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02.第二章



 セーチェーニ書庫を抱える石造りの建物は、国内きっての貴族であるセーチェーニ家が監修、設計したこともあってかとにかく広く、深いものであった。古文書や現在も増え続ける現代の書物を保管する図書室、その中から損傷のあるものを修復し写生するための工房、更にはその作業に従事する学術者や職員が生活するための空間と、区分けされた建物内はそれぞれ合理的に配されており、今なお小規模ではあるものの増改築が繰り返されている。
 そんな構築現場を悠々とした足取りで抜け、フリストは古文書を収めている図書室の一角へと向かっていた。先日その全工程を終え完成した『依公国踏游記 外典』の評価と未来へ思いを馳せながら、折角だからと、その『正典』であるラカトーシュの著作をもう一度見ておこうと思ったからだ。もう何度通い詰めたか分からぬ、エルネタリアの歴史に関する国外の文献をまとめてある本棚へ、彼の足は止まることなく進む。しばらく執筆に没頭していてここへ訪れることもなかったから、恐らく例の本棚はすっかり埃まみれになっているだろう——フリストはそう予想していたが、ふとその本棚に辿り着いてすぐに、彼の目は異変を察知して見開かれた。そこに収められている本のすべてが、埃もかぶらず綺麗なままにフリストの来訪を待っていたからだ。
 どれもこれも、何やら自分の他に誰かがその本たちを読んだと思しき形跡がある。そして半ば不審に思いながら本棚の向こうへと視線を投げると、そこに一人の学術者が居ることに彼は気づいた。見慣れた顔ではない。しかし、その姿はフリストが今まで読んできたあらゆる本と、その中に記されていた興味の対象に瓜二つのものであった。見慣れてはいないが――見覚えが、ある。
 斜めにかぶった革帽子、そして徒歩での長距離移動に適する、布で固く巻かれた足元はその人物が何より旅人であることを物語っている。
「レネ・ラカトーシュ……!?」
 まさか、と思う前に口が動いていた。そして、驚くほどの大声が書庫内に響き渡ってしまったのに気づいたのはそれから数瞬後のことだった。しまった、とフリストが慌てて口を手で塞ぐのと同時に、本棚を前に視線を落としていた旅人がはっとこちらを見上げる。旅人の、帽子の隙間から覗いた山瑠璃色の瞳が二度三度、瞬いた。
「……うん?」
 フリストの声に一転、急にざわめき始めた書庫内を探るかのように旅人は広い天井を見渡し、苦笑した。
「どうしてこう、すぐバレるものかな……失礼、君、初対面でこんなことを言うのもあれだが、その、少し……声が大きすぎやしないか?」
 困っている風ではなさそうだったが、旅人が発した声は思ったよりも小さく、そしてどこか古めかしい響きを持っていた。
「確かに小生の名はレネ・ラカトーシュだが……あまり、」
 驚かせないでくれ――と言い掛けた彼の手を、フリストは直感と共に素早く握りしめていた。今まで書物の中でしか見たことのない憧れの学術者が、目の前に居る。その感動は元より、レネ・ラカトーシュという人物がこの世界に実在していたのだという現実を確かめたいが故の行動だった。
「突然の無礼、申し訳ない。ひとまずこちらへ」
 すっかり書庫内の注目を集めてしまったのを悔いながら、フリストは半ば動転しながらもレネと思しき旅人を促した。相手もあまりこの状況は思わしくないと察したらしい。旅人は小さく頷くと、くたびれたマントを翻して大人しくフリストの後をついてきた。
 なおもざわつく書庫内を我関せずとばかりに通り抜け、更に人の少ない古文書ばかりを集めた一室へと二人は歩いていく。重い木製の扉を開け、旅人がそこを通過するなりフリストはすぐさまその扉を閉じた。明り取りの窓から漏れた陽光に埃が舞い、ようやく静寂が訪れる。
「フリスト・ワイセンベルクと申します。すみません、まさかあなたがエルネタリアの――しかもこの書庫にいらっしゃるとは思いも及ばず……大変な失礼を」
「ワインセンベルク……?」
 恭しく名乗ったフリストに、レネは鸚鵡返しに呟いた。
「ああ……君か。最近、エルネタリアで小生の本を再編している学者というのは」
「えっ……?」
 相手の思わぬ言葉に、今度はフリストの方が状況の把握に手間取って動きを止めてしまった。ラカトーシュの著作に関する考察本など、エルネタリアに限らず今や大陸中のあちこちから発刊されている。その中でも、まさか自分の書いた本が研究対象である本人の目に留まるとは、フリスト自身は露ほども思っていなかったからだ。
