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02.第二章



 周囲には渦巻く風の音と、己の歩みがもたらす小さな金属音だけが響いていた。規則的に続くそれは、常に一定の速度と感覚で、ノスフェラトゥの意識へと流れ込んでくる。まるで進入を拒むかのような、低い呻り声を上げながら慈悲無き風が幾度も氷上をさらい走る。それを真正面から睨みつけながら、ノスフェラトゥは歩き続けた。
「この地に、神など存在しない……その真理に、我々は……」
 そしてその隙間を縫って、彼の静かな声が虚空に消える。
「生きながらに嘆き、死の淵に立たされる間際になって初めて」
 彼が紡いでいたのは、古くよりこの北の大地で語られる一篇の詩であった。厳しいシュヴァイスラントの冬と、その中に潜む死の影。それは悲しみも慈しみもない、ただただ儚く美しい情景である。
「……その事実が安堵すべきものであり、 暗澹冥濛とした」
 シュヴァイスラントに存在する死は、あらゆる宗教を必要としない。他国の宗教があらゆる死を必要とするのに対し、この国では国土を覆う雪と氷、そしてそれを溶かすことのできる火だけが人々の生死を握る。南方の国々で天寿を全うしようとする老人が国教の神に感謝の言葉を捧げている頃、シュヴァイスラントでは産まれたばかりの赤子が寒さに凍りつき死んでいる。
「我々の内面――水面に咲く一輪の……」
 それを世の不平であると糾弾出来れば、どんなに良かったか。
「花と、知る」
 ざり、と音を立てて彼の足は止まった。そしてそれと共に、ノスフェラトゥの意識ははるか過去へと飛んでいた。花など、考えてもみればほとんど目にした事が無い。シュヴァイスラント人は花を知らぬ。春を知らぬ。日の光の暖かさを知ってはいても、それが南方では雪を解かし、川を作り、やがて植物たちを芽吹かせ、生命の輪舞曲を奏でることを、彼らは知らないのだ。絵空事だと嗤う者も居るだろう。そしてそんなシュヴァイスラントの住人たちが、日々降り積もる雪の欠片を六片の花弁に見立てて呼ぶようになったのはいつのことだったか。
 舟を降りてから延々、人が歩いて渡るには広大過ぎる凍った海の上をノスフェラトゥは歩き続けた。やはり南の港から馬を連れて来なかったのは正解だった、彼はそう考えていた。
 確かに馬を使えば、この凍った海の上を少しでも早く渡り終えることが出来たかもしれない。しかし、南の馬は総じて寒さに弱い。きっと、距離の半分を過ぎた辺りであえなく力尽きてしまうだろう。そしてそれは、曲がりなりにも『騎士』であるノスフェラトゥにとって耐え難い出来事でもあった。本来であれば共に育ち、共に戦場を駆けるべきとする騎士のため、己のための馬を、こんな所で闇雲に失ってしまうのは避けたかったのである。
 そんな彼の歩みがふと止まったのは、視線の先に小さな波止場を見つけた瞬間だった。
 正確に言えば、波止場であった、もの。そこにあったのは既にその機能も失われ久しく、ただただ雪と風にさらされた死体のようなものだった。そしてその波止場の周囲で雪合戦に興じていた村の子供たちの様子が一変、海の向こうより歩いて来たノスフェラトゥの姿を見るなり、握っていた雪だまも放り出して逃げていく。やがて彼がその寂れた『漁村だったもの』へ足を踏み入れる頃には、子供の悲鳴を聞いて住居の中から「何事か」と大人たちが出てきた。
「あんた、どこから来なすったね……」
 声が震えていたのは、決して寒さのせいだけではなかっただろう。
「ルキフェニアだ。途中まで、舟を出してもらった」
 さも当然と言ってのけたノスフェラトゥの言葉に、にわかに大人たちがざわめき出す。無理もない。シュヴァイスラントへ入国する方法は限られている。海に張る厚い氷を砕いて進むことのできる船か――そんなものさえ、あるかどうかも怪しいものだが――もしくは、この国の空賊たちが駆る空挺くらいのものだ。万が一、竜や巨鳥を手懐けることが出来たとすれば、空賊の厄介にならずとも空を越えて来ることは可能だが、そんなものさえ、十年に一度あるかないか。
「どこへ行くかは知らないが、とっとと出とってくれ」
 村の長とおぼしき老婆が、雪の中で低く告げた。
「この国で『海渡り』がどんなに大変なことか、わかるかい。そして大抵海なんてものを文字どおり渡ってくるのは、魔性ばっかりさ。あんたもそうなんだろう? どんなに立派な鎧を着てたって、あたしにゃ分かる」
「ばあさま、滅多なことを言うんじゃないよ!」
