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04.第四章



 翌日、マルギットの手配した馬車がセーチェーニ書庫の門前に到着したのを自室の窓から見やり、フリストは小さな荷物袋を抱えると足早に正門へと向かった。まだ昼にも差し掛かる前で、書庫内は人も少なく静かなものだった。そこを普段よりも少し軽い足取りで、彼は歩いて行く。
 御者に荷物を預けスカルアへ向かう道順を確認していると、少ししてエルジェが、そして更にもう少しして同行を希望していたレネと見送りのマルギットがやって来た。どうやら、フリストが荷物を預けている間に彼女たちはレネを交えて世間話をしていたようだ。
「忘れ物はないかい?」
「ええ、大丈夫よ。お気に入りの石鹸もちゃんと入れたから」
 エルジェの言う『お気に入りの石鹸』とは、エルネタリア公国の南に位置するアーストライア連合王国で作られる岩塩石鹸のことだ。いかにも風呂好きらしいアーストライア人が思いつきそうな商品だが、その利用は国内だけに留まらず、今や大陸各地でも愛用者が増えているという。もちろん、エルジェもその中の一人だ。フリストには縁の無い話であるが、もっぱら美容に良いとの噂である。
「ラカトーシュ殿も、準備はよろしいですか?」
「元より流浪の身だ、いつでも大丈夫だよ」
 背中に背負った革製の大きな鞄を揺らし、レネは知的な笑みを浮かべてそう言った。恐らく、その中に彼の全てが詰まっているのだろう。
「では、マルギット様。お心遣いに感謝致します」
「そんな急に畏まらなくても。気をつけて行ってらっしゃいな。あなたたち、くれぐれも道に迷ったり、彼女たちを危ない目には遭わせないで頂戴ね」
 御者に言いつけ、マルギットが優雅に扇子を揺らめかせる。しかしその目は決して笑ってはおらず、御者はいささか緊張した面持ちで頷くのだった。マルギットの手配した馬車なのだから御者の腕も確かなものであろうとフリストは予測していたが、やはり旅というものはいつまで経っても安全とは言い難い。
「スカルアに着いたら、鳩を飛ばします」
 馬車に乗り込みながら別れの挨拶を告げ、フリストはマルギットへ深く一礼した。御者が短く呼気を発し、馬に鞭を入れる。やがてフリストたちを乗せた馬車はゆっくりと動き出し、徐々にエルネタリアの首都ルメルグラッドから遠ざかって行った。


 道は均されているとは言え、総じて平らであることなどついぞない。首都では石畳であったそれが、スカルアへ向け離れるごとに剥き出しの土の上には大小様々な石が転がり始める。時に小さく、時に大きく揺れる馬車の中で、フリストはぼんやりと景色を眺めながら思索に耽っていた。
 故郷へ帰るのは何年ぶりだろうか。少なくとも、二、三年は顔を出してさえ居なかったような気がする。特に嫌がる理由も無いのだが、日々あまりに書庫の仕事や研究に没頭するあまり、ここ数年は人として何か大事なものが欠けていたようにも思う。
 郷愁を感じることがなかったのは、ひとえに首都ルメルグラッドも故郷スカルアも規模の違いさえあれど、それほど目に映る景色に変わりがなかったからかもしれない。そして隣には、いつもエルジェが居た。彼女と交わす飾り気のない言葉の応酬は、フリストの孤独をその強烈な光とあたたかさですぐさま消し払ってしまう。
 ふと肩に頭を預けてすっかり眠ってしまっていたエルジェの赤毛を、フリストは何とはなしに撫でる。程よい陽気も温かな今日の日光を存分に受けた彼女の髪は柔らかく、また微かに薔薇のよい香りがした。
「何とも微笑ましいですな。小生にも妻が居るが、昔を思い出すようだよ」
 エルジェを挟むようにして馬車の反対側へ座っていたレネが笑った。
「これから式を挙げると言うのに、もうずっと前から家族だったかのようだ。同郷の出なのかい?」
「はい。同じスカルアの街で生まれ、育ちました。妹みたいなものですよ」
 さりげなくも鋭く二人の生い立ちを当てて見せたレネの観察眼に内心驚きながら、フリストもまた静かに笑ってみせる。
「ご存知かとは思いますが、我がワイセンベルク家と彼女の実家であるアントネスク家は古くよりこの国へ、物売りとして貢献して来ました。最初は、とても小さな……革小物や装飾品、日曜雑貨を農業の傍らほんの少し扱うだけの、店とも言えないような状態だったと聞いています。やがて西の国境付近でスカルアにそれぞれ土地を持つ地方領主同士の争いが起こり、我々は領主と兵のために物を作り提供することとなります」
