのは聖徳太子や中大兄皇子が任命されていたように、皇族でなければ就任できない重要な役職でした。藤原良房は、その役職を皇族以外で初めて得たのですから、その権力の大きさたるや・・・といった感じです。
なお、この摂政という役職は、のちに「幼少の」天皇の権力を代行する役職、となり、成人した天皇の権力を代行する役職は関白(かんぱく)と呼ばれるようになります。
そもそも伴氏は、奈良時代末の藤原種継暗殺事件の一味となったことから伴氏の祖父や父が、配流されるという厳しい状況にありました。伴善男自身も父の配流地の佐渡で生まれたと考えられますが、許されて官途に就いてからは、猛勉強によって中国の古典や法律に秀で、才覚のある人物となりました。このため事件の時の天皇、清和天皇の祖父に当たる仁明天皇の寵愛を得て異例の出世を遂げていましたが、それゆえに彼のために不遇となったライバルも多く、その誰かが恨みを持って伴氏ゆかりの応天門を放火したと言うことが考えられるのです。

阿衡の紛議
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こうして権力を手に入れた藤原良房も亡くなり、後を継いだのは彼の養子であった藤原基経(836~891年 実父は藤原長良)。
彼は、清和天皇の後を継いだ陽成天皇が奇行が多いとして退位させ、
884年に光孝天皇(位836~891年)を即位させます。
そして、光孝天皇は政治を基経に一任しました。
ところが、光孝天皇は3年で亡くなり、次に即位したのは息子ながらも、源定省として臣籍に降っていた宇多天皇(位887~897年)でした。
彼は、藤原基経と直接的な外戚関係ではありませんでした。
それでも宇多天皇は、関白という役職を新たに設置して「政治のことは基経に任せる」としました。・・・が、このことを基経に伝える文章の中に「阿衡(関白の中国名)の任を以(もっ)て卿(けい)が任となすべし」とあったことが、基経を激怒させました。
この文章、宇多天皇のお気に入りだった文章(もんじょう)博士、橘広相(ひろみ)が起草したものだったのですが、基経としては橘広相と宇多天皇の親密ぶりが気がかりだったのです。
なにしろ、橘広相は娘である橘義子と、宇多天皇の間に2人の皇子を産ませており、このままだと次の天皇はまたまた藤原氏と外戚関係なし、という状況。
そこで「阿衡(関白)とはなんだ、阿衡とは! 摂政ではないということは、実質的には俺を左遷するつもりなんだろう!」 と抗議し、半年も仕事に出てきませんでした。当然、彼1人ならともかく、彼の息がかかった者も同調しますから、宇多天皇としては仕事が出来ない。
しかし、宇多天皇だって「私は立派な成人なんだから、摂政ほど完全に権限を白紙委任するつもりはない」と対抗。この混乱を、阿衡の紛議といいます。
しかし結局、宇多天皇が折れて「あの文章を起草した橘広相が悪かった。阿衡、つまり関白は摂政と同じ権力を持つ」と詔勅を発表。
かくして、基経は橘広相を追い落とし、宇多天皇政権でも権力を確立します。
しかし、宇多天皇が面白いはずがありません。こうして、打倒藤原氏のために引き立てていったのが、この事件を解決するために尽力した学者(文章博士)、菅原道真(すがわらのみちざね 845~903年)でした。
彼は文学者、詩人として超一流の人材で、
892年に歴史分野では「類聚国史」を編述(日本書紀をはじめとする5つの歴史書をまとめて、例えば神祇(じんぎ)、政理、刑法、職官など18の分野に類別、編集した大作)。
901年に成立した「日本三代実録」(光孝天皇までを記述)の編纂事業にも大きくかかわり、ここに六国史と分類される日本書紀以来の6つの歴史書が完結しました。 
復習になりますが、六国史とは「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の6つの歴史書のことですぞ。「類聚国史」は、「日本書紀」から「日本文徳天皇実録」をまとめたものです。
それから漢詩の達人であった道真は、900年に菅家文草(12巻)、903年に「菅家後集」1巻をまとめています。
また和歌も一流で、のちに成立した「古今和歌集」などの勅撰集(天皇の命令で編纂されたもの)に34首が収録。

菅原道真は上京し、怒りまくっている藤原基経に次のような内容の手紙を送ります。
1.文章博士などの役職にある人は古典(昔書かれた文)から言葉を引用して「詔」や「命令」を伝える文書を作成しますが、引用した全ての言葉の細かい意味などを完全に理解して引用するのは到底不可能です。ですから橘広相の書いた詔にある「阿衡」はあなた(藤原基経)に権限がないと言う意味で使ったのではありません。 
2.もし、今回のようなことで橘広相を処罰するなら文章博士などの役職に就いている人々はみんな罪に問われることになり、そんなことになれば文章道そのものが廃れてしまいます。 
3.橘広相は宇多天皇の即位に力を尽くした人物で、しかも嫁いだ娘は宇多天皇との間に2人の子供を産んでいます。その功績や血筋はあなた(藤原基経)でさえも到底かないません。このような素晴らしい功績があり才能もあり血筋も文句の言いようがない橘広相を処罰することはあなた(藤原基経)にとっても、これからの藤原氏の繁栄にとっても得策では無いと思います。

この橘広相を藤原基経よりも格上だとしておきながらも藤原氏の将来を心配してくれる内容の手紙に藤原基経は大変感動し、また基経の娘も宇多天皇に嫁いだこともあって藤原基経は怒りを収め、橘広相の罪も問われず、政界を揺るがす大事件は一気に解決に向かいます。


藤原時平の陰謀?
891(寛平3)年、ついに藤原基経が亡くなります。
彼の長男である藤原時平は21歳、次男の仲平は17歳、それから忠平は12歳と、いずれも若く、しかも官位が低かった。
さらに左大臣の源融は70歳、大納言の藤原良世は69歳と高齢。宇多天皇に強硬に意見できる者はいませんでした。
そこで、宇多天皇は直々に政務を執ることにし、菅原道真を蔵人頭に任命して出世コースにのせ、このあとどんどん出世させていきます。
政務面でも宇多天皇に色々と意見し、
894年には「遣唐使は不要である。唐は混乱状態にあり、今更我が国が学ぶものはありません」として、遣唐使を廃止させました。
この遣唐使の中心メンバーとして予定されていたのが、他ならぬ菅原道真と、その友人の紀長谷雄(きの はせお)だったので、個人的には、唐へ行きたくなかったのかな? なんて疑いも。
しかし、実際にほどなく唐が滅亡しているので、菅原道真は外国の情勢をよくつかんでいたことが解ります。
897年に、宇多天皇は息子に譲位しました。こうして即位したのが13歳の醍醐天皇でした。
ところが譲位について、藤原時平を無視して、菅原道真とだけ相談して決めたことが、とうとう藤原時平の堪忍袋を切らせてしまったようです。
おまけに、宇多天皇は譲位にあたって「醍醐天皇が成長するまで、政治は菅原道真と藤原時平を中心に行うように」なんて宣言しています。これには、他の貴族も怒りました。「なんで道真ばかり重視するんだ!」というわけです。
899年に菅原道真は右大臣へと出世(時平は左大臣に)。
色々恨みを買いながらも、引き続いて出世コースに乗っていたかに見えましたが・・・。
901年、菅原道真は醍醐天皇を廃位させようとしたとして、九州の大宰府の長官である大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されました。
これを聞いた宇多上皇(当時は出家して法皇に)は裸足で駆けだし、醍醐天皇に直訴しようとしましたが「関係者以外立ち入り禁止」とされて、面会はかないませんでした。
こうして菅原道真は、大宰府で2年後に病死。
藤原時平は最大のライバルを蹴落とし、醍醐天皇の厚い信任を受けて政治権力を行使することになります。なお、この菅原道真左遷は、誰が企んだものなのか、実際にはよく解っていません。
状況から考えると、おそらく藤原氏の陰謀であるとは思われますが・・・。
三善清行という学者貴族からは「右大臣を辞任せよ」と勧告されているなど、色々なところから恨みや妬みが菅原道真には向けられていました。

菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
906年菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国(ふじわらのさだくに・藤原南家)」が40歳の若さで急死。
908年菅原道真の左遷が決定した際、「醍醐天皇」に直訴するため裸足で駆けつけた「宇多上皇」の行く手を阻んだ「藤原菅根(ふじわらのすがね・藤原南家)」が雷に打たれて死亡。
909年菅原道真を左遷に追いやった張本人「藤原時平」の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか逆に蛇となった菅原道真に「控えよ!!」と一喝されて祈祷師はスゴスゴと退散してしまい、とうとう藤原時平は狂死。
913年貴族達の集団職務放棄の中心人物だった「源光(みなもとのひかる)」が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。
923年醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった「保明親王(やすあきらしんのう)」が21歳の若さで急死。(923年)
925年保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった「慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)」が5歳で死亡。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。

唐の滅亡が与えた衝撃
ここでちょっと、東アジアの情勢にも目を向けましょう。
さて、菅原道真が失脚してから6年後の907年。
彼が予想したとおり、中国全土を支配していた唐という国家は、
875年に発生した黄巣の乱で決定的な打撃を受け、そして朱全忠という人物によって滅ぼされました。
そして、朱全忠は後梁という国家を建国します。しかし、かつての唐のように強大な力があったわけではなく、
後唐(923~936年)
後晋(936~946年)
後漢(947~950年)
後周(951~960年)
と次々と国家政権が交代。さらに地方では10あまりの小国が分立します、これを、五代十国時代といいます。
これまでの唐という巨大国家が、東アジアの各国家に朝貢、つまり貢ぎ物を持ってこさせ、形式的に各国家を支配する一方で、唐の威光による保護を与えるという関係が崩壊しました。その影響もあり、これに前後する形で朝鮮半島では、日本とも関係が深かった新羅が弱体化します。
900年に、都を全州において後百済が、
901年に都を開城において後高句麗が独立し、
再び朝鮮半島は三国が争う形へと発展します。これを、後三国の動乱(後三国時代)といいます。ただ、この状態は長く続いたわけではなくて、
918年に後高句麗の国王、弓裔が信頼を失って追放されたことに伴い、侍中(宰相)の王健が高麗を建国。この高麗が新羅、後高句麗を服属させ、
936年に朝鮮半島を再統一しています。

