ペールラシェーズ墓地 28地区


ヴァール県フォックス・アンフー生まれ 1755年6月30日 パリ没 1829年1月29日 73歳
没落した名門貴族に生まれる。経済的な理由で16歳で軍隊に入り士官となる。インドに派遣され捕虜になったことがある。金銭問題で帰国。革命の年、ジャコバン派になる。アルプス軍に派遣されイタリア方面軍に派遣されナポレオンとであう。マルセイユとトゥーロンの鎮圧を監督し、捕虜を処刑し、財産を没収したことからロベスピエールに召集される。フーシェと協力して反乱を起こし、ロベスピエールを処刑。政治の有力者として暴利を貪り、総裁政府の総裁となる。「悪徳の士」と呼ばれた。愛人の一人がジョゼフィーヌである。やがてナポレオンの人気に押されて。ナポレオンのクーデター後辞職する。

アン県ベレー生まれ 1755年4月1日 パリ没 1826年2月2日 70歳
裕福は法律家の家に生まれた。ディジョンで法学、化学、医学を勉強した後弁護士事務所を開く。1789年約170年ぶりに開かれた3部会で代議士として参加する。革命の末期自分の首に賞金がかけられていることを知り、スイス、オランダ、アメリカに亡命。フランス語、ヴァイオリン教師として渡り歩く。1797年にフランスにもどり、司法官の職を得る。そしてパリ控訴裁判所の裁判長となる。死の2か月前に「美味礼賛」を発表する。原題は「味覚の生理学、或いは、超越的美食学をめぐる瞑想録:文科学の会員である一教授によりパリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述」生涯独身だった彼はこの本をレカミエ夫人に献呈した。ブルゴーニュとノルマンディーで作られるチーズ「ブリヤ=サヴァラン」は1930年にチーズ職人によって名付けられた。

パリ生まれ 1732年1月24日 パリ没 1799年5月18日 67歳
文学を愛していた時計職人の息子として生まれる。13歳で父の下で修業する。厳しい修行に耐えられなくなり、18歳の時に放蕩をはじめ、工房の時計を持ち出して売却してしまう。父から勘当と受けたが、父親の友人や母親により許され、まじめに時計職人となる。1753年21歳の時に速度調節装置を開発。これを王室御用時計職人ルポートが自分が発明したとし、ボーマルシェから執拗に訴えられこの戦いで有名となる。ルイ15世に謁見となり、ルポートを追い出し、王室御用時計職人となる。ポンパドゥール夫人のために指輪時計を制作し皆を驚かせた。貴族のフランケ夫人に惚れられ、彼女の活躍で宮廷役人となる。1756年にフランケ夫人の夫が亡くなり、正式に結婚する。結婚1年後妻がチフスで亡くなり、借金により苦しむことになる。ハープの名手であり、ペダルを改良するなどして王の娘たちのハープ教師となる。金満家のパール=デュベルニーはポンパドゥール夫人と組んで自身の記念碑として士官学校建てたが、ポンパドゥール夫人と不仲になったことからルイ15世から冷たくあしらわれていたが、ボーマルシェの機転で王を訪問させることに成功し、パールから多大な金額の援助を受け取る。
 「セヴィリアの理髪師」「フィガロの結婚」が有名。ルイ16世を侮辱して投獄までされたのに、マリー・アントワネットが女主人公を演じた。また、国王を説き伏せて初演を勝ち取っていった。

パリ生まれ 1780年8月16日 パリ没 55年7月16日 75歳
民衆に大変人気のあった詩人で、よく歌われた。王政復古の後、風刺により投獄されたが、かえって人気となった。「イヴトーの王様」が有名。またマレーシアの国家はもともと彼が作ったシャンソン「La Rosalie」がもととなっている。東南アジアに従軍した日本軍兵士も口ずさんていた。

