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01.第一章



 人の記憶というものは、古今東西あらゆる種族や文化の中で息づくものの、その輪郭は極めて曖昧で頼りないものだ。例えば、乳母の顔ばかりが浮かんで産みの母親の顔が上手く思い出せないであるとか、山ひとつ向こうに住んでいる父親の友人はどんな職業で、どんな名前だっただろうかとか、果ては自分の、自分について語る時の、その思い出は本当に固着化された意識のそれなのか――といった具合に。
 人の記憶は脆い。その滲んだ輪郭を何とかこの手に留めようとすればするほど、それらは香りだけを残して霧散してしまう。時には、音を立ててガラガラと。崩れていく、色んなものが。国が、家が、人が。
 そんな脆い宝石のような光と粒を、人の手を加えることで何とか残しておきたい……そう願う者は少なくないはずだ。そうした時に役立つのが、代々学術者や魔導師たちが操ってきた言葉であり、そして物事を表す記号から徐々に崩れ、時には洗練され構築された『文字』という存在だった。その集大成として彼らは秘密裏に、あるいは大々的に過去幾度も本を書き記してきた。すべては真実のために。己の生きた証を後世まで残しておくために。
 しかし、言葉こそ普遍的なものであるが文字となるとそうはいかない。農民は未だ文字を知らない。彼らが読めるのは日々の生活に必要なもの、つまり、貨幣や作物、家畜の名称とそれを数えるための数字だけだ。
 そして肝心の文字といえば、写本の類いは数も少ないせいもあってか上流階級にしか流通せず、ますます文学における貴賤の溝は深くなるのである。
 平民たちは、今日もただひたすら日々の糧を求めて鍬を振り回すばかり。この大きな隔たりを埋めようとする働きは――暴力的であれ、非暴力的であれ過去数え切れないほど行われ、そして試されてきたが――大抵は君主たる時の王たちの目に留まるなり即刻たたき潰された。異端とされた学術書や古き教えを綴った書物はたちどころに燃やされ、支配者にとって都合の悪い物事はすべて消されてしまう。
 過去の真実を知ることは、すなわち国と民族のもつ価値を大きく発展させる梯子となるだろうに、暗君たちは自ずからその機会を失い続けてきたのだ。そしてそれに対抗するには。やはり、書き続けなければならない。燃やされる前に、写し続けなければならない。
 いつしか国のあちこちには、『写本ギルド』と呼ばれる同業者を集めた組合が誕生していた。彼らギルドに所属する学術者たちは先人の知識を取りまとめ、保管し、複製するのを生業とする。そしてその過程で得られる知識を互いに交換し合い、彼らもまた、写本作業の傍ら己の研究に励みながら、その集大成である学術書を記していくのである。
 多くの学術者がそうしてきたように、今こうして日向で長い溜息をついているフリスト・ワイセンベルクもまた、そんな写本ギルドに属する学術者の一員であった。エルネタリア公国初の国立大学であるアヴォドゥルーム大学、その栄えある一期生として卒業した彼は、そのまま文学者としての道を進んだ。日々エルネタリア公国の首都であるルメルグラッドへやって来る旅行者や吟遊詩人などに、この国の古き良き時代の教えや物語を披露するのが、彼のギルドでの役目であった。
 エルネタリア公は懐が深い。例えこの国にとって不利益とも言える情報が発見されたとしても、大抵の事ならば目を瞑ってくれる。そして日々学術の研究に勤しむギルドへ、国の貴族たちはその潤沢な資産の中からそれなりに出資をしてくれている。
 荒れた山肌が多く食物の自給が満足に出来ていなかった地域も、ここ数十年の間にすっかり土地柄も良くなったと言う。初代エルネタリア公であるライオネス一世が力で治めていた頃から時代は変わり、王の代を重ねることによって経済は徐々に活性化、現状として局部的ではあるが、隣国ルキフェニアに負けず劣らずの『学問への扉』をエルネタリアは手に入れた。経済が、ようやく戦火に疲れた国民たちに心の平穏を取り戻させたのである。
「エルネタリア人で、本当に良かった」
 しかし、溜息と共に呟かれたフリストの独り言は、大きな感動というよりも、すべてを投げ出そうとして失敗した後に訪れる諦観の方がやや強かった。経済が活性化しているとはいえ、彼の所属するギルドが居を構えるセーチェーニ書庫は学術者や貴族――またはその使用人に関する者たち――以外に訪れる客はほとんど居ない。
 文字が読めなければ、そして書物に興味が無ければまず中に入る機会さえないだろう。平民の中には、歴史あるこの書庫が一体なにであるかすら知らない人間も居る。
 首都では「セーチェーニ書庫の職員だ」と言えばそれだけで多くの自由と権利を与えられたものだが、田舎へ行けば行くほど、その七光りは意味を成さなくなるのだ。「セーチェーニ? 知らないね。何を嗅ぎ回ってるのか知らないが、とっとと出てってくれ」——そんな苦い経験は、田舎へ調べ物に行く度いくつも味わった。農村に住む者たちは、総じて閉鎖的だ。
