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05.第五章



 ワイセンベルク家への報告を終え、二人は次いでエルジェの実家であるアントネスク商会へと向かった。やはり同様にエルジェの両親も突然の娘の帰郷に驚きはしたものの、それが結婚のためであると知るなり喜んで彼らを迎え入れた。「何なら、事前に手紙をくれても良かったのに」と話すアントネスク夫人に、フリストは苦笑しながら「思えば、いつでも結婚出来たようなものですから」と断りを入れた。
 エルネタリア・スカルア地方における婚姻の儀は長い。はじめに結婚する男女とその両家においてまずは婚姻の意思を確認し、その後、実にひと月ほどの時間をかけて宴会の為の料理や会場の選定と装飾、そして花婿と花嫁の衣装選びなどを執り行う。特に式で着用する衣装についてエルネタリアの民は敏感だ。エルネタリアでは質の良い布が少なく、高級な布を使って作られる婚礼用の正装はそのまま一族の財力を表すとも言われている。贅の限りを尽くし盛大に結婚を祝うというのが、スカルア式の伝統なのである。
 そのため花婿と花嫁は早々に各一族の中で散り散りになり、式の準備が整うまでの約一ヶ月間、全く顔を合わせない状況となる。そして一ヶ月の後にようやく結婚式の只中で再び顔を合わせ、それでも変わることのない互いの愛情を確かめ合うのが習わしなのだ。
 そしてそんな渦中に、あの流浪の学術者レネがやってきた。先日の予告通り、無事に婚礼の儀が催されることを知ってフリストの元へと現れたのである。
「やあ。準備ははかどってるかい?」
 普段の仕事の傍ら、結婚式の準備を進めようと忙しくなく動く商人たちの間を縫って、レネは気前よく声を掛けてきた。その手にはここスカルアの屋台名物である即席のハーブティーがあり、レネが街の散策を楽しんでいる風情が見てとれた。
「せっかくだからと君の分も買ってきたんだよ。まあ一息つきたまえ」
 長い陶器のコップにこれでもかと盛られたミントの葉と、その上に更に乗せられた結晶蜂蜜の『合わせ技』であるスカルア名物のハーブティーは、そこにお湯を注ぐだけで簡単に一人分のお茶を淹れられる画期的な商品だ。人も物も流れる量の多いこの商業都市で、いかに効率的に物を売るかという典型とも言える屋台の茶売りは、世代を問わず民衆の間で人気の商売である。
 きっと、すぐ近くの屋台で買ってきたのだろう。お湯を注いだコップはまだ充分に熱く、その温度は結婚式の準備に追われるフリストの意識をほんの少しだけ、慣れ親しんだ街の喧騒へと引き戻す。
「ありがとうございます。わざわざいただいてしまって……」
「何を言うかね。興味があると言って勝手についてきたのは小生の方だよ。機会に恵まれて、感謝している」
 未だ冷める気配のない熱い茶をすすりながら、レネは言う。
「昔、周囲に随分と反対された結婚を見たことがあってね。君たちもそうだとは思わないが、つい世話を焼きたくなってしまうのさ。結婚というのは良し悪しはあれどとにかく窮屈だからね」
 ふと瞬いたレネの山瑠璃色の瞳が、思い出に揺らいだのをフリストは見逃さなかった。
「何か、つらい経験でも?」
 手渡されたハーブティーを冷ましながら、フリストはそれとなくレネへ尋ねる。
「よくある話さ。意中の人が、突然現れた他の男に取られてしまうなんてことはね」
 他人事のようで、ひどく普遍的でもある言葉がレネの口から紡がれた。それは今までに見てきた数多の人間の遍歴にも見え、同時にレネ自身が遭遇した苦い経験のようにも聞こえた。長い生と人々の営みの中を幾度もすり抜けるようにして旅を続けるレネには、きっと喜ばしいことも嘆かわしいことも多くあったに違いない。
「さて、小生の話はここまでだ。忙しくならない内に、君たちの話を聞かせてくれ。なに、根掘り葉掘り聞こうってんじゃあない。話したいことだけ、話してくれ」
「そうですね……まず、結婚する者同士、互いの両親にそれぞれ挨拶に行ったあとはひたすら婚礼のための準備に追われます」
 フリストは座ったまま膝の上に置いていた何枚かの紙をめくると、その書面をレネに見せながら答える。本来なら自分の結婚式の様子など気恥ずかしくてそうそう他人には打ち明けられないものだが、幸運にも相手は一流の学術者であり、自分も同様に学びを生業とする職業であった。そして普段『仕事』にばかりかまけているフリストにとって、現在の非日常的な状況はレネが言うように、少しばかりの窮屈さを彼にもたらしている。これは気を紛れさせる絶好の機会だ、とフリストは感じていた。局所的ながらも、そこには彼の日常がある。
「はじめに、宴会を執り行う場所の選定。僕の実家からほど近い場所に教会があるので、場所はそこに決まりました。次は宴会で客人にお出しする料理や酒の準備をしないといけません。スカルアの商人たちは誰もが見栄っぱりですから、きっと僕の家も豪勢にやるつもりですよ。基本的にスカルアの婚礼儀式は家族だけの閉鎖的なものではなくて……街を挙げての一種のお祭りみたいなものですから、当日は街の住民たちもこぞって祝いにやって来ます。楽団も手配しないといけませんし、それに合わせて食糧の類いも沢山用意しないといけません」
「それは楽しみだな。ちなみに、どんなものがあるんだい? お酒なんかは、何かにつけて特別なものを?」
「そうですね……これといって特別なものは無いかもしれませんが、婚礼料理というのはいくつかあります」
 そう言って、フリストはまた一枚紙をめくった。そこにはちょうどワイセンベルク家が手配しようとしていた食品の覚え書きがびっしりと記されている。様々な地方から取り寄せる極上のワイン、客に振る舞うため捌かれるであろう羊や豚などの家畜類、そして婚礼料理に欠かせない香辛料の数々だ。特に料理に使う香辛料は多ければ多いほど作った料理も日持ちし、更に一目見ただけで家の財力が計れてしまうものなので出来るだけ多く、しかし慎重に選ばねばならない代物だった。
 魚を漬けたり、様々な種類の腸詰めやスープを料理人に作らせるにあたり、塩や香味の類は必需品である。また、質の良い塩を手に入れるには、一大産出国であるアーストライア連合王国の商人とどれだけ上手く渡り合えるかが重要になる。ワイセンベルク家はエルネタリアの、スカルア地方を代表する名商家だ。食糧選びとその加工法は、腕の見せどころと言えるだろう。
「食事の準備が整い始めたら、最後に婚礼衣装です。元々家に伝わるものを、代を重ねて着用するのが主ですが……最近は物資も潤ってきましたから、新たに作るという家庭もあるようですね」
「君の花嫁さんは、どちらなんだろうねえ」
「さあ、どうでしょう……それは僕にも分かりません。互いに挨拶も済ませてしまったので、これからはしばらく会うことも出来ませんし。僕の方は、父が着ていたものを使うことにしました」
「なるほど、勉強になったよ。ありがとう。これは式の当日が楽しみだね。エルネタリアに来た甲斐があったというものだ」
 いつものように手帳をパタンと閉じ、レネが満足げに言った。



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