926年に渤海国が滅亡しました。
この国家は中国東北部から朝鮮北部にかけて存在していたもので、高句麗滅亡後に、その遺民達と靺鞨(まっかつ)人によって建国されたもの。
日本とは新羅を牽制する意味もあって活発な交流、貿易を続け、727年以降、なんと34回も日本に使者を派遣。個人的に日本と渤海との親密な関係は研究すると非常に色々な発見があると思うのですが、ともあれ、使者は920年を最後に派遣されなくなります。
何故ならば、まず渤海国内部で政権抗争が発生します。
916年に耶律阿保機(やりつあぼき 872~926年)がまとめ上げた契丹人の国家「遼」による攻撃を受けるようになったからです。結局、この攻撃を防ぎきれず、
926年に渤海国は滅亡してしまいました(ちなみに、耶律阿保機自身も遠征中に亡くなってしまいました)。
さて、この時代の日本の対外関係は唐との関係ばかり注目されていますが、実際にはむしろ、新羅や渤海と深い交流を続けていたのです。もっとも、特に新羅とはライバル関係だったようで、753(天平勝宝5)年、遣唐使として唐に派遣されていた大伴古麻呂が、唐に朝貢する各国が一同に並んだ会議の中、座席の位置を新羅の上位にするよう抗議する事件が起こっています(笑)。

醍醐天皇と藤原時平の奮闘?
さて、菅原道真が去った朝廷では、醍醐天皇と藤原時平のコンビで政治が進みます。
この頃の朝廷では、それまでの律令体制による政治が崩壊しつつあり、一部の貴族や寺社、地方の有力者達が荘園(しょうえん)と呼ばれる私的な土地を多く確保。
何故かというと、地方の豪族や農民達が朝廷からの課税から逃れるため、有力者達に自分達の土地を寄付するようになったんですね。
すなわち、
「幾らか貴方様に収穫物を寄進しますから、ここは貴方の土地と言うことで税の取り立てから守ってくれませんか」
「おお、いいよ。郡司や国司が税を取り立てに来るようなら、俺が圧力をかけてやる。」
というわけ。そのため、地方の行政官である郡司がそこに課税に行っても、
「ここは○○様の土地だ! あんたに課税する権利はない! 文句があるなら○○様に言いな!」
と追い返される。さらに、人々は課税から逃れるために戸籍を偽造したりと、特に地方政治は混乱状態にありました。
902(延喜2)年を最後に、もはや班田(はんでん)は行われなくなったようで、その一方で同年、法に違反する荘園を作ってはいけないと太政官符を発布(延喜の荘園整理令)。対象は、なんと皇室にまで及びます。
そして、地方分権を進め、国司に一定の税の納入を義務づける一方で、地方国内の政治を任せるようになりました。
それまでは、地方の大まかな行政は朝廷から派遣されてきた国司が担当し、租税の徴収や文書の作成は郡司が行っていましたが、大きく転換したことに。中央省庁から派遣されてきた神奈川県知事が、鎌倉市長や藤沢市長に代わって、直接地方自治に乗り出した・・・ってな雰囲気ですかね。もちろん、これ以後は国司の権限が拡大し、郡司の権限は減っていきます。

それから法体系をさらに整備しよう!
907年には延喜格が完成。「格」は何度か登場していますが、律令の修正・追加法令のこと。
今回は869年から907年までに出された詔勅(しょうちょく)などを取捨選択しながら12巻にまとめました。ちなみに、格といえば「式」ですが、延喜式の方は完成が遅れ、藤原時平が亡くなった後、927年に完成し、施行されたのは、さらにその40年後! でした。

醍醐天皇と藤原時平は、菅原道真を追い出したことでえらく不評ですが、政治面では意欲的に国家建て直しのための改革に取り組みます。
また、政策としては殆ど実現はしませんでしたが、第13回で登場した学者政治家の三善清行は、彼が30年にわたって地方勤務や政治家として活動した経験から、意見封事12箇条を提出。「課税対象者が地方からどんどん消えているぞ!国家財政は危機的な状況になる」「大学生(だいがくしょう)や身分の低い官僚の待遇を是正せよ!」「贅沢を戒めよ」などと書かれており、当時の社会の実情を知る上で良い資料となっています。

委託化する国司達
ところで、国司が自分で課税しに行く・・・なんて、そんな仕事を全部やっていたら仕事に謀殺されますね。
しかし、きちんと朝廷から「これだけ国庫に納めろ」と言われた量の税金を確保しなければいけません。
そこで、有力な農民(田堵=たと)に一定期間、田畑の耕作を請け負わせて、「名」と呼ばれる課税対象となる土地から税を納めさせます。
その代わり、田堵は国司と結託することで有力な立場となることが可能。力を付けていった田堵は、大名田堵とも呼ばれます。
こうして、国有地を農民に班田し、「耕作させてあげる」代わりに様々な税を納めさせるシステムから、納税請負人に好きにやらせる代わりに一定の税は納めてもらう、というシステムへ変貌。この政治体制を王朝国家として、律令国家と区別することもあります。
ところが、国司は国司で、地方は好きに運営していいものですから、税率を好き勝手に設定する例も。
国司になればオイシイ利益が得られるのですから、何とかして国司になりたい!と貴族達は、朝廷や寺社に財産を寄付してポイントを稼ぎ、国司の座を得ます(こうして国司の座をゲットすることを、成功=じょうこう といいます)。また、同じ国の国司に再び任命されることを重任(ちょうにん)といいます。
そうしているうちに、「何も俺が田舎に行くこともないじゃないか」と考える奴らも登場。
なにしろ、国司と一口に言っても4種類に分かれ、守(かみ)、介(すけ)、豫(じょう)、目(さかん)という区別があったのですが、次第に守、介に権力が集中し、豫や目は仕事があまり無かった。そこで、自分の部下を代理として地方に派遣して政治を行わせるような国司も表れます。このやり方を遥任(ようにん)といいます。

色々問題はありましたが、 醍醐天皇の政治は延喜の治として一定の評価は得ています。その醍醐天皇は930年、天皇の住まいである清涼殿に落雷が起こり、多数の死傷者が出たことに仰天し、病死しました。なんでも、菅原道真の呪いと噂されたそうで・・・。

承平・天慶(しょうへい・てんぎょう)の乱
一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。
平将門、決起!
こうして地方の支配体制が大きく変貌している中、1つの事件が起こりました。
それは関東(坂東)で、高望王(桓武天皇の曾孫)の子孫、平氏の一族で内紛が発生したのです。
935年平真樹という土豪(土地の有力者)が、前常陸大豫の源護(みなもとの まもる)と紛争起こしたのですが、平真樹は平将門(たいらの まさかど ?~940年)に調停を依頼します。
そこで、「よっしゃ、俺に任せておけ!」
と、将門は源護に会うため、常陸に向けて出発しようとしたところ、彼の伯父である平国香と源護の息子、源扶が襲いかかってきたのです。
応戦した平将門は、これを撃退し戦争へ突入。
平国香の館などに攻撃を仕掛け、国香は自殺。源扶ら源護の3人の息子が討ち死にするという事態へ発展しました。
平国香は関東における平氏の実力者でしたから、彼の戦死によって関東の軍事バランスは大きく変わることになります。
そもそも、どうしてこのような事態になったのか。
平将門は、鎮守府将軍の平良将(よしまさ)の息子で、若い頃は当時の豪族によく見られるように、京へ行って有力貴族の家来となりました(そうして、ある一定の官位=肩書きをもらって帰郷するのです)。彼の場合は藤原時平の弟、藤原忠平に仕えたのですが、どうも宮仕えは性に合わず、しかも親が亡くなったので帰郷することに。
ところが、その相続を巡って父親の兄弟と対立が起こります。さらに、伯父・平良兼の娘と結婚したい、いやワシは反対じゃ、と紛争になったという説もあります。
ともあれ、引き続き平将門は一族を敵に回すようになり、平良兼が病死した後は、特に平国香の息子、平貞盛(さだもり 生没年不詳)と激しく争います。
そして騎馬隊を中心とした彼の軍勢は強く、孤軍奮闘どころか、貞盛側のほうが旗色が悪い状況。しかも、親分肌だった将門は、頼ってきた人物をかくまい、紛争があれば調停に出かけ、人々から絶大な人気を誇るようになるのですが・・・。
939年、常陸国司の藤原維畿より「お前がかくまっている、藤原玄明を引き渡せ!」という要求を拒否し、常陸国府を包囲。なんと藤原維畿を追い出してしまいました。
こうなるといよいよ、中央政府に反抗する要注意人物としてマークされます。
常陸国府襲撃から1ヵ月後、側近の興世王の進言に従った将門は新皇(しんのう)を称します。そして、常陸周辺の関東各地を支配し、自分の弟たちを国司に任命。なんと独立国家を作り上げてしまいました。これまで、田舎の豪族どもが何か騒いでいる、程度の認識だった朝廷も、さすがに関東独立の動きには驚き、平将門討伐の動きを加速させ、藤原忠文を征東大将軍、経基王(源経基)を副将軍として派遣することにしました。
940年、平将門が兵士達を、農作業のため帰郷させている隙を狙って、平貞盛と藤原秀郷(藤原北家の傍流)が率いる軍勢が将門に戦いを挑み、将門を戦死させてしまいました。将門が新皇を名乗ってから約1ヶ月後、正式な朝廷からの将門討伐軍も到着する前のことでした。
そして、この功績によって平貞盛は、従五位上、陸奥守、鎮守府将軍に、藤原秀郷は従四位下、下野守・鎮守府将軍に任命され、都、東国で大きな力を持つことに成功し、子孫は関東で繁栄していきます。
こうして東国の動乱を、結局は土着の豪族によって討伐することに成功した朝廷でしたが、まだ西日本で不安材料が残っていました。それが、藤原純友による海賊行為です。


