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07.第七章



「君が、あの『イーヴァイン』……?」
 うっすらと積もり始めた帽子の雪を落としもせず、レネが言った。月明かりに照らされた頬は陶器のように白く、驚きゆえに色を失っている。
「どうして……」
 しかしその言葉の半分は声にすらならず、ただただ白い息となって唇から漏れていくのが見えた。無理もない。現世を彷徨い渡り呪いと共に歩く不死者の存在は、人間にとって脅威以外の何者でもない。そしてその不死者がかつての『イーヴァイン』であり、今もこうして名も姿も変え人々の営みに紛れて『生きている』などと、レネは思いもしなかったのだろう。
「不死者というのは本当なのか……? ええと、」
 未だ驚きがおさまらないらしいレネが、しどろもどろに尋ねる。
「『ノスフェラトゥ』で良い。それが今の私の名だ」
 それに平然と答えながら、ノスフェラトゥは静かに左腕のガントレットを外した。夜の闇に現れたのは、雪よりもなお白い人骨――ノスフェラトゥの持つ、あらゆるものへの恨みと僅かな魔力だけで繋ぎ留められた空虚な身体。一部分でも人の目に晒したのは、これが初めてであったかもしれない。
「わかった、じゃあ、ノスフェラトゥ。まだ君の素性を信用しきった訳じゃないが……君が心無いアンデッドでないことは信じよう」
 すでに白骨化しているノスフェラトゥの腕をまじまじと見つめながら、レネは言った。その声に迷いはなく、既に驚きはおさまりつつある。
「このまま悪魔払いにでも突き出してくれて構わんのだぞ?」
「何を馬鹿なことを」
 冗談混じりの問いへ返されたのは、やはり冗談混じりの答えだった。
「君をあの女王にでも突き出せと? そんなことをして小生に何の得がある。それに、こんな『不可思議の固まり』のような男を前にして小生がそれを逃がすと思ったら大間違いだ」
 寒空の下で快活に笑うレネの表情が眩しい。
「とにかく、君の話を聞きたいというのもある。だから、やはり今夜は宿に泊まっておかないか? 何なら、宿代も小生が持つぞ?」
 先ほど驚きに勢いを失っていたかと思いきや、すぐにこの有様である。憎めない男だ、とノスフェラトゥは大袈裟な動作で珍しくも肩を落とした。仕方がないとすぐの出発は諦め、彼は大人しくこの気まぐれな学者と共に日の出を待つことにしたのだが――案の定、レネが部屋を取っているという宿に着いた途端にあれやこれやと質問攻めにされた。何年振りかも分からぬ、人の真っ当な対話にふと、感覚を失って久しい「喉の渇く」思いをした。
 百年前のシュヴァイスラントはどんなものであったか。どのような経緯を辿り、女王という一人の女性を崇め奉るようになったのか。空賊の動向は、シュヴァイスラントの民はこの国をどう思っているのか。そして何よりレネが一番気に掛けていたのは、「どうしてこの国の雪は溶けぬのか」ということだった。
「雪は……この先もずっと、溶けることなどないだろう。何か魔術のようなものでそう定義づけられていると言う者すら居る。この国へ吹き込む風に、何らかの見えざる力が働いているのだと」
「それを前に、シュヴァイスラントは諦めてしまったのか?」
「貴殿はシュヴァイスラント人ではないからそんな事が言えるのだ」
 責めるような口調では無かったが、ノスフェラトゥの声は黒く淀んでいた。
「むしろ逆だ。半ば諦め、ただただ白い世界に埋もれていたシュヴァイスラントを……あの娘が掘り起こした」
「娘?」
「エストリルディス」
 短く答え、彼は数瞬の沈黙を挟み続けた。
「強かな娘だ。それに若く、美しい……もっとも、彼女の取り巻きの方が優秀かもしれんがな」
 前時代の人間であるノスフェラトゥにとって、曲がりなりにもこのシュヴァイスラントの地がひとつの国として統一・成立したことは喜ばしい事実であった。それまで無秩序であった、生き残るための最終手段である領主同士の領地の奪い合い、そしてならず者である空賊たちが行う略奪行為が徐々に一定の規律と制度によって統率がなされつつあるのだから。
「その噂の女王とやらに、直接学術論文の為の取材をさせて貰えたら嬉しいのだがね。新しい国だ、これからの事を考えれば年代記者は必要だろう? 君の故郷の一件が終わったら、また王都に戻ろうかな」
