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08.第八章



 一夜明けたシュヴァイスラント南方の空は、珍しく陽光に恵まれていた。降り積もった雪が光を受けて細かく輝き、それは一種の美しさを感じさせる。そして何の警戒も無く雪の上を走る狐が、雪原の中頃で鋭い風切り音と共に倒れたのはその時だった。
 ドッ、という鈍い音を立てて狐の脇腹に矢が当たる。それを遠くから、未だ振動に震える弓の弦と共に見据えている影があった。ノスフェラトゥである。
 馬上から見事な腕で小さな的を射抜いてみせたノスフェラトゥに、同じく馬に揺られるレネが後ろから拍手を贈った。
「いやあお見事、お見事。あれが今日の昼食かい?」
「そういうことだ」
 馬を走らせ、彼らは雪の上にぽつりと浮かんだ血溜まりへと近付いていく。
「宿の女将は今朝、『晴れるが寒さは厳しい』と言っていた。滅多な事では肉も腐らんだろう。今の内に、少ない調理法の中から好みのものを選んでおくことだ」
「まるで他人事のように言うんだな? シュヴァイスラント人にとってはこの程度の寒さはまだ序の口ということか……やれやれ」
 レネは倒れた狐の近くで馬を止めると、そこからひらりと雪の上に降り立った。まだ息のある狐の傍らに屈み込み、少しの間互いに目を合わせる。やがて小さく「すまんな」とレネの呟く声が聞こえ、ナイフの煌めきと僅かに飛び散った鮮血、そして弱くも甲高い狐の声が響いたのを最後に雪原は静けさを取り戻した。
 レネはそれきり完全に狐への興味を失ったようだった。手早く取り出した縄で獲物の足をくくり、それを馬に乗せた荷物の端にぶら下げる。そしてレネもまた馬へ跨がると、その足で小さく腹を蹴った。
「しかし、百年前に打ち捨てられた貴族の城か……城下と使用人たちが居たのならたとえ陥落したとしても、集落としての機能は今でも残っているはずだ。戦か、それとも疫病か。不運なことだな」
 ふと独りごちたレネへ、ノスフェラトゥは言う。
「シュヴァイスラントでは人が生きて活動できる場所に制限がある。昨夜、貴殿はこう言っていたな……『何故この地に生き、そしてこの地で死んでいこうとするのか』と」
 さく、さく、と馬の足が雪に食い込み、揺れる荷物の小さな音が響いた。
「私にはその理由が今になって分かる。魔力だ。風に乗って、大陸南方から海流のようにして流れ着くのだろう。それが見える」
「見える? ノスフェラトゥ、君は魔導の心得があるのか?」
「ああ。純粋に騎士として生きることを諦めたのち、少しばかり魔導の仕組みを調べた」
 元々魔術の類には疎いノスフェラトゥであったが、不死者としてこの世に留まることとなってしまってから、彼は実に様々な魔導現象に遭遇するようになった。魔力の流れや、その力の種類――自分に恩恵があるか、または危害をもたらすものか――更には、実体化はしていないものの自分と同じくして不死者となってしまった存在の囁き。現象はノスフェラトゥに大小関わらず影響を与えるようになり、そしてそれに彼は時折、苛まれてきた。
 こちら側へ来い、と悪意に満ちた声で誘う未知の者も居た。恐らく悪魔などと呼ばれる存在なのだろうが、その声に応えていたら今頃、こうして人の良い旅の学術者の供をして雪原をのんびり進むこともなかっただろう。ノスフェラトゥが不死者でありながらも現在、広義では人間とそう変わらない生活を出来ているのはひとえに彼自身が生前より持ち続けていたその高潔さに起因する。騎士としての誇りだけが彼を今も形作り、そして守っているのだ。
「酒場の店主はこの方角にツェレスタイン城があると言っていたが、果たして合っているのだろうな? こうにも雪が深くては、埋もれてしまっているかもしれないぞ」
 白い息をその口から漏らし、レネが言った。分厚い手袋をはめた手で不器用そうに地図を引っ張り出し、あちこちを見回しながら唸り始める。
 人の記憶から忘れ去られた建造物の崩壊は、人が思うよりも随分と早いものだ。石造りの建物でさえ人の手が入らなければいとも簡単に崩れてしまい、それが更に人々の記憶を薄れさせる。そして最後には、地図にすら――ともすれば歴史からも――その存在と名前を記すものが消えてしまう。ツェレスタイン城は辛うじてその危機を免れていると予想されるが、恐らくそれも時間の問題だろう。
「高い尖塔が、まだ雪の上に見えるのではないか。あの高さの塔なら、百年やそこらの積雪程度で埋もれるとは思えん。崩れていなければの話だが」
 それまで静かに山の向こうを眺めていたノスフェラトゥが呟いた。ツェレスタイン城には背の高い塔がある。襲い来る外敵から身を守るために作られた見張り塔だ。
 そしてノスフェラトゥの予言通り、細く鋭い塔の姿が見え始めたのはそれから四半日後であった。城と呼ぶにはずいぶんと歪な姿を現したそれは、過去、この一帯が焼き討ちに遭ったことを物語っている。ツェレスタイン城は戦に敗北し、そして人々の紡ぐ歴史の敗者となったのだ。
「あった……これが、ツェレスタイン城……」
 茫然と呟くレネの声は、すぐさま風雪にさらされ消えていった。そして馬を進めて城へ近づくにつれ、そこに城以外の大きなものが横たわって居ることに彼らは気づく。異変を察知した先頭のノスフェラトゥが素早く左手で後ろのレネを制し、低く張り詰めた声で言った。
「酒場の店主め、随分と話を盛ったものだな」
「どういう意味だ? 確かに、野獣の類いは見当たらないようで安心したが……」
「そう、確かに野獣など存在しない。だが……どうやらそれよりも厄介なものが、ここには潜んで居たようだ。下がれ、これより先は『私の領域』だ」
 ノスフェラトゥのその声は危険を察した焦りというよりも、純粋な怒りを思わせた。その時だ。雪に埋もれて姿を消していた何かが、大きく大地を揺るがせて立ち上がったのだ。
 はじめは城の瓦礫そのものが動いたようにも見えた。しかし雪を払って突如現れたそれは、雪同様に白く、そして昏い生き物であった。
「巨鳥……!? いやしかしこれは……」
 背後でレネが動揺の声を上げる。
「狂骨鳥か……!」



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