藤原純友の乱
将門の反乱を時をほぼ同じくして、藤原純友(藤原基経の甥、良範の子)率いる海賊集団が瀬戸内を中心に暴れ回りました。
藤原純友は、伊予国の豫(じょう 国司の1種)として赴任した後、土着して力を蓄えていた人物で、海賊を支配下に治め、船で運ばれる朝廷の輸送品や私物等を奪い、神出鬼没の海賊行為を行っていました。
そこで摂政、藤原忠平は、まずは海賊達を内部分裂させるため、投降すれば罪を問わず、所領も与える・・・と、甘いエサを宣伝します。
この取り組みを進めたのは、伊予守に任命された紀叔人(前回登場した菅原道真の友人、紀長谷雄の次男)。
狙いは見事に成功し、藤原純友の配下であった小野氏彦、津時成など2500人あまりが離脱したといわれています。こうして、しばらく藤原純友の活動は停滞します。
939年になると、再び藤原純友の活動が活発になります。
その活動範囲は紀伊や摂津から北九州、土佐にまで及んでおり、讃岐など各地の国衙(国府の政庁)を焼き討ちするという、大胆な海賊行為に出ます(果たして平将門と藤原純友が呼応していたかは、不明です)。
これに対し、平将門を討伐した朝廷は、追捕凶賊使として小野好古、補佐として経基王、征西大将軍として藤原忠文を派遣。
藤原純友は、なおも九州における朝廷の拠点である大宰府を焼き討ちにし、機能不全に陥れるなど活動を盛んにしますが、最大の部下であった藤原恒利が寝返るなど、次第に勢力は減少し博多湾で朝廷軍に大敗。
941年、藤原純友は潜伏先の伊予で討ち取られました。
こうして、朝廷が地方行政を立て直すために進めた国司による強力な支配体制は、逆にそれに反発する勢力を生み出す結果になりました。2つの大乱を鎮めた朝廷でしたが、以後も各地で起こる紛争に悩まされ続けることになり、”兵”(つわもの)と呼ばれる武装集団が跋扈するようになり、やがてそれは武士となっていきます。
これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。以後朝廷より、承平天慶勲功者の子孫のみが武芸を職能とする正統な家の者すなわち武士とされるようになった。


天暦の治
946年に、村上天皇(926~967,位946~967年 醍醐天皇の子)が即位します。
21歳で即位したこの天皇も、度重なる社会の混乱に立ち向かうべく、様々な改革を実行しようと奮闘するのです。
そのパートナーとなったのは、右大臣の藤原師輔(もろすけ)。藤原忠平の息子です。ただし、村上天皇は従来のように関白はおかず、自ら政治運営に乗り出します(即位後2年目までは、忠平が関白を務めましたが)。
まずは、国司に任命されておきながら、赴任しない貴族を処罰することにします。
国司に任命されたら、近国は20日、中国は30日、遠国は40日以内に赴任先に到着しろ!さもないと・・・という法令を出したのです。
また、これまで戦時を除けば高貴な貴族の方々の武装は許可されていませんでしたが、まさか非武装で”兵(つわもの)”と戦うわけにはいきません。
しかも実際、国司や郡司が殺害される事件が相次いで起こっていました。そこで、国司や郡司、下級官人達が普段から、帯剣できるように許可を出しました。
この他、朝廷による最後の貨幣となった乾元大宝の発行や、和歌の勅撰集である「後撰和歌集」の編纂など文学の振興など様々な分野に手を出した村上天皇の政治は、天暦の治と呼ばれますが、世の中の混乱、荒廃に疫病の流行は何ともしがたく、失意のまま967年、42歳の若さで亡くなりました。

安和の変
村上天皇が亡くなると、その息子である冷泉天皇が即位します。
967年冷泉天皇は生まれつき病弱で少し精神的な病気の症状も見られ、また年齢も17歳と若かったので父親の「村上天皇」の時代の約18年間途絶えていた「関白」の位を復活させ、「藤原実頼(ふじわらのさねより)」を任命します。
すると、ここで再び藤原氏による他氏排斥が起こります。
冷泉天皇が即位してスグ病気で死んでしまうかもしれず、また冷泉天皇には967年の時点ではまだ子供は生まれおらず、皇太子となるべき皇子も居ないという事です。
そんなわけで「冷泉天皇」の跡継ぎは「皇太子」でなく「皇太弟(こうたいてい・天皇の弟で天皇の跡継ぎ)」ということになり、冷泉天皇の同母弟の「為平親王(ためひらしんのう)」と「守平親王(もりひらしんのう)」が候補者として挙げられます。
しかし候補者を議論するまでもありません。なぜなら「為平親王」は「守平親王」より7歳年上のお兄さんで、しかも母親は2人とも同じ「藤原安子」、順番で行けば「為平親王」が「皇太弟」に選ばれるのは確実で、臣下の者達も「為平親王」が選ばれるものだと思っておりました。
しかし皇太弟に選ばれたのは、なんと弟の「守平親王」の方だったんです。
為平親王の妻は、村上天皇の弟である源高明(みなもとのたかあきら)の娘。
そのため、藤原氏は、為平親王が天皇となると源高明の権力が強くなることを恐れた。
969年、源満仲(みつなか 経基の子)と藤原善時(よしとき)は「橘繁延と源連(つらぬ)が、皇太子の守平親王を廃し、兄の為平親王を皇太子しようと企んでいる」
と、密告しました。
直ちに右大臣の藤原師尹(もろただ)は、関白・太政大臣の藤原実頼に通報し、橘繁延らが取り調べたところ、罪を自白。
しかも、この計画には藤原千晴(秀郷の子)や、為平(ためひら)親王の妃の父である左大臣源高明も関わっていると断定。
橘繁延は土佐、藤原千春は隠岐に流され、源高明は太宰権帥に左遷されました。
そして、冷泉天皇は弟の守平親王へ譲位し、円融天皇(位969~984年)が即位します。
これを安和(あんな)の変といい、これにより摂関家としての藤原氏の地位は不動のものに。


今度は藤原家の中で・・・
別に今回が初めてというわけではないですが、政敵を倒すと今度は藤原氏の中で「誰が摂政、関白になるか」ということが問題になります。
しかも、藤原氏なら誰でも摂政、関白になるというわけではなく、基本的に藤原忠平の子孫が就くのが慣例となります。
そうなると・・・その兄弟、叔父、甥で激しく争うようになります。
例えば、藤原忠平の孫、藤原兼通と兼家兄弟の争いは有名です。兼通のほうが兼家より四歳年上です。
出世レースは冷泉天皇の頃になると、兼家のほうが兼通より一歩リードしていました。
972年長兄で摂政及び太政大臣であった藤原伊尹が病気のため辞表を提出すると、兼通・兼家兄弟は後継者争いを本格化させます。
先手を打ったのは兄・兼通の方でした。
実は、既に亡き妹にして村上天皇の皇后であった安子が遺言として書いていた手紙があったことを思い出したんですね。
そこには、「関白は兄弟の順序に従いなさい」という意味の言葉が書いてあったわけです。
それを円融天皇(当時14歳)に見せ、「母の遺言に違いない。よし、解った」
ということで、目出度く兼通は弟に負けていた出世競争に勝利し、関白へ就任するのです。
兄は偉いのだ。解ったか、弟よ。
977年兼通は病気で重体になって亡くなろうとしていました。
それを聞いた弟、兼家は屋敷を突如出発し、兼通の屋敷に近づいてきました。その情報を家人(部下)から兄、兼通。
「ああ、日ごろから弟とは仲が悪かったが、やはり実の兄弟だ。見舞いに来てくれるとは本当に嬉しい。」
と感激し、早速迎えの準備を開始させました。さあ、いらっしゃい・・・あ、あれれ・・・? 
なんと、弟は非情にも兄の屋敷を通過して行ったのです。向かった先は、天皇の住居である内裏。
さあ、読者の皆さん。これはどういうことなんでしょう。もちろん、兄が亡くなった後の後継者は自分だ!とPRしにいったわけなんですよ。
直ぐに兄も気がつきました。兼通はフラフラしながらも内裏へ向かい、
「私の関白職は従兄弟の頼忠(実頼の子)に譲るぞ。そして我が弟、兼家よ。貴様は右近衛大将から治部卿へ左遷じゃ。」
と決定すると、1ヵ月後に病没しました。
やはり兄は偉いのだ。今度こそ解ったか、弟よ。


逆襲の兼家
兄によって野望を潰された兼家でしたが、チャンスは虎視眈々と狙っていました。
次の花山天皇の時、藤原兼家は自分の娘である藤原詮子と円融天皇の間に産まれた子を即位させるべく、一計を巡らします。
すなわち、花山天皇(当時19歳)が、お気に入りの女御(天皇の妃の一種)が亡くなり、悲しんでいるのを見て、
「さぞお悲しみのことと思います。私もお供しますから、出家して俗世間を離れましょう」
と、兼家の子である藤原道兼に進言させます。
「そうか、お前も一緒に出家していくれるか。では・・・」
と花山天皇も承諾し、いざ剃髪(髪の毛を剃り、頭を丸める)の作業に入ったところで、なんと道兼が消えているじゃありませんか。
「しまった! だ・ま・さ・れ・た!!」
と思うも、後の祭り。花山天皇は出家し、法皇となります。かわって藤原兼家の思い通りに、自分の孫である一条天皇が即位。兼家は摂政の地位を得ました。
990年兼家は約4年ほど摂政を務めたあと、関白の地位を得た途端に病没。
ついで、兼家の子である藤原道隆が関白、摂政、また関白を計約5年務め、995年に亡くなります。
この間、彼は一条天皇に自分の娘である藤原定子を嫁がせ、当時、天皇の妃としては最上位であった中宮(ちゅうぐう)にすることに成功します。
なお、この藤原定子に仕えて、有名な日記文学である「枕草子」を執筆したのが清少納言です。
道隆のあとは、その弟で先ほど登場した藤原道兼が関白に就任します。
ところが、「よし、これで俺の時代だ!」と喜び勇んだ瞬間、在職わずか7日で病没してしまいました。

