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01.第一章



 広大な海を渡る小さな渡し舟が、悲鳴にも似た長い音を立てて止まったのはその時だった。
「旦那、これ以上はもう無理でさあ。氷が見えてきた」
 ムラデンがため息混じりに舟の櫂を所定の位置に戻して呼び掛ける。そしてそれを聞き付けたこの船たった一人の客が、呆れる水夫を振り返り静かに頷いた。
「もう少しだけ寄せてくれるか」
 早くも表面が凍り始めている赤いマントを翻し、彼は言う。客は武骨な甲冑姿であったがその声は決して高圧的ではなく、温かくはないものの一種の優しさを感じさせた。余程よい家柄の人物と見える。
 きっちりと全身を覆った鎧兜に隙はなく、腰に提げる長剣も立派な作りの鞘に収まっていた。そこにあしらわれていた紋章はムラデンにとって見慣れない造形をしていたが、丹念に作りこまれた細かな意匠は、しばらく視線を固着させてしまうのを禁じえないほどに美しい仕上がりだった。
 そしてその煌びやかな金属に覆われた彼を守るのは、緩やかにはためく深紅のマント。所々に細かい刺繍がなされており、作り手と買い手が共に情熱を注ぎ込んだと見える豪奢なものだ。
 きっと名のある騎士に違いない。日々退屈に過ごしていたムラデンにとって、久し振りに掴まえた旅客は大層異質で、興味深い存在だった。しかし当の本人はムラデンの興味本位な視線を気にするでもなく、しばらく遥か北に浮かぶ白い大陸を見つめていた。そして先程と同様に、彼はやはり落ち着いた声で言うのだった。
「水夫、もう少しだけ寄せてくれ。そうしたら、あとは徒歩で行く」
「正気ですかい? いくら旦那でも、さすがに死んじまいますぜ」
 ぽかんと口を開け、次いでムラデンは怪訝に眉をしかめた。ルキフェニア王国の港町から北に向かい舟を出して早一日と半。その先で待ち構えるのがシュヴァイスラントの凍てつく海であることは、ムラデンを始め海辺の住人であれば子供でも知っている。
 かつてはその海路を越えて、北の大国からも商船が来ていたと言う。しかしいつしかその船たちも姿を消し、代わりに北の海からは大きな氷の塊が流れ着くようになった。そして時折、流氷に混じって北の住人とおぼしき溺死体も。
 過去幾度となくルキフェニア人も――シュヴァイスラントとの接地点である険しい北部山脈の踏破を諦め――この海を渡って北へと船を進めたが、そのほとんどは失敗に終わった。帰ってくるのはいつも北からの便りではなく、がらんどうの船や旅立った船員のものと思われる遺品の数々だった。
 それが単なる船の難破などであったら、まだ良かったかもしれない。北の凍てつく海には寒さだけではない、更に恐ろしいものが潜んでいたのだ。空賊である。彼らの前では凍った海などもはや意味をなさない。竜を狩り、空を駆るシュヴァイスラントの空賊は、国内外の関係もなく商船を襲っては金品を略奪し、それを自国や他国に売りさばくのを生業としている。襲われれば、ひとたまりもあるまい。
「悪いこたあ言わねえ。止めた方がいい……あの氷の相手をするにゃあ炎の魔導師だって難しい。それに旦那、食糧はどうするんで?」
 至極真っ当なムラデンの言葉に、騎士はやはり北の方角を眺めながら答える。
「元々、腹の減らん性質(たち)なのでな。寒さも感じなくなって久しい……水夫、寒いのか?」
「そりゃあもう、がちがちですよ」
 何を今更、と騎士の問いにムラデンは大袈裟に身震いして見せた。シュヴァイスラント女王国――常冬の国と名高い彼の地を前にして、「寒さを感じない」と言う騎士の言葉に彼は一抹の不安を覚えた。まさか、魔性の類いではなかろうか? これから自分はこの凍てつく沖合いで、彼に殺され食われてしまうのではないか? そんな危機感が脳裏をよぎる。
「すまんな。無理を言ってここまで船を出してもらったというのに。向こうの氷岸へつけてくれれば、前払いの料金に銀貨を四枚追加しよう。それを受け取ったら、君は早々に港へ戻りたまえ。そして、その金でまずは何か温かいものを食べるといい」
 しかし、今ムラデンの前に立つ騎士の姿は祖国のそれとは違うものの実に紳士然としたもので、彼に危害を加えようとする素振りは一切見せなかった。あくまで淡々と、そして静かな声は、この強い風の中にあって唯一『凪の状態』を維持している。それは決して波立つことはない、諦観か、それとも自信か。
 その様子にムラデンも覚悟を決め、誰にともなく頷くと彼は一度は漕ぐのを止めた櫂を再び動かし始めた。木の軋む音が、また規則的に静かな海へと孤独に響く。やがて小さな船は分厚い氷の岸へとたどり着き、ギシ、と音を立てて止まった。
「じゃあ、旦那。この辺で」
 ムラデンが促すと、騎士は懐から約束通りの銀貨を取り出し渡してきた。久し振りに目にした大金にムラデンの心は一瞬踊ったが、それはすぐに冷えた風によって霧散する。
「世話になったな。礼を言う」
 どうやら本当にこの氷の上を、彼は歩いていくつもりらしい。銀貨を渡したきり迷いも見せず船を降りた騎士へ、ムラデンは声を掛けた。
「旦那! まだ、名前を聞いてなかった」
 すると騎士は小さな金属音を立てて振り返り、言った。
「……ノスフェラトゥだ」
 そしてそれきり、吹雪始めた白い世界の中に。
 彼は臆することなく消えていったのである。
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