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06.第六章



 それからひと月の間、スカルアの街は有名商家同士の結婚の話で持ちきりになった。どこへ顔を出そうとも、三度に一度はその話題に触れられるほどに。そしてそれを誇らしいような、それでいて少し気恥ずかしくもあるような、そんな気持ちで過ごしていたエルジェの元へ来客があったのは式の前日のことであった。
 何やら騒がしい階下の様子が気になり二階の自室から居間へ降りると、そこには一月前に別れた時と何ら変わることのない風貌の一人の旅人が居た。レネである。
「困ります、式の当日までに花嫁のところへ殿方をお連れするのは……」
 邸宅の入り口付近で客人と使用人が軽く口論になりかけているのを発見し、エルジェは慌てて階段を駆け降りると開いたままの入り口に近づいた。
「いらっしゃい、レネさん。ああ、あなたはいいわ。仕事に戻って」
「しかし、お嬢様……」
 すっかり困り果ててしまっていたらしい使用人は口でこそ咎めるような姿勢を見せたが、本心はと言えば「まさに助け船」と思ったに違いない。エルジェは懐から何枚かの銀貨を取り出すと、それをそっと使用人に渡しながら言った。
「彼は大陸の高名な学者さんよ。あんまり無碍に扱わないでちょうだい。それと……お父様には内緒に、ね?」
 使用人はしばらく手のひらに収められた銀の輝きに戸惑っているようだったが、やがて頷くと足早に邸宅の奥へと消えていった。
「……お邪魔だったかな?」
 用心深く使用人の後ろ姿を見送っていたエルジェへ、レネが告げた。
「それはそうでしょう。明日晴れて婚約するという花嫁のところへ夫となる人以外の殿方がいらっしゃるなんて、普通じゃ考えられないわ」
「その割には、怒っていないし困っても居ないようだ。まるで小生がやって来るのを予見していたかのようだね」
「私とて学者の端くれ。同じ学者の考えていることくらいはわかりますわよ。知りたいのは、花嫁の衣装とその意義といったところかしら」
 フリストにはこの事も既に話してあるのでしょう、と問うとレネは「もちろん」と答えた。それを確認し、エルジェは悪戯好きの笑顔を浮かべレネを手招きする。
「こっちよ。本当は明日まで家族以外には見せるつもりもなかったのだけど……」
 エルジェが案内したのは、自室の隣にある衣装部屋であった。様々な衣服が壁一面に沿ってずらりと掛けられたその部屋は、ここだけでも立派な服屋を営業出来そうなほどに広く、また豪奢な『品揃え』である。そしてその中心にひとつだけ置かれたトルソーには、周囲の衣服の輝きさえ霞んでしまいそうなほどに美しい、一着のドレスが飾ってあった。
「これよ、明日私が着るドレスは。素敵でしょう? 似合うかどうかはまあ……別として」
「見事な刺繍だ。新しく卸したのかい?」
「ええ、街にいる腕利きの裁縫屋に頼んだの。白の生地に赤、緑、それに黄色……立派な仕事をしてもらったわ」
「今、素描きをしても?」
「どうぞ」
 部屋の隅にあった小さなテーブルと椅子にレネを促し、エルジェもまたそこへ腰掛けた。レネはドレスの様子を細かく手帳に記しながら、生地は何か、刺繍糸はどれかと質問を重ねる。それにひとつひとつ答えながら、エルジェはふと一ヶ月前、ここスカルアヘ向かう途中の馬車でおぼろげながらに聞いていたフリストとレネの会話を思い出していた。
「奥様が、いらっしゃるんですって?」
「……居るよ。もちろん、不貞を働くために小生が君の元へ来たのではないことは、分かっているだろうね?」
「それは承知。私が聞きたいのは、あなたと奥様のことよ……ああ、手は止めなくていいわ。適当に聞き流しても構わないから」
「それはどうも」
「私、フリストほどではないけれど……私もあなたの書いた文献を昔、いくつか読ませてもらったことがあるの」
「ありがたいことだ。何を読んだ?」
「『エルネタリア公国における自然環境の活性化・その仕組み』と……あとは、それに関わる食生活の本ね。ほら、パン工房の食べ比べがあったでしょう? 私、あの本が好きなの」