訴えてやる!
988年
 尾張守である藤原元命(もとなが)が、「国司(受領)として不適格である。至急クビにしろ!」と訴えられました。原告(訴えた人)は尾張の郡司から農民まで多くの人々。さてさて、その理由は9000字にものぼる文章にしたためられています。例えば
 ・法律で定められた以上の稲を農民に強制的に貸し付け、不法に利息を取り立てている。
 ・灌漑施設の修繕費を支給しない。
 ・前年度予算の残額を、勝手に京都の自分の家に運ばせた(業務上横領罪ですな)。
 ・国衙で働く下級官人の給料を支払わない。
 ・私用であるにもかかわらず、農民を勝手に徴発して働かせた。
 ・元命の子弟郎党が、郡司や農民から財物を徴発した(強盗に近いですね)。
 などなど・・・。

 こういったことが9000字も書かれているんですから、よほどのワルだったと思います。さすがに朝廷も事態を重く見て、翌年に藤原元命の罷免を決定しました。しかし、悪い国司はこれ以外にも数多くいたようで、私腹を肥やすため多くの人々を苦しめました。そして、国司任期中に得た収入の一部を、摂関家などに献上し、ご機嫌を取ることで、また次の国司の座や官位を得よう・・・というわけだったんですね。

 その一方、美濃守であった源遠資は逆に、「こんな良い国司が、任期切れで美濃から去ってもらっては困ります。何とか任期を延長してください」と朝廷に請願が起こっています。国司にも色々。もっとも、国司の強欲ぶりを表すエピソードは、1000年を経た今も数多く伝わっていますがね。

甥、伊周との争いの末・・・
今回取り上げる中心人物は、藤原氏最盛期を作ったといわれる藤原道長。
尊敬する歴史上の人物で上位にランクインすることは殆ど無いと思いますが、知名度は抜群の人物でしょう。
しかし、最初からその地位が約束されていたわけでなく、むしろ通常であれば、そこそこの地位を持つ貴族程度の人生で終わるはずだったでしょう。
ところが、長兄の道隆、兄の道兼が相次いで亡くなったことから、突如として道長の前に藤原氏トップの地位である「氏の長者」の座が見えてきました。
そんな道長のライバルとなりそうだったのが、藤原道隆の子、藤原伊周(これちか 974~1010年)でした。
果たしてどちらが、藤原家トップの座を確保するのか。
誰もが注目していた時、歴史を動かしたのは道長の姉で、円融天皇の皇后だった藤原詮子でした。
彼女は一条天皇の母として大きな政治力を持っていたので、
「道長、そなたを内覧(ないらん)とする」
として、関白に準ずるような地位を道長に与えたのです。あくまで「準ずる」なのに要注意。
まあ、道長は名前よりも実質的な地位を狙っていたので、べつにこれで十分だったようです。そんなわけで、以後も摂政に少しだけ就任したことはありましたが、関白になったことはありません。
ともあれ、実質的に藤原氏トップの座に王手をかけた藤原道長。

長徳の変
藤原伊周は、よほど悔しかったのか悪い遊びに手を出します。
996年1月。月が明るい夜だった。恋人との逢瀬を終え家路を辿る花山法皇に向け、矢が放たれた。
花山法皇を射かけるよう命じたのは、権中納言・藤原隆家だった。当時、18歳だった。放たれた矢は花山法皇の袖を貫き通し、すわ暗殺かと法皇は逃げ出した。
逃げる花山法皇と追う藤原隆家。 
双方の従者が入り乱れ、乱闘騒ぎとなった。その場には法皇に随行していた童子もいた。隆家の従者は童子2名を殺害した上、その首を持ち去ったと「野略抄」に記されている。
隆家が花山法皇を射かけたのは、兄の正三位内大臣・藤原伊周のためだった。伊周は花山法皇を1人の女性を巡る恋敵だとみていた。
恋敵の存在に苦悩する兄に対し、隆家は「朝帰りする法皇を脅してやろう」と持ちかけたのだ。
伊周の恋の相手は太政大臣・藤原為光の三女、三の君だ。花山法皇のお相手はその妹の四の君だった。
美女と誉れ高い三の君に比べると、四の君は数段劣る容貌だったという。花山法皇が姉妹の同居する鷹司殿へ通っていたため、伊周が勘違いした末のトラブルであった。
これをといい、犯人として捕まった伊周君は太宰権帥へ、隆家君は出雲権守へ左遷されました。
ちなみに、花山法皇は女性を巡るスキャンダル、トラブルには事欠かない人物で、しかも意味不明な服装をするなど、奇行の絶えない人物だったそう。青少年の健全な育成のため、このページでは公開できそうも無い危険なエピソードも沢山あります。
親父の冷泉天皇も狂っていたとして、当時から有名だったようですが・・・
「花山院の狂いは父親以上で、つかみどころがない」
というのが、当時の歴史書である『大鏡』の評です。ていうか、藤原氏を中心とする当時の貴族の「おぼっちゃま」一般に、手が付けられないような危険な人物が多く、殺人未遂に近いぐらいの暴力沙汰なんて日常茶飯事だったようで・・・。

例えば、道長だってこんなエピソードがあります(まだ可愛いぐらいですけど)。
彼がまだ若い頃、988(永延)年、道長はお気に入りの人物を官人採用試験をパスさせるため、なんと試験官の橘淑信を拉致、それも屈強な従者達に彼を連行させ、道長の家まで歩かせるという、恐るべき実力行使に出ます。
さすがに、これを聞いたオヤジの藤原兼家は激怒し、たっぷりとお説教をしたとか。
もっとも、大変な屈辱を受けた橘淑信としてみれば「その程度で済んでしまうのか」と、落胆したことでしょう。
とにかく身内に甘い貴族社会。特に相手が藤原家のトップ集団だと、被害者は殆どが泣き寝入り状態です。

道長、氏の長者へ
こうして、道長はライバルに勝ち、藤原氏の頂点に立つ氏の長者となったのです。
藤原道長と源氏物語2
そして道長は、やはり娘を天皇の皇后にすることで外戚として権力を掌握しようとします。
一条天皇には既に藤原定子(兄・道隆の娘)が中宮としていたのにもかかわらず、これを皇后として祭り上げ、自分の娘である彰子を中宮としました。この彰子に仕えた女性の中に、源氏物語の作者として有名な紫式部がいます。
そして、三条天皇が即位すると、娘の妍子(けんし)を彼の中宮としますが、三条天皇が眼病であることが判明すると、これを理由に彰子が産んだ敦成(あつなり)親王を即位させ(後一条天皇)、道長は念願の摂政の地位に正式に就任します。
もっとも、今後のことを考えたのか、僅か1年で息子、藤原頼通(よりみち 992~1074年)にその地位を譲ってしまう。
しかし道長が引退するのかと思いきや、全くそんなことは無し。
摂政を譲ったその年のうちに、娘の威子を後一条天皇の中宮にしました。
さらに、その妹の嬉子(きし)は、後一条天皇の弟、後朱雀天皇の妃とします。
ちょっと復習しましょうね。こんな婚姻関係。
一条天皇(位986~1011年)=彰子
三条天皇(位1011~1016年)=妍子
後一条天皇(位1016~1038年)=威子
後朱雀天皇(位1038~45年)=嬉子

ちなみに、当時の貴族における結婚形態は、結婚すると男が女性の家に通うという妻通婚。子供は妻の家で育てられますから、必然的に女性の家の権力が強いのが常識だったのです。
もっとも、男の方は色々な女性と結婚し、色々な女性の家に通っていたので、女性としては「今日は旦那が来てくれなかった」と寂しい想いをする人が多かったようですね(逆に、好き放題遊んでいた女性もいたようですが)。





権力絶頂も、仏教三昧の日々へ
そんな道長の自信の表れは、藤原実資(実頼の孫)が記した日記「小右記」の中に端的に記されています。
すなわち、娘の威子が後一条天皇の皇后となったとき、道長は盛大なパーティーを開催したんですね。
そこで、気分が良くなった道長は和歌を詠んだわけでございます。それが
「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも無しと思へば」
とまあ、もう我が世の春に満足である、というもの。
そんな道長さん。どうも体が丈夫ではなかったらしい。今度はあの世のことが気になったようです。
1019年、出家して法成寺という超豪華なお寺を造り、仏教三昧の生活をおくるのですが、糖尿病に苦しんだようです。
1027年、藤原道長はその生涯を終えました。
そして、既に親父の後を継いでいた藤原頼通も摂政、関白として大きな権力を保持します。
ところがどっこい!頼通の娘は皇子を産まなかった。
そうこうしているうちに、道長の孫でもあった後冷泉天皇(位1045~68年)の後を継いだ、その弟の後三条天皇(位1068~72年)は、後朱雀天皇と三条天皇の娘である禎子内親王の子供だったわけ。
この、禎子内親王というのは妍子の娘でもあるので、もちろん藤原氏との関係は濃いのですが、頼通との血縁関係はちょっと薄くなってしまう。
おまけにこの頃、結婚形態も変化。
妻の所に住みつく結婚形態から、新居を造って、そこの夫婦で住むようになったのです。
当然、妻の実家の影響力が弱まることになります。
そうすると藤原氏は、今までのような影響力を行使できなくなってしまったんですね。
頼通が亡くなると、藤原氏から有力者も消滅。
後三条天皇は自ら国政改革に乗り出します。さあ、どうなる、どうする藤原氏?