「そしてその時、双方にはとても賢く、物を集めるのが上手い商人がそれぞれの領主の陣に居た……ということかな。確か記録によれば、三百年ほど前の話だった」
「仰るとおり。戦争中、僕らの家は敵同士だった……でも、僕らは兵隊や騎士ではありませんから……争いが終われば、あとは何事もなかったかのように――また、商売をするだけだったでしょう」
「戦争が金になる、と考えたことは?」
 レネの口から発せられた意外にも剣呑な言葉に、フリストは慌てて首を振った。
「そんなこと……思ってもみませんでしたよ。僕らが生まれる頃にはもう、この国も安定していました……僕が知らないだけで、そうしてひと儲けした代もきっとあったでしょうね。ただ、それを責めるつもりは毛頭ありません。それが、必然だったと思えるから」
 やわらかに発せられたフリストの声は、肯定も嫌悪の念も感じさせない軽やかさであった。商人というものには元来、人から伝播する感情や玉石混淆に飛び交う情報と噂を鋭く選び、そして見抜くという能力が備わっている。例え先人たちが戦争という血生臭い世界に活路を見出だし、そこで商売を行っていたとて、フリスト自身はそれを咎める気などさらさらない。商人としてそれが義と理に叶ってさえいれば良いのだ、と彼自身は考えているのである。ワイセンベルク家とアントネスク家の商売がもし、歴史の中で戦争というものに引き合わされる事がなかったとしたら。今隣で眠っている、彼の花嫁も存在してはいなかっただろう。
「それを聞いて安心したよ」
 フリストの穏やかな反論に返ってきたのは、やはり穏やかなレネの言葉であった。
「実は、アントネスク家にはむかし世話になった事があってね。彼が生きていれば、ぜひ君の言葉を聞かせてやりたいものだよ」
 レネの言う『むかし』がどれほど前のことかは分からなかったが、その瞳は随分と遠くを見つめているようだった。長年、流浪の学術者として大陸各地を渡り歩くレネは、フリストが思うよりもずっと博識で情に深い人物なのだと、今更ながらに実感する。
 そしてレネの持つこの温かさこそが、長い歴史の中で今なお愛好者の絶やすことのない彼の魅力なのだと、フリストは再確認していた。


「門が見えて来ましたね」
 二日間に及ぶルメルグラッドからスカルアへの旅路は、滞りなく完了する気配であった。腕利きの御者はそれを引く馬の調子を熟知しており、絶妙なタイミングで馬を休ませながらフリストたちを無事にエルネタリア随一の商業都市スカルアへと導いた。
 空気が違う。最初に感じたのは、長らく首都へ留まっている間に忘れていた、巨大な市場の持つ独特のにおいであった。
「とりあえず、家に向かわないと。エルジェ、君はどうする?」
「あなたの両親にご挨拶してから一度帰るわ。きっと何も知らないでしょうから、びっくりするでしょうね」
「なに、僕らの親が自分の子供にびっくりさせられるのなんて日常茶飯事じゃないか。大丈夫、喜んでくれるよ」
 故郷スカルアの市場は、いたずら好きの子供として名を馳せていた彼らが大人になったとしてもその密度や喧騒は変わることなく生き続けていた。所狭しと並び立つ小さな個人商店や、果てはアーストライアからやって来る商人たちが構える大きなレンガ造りの商館まで。通りは買い物客でいっぱいになっていたが、フリストたちの乗る馬車がやって来ると往々にして道を空けた。馬車の先にあしらわれていたセーチェーニ家の家紋を指して、何事か声を掛ける者も居た。
「いやはや、相変わらず賑やかな所だねえ」
 小さな窓のカーテンを引きながらレネが笑う。
「以前こちらにいらっしゃった事が?」
「もちろんあるよ。ただ、小生が来た頃はまだこれほど大きな市場にはなっていなかった。ちょうどほら、あそこにアーストライア商人の館があるだろう? あれを作っている途中だったのを覚えているよ。あんな立派な商館になるとは、当時は思いもよらなかったね」
 外の様子に満足したか、レネは今一度カーテンで日光を遮ると馬車の椅子へと深く座り直す。ごく自然に『大昔』の話題が出てくるのを見るに、やはり彼は太古の昔よりこの大陸を旅し、様々なものを見てきたのだという確信がフリストに宿る。エルネタリア公国の商業都市スカルア――そこに一大商人としてアーストライア連合王国の商館が設立されたのは、もう随分と前のことだ。エルネタリアという国がその名を冠す以前よりアーストライアの商人はこの国の良き商売相手であり、仲間であった。その歴史の代弁者である商館を遠巻きに見つめながら、フリストはふと気付く。 
