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12.第十二章



 宿に戻ると、ちょうど入口の受付ホールで店主が「レネなら湯浴みをしている」と教えてくれた。店主は以前からレネのことを知っているようで、場所を訊くと宿の奥にある湯場に居るとすぐに答えた。
 商館に併設された大きな宿ということもあってか、その施設はやはり豪華なものだった。馴染みのない雰囲気にノヴァークは少しの戸惑いを覚えながら廊下を行く。天井を見上げれば、シュヴァイスラントから取り寄せたと見える煌びやかな硝子を使った集合灯(シャンデリア)が吊られており、そこには魔力を蓄えたエルネタリアの魔石が柔らかな光を発している。まさに商人の国――その力を存分に見せる調度品である。
 そして湯場に向かう廊下を進んでいると、ふと途中で香りが変わった。受付ホールから漂っている香草の類ではない。恐らく、リュッケルトが使っている薬草のものだろう。
 その香りからどんな薬草が使われているかを推理しながら、ノヴァークは湯場の扉を開ける。するとそこにはトビトカゲにとっては慣れない空気――湿気と湯気はトビトカゲが苦手なもののひとつだ――が充満していた。
「戻ってきたか、ノヴァーク」
 まとわりつく湿気に若干の不快感を覚えながら奥へとやって来たノヴァークに、レネは湯船の中から声を掛けた。ちゃぷりとお湯が鳴り、レネの腕から滴が垂れる。隙間の空いた窓からそよぐ風に乗って、湯気がさっと引いて彼の表情が露わになる。その横にはリュッケルトが控えており、予定通りに治療の準備が行われているようだった。
「久し振りに入ったが、アーストライアの風呂はやはり良いな。心無しか、体調も良くなってきた気がする」
「水浴びとは違うのか?」
「薬草を浸したお湯だよ。それに、アーストライア岩塩も。ただの水浴びとは訳が違うぞ。後でお前も入ってみるといい」
 湯の熱によるものかレネの顔は赤く上気しており、その様子は確かに彼の身体に変化が訪れていることを示している。湯浴みの経験が無いノヴァークだったが、これがいわゆる「湯治」というものだということは理解していた。そしてその効果についても、彼には少しの知識があった。
「エルネタリアにもこの文化があれば、ギルドの同胞も冬場の寒さを凌げそうなものだが……」
「そうだな。ただ、エルネタリアはアーストライアほど豊かな文化を持ってはいない。湯を沸かす方法はあるにせよ、それを娯楽や療養に使う余裕はなかなか無いだろう」
 ノヴァークの呟きにレネが応える。エルネタリア公国は山川の多い地域だが、こと水に関しては問題の多い国だ。清潔な水が使えるようになったのはごく最近の話で、エルネタリア建国以前、ムスチェルルイと呼ばれていたあの一帯では水路の数もその質もいわゆる「前時代的な」ものであった。
 それを革新的な方法で解決しようとしたのがライオネスだった。彼は国交を回復させると共に少しずつ他文化を取り込み、やがてエルネタリア公国としての国有技術に発展させた。もしこのまま国交が正常化して行けば、やがてエルネタリアにもアーストライアに劣らぬ湯場が出来るかもしれない。
 しかし、それは今や夢物語に近い。エルネタリアは現在、レネを巡って再び情勢が不安定になりつつある。レネが言うには、最初彼はルキフェニア王より国交回復の使者としてエルネタリアに派遣されたそうだ。だがエルネタリアはまるで予定通りと言わんばかりにレネを十年もの間、軟禁していた。
 そしてそれを、今度はルキフェニアからやって来たエレクがアーストライアへと逃がす形になった。状況は複雑だ。場合によっては協力したノヴァーク、リヴデューザとの関係にもエルネタリアは何らかの制裁を与えるかもしれない。ふとそんな懸念がノヴァークの脳裏に浮かぶ。
 エレクにレネ救出を頼んだ医術師マキシーンは、果たしてこの状況を予測していたのだろうか。マキシーンは「院」に務める者とはいえ、国政に絡めるほどの実力者とは思えない。
 実際に話をしたのは契約を交わすほんの短い時間だったが、その時に感じた彼女の雰囲気はせいぜい街の施療所で病人を診る「評判の変わり者」といった程度だ。王宮に申し出ることもなく、秘密裏に決行された救出劇。
 これは何かあるな、そうノヴァークは考えた。
「ノヴァーク」
 しかし、徐々に曇り始めたノヴァークの思考はレネの声を前に霧散する。どうやら、しばらく無言のまま意識を遠い所へ置いてしまっていたようだ。
「薬草を取ってきてくれたんだろう? アレク殿に渡してくれるか」
「……ああ、そうだったな」
 詮索はここまでとしておこうか。ハイエルフに関してもそうだが、ノヴァークは最近、己を取り巻く環境に幾つかの疑念を覚え始めていた。
 ただただ暗殺者としてギルドの掟に従い、淡々と仕事をこなすだけの日々と今はまるで違う。何か大きな渦のようなものに飲み込まれそうな感覚がある。果たして自分は、このままで良いのか。エレクやレネと出会うことで、ノヴァークの意識は変わり始めていた。