刀伊の入寇
1019年、九州北部に刀伊と呼ばれる集団(当時、朝鮮半島を支配していた高麗が北方の蛮族を表す時に使う名称)が大船団を率いて攻めてきました。
この集団、のちに中国で金や清といった国家を樹立する女真族の一部であると考えられていますが、ともかく、まずは壱岐、対馬を襲い、さらに博多(現在の福岡市)の辺りまで暴れまわったとか。
日本では極めて珍しい、海外からの侵略です。
放置しておけば、多くの人々が働き手として連れ去れたり、またはさらに攻め込まれる危険性もありましたが、そこでこれの撃退を指揮したのが、当時、太宰権帥だった藤原隆家でした。
そう、あの花山法王のときに登場した、隆家です。「それ、戦え!」と九州の豪族や武士を率いて出撃していきました。
こうして日本の平和は彼らが守った! ・・・わけですが。
道長の息子、頼通を中心とする朝廷は、「ほほほ、西のほうがなにやら騒がしかったようじゃのう。」程度の認識であり、これといった報償はしませんでした。とんでもない話です。
それにしても隆家は貴族でありながら、「武士」としてよく頑張ったじゃありませんか。そして年月は流れ、九州の武士団はモンゴル(元)と戦うことに。九州は海外との玄関口だったのであります。

末法の世と平等院
さて、この頃に建立された有名な建築が、平等院鳳凰堂です。
平等院は元々、嵯峨天皇の皇子であった源融(みなもとのとおる)の別荘だったものを藤原道長が購入したもの。
道長の息子である藤原頼道は、この別荘を相続すると「そうだ、これを寺にしよう」と思いつき作業に着手します。
当時は、1052年から仏法が衰滅するという「末法」の世が来ると貴族たちの間で信じられており、少しでも救いを求めるべく、こうした行動をとったものと思われます。
1053年、現在は鳳凰堂として親しまれる阿弥陀堂【国宝】が完成。
当時は極彩色に塗られている華麗な建築で(茶色い部分が、厳島神社のように朱塗りだと考えてください)、中央に仏師・定朝の大作である、金色の阿弥陀如来坐像(なんと3m近い巨大なもの)を鎮座させています。さらに、背後の壁に極楽浄土図を描き、左右の壁の上部に52体の雲中供養菩薩像を懸けるという、まさに極楽浄土の世界を表現しています。





平忠常の乱
華やかな貴族文化の影で、平将門の乱や藤原純友の乱など、地方で不穏な動きが広がっていました。
そんな中、地方の武士団を統率し、その棟梁として勢力を拡大していった二大勢力が、源氏と平氏です。
といっても、源氏は既に見ました通り出自が色々です。嵯峨天皇の子孫だったり、宇多天皇の子孫だったり。
これから御紹介するのは、清和天皇の子孫である、通称「清和源氏」。
既に藤原純友の乱の時に登場した源経基、その息子で安和の変で登場した源満仲は既出ですが、彼らは摂津(現在の大阪)を拠点とし、中央との太いパイプを作ります。
さらに、満仲の息子である源頼光(よりみつ 946~1021年)、源頼信(よりのぶ 968~1048年)兄弟も、摂関家と深い繋がりをもっていました。
なお、頼光は大江山の鬼である酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を刎ね、退治したという武芸の達人としても名声が高かった人物です(当時、鬼退治というのが武名を上げていました。まあ、鬼と言っても実態は盗賊だったのではないか・・・と思いますが)。また、源頼光は摂津を拠点としたので摂津源氏、頼信は河内を拠点としたので河内源氏と区分されます。
1028年、関東(板東)で平忠常の乱(たいらのただつね)が発生。
(藤原道長が亡くなった翌年で、藤原頼通が関白であった時代です)
当初、朝廷は平忠常(967~1031年)のライバルであった、あの平貞盛の流れを汲む平氏に反乱を抑え込ませようとし、平直方を派遣します。
しかし、これは見事に失敗。そこで起用されたのが、源頼信であります。彼を甲斐守へ任命し追討使として派遣。
1031年に平忠常を降伏させ、反乱を鎮圧したのでありました。
ちなみに平忠常は都に向けて護送中、病没。
一方、源頼信は自身の勢力圏であった河内(現在の大阪府東部)のみならず関東にも勢力を作ることになり、この地域の平氏を従えていくようになります。
特に、この乱で活躍した源頼信の長男、源頼義は、忠常討伐の前任者で鎌倉を支配していた平直方から見込まれ、「私の娘を妻にしないか」との申し出を受け結婚。
見事、嫡男である源義家が生まれ、のちに鎌倉を引き継ぐことになります。
源頼義の次なる狙いは東北、すなわち奥州でした。古来より蝦夷(えみし)、俘囚(ふしゅう)等として、朝廷に従わない厄介な集団がいる場所ですが、ここに源氏は目を付けたわけでございます。

前九年の役
さて、この頃の東北は、現在の岩手県や青森県(陸奥国)を安倍氏という豪族が、秋田県(出羽国)を清原氏が支配し、朝廷から派遣されてきた国司に馬や黄金などの貢ぎ物を進呈することで平和が保たれている、という状態でした。
ところが、安倍氏の棟梁であった安倍頼良は血気盛んな人物で、勢力拡大を伺います。
一方、陸奥守として赴任してきた藤原登任(なりとう)も
「ワシ直々に陸奥を支配すれば、もっと多くの馬や黄金が手に入る」
と考えるようになり、安倍頼良を挑発します。
なにしろ、藤原登任は勢力が振るわない、藤原南家の出身。当時64歳だったといわれる高齢であったにもかかわらず、我が世の春を夢見るのは無理もありますまい。
代理を派遣する遥任(ようにん)ではなく、自らやってきたのもそれが理由でしょう。
1051年、両者は鬼切部(おにきりべ:宮城県鳴子町)で激突し、のちに前九年の役と呼ばれるバトルがスタートします。
藤原登任の軍勢は大敗。
そして、後任の陸奥守・鎮守府将軍として源頼義がやってきたのです。頼義、時に50歳を過ぎた年齢でしたが、軍事のエースとしての評判は非常に高い。
陸奥守として意気揚々と多賀城に赴任した源頼義。安倍頼時を挑発するところまでは良かったが、まさか長期戦になるとは思いもしなかったに違いない。
安倍頼良としては、源頼義を敵に回すのは得策ではないと考えます。そこで、頼良・頼義と名前の読みが同じであるのは恐れ多いとして、安倍頼時に改名するなど、恭順の姿勢をとり、莫大な贈り物までします。これでは源頼義も手を出すことが出来ず、約5年にわたり平穏が保たれていました。
ところが、源頼義の陸奥守任期が最後の年になった1056(天喜4)年。
陸奥権守である藤原説貞の子、光貞、元貞兄弟が阿久利川(現・磐井川)で野営中に何者かに襲われ、郎党が殺され、馬が奪われるという事件が発生します。そこで源頼義
「光貞、犯人に心当たりはあるか」
「安倍頼良の息子、安倍貞任(さだとう)に間違いありません。奴は私の妹を嫁に欲しいと昨年言ってきたのでありますが、断ったことを恨んでいるに違いないからです」
「よし、奴を捕らえて処刑にせよ!」
一方的な話で無茶苦茶な話です。
ここにいたって、とうとう安倍頼時も
「親として、息子を見捨てるわけにはいかない。これまで我慢してきたがもう限界だ!」
と、立ち向かうことにします。
頼義としては、さっさと叩き潰して・・・と狙っていたのでしょうが、まさか自分の陸奥守任期を大きく越して戦う羽目になるとは思っていなかったでしょう。
長期戦となり、「今は戦時中であるので・・・」と朝廷に陸奥滞在を認めさせるのに必死となります。
さて戦いも3年に突入した時点で、安倍頼時は戦死しますが、引き続き息子の安倍貞任を中心とした安倍一族は徹底抗戦。
さらに、それに先駆けて安倍頼時の娘婿となっていた藤原経清という人物(藤原秀郷の子孫)も源頼義から寝返り、加勢します。
1057年11月。吹雪が吹き荒れる中、戦いを挑んだ源頼義軍は、今の岩手県と宮城県の県境近くにある、黄海柵において安倍貞任、藤原経清の軍勢に徹底的にやられてしまいます。
かろうじて一命を取り留めた頼義、それから息子の源義家(当時13歳)らは、その後も負け続け、しばらく戦う力を失ってしまいましたが、出羽を支配する清原氏に援軍を要請します。
「これはチャンス。もしかしたら、安倍氏に取って代わることが出来るかも・・・」
と思ったのでしょう。
1062年、清原光頼・武則兄弟が援軍に駆けつけ、安倍氏の有力な砦であった衣川柵(岩手県衣川村)を落とし、ついに最後の拠点となった厨川柵(岩手県盛岡市)を陥落。
安倍貞任、藤原経清は処刑され、他の安倍一族は流罪となりました。こうして、実質的に12年もかかった戦いは終結しました。
やった! これで源氏が陸奥に勢力を作ることが出来るぞ!!!
頼義君、さぞかし笑いが止まらない状況だったでしょう。
しかし、未だ関白であった藤原頼通らの、朝廷も論功行賞は狡猾で、源氏の勢力伸長を恐れ、栄転という名目で源頼義を伊予守へ任命。
もちろん、むしろ伊予守は非常にいいポストではあったのですが、ともあれ陸奥には源氏の勢力を作らせないようにします。
そして、その陸奥は清原氏が鎮守府将軍に任命され、一気に支配を固めていくことになるのです。