「依公国踏游記外典、読ませてもらったよ。ただのよくある考察本の類かと思っていたが……まさかあの手帳の中身にまで触れられてしまうとは、予想外だったけれどね」
 急に気まずい雰囲気が流れ始め、フリストは思わずポケットにしまい込んでいた『手帳』の存在を思い出した。
「あの……」
「手帳を、どこで手に入れた?」
 フリストが言いかけたその時、レネがそれを遮って告げた。それは穏やかな声色であったが、彼の表情はどこか鋼の剣ように鋭かった。そしてその意味は、同じくして学者であるフリストも察していた。著作の元となる個人的な情報は出来れば己の内だけに留めておき、他人には読まれたくないというのはフリストも同様である。彼はその持ち主であるレネを前に、口ごもりながらポケットの中へと手を入れて身を小さくした。
「あなたのような……旅の者がふらりとここへ持って来たのです。学術者という風情では……なかったと思います、恐らく行商の類かと。それを見たセーチェーニ殿が、慌ててそれを買い取っていました。向こうも、金になると考えていたのでしょう。その様子は詳しく見ていないので存じませんが、結構な額だったかと——」
「そうか、セーチェーニ家が……それを聞いて安心したよ」
 ひとつひとつ言葉を選び、慎重に事の顛末を話したフリストはまたそれきり黙り込んでいたが、それを見たレネは大きく息をつくと先ほどとは打って変わり、陽気に笑ってみせた。
「これは逆に礼を言わねばね。てっきり君がどこからか盗んででも来たのかと思っていた。後ほどセーチェーニの当主には挨拶に行くよ。して……その『セーチェーニ殿』の名前を伺っても構わないか?」
「マルギット様です。ここの所ずっと外遊されておりましたが八日ほど前に、ルメルグラッドへお戻りになられました」
「『今代』は女性当主なのか? 珍しいな……」
 フリストが説明する傍ら、レネが肩がけの鞄から手帳を取り出すのを見て彼は思わず目を見張った。すぐ取り出せるように腰のベルトに取り付けた羽ペンとインクの配置は実に効率的で、立ったままに何かを筆記するにはとても便利そうな道具であった。そしてレネが開いた手帳に何か書き出すのを、フリストは高鳴る胸を抑えつつじっと見つめていた。
 憧れの学術者が自分の前で、しかも、自分の言ったことを記録として記しているのである。『レネ研究』を行なう者として果たしてこれ以上の幸運はあろうか、とフリストの呼吸が一瞬、浅くなった。
「……その手帳も、ラルギネア製で?」
 おそるおそるフリストが問い掛けると、レネは小さく苦笑した。
「あそこの紙は上等だよ。君も機会があれば、一度使ってみるといい……もう他には戻れんぞ」
 フリストが研究の為にとセーチェーニの当主マルギットより託された——そして今それはフリストのポケットの中にある——レネの手帳には、一番はじめに、この手帳が当時彼の妻から贈られた物であり、ラルギネアの高級な手帳であるといった主旨の文言が刻まれていた。確かにレネの言う通り、ラルギネア製のこの手帳は『上等』なものであった。何より、長い年月が経った今でも、彼の書き残した文字が、言葉が。焼き付くように残っているのだから。
「その様子だと、本当に小生の手帳を『解読』してしまったようだね。若いのに、大したものだ」
 筆記を続け、目も合わせずにレネが言う。彼の外見はフリストとそう変わらない、むしろフリストの方が年上にも見えるほどであったが、『レネ』という人物が時代も場所も越えてこうして人々の前へ現れるのは半ば学術者の間では日常茶飯事だ。例えば、先日この書庫へ訪れた老齢の学者が「わしもお前さんのように若い頃、一度だけあのレネ・ラカトーシュに会ったことがあるんだ」と自慢話をするほどには。
「あなたの書く暗号めいた文章については我々学術者の間でも、ずっと長いこと議論されて来ました。あなたに会ったことがあると言う学術者は多いが、その誰もが、その時見せてもらった手帳に何が書いてあるかわからなかった……と」
「でも、君はそれを解いた」
 パタン、と小気味の良い音を立てて手帳を閉じレネが言った。そしてようやくフリストへ顔を向けたその顔は、実に意地悪そうな、子供のような笑顔だった。
「小生も、君に興味が湧いたよ……フリスト・ワイセンベルク。しばらくここに厄介になるつもりだったから、その間、色々と話を聞かせてくれるかい?」
 山瑠璃色の瞳を瞬かせて笑うレネに、フリストはやはりポケットに手を入れたまま、緊張と感動が綯い交ぜになってしまった表情を浮かべぎこちなく首を縦に振るのだった。



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