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03.第三章



 ノスフェラトゥが『生まれた』のは、そんな小さな国同士が互いに争いを繰り返しある領地は勢力を広げ、またある領地はそんな敵対勢力に滅ぼされ、飲み込まれ始める――群雄割拠の夜明けであった。領主であった彼もまた、己の領地を守るため戦いに身を投じ、数多くの武勲を打ち立てていた。だが、敵は戦争を仕掛けてくる武力という存在だけではなかった。
 毒や呪いによる見えざる敵。暗殺者である。
 混乱した世相の中で高潔を貫く彼の評判は、周辺の領主たちにも響いていた。決して他の領地には踏み込まず、己の領地のみを徹底的に守り抜く――その姿を妬ましいと思ったか、それとも、単純に危険だと感じたのか。彼らは戦争を仕掛けると共に暗殺者をも送り込んで来るようになったのだ。
 暗殺者によって、高潔の騎士を死に至らしめる呪いが解き放たれた。『レプラ』と呼ばれるその呪いは、時間を掛けて彼の身体を蝕み、醜く変形させていった。やがてそれは手足の痺れや運動障害を引き起こし、最後には起き上がることすら不可能とさせるほど強い呪いであった。
 そして呪いによって執政が困難となった彼とその領地の住民は生殺しにも近い状況で徐々に力を失い、領主の死後間もなくして陥落したのである。
 焼き討ちにされ、崩壊した城の瓦礫の中で『ノスフェラトゥ』の意識は産声を上げた。驚くほどの怒りが、全身を駆け巡っていた。しかし、それは彼が落下してきた大きな鏡に映された自分の姿を認識するなり、すぐに絶望へと変わった。
 鏡の表面、その向こう側に居たのはかつての自分とは似ても似つかぬ姿であった。呪いを受けたまま床に臥せっていた頃の姿であれば、まだ良かっただろう。変形した皮膚は無惨に崩れ落ち、ところどころ白い骨が露出している。目は既に無く、代わりに落ち窪んだ仄暗い眼孔が、鏡の前に立つ自分を凝視していた。
 彼は慌てて両目があった場所を手で覆うと、次いで抜け落ちたであろう『自分の目』を必死に探した。だが、そんなものはどこにも無かった。そうする内にも彼の表面を覆っていた肉や腐れた内臓が次々剥がれ落ちて行き、ぼとぼとと音を立てて地の上に転がっていく。
 剥がれ落ちていったのは、肉体だけではなかった。領主であり、高潔の騎士であった頃には確かに持ち合わせていたもの。己の正義を信じる心や民への慈しみ、そして自我までもが。掴み寄せる間もなく砕け散っていく。城も、領地も、そして己を慕って最後までこの地に残っていた民衆も……すべてが力の前に踏みにじられ、破壊された。
 全てが抜け落ち、茫然と立ち尽くしていた時間は果たしてどのくらいであったか。ほんの一瞬であったかもしれない。もしくは気の遠くなるほどの長い長い年月だったかもしれない。
 残っていたのは僅かな意識と唯一己の存在を物理的に認識出来る白い骨、それだけであった。しばらくして彼は、赤子が母親を探すような動きで歩き始めた。思いの外、骨だけとなってしまった自分の身体は意識と強く結び付いており、生前呪いを受ける前と同様、難なく動かせることが分かった。
 そして徐々にではあるが、一度は霧散していた思考が微量ながらに戻ってくるのを彼は感じた。そのきっかけが何であるかまでは分からなかったが、確かに自分の中に、生命に代わる何かが宿っているのを感じたのだ。
 このような『生き物』を、自分は本で読んだことがある――彼はぼやける自分の記憶を必死に探った。
 『不死者ノスフェラトゥ』。遥か南、未開地区のすぐそばにある小さな国に伝わる怪物の名が、彼の意識にこだまする。元来騎士でありながら教養にも熱を入れていた彼は、己の顛末をよく理解していた。にわかには信じがたい出来事ではあったが、現に彼は自分の無念が元となり『不死者』と化してしまったのだ。
 誰しも必ず、一度だけ経験するであろう死という機会を逃してしまったことを、彼はひたすら恥じていた。己の未熟な精神が、そうさせてしまったのだと後悔した。呪いに負けてしまったのだ、と。
 その後、彼は己の醜い姿を隠しながら大陸各地へと旅立った。己とその領地、そしてそこで暮らす民をも奪った暗殺者へ復讐するために。復讐の機会は、思ったよりも早く訪れた。彼を殺そうと暗殺者を放った政敵が、今なお変わらず同じ土地で実権を握っていたのである。
 彼はそれを一人一人確実に、文字通り消し去っていった。何人もの広大な領地を統べる領主たちが、大量の兵士を投入したにも関らず、突如現れたたった一人の騎士によって次々と殺され、城が制圧されていったのである。
 しかし、どれだけ復讐を重ねようとも、ノスフェラトゥが一番に望む『レプラの呪いをもたらした暗殺者』への足跡は掴むことが出来なかった。南の地に潜むという暗殺ギルドの連中も何人か手にかけたが、いくらめぼしい人物を糾弾しようとも答えを得ることは出来なかったのだ。
 小さな失望と共に、彼は北を目指した。もしかすれば自分を死に追いやった暗殺者は既にもうこの世界から消えていて、復讐の手が届かぬところへ行ってしまったのかもしれない。彼はそうも考えた。失望というよりは、諦めにも似た感情を抱えてノスフェラトゥは北の大地を踏む。
 道とも言えぬような細い街道を歩き始めて、ちょうど一日が経過した頃だった。ふとそれまで奥深い針葉樹に遮られていた視界が開けた。見上げた空は薄い青色をしており、微かに雪がちらついている。ここから先は緩やかな勾配を経て、今まで登ってきた山を下らねばならない。しかし、それもすぐに終わるだろう。ちらつく雪の隙間、その向こうには比較的寒さの和らいだ平原と、そこに鎮座する大きな湖――そして常冬と言えども活気に溢れる街の姿があったからだ。
 雪の中に浮かび上がった街のあちこちからは、細い湯気がいくつも立ち上っている。人が忙しなく活動を続けている証拠だ。そこに命がある証拠だ。
 



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