 しかし、その環境は決して悪くはない新鮮味に満ちており、生まれてこの方、都でしか生活してこなかったフリストにとって田舎の農村は宝の山とも言える環境だった。書庫にはない情報が、あそこにはまだ沢山眠っている。その可能性がある。
「また田舎へ行きたいなんて考えてるの、フリスト?」
 ふと聞こえた恋人エルジェの声をやんわりと無視し、フリストは机の端へ無造作に置かれていた一冊の手帳に手を伸ばす。古めかしい革表紙の手帳はすっかり意匠も削れ、どこのものかも分かりづらかったが、時の流れを経る前は見事な紅色であったことが窺える。
「この手帳の持ち主が書いていること……それが本当かどうか確かめる為には、彼が実際に行ったという町や村に行くしかない。資料があるとは言っても、机上であることないことについていつまでも悩むのは気分が良くない」
「そんなこと言って。結局収穫が無かったらどうするつもりなんだか」
 怪訝な表情で反論したフリストに釘を打った女性学者の意見は、もっともたるものだった。
「それに、あなたが田舎へ出ている間、いったい誰があなたの代わりに本の写しをするの」
「誰か、エルネタリアの歴史を学んでみたい学者か写字生を探すよ」
「そんなもの、それこそここにあるラカトーシュの著作だけで充分よ。これ以上、今は調べる隙間もないわ。悔しいけど、やっぱりルキフェニアの学術水準には敵わない。例えそれが百年以上前の代物だとしてもね」
「なんだ、君もラカトーシュ愛好家か?」
 エルジェの意外な擁護に、フリストは思わず身を乗り出して尋ねた。エルネタリア国民による自国の年代記も少ないわけではない。
 実際、この国で『普通に』生活している限り他国の者と触れ合う機会などそうそうあるものではなく、元々閉鎖的であった国交をライオネス一世が回復させたとはいえ、まだまだ引っ込み思案な国民の性質が開放に向かうには程遠い。主に他国の人間とやり取りをするのは、決まって政治を担う貴族か、物流が生業である行商人か、はたまたフリストのような学術者であるか。国内の情報を得るためには国内で取り沙汰される物だけで充分――それが、エルネタリア国民が普遍的に思い描く愛国心でもあった。
 そのむかし隣国よりもたらされた、あまりに緻密なエルネタリア公国の見聞録を前にしても、やはりこの国の学者たちは当時揃って口をへの字に曲げたという。
 レネ・ラカトーシュという、ルキフェニア出身の学術者による一冊の本である。それは瞬く間に噂となってエルネタリア貴族たちに広まり写本もいくつか製作されたが、当時のエルネタリア公を含め国民の大半が良い顔をしなかったのもまた、事実である。
 ラカトーシュのまとめた『依公国踏游記』は、まるで彼自身が太古の昔よりこの国を放浪していたのではないかとまで疑わせるほど、詳細に記された記憶であった。エルネタリア公国がその名を冠する遥か昔の伝説や伝承に対する記述でさえ、彼の文章にはとにかく肉感が付いて回る。
 記録と時代、そしてラカトーシュという人物が持ちえる記憶との時間的な剥離に疑問を呈す学術者も、エルネタリアには多く存在する。もちろんフリスト自身もその中に名を連ねる一人であるが、彼はラカトーシュについて純粋な興味をもってその著作に接していた。この点だけは、フリストが他のエルネタリア国民と一線を画す要素であっただろう。
「彼の研究本まで出しちゃうあなたほどじゃない。あれ、こないだ読ませて貰ったけどほとんど趣味の領域じゃない」
「一応、ラカトーシュの手帳を解読したのは僕が大陸初だと思うんだが……もう少し、恋人の労を誉めてくれてもいいんじゃないかな」
「そういう甘えん坊な所はほんと昔から変わらないのね……今度スカルアに帰ったら、おばさんに言いつけてやる」
 ふん、と肩を揺らしてエルジェは言い切ると、次いで不機嫌そうに胸の前で腕を組んだ。そしてそんな彼女の仕草もまた、「昔から変わらないものだ」とフリストは苦笑する。
 彼女とフリストの関係を遡ると、初めは二十数年前の幼少期……互いに高名な商人の息子息女としてそれぞれの両親が出席していた、貴族の催すパーティーで出会ったのが記憶の起点である。裕福な商人であった彼らの両親は早くより彼ら二人の結婚を望んでおり、フリストとエルジェを揃って国内初の公的な教育機関であるアヴォドゥルーム大学へと入学させた。
 しかし、経済を学ぶべきと考えていた親たちの期待を裏切り、彼らはひょんなことからエルネタリアの歴史学を専門とするようになる。両親は落胆したが、彼ら二人の時間はそれに関係なく充実の一途を辿っていた。親たちの決めた道筋を辿るよりも、二人は自分たちの切り開いた道でそれぞれの実りを得ようとしたのだ。
「そんなことをしたら、ますます僕らの結婚式が遅れてしまうよ。勘弁してくれ」
 ぱらぱらとめくっていた手帳をポケットに入れ、フリストはそう言うと静かに椅子から立ち上がった。小さく抱き締めたエルジェの身体からは、花の良い香りがした。
「ようやくラカトーシュ関連の本も完成した。もう少しゆっくりしたら、そうだね……久々に帰ろうか」
 心地よい陽光の差す小部屋で、微かに衣の擦れる音がした。
 


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