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04.第四章



 目が覚めたのは、ちょうど日がのぼる直前のことであった。ふと小さな物音に気付き、ノヴァークはその音を辿ってハイエルフの家の外へ出る。見上げれば、住居にしている巨木の枝の上にユトゥルナが佇んでいた。
「あら、ずいぶんと早いお目覚めね」
「そこで何をしている」
「朝日を待ってるのよ。ここ、あたしの特等席なの。良かったら、一緒にどう?」
 ユトゥルナに手招きされ、ノヴァークもまた身軽に樹木を駆け上がり、その頑丈な枝へ飛び移った。僅かに木がしなり、葉がざわめく。
「不思議なものよね。あの先に何があるかなんてさっぱり分からないところから、こうして毎日、あたしたちが必要とする太陽が昇ってくる」
 じんわりと滲み始めた東の空を見やり、ユトゥルナは呟く。
「太陽の昇ってくる根本には何があるんでしょうね。あ、ほら、見えてきた。あそこがイレクスっていう町。麓からはすぐだから、そこまでは送っていってあげるわ」
 示された細い指の先に明るみだした下界の町をノヴァークもまた見やり、呟く。
「何か煙のようなものが見えるが……」
 日の光を受けて浮かび上がったアーストライア国境の町は、靄というには濃い白の幕に包まれていた。目をこらせば、それはまちのあちこちから立ち上っており、独特の幻想的な風景を醸し出している。そしてそれが煙ではなく地表から湧き出す湯気なのだと気づくまでには、ずいぶんと時間を要した。アーストライアの住民はみな風呂好きだ――昨晩、レネの言っていたことを思い出す。
 日はみるみるうちに高きへ上り、やがて山脈そのものをも照らした。初夏の木々は青く輝き、しばらくして光に目を覚ました鳥たちの声が聞こえてくる。朝だ。今まで見たことも無いような景色の変容は、ノヴァークの心境にも微かな変化をもたらした。
「さて、そろそろ朝御飯にしましょ。あの彼も、今日は何か食べられるんじゃないかしら」
 気がつけば、ずいぶんと長い間その光を見つめていたようにも思う。眼下に開いた家の窓から塩気をまとった香草の温かな香りが漂って来て、ようやく自分たち以外にも目を覚ましたものたちが居ることに感づくのだ。ノヴァークは素早く枝から飛び降りると、香りのもとである家の中へ戻っていく。少しして、ユトゥルナもまたノヴァークに続いて地上へと降りてきた。
「やあ、おはよう。気持ちのいい朝だね」
 既に旅の身仕度を終えたレネが、戻ってきた二人へ声を掛けてきた。この一晩で彼の体力はだいぶ回復したと見える。これなら、今日の内に町に入り、拠点を探すことも出来るだろう。
「身体の方は大丈夫なのか」
 それとなく尋ね傍らに腰を落ち着けると、レネは珍しくも力強い表情で頷く。
「ああ。ここの水がよく効いたようだよ。なるほど精霊使いというのはすごいものだ」
「油断するなよ。またいつぶり返すかわからん」
「わかっている。だからこそ、動ける内に行こうと思ってね」
 食前の薬湯をすすりながら、彼はまた何事か手帳に記していた。恐らく、ここ数日に起こったことを記録しているのだろう。その中身はノヴァークに判別出来ないものであったが、筆の進む動きは速く、それは彼に活力が戻ってきたことを意味していた。
「この山を降りれば、すぐにイレクスへ着くわ。そしたら、あとは現地の商人たちが色々と世話してくれるはずよ。間違っても、憲兵とは騒ぎにならないようにね……ユトゥルナが一緒なら、まず問題はないでしょうけど」
 香草のスープとパン、そして付け合わせのチーズを盛った皿を食卓に運びながらメルセデスが笑った。久し振りに大人数で摂る食事に彼女も喜んでいるように見える。
 他国――それも、エルネタリアかれであれば――からアーストライアへと入るには、ハイエルフを伴っての入国が一番手っ取り早い。そう言っていたのは、先日馬車への乗り込みを快く引き受けてくれたアーストライア商人たちの談だ。レネが倒れるという予期せぬ事件はあったものの、これでようやく当初の予定通り旅を続けることが出来る。
「イレクスはどんな町なんだ?」