ヨンヌ県アヌー生まれ 1770年5月10日 パリ没 1823年6月13日 53歳
下級貴族の軍人の家に生まれる。15歳でパリの陸軍士官学校に入る。一つ上にナポレオンが学んでいた。その後、王国軍の正規士官でありながら共和派を組織したことから投獄されるが、情勢が変わり釈放され、軍籍に戻ることができた。優秀な指揮官で、裏切った上官を砲撃し指令室まで逮捕しに行くなどの熱血漢であった。貴族士官追放令によりしばらく隠遁したが、ドゼー将軍の指揮下に配属される。ナポレオン戦争を戦い続け、ルクレール将軍の妹と結婚。ナポレオンが帝位につき、34歳という最も若い元帥となる。アウエルシュタットの戦いでは2倍の敵に対して勝利し、ベルリン入城一番乗りの栄誉を得る。彼の助言を聞き入れていればロシア遠征の失敗は小さくなっていたといわれる。ライプチヒの戦いで1年間敵軍の中で奮闘し降伏したのがナポレオンの退位1か月後であった。王政復古後逮捕されるなどしたが、元帥号を取り戻し名誉を挽回する。肺結核で亡くなる。

レ・ユニオン島サン・ドニ生まれ 1848年6月15日 スイスのクラレン没 1909年10月28日 61歳
2歳で父親を亡くし、母は再婚して2人の子供を産む。そのうちの一人が象徴派のルドンと結婚する。1864年16歳でフランスに来る。ロワル県のピティヴィエで通信の助手として働く。1870年の普仏戦争で通信施設がプロシア軍に使われるようになる。彼女は密かに装置を改造して家で通信を傍受できるようにした。17日間の盗聴をフランスに伝え、この情報で4万人の兵隊が救われたとされる。ただし、ドイツ軍に捕まり軍事法廷で死刑を言い渡される。しかし、死刑執行前に休戦条約が結ばれ、プロシアの王子フリードリッヒ・カール・フォン・プロイセンにより握手を求められた後、解放された。1873年にアンギャン・レ・バンの通信部の責任者となる。そこでフィガロ紙のオーナーと知り合いになり、彼女の話が1877年に発表される。これがきっかけとなり女性として初めて軍のメダルをもらい、1878年にレジョンドヌール勲章をもらう。しかし、彼女の話は当時ドイツ語と軍のコードがある中どう情報を手にしたのか、軍事法廷の記録がないことから、敗戦で落ち込んだフランスに英雄が必要としてまつられたという説がある。ルドンの家で亡くなり、国葬となった。
 

ソンム県アム生まれ 1775年2月3日 パリ没 1825年11月28日 50歳
父親も軍人で、オーストリア継承戦争に参加していた。マクシミリアンも軍人として教育を受け、革命戦争に参加する。ジロンド派よりだということの嫌疑で1794年に逮捕。ロベスピエールの失脚で処刑を免れた。1796~1797年20歳で中隊を任される。その後もナポレオン戦争でワーテルローの戦いまで参加する。ナポレオンの没落後国会議員となる。50歳で亡くなる。葬儀にはカシミール・ペリエも参加した。墓はマルセイユのサン=マリーメジャー大聖堂を建設した建築家レオン・ヴォードワイエが担当した。

ロワレ県モンタルジ生まれ 1767年1月5日 パリ没 1824年12月9日 57歳
子供のころから絵を描いたりヴァイオリンを弾いていた。1785年画家となるべくダヴィデのアトリエに入る。1789年にローマ賞ととる。ローマ滞在中に「エンデュミオンの眠り」を描く。1795年に帰国し、絵を描き続ける。1808年に「アタラの埋葬」。1813年からコンピエーニュ城の装飾と壁絵を担当する。1816年からパリのエコール・デ・ボザールの教授になる。王政復古以降体力が衰え、57歳で亡くなる。彼の心臓はモンタルジの教会に置かれている。

オー=ラン県アルタンバック生まれ 1753年2月2日 パリ没 1835年12月29日 82歳
アイロンがけ、軍隊の食事係、洗濯の仕事。1783年に兵隊のフランソワ・ジョゼフ・ルフェーブルと結婚。1794年に夫が将軍に昇進し、1804年には帝国元帥となる。上流階級の中でもナポレオンの前でも無遠慮に言いたいことを言っていたので、ナポレオンから無遠慮夫人とあだ名がついた。ナポレオンから夫をヴェストファーレン王国の王にすることになり、夫婦で相談し、お互いの身分を考えて辞退した。大金持になっても、自分の生まれを忘れることなくお金におぼれるようなことはなかった。死後に舞台や本に取り入れられ有名となる。