「はは、今でも残っている店があるとすれば『スイの夢』くらいかな? あそこは小麦じゃなくて、代々アリメンテ産のキビ粉を使っている。当時ルキフェニアの王もキビ粉のパンをいたく気に入っててね。早く取り寄せろとよく言われたものだよ」
「魔石の窯は、ルキフェニアにもあって? エルネタリアのパンは火の魔石で焼いてこそ美味しいものだわ」
「その通り。エルネタリアは今も昔も『魔石』頼りで国が成り立っている。小生が以前エルネタリアへ訪れた頃、それはまだ門外不出の代物だった。だが今やその『魔石』がこの地へ死にに来るドラゴンの亡骸の果てであることは、エルネタリア国民だけではなく、周辺国も既知の事実……この『事実』を公がどう扱うかによって、エルネタリアは栄えもし、そして滅びもしよう」
「それを一般国民や諸外国へ『暴露』したのがいわゆる、百年ほど前……あなたと、ライデンフロストというセクリタテアの魔導師だったと文献には残っているわ。それとは別にもう一人、コールラウシュという人物も同様の文献を残している」
 エルジェが思い浮かべたのは今とは比べ物にならないほど殺伐とした、貧しい時代のエルネタリアだ。君主を四代ほど替え国政が安定して来た今でこそ、エルネタリア公国は豊かな国になりつつあるが――それはひとえにレネが話す通り『魔石』のお陰だと言えよう。
「私が聞きたいのは、その『百年』という数字のことよ、レネさん。大陸には色んな種族が生きているわ……たとえばエルフのように長く生きる者も居れば。私たち人間のように、せいぜい六十年といった種族も居る。そしてあなたは、長い、本当に長い時間を旅での見聞と学術に注いでいる……」
「妻が、寂しくはないのか……って?」
 ふと返ってきたレネの言葉は、どこか他人事のようにも聞こえた。
「ええ。それに、フリストはあなたに強い憧れを持っている。もしかしたら彼は、いつかあなたの真似事をし出すんじゃないかって」
「それは難しいだろう。素質はあるだろうけどね」
「その答え、喜んでいいのか、悔しく思っていいのか分からないわ」
 エルジェは苦笑した。彼女自身、フリストがレネに敵うほどの学術者であるとは思っていない。それほどまでに、レネが大陸に残した足跡は大きいのだ。自分たちのような細々とした学術者は、せいぜい国内へ情報を伝える程度で人生を終えてしまうだろう。
「それに、君たちはようやく軌道に乗り始めたこの国の大事な知識階級だ。異国に出られては逆に公も困るのではないかな」
 さりげないレネの言葉には、学術の先行者としての優しさがあった。在るべき姿を取り、在るべき場所で、すべきことを行う。それは生命を授けられた者として理想的な生き方だ。
 手帳をパタンと閉じ、レネは微笑を浮かべた。どうやらドレスの素描は終わったようだ。一体、その手帳に自分たちの事はどんな風に書かれているのか――エルジェは気になったが、それは後の楽しみだろう。いずれ、レネの執筆したエルネタリア文化に関する写本が生まれる。それまでの辛抱だ。
「それじゃあ、小生はそろそろお暇するよ。ドレスを見せてくれてありがとう。明日は楽しんで」
 純粋にエルネタリア人の婚礼を楽しみにしているらしいレネの笑顔は快活さに満ちている。そしてそんな彼に楽しみを提供出来ることはエルジェは元より、フリストも誇りに思うだろう。
「ええ、あなたも祭りを楽しんで。ドレスなんて柄じゃないけど、明日は綺麗に変身してみせるわ」
 邸宅の玄関からレネを見送り、エルジェは彼の去る姿を眺めながら「うん」と一人頷くと気合を入れた。
 明日はついに、フリストとの結婚式だ。今まで育てて来た愛着という名の植物が、ようやく実をつける。スカルアを代表する豪商同士の婚約に街の話題は持ち切りだが、エルジェにとっては幼馴染との素朴な関わり合いの終点かつ起点に、別の意味で心を躍らせるのだった。



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