後三条天皇の国政改革
系図(後三条2)
前九年の役が終わり、藤原頼通は関白から引退します。
そこに即位したのが、当時の摂関家を直接の外戚としない後三条天皇(位1068~72年)でした。
後三条天皇は、久しぶりに自らが積極的に政治に関与する天皇で、大江匡房(1041~1111年)を登用し、国政改革に取り組みます。
当時の政府財政は苦しいもので、その理由が荘園の増加であると天皇は考えました。
1069年、延久の荘園整理令を発令。
以前にもこうした荘園整理令は出されたこともありますが、地方任せで不徹底なもの。今回は中央に記録荘園券契所(記録所)を設置し、厳しく「荘園として適正かどうか」書類審査を行いました。
実際、石清水八幡宮が持っていた34カ所の荘園のうち、13カ所の権利が停止されるなど、効果をあげました。
また、後三条天皇は「もっと自由な立場で政治に関わりたい」と考えていたようで、在位4年にして息子の白河天皇へ譲位。
後三条「上皇」として政治を行うことにします。ただ、後三条天皇はほどなく病死してしまいました。
















白河天皇の院政
白河天皇も後三条天皇路線を引き継いで政治を開始しますが、彼を悩ませたのが僧兵でした。
この頃、寺社が武装集団と化し、たびたび朝廷に強訴とよばれるデモを行い、要求を通そうとします。
例えば奈良の興福寺は、藤原氏の氏神である春日大社の神木を掲げて強訴。これには摂関家も迂闊に手が出せず、白河天皇も苦々しい日々が続きます。
また、延暦寺と園城寺が対立。激しく武装衝突を起こし、
1081年の延暦寺と園城寺の激突は双方に死傷者が出るほど凄いものでした。
そこで白河天皇は、延暦寺側に荷担し、前九年の役で活躍した源義家らを自らの護衛にしました。
これは、圓城寺からの報復を恐れての措置で、武士が天皇の護衛を務めるのはこれが初となります。
1084年に白河天皇の愛妻だった中宮賢子が病死。
悲嘆にくれた白河天皇は、政治にノータッチ状態となり1年が過ぎますが、今度は皇太子であった実仁親王(後三条天皇の子で、白河天皇の弟)が亡くなります。
そこで白河天皇、ピーンとひらめきます。
実は、白河天皇の後は実仁親王が継ぎ、実仁親王が亡くなった場合は、さらにその弟の輔仁天皇が継ぐ・・・という、後三条天皇の遺言があったんですけどね。
「いい機会だ。亡き賢子を弔うという名目で、私と彼女の息子である善仁(たるひと)親王を天皇にしてしまおう。そして私はやつの親父として、慣習や制度にとらわれず、自由に権力をふるうのだ!!」
1086年、白河天皇は幼少の息子である善仁親王へ譲位(堀河天皇)。
白河上皇(院)として院庁(いんのちょう)を開き、天皇を後見するという名目で、政治の実権を握る院政を開始しました。要は、天皇の親父による摂政・関白政治ですね。
そして、院の軍事力を付けるべく、院の御所に北面の武士と呼ばれる武士団を設置します。
おそらく、「後三条天皇の遺言を守れ!=輔仁天皇を天皇にしよう、という動きには軍事力で対抗するぞ」という意味合いもあったでしょう。
こうして、白河上皇、左大臣の大江匡房、大納言の藤原実季(さねすえ 上皇の叔父)など近親者で固めた政権が発足。
何だかんだ理由は付けていますが、自分の子供を天皇にしたい!と、積極的に動き出しちゃったわけです。
これに対し、摂政だった藤原師実に対抗する力はありませんでした。
さらに、権力を付けた上皇の周りに集まった貴族達を院近臣といい、上皇に信頼された彼らは豊かな国の国司へ任命され、さらに上皇とその周辺は権力を付ける・・・という格好になりました。また、白河上皇のあとも、鳥羽上皇、後白河上皇と院政は続き、形式上は江戸時代にも行われています。
なお、実際のところ堀川天皇時代の白河上皇は、そこまで強力な院政は行っていなかったようです。

青森(外ヶ浜)地域まで支配を広げた清原真衡
ちょっとここで時代を前に戻し、後三条天皇の時代へ。
安倍氏滅亡後、清原氏が出羽(秋田県)と陸奥の多く(岩手県、宮城県北部)を実質的に支配するようになります。
そして、源頼義に協力した清原武則の孫、清原真衡(さねひら)が当主になると、さらに北方へ進出。
陸奥守として赴任した源高俊と協力し、
1070年に、今の秋田県北部と青森県に攻め込み、現地で独自の生活を送っていた人々を服従させます(延久二年北奥合戦)。
これは、あまり注目されていない出来事ですが、現在の青森県地域まで、中央システムに組み込まれる転換期を迎え、秋田北部では鹿角郡、比内郡、津軽地域では平賀郡、鼻和郡、田舎郡(←凄い名前だ!)等が設置されるのです。
ただ、経済的な繋がりは以前から、これら地域と、それ以南で盛んでしたので、決して他地域と断絶していたわけではありません。
さて、ちょっと難しい話になってしまいましたが、こうして清原真衡は東北全域の覇者として君臨し、後三条天皇から鎮守府将軍に任命されます。その栄光はゆるぎないものであるかに見えました。しかし、まもなく清原氏を揺るがす大事件が起こります。




















後三年の役、起こる
1083年、源義家が陸奥守として奥州に赴任します。
前九年の役以来、久しぶりの奥州です。そこで彼が目にしたのは、清原一族の対立でした。さて、どういうことでしょうか。
前九年の役で処刑された藤原経清の妻は、息子(藤原清衡 きよひら 1056~11128年)を連れて仇敵であるはずの武貞と再婚。さらに、彼との間に清原家衡(いえひら)という子を産んでいます。このあたり、色々な政治的な思惑があったんじゃないかなあと推測できます。
武貞としては安倍頼時の娘を妻とし、その子も保護することで安倍氏残存勢力からの恨みを軽減。 経清の妻としては、まだ自分の息子に安倍氏復興の望みを託せるなどなど・・・。
そんな中、一つの事件が起こり、たまっていた対立の火種に火がつきます。
すなわち、息子のいなかった真衡は、今の福島県にいる平氏(通称:海道平氏)から、養子を迎え、清原成衡としたんですけどね。この、成衡の嫁さんに、源頼義が現地に残した娘を迎えることにしたんです。
その婚礼のとき、一族の長老であった吉彦秀武がお祝いに駆けつけたのですが、真衡は碁に夢中になっており秀武を無視。いつまで経っても会ってくれないので、とうとう怒りが爆発。持参していた砂金をぶちまけ、本拠地の出羽へ引きこもってしまいました。
おそらく、真衡は言うことを聞かない一族を倒そうと挑発したのでしょう。直ぐに
「奴を討伐するぞ!」
と出陣。そこへ、
「チャンス到来!」
と、真衡が留守にしていた屋敷に清衡、家衡軍が乱入するのです。ここに到って、それまで静観していた源義家が動き出し。真衡を支援することに。
1083年、のちに後三年の役と呼ばれる戦いのスタートです。カーン!
ところが、清原真衡が病死するという事態へ。
そこで源義家は、清衡、家衡に清原氏の領土を2分割させました。めでたし、めでたし。
が、真衡の養子となっていた清原成衡は排除されたわけで、没落します。
義家、やはり兄弟げんかが起こるのを狙っていたのでしょうか。 
清衡と家衡は、父が違っています。当然、どっちが清原氏の正統か争うことになります。
だいたい、家衡にしてみれば
「兄とはいえ、あいつは親父が藤原経清で、清原の血を引いていないじゃないか」
と思いがあったでしょう。今の奥州市江刺区にあった清衡の屋敷を襲撃し、彼の妻や子をことごとく殺害するという、驚きの行動に出ます。幸いにも難を逃れた清衡は、源義家に助けを求めます。
「そなたの親父とは会ったこともある。よっしゃ、協力してやろう!」
そして、一進一退の激しい戦いが展開されますが、義家は弟の源義光(新羅三郎 1045~1127年)の援軍を得て勢いに乗り、
1087年、家衡らが立て籠もる金沢柵(かねさわのさく 秋田県横手市)を兵糧攻めの末、陥落。家衡らは討ち取られ、後三年の役は終結しました。
さあ、今度こそ陸奥に源氏の勢力を打ち立てるぞ!
と、意気揚々と朝廷に戦勝報告をした義家でしたが、白河上皇としては
「これ以上源氏の勢力を拡大させてなるものか。お前らは、勝手に戦いを起こして戦っただけだ。恩賞はださんぞ」
と考え、義家は何も得る物がありませんでした。こいつは大誤算です。やむなく、義家は私財をなげうって部下に恩賞を与え、この点では部下達からの信頼をさらに勝ち取ることにはなりました。
そして、清原清衡。
これで清原氏の当主に・・・と思いきや、父親の姓である藤原を名乗り、藤原清衡として奥州藤原氏の繁栄を作ることに成功しました。
終わってみれば、清衡の狙い通り・・・だったのかもしれませんね。そして、本拠を平泉へ移し、街の整備と、今も金色堂が残る中尊寺の造営などを行いました。

