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05.第五章



 酒場へと足を踏み入れた途端、一瞬にして喧騒が止み空賊たちが揃ってノスフェラトゥを見やる。恐らく、王宮所属の騎士が調査にでも来たのかと焦ったのだろう。中には早くも獲物を抜いた輩も居た。突如として不穏な空間となった酒場は、ともすれば一触即発とも思えた――店主がその口を開くまでは。
「いらっしゃい。お客さん、見ない顔だねえ……それに、どうやら王都から来たわけでもなさそうだ。ささ、立ち飲みで良ければどうぞ」
 さりげなく助け船を出してくれた店主に頷き、ノスフェラトゥは怪しまれない程度に店内を観察しながら立ち飲み用の席につく。先ほど店の外から見つけた旅人らしい人物を探して視線を巡らすと、相手の方も気付いたらしい。こじんまりとした奥のテーブルを立つなり、旅人はすぐにノスフェラトゥの方へグラス片手にやって来た。
「何かご用で? どうやら小生を探してここへ来たように思えるが」
「ルフトツァック商会の者に、この街に似たような旅人が居ると聞いた。貴殿がそうか?」
「なるほど、アントネスクの紹介か」
 尋ねると旅人は酒を一口あおり、人懐っこい笑みを見せた。
「小生はレネ・ラカトーシュ、旅の学術者だ。そちらは?」
「……ノスフェラトゥだ」
 その旅人が語った名に、僅かながらノスフェラトゥの肩が揺れた。ラカトーシュ――その昔より大陸全土をくまなく歩き回り、各地の生活や風俗、文化と伝承をまとめている、謎と栄光に満ちた学術者である。その旅は不思議と人々の営みに紛れ、おいそれと遭遇できる人物ではないというのが、旅人内で交わされるもっぱらの噂だ。なんとも稀有な人物がシュヴァイスラントに、それも自分の目の前に来たものだ、とノスフェラトゥは内心驚いた。
「店主、酒をくれ。ワインを二つ」
「いや、酒は飲まん」
「は?」
 気前よくカウンターの奥へ注文を投げ掛けたレネが、突如割って入ったノスフェラトゥの声に驚いて振り返る。
「じゃあ、何か食べ物でも。シュヴァイスラントの煮込み料理は最高だ。熊もいいが、先日王都で食べた――なんだったかな。アザ……アザ……」
「アザラシ」
「そうアザラシ! よくご存じで。あの脂の乗った不思議な肉の味がどうにも病みつきになってしまってね」
 静かに告げたノスフェラトゥに、それまで唸っていたレネがぽんと手を打つ。アザラシとは、シュヴァイスラント女王国にのみ生息する海獣である。凍てついた海で生きるアザラシは、この国の住人にとって貴重な食料であり、また資源だ。この厳しい寒さですら凍ることのない多量の脂肪は、主に凍結防止の為に馬の手綱などに塗布されるという。またアザラシから採取出来る毛皮は南では珍品かつ上等なので――何故なら水を弾くという驚くべき特性があるからだ――この国の財政を支える強い味方となっている。
 もっとも、それを安定して輸出できる港がほとんど機能していないというのが、この国の大きな悩みでもあるのだが。そういったものは、この国の『必要悪』とも言える空賊たちの密輸に頼らざるを得ないというのも、国としては皮肉な話である。空賊は母国で使う必要のないアザラシの皮を国外に売りさばき、その代金を使って国内で盛大に酒を飲み交わしたり、物品を買い占めたりするのだ。シュヴァイスラント国内にはそれに反発するものも少なくないが、一体その内の何割が、彼らによって自国の慢性的な物資不足がぎりぎりの所で枯渇を免れているのを知っているのだろうか。
「ここへは何をしに?」
 店主が挨拶代わりに好意で差し出してきた香草茶にも興味を示さず、ノスフェラトゥはレネに尋ねた。
「もちろん、この国の生活や文化を後世に残すためさ。シュヴァイスラントは芸術関連の活動がとかく盛んだろう? 文学に歌劇、宮廷音楽などがその最もたるものだ……それから、」
 レネはひとしきり語った後、グラスに揺らめく赤い水面を見つめながら言葉を区切る。
「どうしてこんなにも過酷な環境で彼らは生活し、そしてこの地でこそ死んで逝こうとしているのか……気になってしまってね。人を惹きつける『何か』があるのか、あるいは……」
 その淡い青紫の瞳が、何か感情を反芻して幾度か瞬くのをノスフェラトゥは隣で静かに眺めていた。確かに、レネの言うことには一理ある。常冬とも評されるこの厳しい自然の理を、抜け出そうと思えば抜け出せるというのに。多くのシュヴァイスラント国民はそれをしようとしない。空賊といえども、何度空を渡って国の外へ出ようが大抵は命綱を引かれたかのように戻ってくるのが常だ。
「この国に絶望して『故郷』を捨てた者も居るぞ――例えば、私だ……結局、戻ってきてしまったがな」
 ふとレネの言葉に応えたノスフェラトゥの小さな声は、どうやら高名な学術者の興味を引くには充分過ぎたらしい。レネはそれを聞くなりはっとノスフェラトゥを見やり、すぐに落ち着かない様子で身を寄せて来た。その表情は純粋な興味に満ちており、何日か前、あの寂れた漁村で見かけた子供のそれとも似ていた。
「今また、どうして?」
「さあ……もう全てが、下らなくなったのかもしれん。世の中は思ったよりも醜い。私が言えた義理ではないが」
 ノスフェラトゥがシュヴァイスラントの人間であったことを、レネは随分と驚いているようだった。その『ノスフェラトゥ』という名前の響きから、大陸南東の生まれかと思っていたのだろう。
「しかし厭世主義の騎士とは、これまた珍しい人物に遭遇したものだ。小生の運もなかなか侮れんな……旅の理由を聞いても構わんか?」
「……」
 しまった、喋り過ぎた、と直後にノスフェラトゥは後悔した。相手の話が思いの外うまく、気がつけば完全に会話の手綱を握られてしまっていたのだ。これ以上自分の身の上を話して正体がばれてしまう前に適当に話をつけて離れた方が良さそうだが、ここで別れてしまうには余りにも惜しい人物が今隣に居るのもまた、事実である。
「そうそう、旅のお方。行く宛てが無いなら、ここから東に行ったところにあるツェレスタイン城へ行ってみちゃあどうかね。最近、野獣があそこを住処にしちまってさ。辺境だからって騎士団もなかなか動こうとしねえんだ。そこの騎士様も、きっと腕試しの旅なんだろう? 名を上げる絶好の機会ですぜ」
「ツェレスタイン?」
 店主が持ちかけて来た話に、ノスフェラトゥもレネも思わず鸚鵡返しに呟いた。同時に響いた二人の声はどちらも違う感情に満ちており、彼らはまた揃って互いの顔を見合う。



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