 レネ・ラカトーシュは、いったいどれほどの年月を生きているのだろうか、と。
「あの……失礼な質問かもしれませんが、貴方は――いつこの大陸に生まれたのですか?」
 フリストの質問に、レネは小さく首を傾げながら笑った。その笑みには「野暮なことは聞くんじゃない」とでも言いたげな、少し困ったような感情が見て取れる。『レネ』という学者がこの大陸の有史に登場したのは、各地で年代記と呼ばれる国や地域の成り立ちを記す文献が出始めてすぐの頃だった。少なくとも、今なおセーチェーニ書庫に残る写本の数々には彼の名前を発見することが出来る。いくらエルフやドラゴンなど長寿の生を持つ種族であっても、そうそう彼のような人物は存在しない。レネの研究を続けるフリストのような学術者の間では「世代交代を経て、何人もの無名の学術者がレネ・ラカトーシュという一人の人物を演じているのではないか」とまで言われているほどだ。
「その質問には、解答しかねるな。小生もどうしてこんなことになってしまったのか、皆目検討がつかんのだよ。もっとも、紆余曲折は大いにあったがね」
 笑顔のレネが返したその言葉に幾らかの嘘が混じっていることも、フリストには分かっていた。彼が古今を問わず謎の多い人物であるのは今に始まったことではない。それを改めて問い質すことの無粋さも、知らないフリストではない。
 そうこうする内に、馬車はフリストの実家であるワイセンベルク商会の近くまでやってきた。するとレネは馬車を降り、素早く荷物を受け取って街へ繰り出そうとした。
「じゃあ、小生はこの辺で。式を挙げるならきっとここら一帯にも話は広がるだろう。頃合いを見て、また合流するよ」
 後腐れもなく言ってのけたレネにフリストも、またその婚約者であるエルジェも一瞬呆気にとられたが、そういえば自分たちの挙式があったと今更ながらに気付く。それほどまでに、道中におけるレネの体験談が興味深く、すっかり本来の目的を忘れてしまうところだったのである。
 遠ざかり街の人混みに消えていくレネの後姿を見送り、フリストも一息つくと御者への謝礼である銀貨を財布から何枚か取り出し馬車を降りた。後に続くエルジェに手を添えながら、彼は間近に迫った大仰な我が家を見上げる。
「今までご苦労だった。マルギット様に、よろしく伝えておいてくれ」
 言葉少なに御者へ銀貨を渡し、手荷物を受け取ってフリストは生家の門を叩く。すぐに使用人が現れ、久方ぶりの御曹子の帰郷に驚いて門を開けた。重厚な鉄の扉がゆっくりと開き、殺風景な庭がその姿を見せつける。
 少し緊張しているらしいエルジェを伴って母屋へと向かうと、そこには難しい顔をして目の前に並べられた物品を品定めしている両親に出くわした。声を掛けると最初は驚いたものの、彼らは実に優雅な面持ちでフリストたちの来訪を喜んだ。瞬く間にフリストとエルジェの結婚は容認され――フリストの両親もそろそろと思い準備していたのだろう――早速、式の準備が始まった。「ちょっと急ぎすぎじゃない?」と苦笑いしたエルジェに、フリストも渇いた笑いを浮かべる。
「まあ、昔から決まってたことでもあるからね。早いか遅いかの違いだったんだろう」
「不満?」
「いいや、感無量だよ」
 顔にこそ出なかったものの、落ち着き払ったフリストの声に嘘はなかった。そしてそれを聞いたエルジェも、ふう、と大きく息をつく。
「じゃあ、次は私の家ね。とりあえずもう式を挙げることがあなたの家で決まったんだから、何も文句は言わせないわ。あとは私のドレスと、祝儀を用意するだけ」
「なんだ、随分と現実的だね」
 てっきり嬉しさに涙でもするのだろうかと思っていたフリストは、内心驚きながら傍らのエルジェを見やった。すると、彼女は真っ直ぐにフリストを見上げて言った。
「ロマンチックなことなら、もう充分やったわ。今後もあなたがそれをしたいっていうなら、妻なんて役に囚われずこれからも続けていくつもりだけど?」
 子供時代から変わらず、つんと上がった顎の先は彼女の気の強さをこれでもかと見せつけている。それを見たフリストもまた小さく笑うと、エルジェの肩を叩いて二度ほど頷くのだった。
「それでこそ、僕の友人であり同僚だ。頼りにしてるよ」



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