武士を操る白河上皇
ちなみにその後の義家。
弟の源義綱と対立を起こすようになります。どうやら、部下達が河内国にある所領を巡って争ったようで、
1091年にあわや大合戦寸前となります。これを見た白河上皇は
「ムフフ、義家の力を弱める良いチャンスじゃ」
と、義綱を支援し、彼はどんどん出世。
一方、義家は「奴に全国の田畑を寄進することを禁じる!」と白河上皇に予想外の仕打ちを受けて経済的打撃を受けることになり、勢力を弱めることになりました。
さらに白河上皇、今度は伊勢平氏を代表する平正盛を重用し始めますが、
1098年、今度は彼とバランスをとるために再び源義家も呼び戻します。武士としては初めて、院への昇殿を許し、義家もこれに満足。
院へ行くことができるということは、上級貴族(殿上人 でんじょうびと)への仲間入りということで、非常に名誉なことだったのです。
しかし義家の死後、どうやら白河法皇は源氏の勢力を弱めることにしたようです。
まず、義家の嫡男であった源義親は、本拠地だった河内への影響力を薄める意味合いで九州の対馬へ対馬守として赴任させられます。
これに対し彼は平将門のごとく独自路線を突き進み、
1107年に出雲国で役人を殺害したことで討伐されてしまいます。
このとき派遣されたのが、先ほどの平正盛で、彼を出世させるために仕組まれたような雰囲気もあります。
実際、源義親は生死不明であり、さらに人気があったようで、その後も彼を名乗る人々が続々と登場。朝廷を困らせました。
ついで、源義綱の一族も討伐されました。
これは、河内源氏の棟梁の座を狙った源義光による陰謀でもあったのですが、源義親の嫡男である源為義の養父となっていた源義忠(義家の4男)が何者かに殺害されます。
これを、源義綱らの陰謀だ~と捏造し、白河法皇も
「為義よ、義綱らを討伐せよ」
と命令。あれほど白河法皇に引き立てられた、源義綱一族は命運がつきました。
終わってみれば、為義もあまり有能な人物ではなかったようで、朝廷内ではあまり重用されず、河内源氏の衰退を招きます。
おまけに、叔父達や弟達もそこそこの勢力がありました。しかも、息子である源義朝を関東へ送り込んだのはいいのですが、親子喧嘩を始めてしまいます。
ところが、義光の一族は様々な場所で勢力を拡大し、武田氏、小笠原氏、佐竹氏、南部氏など着実に一族は拡大していきます。よくよく考えてみれば、源義光の子孫って、その後も長らく歴史の表舞台で活躍していきますね。子孫の繁栄に成功したのは、義家でも義綱でもなく、義光だったかもしれませんね。
(ちなみに、義家の子、義国からは足利氏、新田氏、今川氏、細川氏、山名氏などが出ていますが、室町時代で衰退している例が多い・・・)


平氏の台頭
平清盛があまりにも有名な平氏ですが、これから歴史の表舞台に登場するのは伊勢平氏。
平将門の乱で将門と激しいバトルを繰り広げた、平貞盛の子のうち、平維衡を始祖とするグループで、伊勢(今の三重県)に移り住んだのが特徴です。
そのほかの平氏は、多くは関東で土着しています。
華々しく活躍した源頼義や義家などに比べ、平氏は長らくどうも影が薄い。
ところが、白河上皇は平維衡の”ひ孫”である平正盛(?~1121年?)を気に入り、北面の武士として採用。
「こいつを、我が親衛隊として取り立ててやろう」と考え、何か手柄を立てさせるいい材料はないかな・・・と思ったら、
大嫌いな源義家の息子、源義親(?~1108年)が出雲で反乱を起こしたというじゃないですか。
「よっしゃ、奴を討ち取って来い!」
というわけで、正盛は義親を討伐し、もちろん出世。
白河上皇としては、摂関家と仲が良い源氏よりも、自分の手駒して動いてくれる武士が欲しかった、というのがあります。
そこで目を付けられたのが、平正盛だったのです。
ちなみに、本当に義親は討ち取られたの?と疑問の声は当時から多く、その後も源義親を名乗る人物が出現し、活動しています。
ともあれ、衰退する源氏と比べ、平氏はさらに栄華を迎えます。
正盛の子、平忠盛(1096~1153年)は瀬戸内で暴れ回る海賊を征討し、鳥羽上皇の信任を獲得。
また、海に注目した忠盛は、中国の宋と貿易を開始し、平家の経済的基盤の強化に役立ちます。
そして、忠盛の子、平清盛(1118~81年)が当主となり、源氏は義親の子、源為義が当主となり活躍を始めたころ、天皇家、摂関家、源氏、平氏を巻き込んだ大乱が発生します。

保元の乱
 保元の乱の最大の要因は、天皇家のお家騒動があります。
 まず皇位の推移ですが、鳥羽(位1107~23年)、崇徳(すとく 位1123~41年) 近衛(このえ 位1141~1155年)、後白河(ごしらかわ 位1155~58年)となっていきます。
このうち、崇徳、近衛、後白河は鳥羽上皇(法王)の息子ですが、崇徳に関しては白河上皇の子ではないか?というウワサが。そんなこともあり、鳥羽は崇徳が大嫌いでした。白河上皇が亡くなると、さっそく崇徳天皇を譲位させ、近衛天皇がなんと3歳で即位します。
ところが、近衛天皇は17歳で崩御。
そこで代わりに即位したのが、後白河天皇でした。今度は再び俺の番か、せめて俺の息子が天皇になって院政・・・と思っていた崇徳上皇だったにも関わらず、鳥羽上皇は
「お前の息子には天皇位をやらないよ。お前の弟、後白河天皇の子孫へ皇位は継承していくよん」
と方針を打ち出しました。
「な、なんじゃと! これでは俺は永久に院政は出来ぬし、我が子は天皇になれぬでおじゃるか!」
その結果、鳥羽上皇が亡くなると、崇徳VS後白河が勃発することになります。
一方、衰退したとはいえ摂関家の当主の座も争奪戦が開始されます。
すなわち、藤原忠通(関白)と、その弟の藤原頼長(左大臣)がバトル! 親父の藤原忠実が、温厚な忠通よりも、性格は悪いが超秀才のエリートである頼長を溺愛し、自分の後継者としようとしたことに端を発します。
そこで・・・崇徳上皇=藤原頼長 VS 後白河天皇=藤原忠通
という公図が成立。
両陣営とも、有力な武士を味方に付けるべく奔走します。その結果、以下のようになりました。

崇徳上皇(兄) 天皇家 後白河上皇(弟)
藤原頼長(弟) 藤原家 藤原忠通(兄)
平忠正(叔父) 平氏 平清盛(甥)
源為義(父)・為朝(弟) 源氏 源義朝(子/兄)

後白河天皇方には藤原通憲(信西)という、頼長と並んで評判の学者が参謀としてついています。
結果は、先制攻撃を仕掛けた後白河天皇方の大勝利。
崇徳上皇は讃岐に配流され、藤原頼長は流れ矢に当たって戦死。
平忠正、源為義は斬首。源為朝は伊豆大島へ流刑となりました。しかし、これで話は終わりではありませんでした。

第二ラウンド! 平治の乱
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今度は、勝者の中で対立が発生します。
すなわち、後白河上皇(1158年に二条天皇へ譲位)の近臣の座を巡って、藤原通憲(信西)VS藤原信頼が激突! これに平清盛と源義朝の対立が加わり、こちらも激突!
と、いいますのも。
保元の乱の後、藤原通憲(信西)が論功行賞を取り仕切ったのですが、源義朝が左馬頭(さまのかみ)への任官に留まったのに対し、清盛が播磨守・大宰大弐(だざいのだいに)と差が付いたのが、義朝としては面白くない。
さらに、藤原信頼は「近衛大将になりた~い!」と要求したところ、藤原通憲(信西)に「あんたはダメ!」と断られる。
というわけで、「ボクは後白河上皇のお気に入りだぞ。あいつら、ぶっ殺す!」となったわけですな。
1159年末、手を組んだ義朝と信頼は、清盛が熊野詣で京都を留守にしたのをチャンス!として挙兵。
まずは「天皇を確保すれば、俺たちは官軍。味方も増えるに違いない」として後白河上皇と二条天皇を幽閉。
さらに、藤原通憲(信西)を逮捕し、「今までの恨み、思い知れ~!」と斬首しました。
これで安心したのか、もう藤原信頼は勝者気分。まだ清盛が残っているというのに、そんなことは眼中に入らなかったようです。源義朝も「ダメだこりゃ」とガックリ来たか、それとも同じく戦勝に浮かれたか。いずれにせよ、清盛は直ぐに平安京に戻り、後白河上皇と二条天皇を奪い返します。
これによって、藤原信頼・源義朝連合の旗色が悪くなります。しかも、源氏でも源頼政らは清盛へ寝返り。
そして戦いの末、彼らは清盛に敗北し藤原信頼は斬首。
源義朝は東国へ逃れようとしますが、尾張国で長田忠致に誘い出されて殺されてしまいました。こうして、平氏一族の天下がやってくるのです。
とは言え、清盛もちょっと甘い。
義母の池禅尼に「亡くなった息子に似ている。殺さないで欲しい」と懇願されたとはいえ、折角捕まえた源義朝の嫡男、源頼朝を助命し、伊豆へ流刑に。
さらに、のちに源義経と名乗る牛若丸などの義朝の子供達も、その母親である常磐(ときわ)が美人で惚れてしまったということで助命し、寺に入れました。
これが後々、平氏にとって命取りになろうとは・・・。


