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13.第十三章



 一夜明けて、二人は『ゾリューシュカ』のところへ会いに行くことにした。荷物袋の中からそっと取り出したガラスの靴、その箱を抱え、ノスフェラトゥはレネの後ろをついて行く。
 道行く人々が好奇心の眼差しを向けて来たが、それはひとえにレネとノスフェラトゥという珍妙な組み合わせが原因だろう。遊学中の貴族とそれに仕える騎士に見えなくもないが、間違ってもレネは貴族という風情ではない。金に困っているようではなさそうだが、彼の持つ雰囲気は一般市民のそれと変わらない。むしろ貴族の風格を携えているのはノスフェラトゥの方で、その彼がレネに大人しく付き従っている光景は奇異であった。
 実質、ノスフェラトゥは『ゾリューシュカ』を巡る旅の中でレネには全幅の信頼を寄せつつあった。元より高名な学術者として知っていただけではなく、その人となりに直に触れ、今まで忘れ去っていた感情が蘇りつつあることを彼は心のどこかで喜んでいた。『ゾリューシュカ』の存在を思い出したのも、元はと言えばレネのお陰だ。マイセルの酒場で興味が湧き、出会うことが無かったなら……きっとこの有意義な旅も実現しなかったことだろう。
 やがて二人は一軒の民家へ辿り着く。古い家だった。ともすれば雪に押し潰されそうな、冷たい風に飛ばされてしまいそうな――強くも貧しいシュヴァイスラント人の典型的な家屋。ここが、レネの突き止めた『ゾリューシュカ』の居場所だった。
「ここだな、『ゾリューシュカ』が居るのは……すみません、旅の者ですが」
 分厚い木製のドアをノックし、レネは中に居るだろう住民に声を掛ける。すると家の中から小さな返事がし、一人の少女がドアを開けた。
「はい……どうなさいました?」
「『ゾリューシュカ』という人を探しているんだが、ご存知かな?」
「えっ……」
 茶色の髪を左肩に束ね幾重にも毛皮を着込んだ素朴な姿の少女は、レネが聞くなり言葉を詰まらせた。
「はい、私、です……ゾリューシュカは」
「アタリだな」
 ノスフェラトゥを振り向き、レネは小さく呟く。状況を呑み込めない『ゾリューシュカ』に、レネは経緯を話した。
「実は、君のおばあさんだろうか……同じくゾリューシュカという名前の女性が持っていた品を旅先で見つけてね。同じ名前の家族がここに居ると聞いて、届けに来たんだ」
「まあ……ゾリューシュカは、私と曾祖母の名前です。あっ、すみません、寒いでしょう? どうぞ中へ」
 どうやら変に怪しまれずには済んだようだ。何より彼女の名前の由来を知っていたことから、悪漢の類ではないと判断されたのだろう。ノスフェラトゥも一目置く――同時に呆れもしているが――レネの人の善さは、ここでも存分に発揮された。
「ありがとう。小生はレネ・ラカトーシュ。旅の学者でね、シュヴァイスラントの文化について調べているんだ。そこでツェレスタインの事を知って……君は何か知ってるかい?」
「学者様でしたか。ええと……私の曾祖母がツェレスタインという土地からこの街へやって来たというのは聞いています。でも、それ以外の事は何も……」
「そうか……なら、それでいい。ノスフェラトゥ、箱を彼女に」
 用意された椅子に座りながら、レネはノスフェラトゥを呼んだ。ノスフェラトゥは頷き、片腕に抱えていた木箱を少女へ差し出す。
「これを貴女に『返したい』、ゾリューシュカ」
「返す……?」
 木箱を受け取りながらきょとんと見上げた少女の顔はあどけなく、その表情はノスフェラトゥに既視感を覚えさせた。確か『ゾリューシュカ』にこの硝子の靴が入った木箱を渡した時も、こんな風に見上げて来たものだ。少女の姿は、実によく『ゾリューシュカ』と似ている。百年前に失ったと思っていた何かが、再び彼の中に灯った。
「君の曾祖母は、恐らくこれの片方だけを持ってこの街へ来たのだろう。開けてみたまえ」
「そんな、わざわざ……ありがとうございます」