「所望の通り、採取して来た。使ってくれ」
「ありがとうございます」
 ノヴァークから薬草の入った布袋を受け取り、リュッケルトは安心した様子で微笑した。そして彼女は何かを思い出そうとしばらく額に手を当てていたが、やがて迷うことなく薬を調合し始めた。
 リュッケルトの手元に淀んだ色の液体が出来上がる。聞けば、この薬液でレネの全身に呪文を「刷り込む」のだそうだ。
「さて、じゃあそろそろお願いしようか」
 湯船から出て来たレネは下着一枚という軽装でリュッケルトの前に座った。水分を拭き取り、ふう、と息をつく。旅の疲れと汚れを落としたレネの身体はまっさらな布を思わせた。傷ひとつない皮膚は、彼が戦いとは無縁であることを物語っている。
「では、呪文を書き入れます。少し、くすぐったいかもしれませんね」
「ははは。頑張って耐えるよ」
 その身体に、リュッケルトが液体を掬った筆で色を乗せた。それは瞬く間に文字となり、少しずつレネの身体を覆っていく。頭から顔、首、肩――呪文が足の先まで到達するのにそう時間は掛からなかった。
「これは凄いな」
 思わずその様子にノヴァークは驚きの声を出した。レネは全身に呪文を書き込まれ、まるで戦化粧と言わんばかりだ。日焼けの少ない肌と呪文の濃い色が斑になり、その外見がヒトとは違う存在に見えて来る。
「この呪文で、レナートの中にある悪いモノを中へ封じ込めます。そのため完全な除去は出来ませんが、代わりに症状を抑える事は出来るでしょう」
 呪文を書き終えたリュッケルトの額には、玉の汗が滲んでいた。湯場の熱気と呪文を書くという作業は、彼女を少しだけ疲弊させたようだ。しかしリュッケルトの表情はしっかりしたもので、これが民を癒す魔術師の姿なのだと思わせる。
 そしてリュッケルトは筆を置くと何事か呟いた。レネに書き込んだ呪文を、言葉――その本質によって具現化し存在そのものに定着させるのだ。
「アルはアレク殿に、大切なモノを残してくれたようだね」
 技を行使するリュッケルトに、レネは返事も求めず口を開く。
「彼はルキフェニアでいつも、物事の本質を見つめることを大事にしていた。それがアレク殿にしっかり受け継がれているのが分かるよ。何より、そっくりだからね」
 まるで旧友がその場にいるかのような感覚を覚える、とレネは言った。彼の話しぶりから察するに、レネとアルセニオスは深い絆で結ばれているようだ。そしてそこには、レネがアルセニオスの死を悼む様子が見て取れる。
「これで呪文の『刷り込み』は完了です。薬液を流しましょう」
 しばらくの間ずっと呪文を唱えていたリュッケルトが、大きく息を吐きながら宣言した。レネはそれに頷き、湯船から桶で湯を掬うとそれを全身にくまなく掛ける。やがてレネの身体は先ほど湯船から出て来た時と同じ状態に戻り、見た目は今までと変わらない状態に戻った。
「アレク殿、今回は本当にありがとう」
 湯場の片隅で服を着ながら、レネはリュッケルトに礼を言った。
「これが私の務めですから。叔父もそれを願ったでしょう」
「ノヴァークにも重ねて礼を言わねばならんな。契約金にいくらか上乗せするよ」
「なに、契約が無事履行されれば問題ない」
 どうやらこれで、レネはようやくノヴァークとの契約を完了するつもりのようだ。その言葉に、ノヴァークは幾ばくかの安堵を覚えた。決して簡単な依頼ではなかったというのもある。それに、任務の中で様々な苦難にも出会ってしまった。それがようやくひと段落着くのだから、せめて心の内くらいでは安心しても良いだろうと彼は考えていた。
 三人は湯場を後にすると宿の一室に戻り、今後について話し合う。
「これからお前はどうするんだ、ラカトーシュ」
「アーストライアを渡り歩いて、ラルギネアへ向かおうと思っている。そこを経由してルキフェニアへ戻る。お前はどうするんだ? ノヴァーク」
 早くも旅の支度を整えながらレネは言った。そして荷物の上へ椅子代わりに座ると、彼は手帳に書き始める。ノヴァークはかねてより決めていた事柄を事務的に話した。
「オレはギルド本部に戻る。今回の強盗騎士の件も報告しないといけないからな」
「そうだったな。長く引き留めてすまなかった」
 ようやく体調も戻って来たのか、レネは出会った当初に見せていた快活な笑顔を再び浮かべた。まるでこれから起こることを何も心配していないかのような、自信に満ちた表情だ。
「追加金はギルドに直接送ってくれ」
「了解した。ルフトツァック商会経由で送るよ」
 レネはナイフで手帳の一ページを切り取ると、そこに証明書をしたためた。それを受け取りノヴァークは頷く。そこにはレネが旅行者用ギルドからリヴデューザへ追加分を送金する旨が記されていた。
「では、これで契約は終了だな」
 証書を懐にしまい、ノヴァークは言った。



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