 組んだ両手の親指を細かく上下に動かしながら、レネは独り言のように言った。右に大きく首を傾げ、考え事をしているようである。
「やめておけ……女王は貴殿のような余所者をあまりよくは思わない。二度目は無いと思った方が賢明だ」
「そうか、残念だな」
「どこぞの国や組織の隠密だと思われたくなければ、まずは一度この国から身を引くことだ」
「身分の証明なら嫌と言うほどあるぞ? 君がこの町に入った時も使っただろうルフトツァック商会の会員証に……ああこれだ、ルキフェニアの院から貰った調査依頼書。王直々の書名入り、シュヴァイスラントの長への書簡の写しに……」
 好奇心旺盛な旅の学者に忠告をすることが即ち愛国心に繋がるかどうかは分からぬが、次々鞄の中から荷物を引っ張り出すレネを横にノスフェラトゥは忠告をしておくだけに留めた。
 レネの取り出した身分証明の類は、おびただしい量であった。およそ荷物の三分の一はこの証明書の固まりで出来て居るのではないかと思えるほどに。まるで、自分一人で己の身の証明をする事が出来ない――否、証明することを許されていないような――そんな印象をノスフェラトゥは覚えた。
 この大陸全土に住む人間たちが本来持ちえている筈の、生きながらにしてその存在を証明する自己の同一性。それを、目の前でころころと転がるように表情を変えるこの男は、持っていないような気さえし始めていた。そしてそれが、驚くほどに自分の不死者としての身と似ていた事を。彼は感じ取るのである。
「明日は……日の出と共に出た方が良さそうだな」
「確かに。ツェレスタイン城の正確な位置が分からない以上、片道にどれほど掛かるかも予測がつかない。我々が正常に行動出来る時間は出来るだけ多く取っておいた方が良いだろう」
 取り出した荷物の中からシュヴァイスラント一帯の地図をかき分けて広げたレネは、ノスフェラトゥの提案に快く応えた。
「そうなれば、おしゃべりはここらにしておいて今夜はさっさと眠ってしまうのが得策か……もっともっと、君に聞きたい事は沢山あるのだがね」
 地図と手帳とを交互に見ながら、レネは日記をつけているようだった。羽根ペンの紙面を掻く軽快な音が、冬の静寂の間を縫って行く。やがてしばらく続いていたそれは止まり、代わりに鞄へと荷物を戻す小刻みな音が鳴る。
「しかし冷えるな。そうだ、寝る前に火酒でもどうだ?」
 部屋に設えられた暖炉に薪をくべながら飲んでいたそれを、レネは振り返りノスフェラトゥに示した。しかしノスフェラトゥがゆっくり首を横に振ると「ああ、そうだったな」と苦笑してまた口をつけ、酒瓶を傍らに置いて彼はベッドに潜り込むとそのまま静かになった。
 それを見届けたノスフェラトゥもまた、自分の身を壁に寄せると休む体勢を取った。残された空間の中で、彼はぼんやりと一人虚空を見上げる。
 不死者は眠らぬ。現世から、現世ではないどこかへ旅立つための眠りを不死者は世界から取り上げられている。いや、そもそもは己がその眠りを拒絶した事こそが不死者誕生の根底であり、世界はその意志を尊重したに過ぎないとノスフェラトゥは考えていた。
 大陸の南方では、不死者は宗教的な禁忌を犯したが故に不死者と成り得る――そんな言い伝えもある。神の寵愛を退け、欲に負け、増長し、そしてその報いを受けたのだと。下らぬ。宗教を持たぬシュヴァイスラントの地にあって、そんな夢想を繰り広げる事が如何に滑稽で無意味な事であるかをノスフェラトゥは熟知していた。しかし夢想は止まる事を知らず、眠りが訪れることの無い彼の意識の周囲を鳥の群れのように飛び回る。
 こうして壁に身を預けていると、どうしても思い出してしまうのだ。まだ自分が不死者となる以前、病によってやはりこうして壁に身を預け、全く身動きの取れない状態に陥っていた時のことを。『レプラの呪い』は、彼の肉体と精神をことごとく砕いてしまった。
 いつの間にか虚空を見上げていた視線は床に落ち、半ばうなだれるようにしてノスフェラトゥは巡る意識を落ち着けようと心の瞳を閉じる。完全な闇と化した意識の中に、それでも差す光。その光が生前の思い出と呼ばれるものであることに気づくまで、彼は数瞬を要した。
 ゾリューシュカ――全てを拒絶した闇の中で、ただただ、光だけがこだましている――。



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