 すぐに村の男が老婆を制し、ノスフェラトゥへ乾いた愛想笑いを浮かべる。
「ここから二日ほど行けば、『マイセル湖』にたどり着く。ここらで一番栄えてる所だ、こんなとこよりよっぽど良い街もある。どうかあんたの気が変わらない内に行ってくれ。ここには何もない」
 愛想こそ良いものの、どうやら村の住人たちはノスフェラトゥを完全に『魔性』と見なし、それに沿った扱いをするつもりのようだ。しかし、それとて彼にとっては日常茶飯事、容易に予測の出来る展開でもあった。
 老婆が先ほどノスフェラトゥに向けて気丈にも放ってみせた啖呵は、いわゆる年寄りの戯言などではない。総じて生き字引とも呼ばれる長い生を過ごした老人たちは、若者の持つ感情や記憶などとは比較にならないほど深く広い知識を持つ。この老婆が言っていることも、恐らく世迷い言ではない。
 彼女は見たのだろう。その昔、同じようにして『海を渡ってきた魔性』を。
「元よりそのつもりだ」
 そしてそんな村人の忌避の視線を一身に受けながらも、ノスフェラトゥはただ静かに村人たちへ一言だけ告げた。その声とともに、本来なら漂うであろう白い息が見受けられなかったことに気付いた者は、果たして居たのだろうか。
 小さな金具の擦れ合う音が鳴った。ノスフェラトゥは風にまとわりつくマントをひと払いすると、そのまま村の様子を一瞥しゆっくりと歩き出した。途端に村人たちがざわめき、蜘蛛の子を散らすようにして道を開ける。
 すぐさま扉を閉めて家の中へと逃げる者、何事か隣人と囁き合いながら用心深くノスフェラトゥが去るのを見届けようとする者、様々だ。純粋な興味に引かれて駆け寄ろうとした幼子を、慌てて制する母親も居た。だが、それら全ては去り行くノスフェラトゥにとって関心を得るには至らなかった。彼はただ、彼自身の目的を果たす為だけに動いている。
 寂れた漁村を後にすると、雪に埋もれた細い街道が姿を現した。その下にあるであろう土の色は、最早とうの昔に忘れ去られて久しい。厚い雪の層は、シュヴァイスラントから一切の色彩を奪っていく。降り積もる度により一層、雪は実に様々なものを攫っていくのだ。
 黒々とした鋭い針葉樹に吹きついた雪は、溶けることなく膨張の一途をたどり樹氷となりかけている。その白と黒とが織り成す冬の情景は美しかったが、ノスフェラトゥはそれにさえ一瞥もくれずひたすら街道を歩き続けた。
 二日ほど行けば、マイセル湖と大きな街に辿り着く――村の男はそう言っていたが、それはあくまで寒さや飢えに凍える人間たちの話だ。まるでこの国に降り積もる雪のように、人間が持ち得るだろうあらゆる感覚を閉ざされたノスフェラトゥにとって、旅の障害となるものは『ほぼ無い』と言っても過言ではない。たとえ深い雪に足を取られようと、彼の歩む速度自体は通常のそれと変わることはない。
 「文字どおり海なんてものを渡って来る奴なんて、魔性ばっかりさ」。村で老婆から投げ掛けられた辛辣な言葉に、ノスフェラトゥは反論をしなかった。何故ならそれが、自分にとって虚偽ではなく、真実であったからだ。不死者と――あるいは地域によっては死人(しびと)とも――呼ばれる魔の存在は、大陸の各所に伝説や言い伝えとして今でも多く残されているが、ノスフェラトゥもそんな不死者として世界に棲む一人なのだ。
 不死者が『生まれる』理由は度々学術者の間でも議論されているが、民衆の間で一番広く知られているのが『怨念』として彷徨う不死者である。生前は普通の人間や生物であったはずのものが、何らかの理由により己の死を受け入れることが出来ずそのまま魔物と化し、死亡した当人の意思とは関係なく、何らかの災いをもたらす存在となると言われている。
 遥か昔、思い出などという言葉が霞んでしまうほどに遠い過去。ノスフェラトゥはひとつの領地を統べる高潔の騎士であった。頑丈なつくりの城はそれほど大きくはなかったが、その中で華美な生活とはかけ離れた人生を送っていた。そしてそれが、彼の統べる領地の住民に信頼を与えるきっかけとなり、徐々に地域の生活は活性化した。
 まだまとまった国というものが存在していなかった頃だ。ともすれば、その領地と領主とが、ひとつの国であった時代である。そんな中、生活に満足していた民衆と違い、一部の領主たちは力によって己の領土を拡大させようと日々画策していた。世界は狭く、閉ざされている。更なる富を得るためには、他の領地を侵略するべきだという考えが、徐々に広まっていった。



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