 むき出しの片腕を出す訳にはいかないノスフェラトゥは、少女に木箱を手渡しそれとなく開けるよう薦めた。少女は言われた通り、受け取った木箱をテーブルに置くとそっとその蓋を開ける。すると、彼女の目は驚きに見開かれた。
「これ……硝子の靴……家の奥に飾ってあるものと同じ靴です。ちょっと待っててください、持って来ます!」
 少女は箱の中に入れられていた硝子の靴を見るなり、慌てて身を翻した。そしてしばらくして、ゾリューシュカは少し汚れのついたもう一方の硝子の靴をテーブルへ持って戻って来る。
「ようやく一対に揃ったようだな」
 その姿を見たレネが満足そうに笑う。そして百年振りに揃った硝子の靴を見るノスフェラトゥも、どこか感慨深い気持ちでそれを眺めていた。
 シュヴァイスラントの硝子細工は古来より、その美しさを讃えられて来た。この靴は、まさにその粋を集めたと言っても過言ではない。氷よりも透き通り、水晶よりも輝きを放つ――ふたつ揃った硝子の靴は、ついにその本来の姿を取り戻したのだ。
「本当に……ありがとうございます。ツェレスタインの領主様が導いて下さったのかしら……とても良い人だったと、聞いています。曾祖母もきっと、喜んでいることでしょう」
「……そうか」
 少女の感謝の言葉に、ノスフェラトゥは頷く。言葉少なにしか応えることが出来ないのは、自分がその領主の成れの果てであるとこの少女の前では言い出せないからだ。
 言ったところで、何になる――またしても掴みどころのない感情が、彼を支配し始めた。
「その言葉に、領主も報われたと思う……ありがとう」
 決して正体を明かすことなく、少女に接することの何と難しいことか。そしてそれをレネも分かっているのか、彼は少しして口を開いた。
「それじゃあ、そろそろ我々は行くとしようか。あまり長居しては出発が遅れてしまう」
「ごめんなさい、お茶も出せずに……突然のことで私、すっかり驚いてしまって……もう少し暖まって行かれては?」
「いやいや構わんよ。急ぎの旅ではないのだが、この気候だからね。日のある内に準備をして、次の街に移動しようと思うんだ」
 少女の引き留めを辞退し、二人は早々にゾリューシュカの元を去る。優しい嘘をついたことは、これが初めてかもしれない。再び雪の中に一歩を踏み出したノスフェラトゥは、しばらく慣れぬ感情を抱えて灰色の空を見上げていた。
「心残りは……あるだろうが、これが一番良かろう。彼女は悲劇を知らない。我々も、それを敢えて伝える必要はないだろう」
「……そうだな」
 ノスフェラトゥの心情を察してか、レネも同じく空を見上げぽつりと言った。雪が、また降り始めていた。
「これからどうする? まだ目的は定まらんか?」
「今一度、大陸へ行こうと思っている」
「暗殺者を探しに?」
「そうだ」
「それなんだがな、ノスフェラトゥ……」
 揃って歩きながら、遠慮がちにレネは口を開く。極寒の中、白い息が舞った。
「君の死因、毒殺ではないと小生は思うんだ。そろそろ……」
「諦めろと?」
 街の門を過ぎ、ノスフェラトゥは立ち止まる。彼は空を見上げるのをやめ、いつの間にか足元に視線を落としていた。その俯く姿は、いつしかレネが初めて目にした時のような心の壁を作り始めているようにも見える。
 レネの言うことも最もだ。己が納得し、諦め、心の安らぎを得られればこの世界に留まる理由はない。
 恐らく、ノスフェラトゥが現世に留まっているのは己の死を望んだ者たちへの恨み、そして守る事の出来なかった者たちへの自責の念そのものだろう。それはイーヴァインの死から百余年、今もノスフェラトゥを世界に繋ぎ止め、半ば強迫的に生かし、動かしている。それは流石に不毛ではないか、レネはそう考えているのだ。
「そういう訳ではない。真実を探そうと小生は言っているんだ。君の心は未だ百年前に囚われたままだ。先に、進まなければ」
「……」
 冬の風が、二人の間に吹いた。冷たく厳しい風であった。
「私も言いたいことがある。貴殿がそれを言うのなら……私の悲しみ、虚無に……貴殿は付き合ってくれるのか?」
 互いに長い時の流れに身を置いている二人は、その時間の中で実に沢山の物事に出会いつつも常に孤独だ。それをノスフェラトゥは、レネと旅をすることで知ってしまった。