オー=ラン県ローファック生まれ 1755年10月25日 パリ没 1820年9月14日 64歳
父親は市の門衛。1773年18歳でフランス衛兵に入隊。1783年に洗濯女のカテリヌ・ウブシェーと結婚。戦場で数々の活躍をして元帥にまでなる。ルイ18世から貴族に列せられる。1820年に死去

ニース生まれ 1758年5月6日 パリ没 1817年4月4日 58歳
貿易商の息子。幼い時に両親を亡くし、叔父に引き取られたが、家出し、海賊の船員となる。1775年にフランス陸軍に入隊、貴族ではないと上に上がれなかったため、一度やめて、密輸入に手を出す。再び軍隊に入り昇進して1792年までに大佐になる。フランス革命戦争中にイタリア方面軍で将軍となる。1796年にナポレオンがイタリア方面司令官となり、活躍していく。1804年に皇帝となったナポレオンのもと元帥に昇格した。1809年のヴァグラムの戦いで活躍する。スペイン半島戦争の失敗でマルセイユの司令官に降格となる。王政復古後軍務をはく奪され、1817年に結核で亡くなる。優秀な軍人であったが、略奪行為を続けており、現地人から反感を買っていた。女好きで軍隊に男装させた女性を入れていた。

ノール県ル・カトー=カンブレシ生まれ 1768年2月13日 パリ没 1835年7月28日 67歳
父は耕作人で、第三身分の代議士であった。モルティエは1791年に軍人となり、革命戦争に参加。1799年の第2次対仏大同盟で旅団長、そして師団長となる。1804年に元帥となる。ワーテルローの戦いには座骨神経痛で参加できず、王政復古後1819年に許され貴族となる。1835年7月28日の7月革命5周年記念の際の国民軍の閲兵中に王ルイ・フィリップを狙った「地獄のマシン」と言われた改造銃で撃たれた。近くのトルコ庭園にあったビリヤード室に運ばれ、痙攣と悲鳴を挙げた後絶命した。

パリ生まれ 1876年11月15日 パリ没 1933年4月30日 56歳
ルーマニアの貴族でパリに生まれる。20世紀初頭の彼女のサロンには、ポール・クローデル、アンドレ・ジイド、フレデリック・ミストラル、モンテスキュー、ポール・ヴァレリー、ジャン・コクトー、アルフォンス・ドーデ、マックス・ジャコブらが出入りしていた。当時活躍していた画家が彼女の肖像画を残している。1906年には彫刻家のロダンが彫刻に残す。マルセル・プルーストの未完の作品「ジャン・サントゥイユ」の中のレヴェイヨン子爵府夫人のモデル。
墓はヴァラキア大公家の墓に葬られ、一行の文字がある。ああ、わたくしは死者たるべく作られはしなかった。

パリ生まれ 1760年10月17日 パリ没 1825年5月19日 64歳
貴族の家に生まれる。16歳の時に義勇兵としてラファイエット将軍率いるアメリカ独立戦争に参加。帰国後退役する。革命の恐怖政治中にはリュクサンブール宮殿内に幽閉された。1814年にヨーロッパ議会設立を推進したり、産業優先の社会の到来を予見した。彼の弟子たちによりサン・シモン主義は19世紀のフランス政治、特にナポレオン3世の政治に影響を与えた。晩年は貧困で自殺も企てたこともある。

ロンドン生まれ 1818年7月26日 ヌイイ=シュル=セーヌ没 1890年7月20日 71歳
ハートフォード侯爵の庶子として生まれる。遺産を受け継ぎ大金持となり、美術品を収集する。普仏戦争でパリが包囲された時は、救急車を組織した。2010年の換算で約7億円を戦争後の復興に使った。その中で有名なのが、ワレスの噴水でパリ市民のための飲み水提供場所を自らがデザインをして50か所においた。ルイ16世の弟アルトワ伯が建てたバガテル邸のオーナーでもあった。

パリ?1832 パリ没 1902年7月15日 70歳
フランクフルト出身の父親は1816年にパリに移り住む。莫大な遺産を引き継いで上品で博識、精錬された会話からあちこちの上流階級は争って彼を招き入れた。サラ・ベルナールの恋人の一人。ポリニャック大公家の晩餐でプルーストが彼と出会い、「失われた時を求めて」でスワンのモデルとなる。脳梗塞で亡くなる。