「アーストライア随一の保養地だよ。建物は宿屋と商店ばかり、貴族の別宅も多くあるから治安はそう悪くない……と、前に来たのはいつだったかな? その頃と変わっていなければの話だが」
「まあ、お詳しいのね」
 ノヴァークの問い掛けにレネが答え、そしてそれにメルセデスが相槌を打つ。
「今ならちょうど建国記念祭の最中でしょうから、町もきっと賑やかね」
 パンを口に運びながらユトゥルナが言うのを聞き、ノヴァークは顔を上げた。
「建国記念祭?」
「もともとこの国を治めていた始祖エルフ族を倒して、あたしたちハイエルフと奴隷扱いだったダークエルフ、それに人間が自由を勝ち取った日よ」
 奴隷、というユトゥルナの言葉にレネが小さく眉を動かしたのをノヴァークは見逃さなかった。そう、奴隷という単語に付随して二人が導き出した記憶――それはエルネタリア公国で分かれた一人の青年の姿であった。エレク・クーロンである。辛くもエルネタリアの首都を脱出し更に南へ経路を取ろうとしたレネに、エレクはしつこく食い下がって同行を望んだ。しかしそれを厳しく制したレネの考えが、今になって理解できる。アーストライア連合王国では、奴隷制度を厳しく律し、そして罰している。例えそれが他国からの旅行者であったとしてもだ。
 元々協議もしていたのだろうが、結局、奴隷としてレネに買われた過去のあるエレクはアーストライアへの同行を拒否された。代わりとして彼の旧知の友人であるライデンフロストが、当時レネがエレクを『買い上げた』値段と同じ額の金貨を支払ってレネからエレクを公的に『買い戻した』のである。
 エレクはその間終始不服そうにしていたが、正直これが一番合理的な方法であったと、ノヴァークは考えていた。そしてその金貨を糧に、レネはエレクの依頼を無事遂行し終えたノヴァークを半ば強引に雇ったのだった。そしてそれもまた、合理的な判断であったと彼は同様に感じていた。
 エレクによるレネ救出の後、ノヴァークはそのままエルネタリアにあるリヴデューザの拠点へと戻ろうとしていた。それをレネは、もっともらしい理由をつけて護衛として雇ったのである。
 それはエルネタリアに本拠を構えるリヴデューザの動きを警戒しての行動だったのだろうが、もともと国の政治に深く関わることのない暗殺集団にとってそういった思惑が無駄であることも、ノヴァークは知っている。雇い主が雇われる側であるリヴデューザのトビトカゲたちを心から信頼して居ないことは、これまで身を投じて来た数多の任務にも明らかだ。今さら、それを咎める気もないのだが。
「そうか、建国記念祭……これは少々まずい時期に来てしまったかな」
 しかし、レネにはノヴァークとはまた別の心配事があるようだった。口に手を当てたまましばらく黙考していた彼は、ひとつ息をつくと小さく口を開いた。
「実は、会いに行こうと思っている友人が、その……『先祖返り』、なんだ……」
 瞬間、ユトゥルナとメルセデスの美しく青い瞳が鋭く細められた。アーストライア連合王国に生きる人間たちに固有の性質『先祖返り』は、まれに黒髪に青紫色の瞳を持つ『始祖エルフ』の姿で生まれてくる者たちを指す。その原理は長い年月を経た今でも解明されておらず、またアーストライアというハイエルフ・ダークエルフ・人間の三種族で構成されるこの国の住民たちにとって忌まわしい外観ゆえに、彼らは生まれ落ちた直後から差別的な視線に晒されている。
「イレクスで『先祖返り』と言えば……リュッケルト、かしらね」
「その通り」
 厳しい目つきで言い放ったユトゥルナへ、レネは深く頷いた。
「まあ、なんだ、その。君たちの不便にはならないようにするから。どうか気を悪くしないでくれ、小生の大事な友人なんだ」
 ごまかし笑いにも似た表情を浮かべて、レネが申し訳なさげにスープへ口をつける。
「……ヒトというのは、どうにもよく分からぬ生き物だな」
 そしてノヴァークもまた、急に静かになったエルフたちを横目に、小さく切り分けた林檎を口の中に放り入れるのだった。



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