 痛感したのだ。認めたくはなかった、しかしノスフェラトゥは己が孤独で、そして虚無に苛まれる中で大事な何かを求めている事に。気付いてしまったのだ。そしてその対象が、今、目の前で自分を見つめるこの一人の数奇な運命を持つ男であることも。
「私の願いを、貴殿が聞いてくれると?」
 これは、契約だ。限りなく約束に近い、契約だった。本来ならば人間にとって魔性との約束事は禁忌であり、避けねばならないものである。何故ならその契約が果たされたその時、魔性は決まって相手の命を奪うと信じられているからだ。
 しかし、ノスフェラトゥは願わずに居られなかった。勝手な思い込みと言われても構わない。この者となら、共に世界に在ることが出来る。その許しを、彼は今まさに乞うたのだ。
「いいとも。君が望むなら、小生は力を貸そう」
 思いの外、レネはすぐに答えた。まるで昼食を食べに行くかのような軽やかさで、彼はノスフェラトゥに笑う。
 雪の中に灯る笑顔が美しかった。そしてその自信に満ちた表情が、ノスフェラトゥの心を決めた。彼は愛剣を引き抜くとそれを前方に差し出し、雪の上に跪いた。
「ならば、今より貴殿を私の主に」
「なんだ、突然?」
 急に畏まった様子で跪いたノスフェラトゥに、レネは困惑した。
「いや、小生はそんなつもりで言った訳じゃ……」
「この剣を、いたずらに血で濡らすのは私も望んではいない。それ以上の理由が今は必要だ」
「ノスフェラトゥ……」
 突然の申し出にレネは慌てて手を振ったが、ノスフェラトゥの行動がどのような経緯を辿って今なされているのかを彼も知らない訳ではない。そしてこのままノスフェラトゥを失意のままに大陸へ戻せば――彼は今度こそ、魔性の騎士として大陸に危機をもたらすかもしれない。ただでさえ、百年前から己の仇を探して彷徨っているのだ。その不毛さを、知らないレネではない。
「私はまだ、心までもを失った魔物になる気は無い……その為には主、貴方の『心』が必要だ」
「小生の、『心』……?」
 胸に手を当て、レネは思わず鸚鵡返しに呟く。自覚は無いのだろうが、レネはノスフェラトゥに様々な感情を生まれさせた。生前の悲しくも温かな記憶を呼び覚まし、意識の中に積もった雪を溶かすような『心』の持ち主。それは無意識にノスフェラトゥが求めていた、死とはまた別の『安らぎ』に近いものだった。
「旅の間、考えていた……貴方は一体何者なのかと。ようやくそれが、理解出来た気がする」
 レネを聖者と仰ぐ気は無い。しかし、己にとってレネがこれ以上ないほど大きな存在になりつつあるのを、ノスフェラトゥは感じていた。それをどうすればいいのかはまだ分からなかったが、騎士であるノスフェラトゥが今為せることは。剣を持つ者として、彼に固く忠誠を誓うことだった。
「まあ、その……なんだ。とりあえず、顔を上げてくれノスフェラトゥ。そもそも小生はそんな柄じゃあない」
「了解した、主」
「いやだからそうじゃなくて……ああ、もういい。主でもなんでも、好きに呼んでくれ」
 半ば強引とも言える忠誠心に戸惑うレネだったが、今後の展望を考えていたのか、遂にノスフェラトゥの願いを聞き入れるに至った。
「小生は君を旅の仲間として歓迎しよう。だが今はそれだけだ。君を下僕か何かにするつもりは無いからな」
 剣を鞘にしまい、寄り添うようにして歩き始めたノスフェラトゥにレネは釘を差す。死因の断定やその恨みの念もそうだが、どうやらノスフェラトゥは思い込みの激しい一面があるようだ。それが後に少しずつ融解するのを期待し、旅の学術者は「仕方が無い」と息を吐く。
「また旅の途中で会うこともあるだろう。その時に、君が悪意無き存在であることを祈るよ。信念は大事に持ってくれ」
「心遣い、感謝する」
「はぁ……とんだ土産話が出来てしまったな、まったく」
 白い雪原に、二人の足跡が続く。それは時の流れに残る、心の軌跡に似ていた。



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