海に目を向けた平清盛
さて、宿敵源氏をコテンパンにたたきのめし、さらに後白河上皇とも太いパイプを築いた清盛は、武士界、公家界双方で君臨することになります。次々と高い官職につき、
1167年には太政大臣という最高位にまで上り詰め、一族を各地の有力国司へと次々と任命していき、荘園も拡大していくので、藤原氏にとっては突如現れた強烈なライバルになってしまいました。
ところが、ただ貴族化していったのかといえばそうではない。
清盛は同時に、海外貿易によって利益を上げようと考えます。
当時の東アジアは、朝鮮半島では新羅が滅び、高麗がその後継国家となっています。
一方、中国では宋(北宋)が、中国東北地方から起こった金によって南方に追いやられ、臨安(現在の杭州)を首都にする南宋が誕生していました。
菅原道真の建議によって、遣唐使は廃止になりますが、民間レベルでは九州の博多(現・福岡市)や大宰府(現・太宰府市)を中心に、こうした国家と貿易が続けられており、沿岸の荘園領主の中には少なからぬ利益を上げている者もいました。
ならば、と清盛は、もっと盛大に貿易を行おうと考えたわけです。
実は親父の平忠盛も、鳥羽上皇の荘園があった肥前国神崎荘(現、佐賀県神埼町)で日宋貿易を始めていました。
これが平氏の経済的基盤となっており、もちろん清盛も「貿易って儲かるんだなあ」と学習したんだと思います。しかし、さすがに肥前国は遠い。
そこで、清盛は九州北部で行われていた貿易を、平安京に近い、現在の神戸で直接行いたいと考えました。そのためには、貿易船を受け入れる体制を整えないといけません。具体的には、瀬戸内海航路の難所であった音戸の瀬戸(現・広島県呉市)を広げて貿易船を通りやすくすること、そして大輪田泊(おおわだのとまり)の修築による貿易港の整備です。
大輪田泊は江戸時代末に兵庫港、そして現在は神戸港として日本有数の港として発展していますので、清盛の目の付け所のよさをうかがい知ることが出来ます。
では、具体的にはどんな貿易をしたのでしょうか。
日本からは黄金、刀剣、磁器、漆器などが輸出されます。
一方、宋からは陶磁器、宋銭、書物、香料、織物などが輸入されました。
このうち、非常に重要な意味合いを持ったのが宋銭。つまり、宋で発行されている通貨です。何でこんなものを輸入したのかと言うと、日本でそのまま宋の通貨を流通させてしまおう、というわけです。
当時の日本で銅は貴重だったため、流通している国産の銅銭が少なかったんですね。
そこで外国から直接、通貨を買ってしまえ!そうすれば、みんなが一般的に代金の支払いで使うことが出来る。
この考えは大ヒットし、宋銭を利用する形で、ようやく貨幣経済が定着していきます。
これって、平清盛の大きな功績の1つだと私は思います。


大きな力を持つ平氏
系図(帝)
こうして政治力、軍事力、経済力で圧倒的な力を持つようになった平氏一族。
しかし、次第に既存の貴族たちから反発の声が上がるようになっていきます。
そんな声はお構いなし、と清盛は娘の平徳子(建礼門院)を高倉天皇(位1168~1180年)の妃とし、のちの安徳天皇を生ませ外戚となりました。
この絶頂を表現する言葉に、平時忠(1128~89年)の以下の言葉があります。
「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし。(平氏ではない人間は、人間ではない)」
一般には、「平家にあらずんば人にあらず」と表記されていますね。
ちなみに、時忠は姉の平時子が清盛の妻となり、妹の平滋子(建春門院)が後白河上皇の妃となっていて、大きな権力を持っていました。
1161年には、ちょいと焦って滋子が生んだ皇子(後の高倉天皇)を天皇にしようとし、出雲国に流されたこともありますが・・・。
時忠は、平氏ではありますが、清盛が桓武天皇の子、葛原親王の三男の高望王を祖とするのに対し、時忠は葛原親王の長男の高棟王を祖とし、中流の公家として都にいた一族の出身です。

 さて、平氏政権の特徴を箇条書きで書くと、次の点に集約できます。
 1 一族で高位・高官を独占
 2 藤原氏同様、天皇家の外戚となることで公家社会に強い影響力を持つ
 3 全国に約500箇所の荘園や、30カ国ほどの知行国を所有し、大きな経済的基盤を持つ
 4 日宋貿易で大きな利益を上げた
 5 部下(家人)を地頭(じとう)として任命し、各地に派遣して統治
 6 軍事力を背景とした政権(寺院などを弾圧)

公家化した政権と誤解されがちですが、実際には様々な性格を持っていました。
特に、経済に目を付けたのは非常に特筆できることだと思います。
ところで、前述のように太政大臣になった清盛でしたが、その翌年(1168年)に重病にかかり、病気が治るようにと出家し、頭を丸めました。これに併せ、当時は仲の良い友達だった後白河上皇も出家。そのため、ここからは後白河法皇と表記します。

奥州藤原氏
1170年には、奥州藤原氏のボスとして、東北で絶大な権力を持っていた藤原秀衡(1122?~87年)が、鎮守府将軍に任命され、朝廷から正式に東北の支配権を認められたような形になります。
これに対し、右大臣の藤原(九条)兼実(1149~1207年)は「乱世の元だ」と嘆きました。
藤原秀衡は、もちろん京の藤原氏ともつながる血筋を持ってはいますが、都の貴族には野蛮人のように映っていたわけですね。
しかし、奥州藤原氏の首都である平泉は、まさに絶頂期にあり、それは京に匹敵するほどの繁栄だったといわれています。今の北海道や中国との交易もしていたようです。


鹿ケ谷の陰謀
系図
1177年、平安京の東山、鹿ケ谷(ししがたに)にあります俊寛(法勝寺の偉いお坊さん)の別荘で、秘密の会合が開かれました。
出席したのは、大納言の藤原成親、西光法師(成親の弟)、俊寛など。
特に藤原成親は、妻が平清盛の娘であり、さらに清盛の嫡男である重盛の子、平維盛(たいらのこれもり)に自分の娘を嫁がせているという、平氏と非常に関係の深い人物であったにもかかわらず
「俺が就任したかった、左近衛大将の位を、重盛のヤローが持っていきやがった!」
と、恨み爆発。
後白河法皇のお気に入りの近臣だった事もあり、「後ろ盾はある。平氏を倒してやるぜ」と企んだ次第です。
後白河法皇自身も、「それは面白そうだ」とひょいひょい、お忍びで会合に参加したこともあったとか。
ところが、味方に付けたはずの摂津源氏の多田行綱が裏切り、清盛に報告。
「ゆ、許せん・・・!!」
そもそも、藤原成親は平治の乱で藤原信頼に味方し、死罪になるところを、平氏と姻戚関係にあるというので助けられ、復職したようなものでした。
清盛にしてみれば、「恩をあだで返しおって!」という気持ち、ごもっともです。
西光法師とその息子たちは斬首。
藤原成親は備中国に配流が決定(もっとも、途中で斬首)。
そして、俊寛は九州の南にある鬼界ヶ島という、名前を聞くだけでもぞっとするような場所へ配流されました。
おまけに、この翌年に先ほどの安徳天皇が生まれ、この事件の関係者のほとんどが赦されましたが、俊寛だけは赦されず、鬼界ヶ島で世を去りました。




そして、後白河法皇による平氏への嫌がらせが本格的にスタートします。
まずは、清盛の娘だった平盛子が亡くなると、彼女が夫(藤原基実)の死後に管理していた所領を「没収じゃ!」
さらに清盛の嫡男、平重盛が42歳で亡くなると、彼の所領であった越前を「没収じゃ!」 などなど・・・。
おまけに、とうとう後白河法皇自身が清盛らを打倒するという陰謀を計画中、という不穏な声まで聞こえるようになってきました。
清盛にしてみれば、自らが危なくなっていきます。やむを得まい、と
1179年、清盛は後白河法皇を逮捕し、鳥羽殿に幽閉しました。
しかし、平氏の下で没落した人々からの恨みと反発は強く、これ以後、打倒平氏の動きが加速していくのです。

カラオケ好きの(?)後白河法皇
ところで、後世になってこの時代の様々な政治的な動きに介入した後白河法皇は、何か得体の知れないような怪物のように評価されることになりますが、その実態といえば歌が大好きなお騒がせオヤジだったようです。
若い頃から、今様(いまよう)といわれる、七五調四句の流行歌に熱中し、周囲から「あいつはバカだ」と散々な評価だったとか。
しかし、歌の研究家としての後白河法皇は、「梁塵秘抄」という研究本を執筆し歴史に名を残すことになります。
なんと全20巻!! お疲れ様でございました。
政治の世界では、うまく立ち回っているように見えて、例えば平治の乱の際に、お気に入りの藤原信頼を見殺しにしたり、のちに源義経を使って源頼朝を倒そうと企んで、結局は自ら義経討伐の命令を出す羽目になるなど、肝心なところで決断が出来ず、周りに流されまくっている状況でしたが・・・。

増えすぎた藤原氏、ならばこうします。
さて、この時代になると藤原氏も膨大な数になり、右も左も藤原氏という状況になります。
これでは、誰がどこの家に藤原氏なのかがわからない。
そこで、住居がある地名を家名とし、藤原氏の中でも最も格の高い家は、近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の、通称「五摂家」に分立します。
以後、明治時代まで関白、摂政はこの5つの家で独占しました。
太平洋戦争時の首相である、近衛文麿はもちろん、五摂家の出身ということになります。
そのほかにも、三条家・西園寺家・四条家・勧修寺家・日野家なども登場。
さらに、武士になった家もあり、有名どころでは先ほども登場した奥州藤原氏や、関東の小山氏、宇都宮氏、比企氏、それから蒲生氏などがいます。
特に、平将門の乱で活躍した、藤原秀郷の子孫には武士になった連中が多いみたいですね。
ついでに書いておきますと、この時代になると源・平・藤・橘という4つの代表的な姓とは別に、特に武士は自分の領地のある地名を、「苗字」(みょうじ)として採用していきます。
ですので、例えば小山氏の場合、今の栃木県小山市を領有したことから、苗字を「小山」とし、さらにそこから分家し、現在の茨城県結城市を領有することになると、その子孫は結城氏を名乗る・・・といった具合です。
今までに登場した人物で例を挙げれば、鹿ケ谷の陰謀で登場した多田行綱。彼は源氏ですので、姓名で書けば、源行綱というのが正しいわけですが、通常は苗字+名前で呼ばれるようになるため、今の兵庫県川西市多田(当時は摂津国川辺郡多田)を領有したことから、多田行綱・・・となるわけでございます。

 な~んてやっているうちに、地名の数だけ苗字が誕生していき(笑)、うちの先祖は藤原氏だとか、あ、やっぱり平氏だったかもしれない・・・ウソウソ、本当は源氏だったんだよなんて、家の格を上げるために臨機応変に先祖を脚色する家も沢山出てくるわけでございます。

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