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03.第三章



「なによ……これ……」
 震える声でユトゥルナが思わず呟いた、その時だった。レネの身体から引きずり出された呪いが、ついにその姿を現したのだ。どろりとした、溶岩にも似た動きで、『それ』はずるずると空間へ溶け出して来た。その様子にノヴァークも、そしてメルセデスさえもが息を飲む。
 呪いは、実に形容し難い不気味な姿をしていた。幾つもの生き物が不条理に接合されたかのような、おぞましい顔にも見える物体がその身体の上にひしめいている。そしてその顔たちがそれぞれに何か言葉のような音を発していたが、それらはどれもが溶け合い、蠢き、とても人に介せるようなものではない。地獄の底で奏でられる、気味の悪い合唱だ。
「!」
 突如、呪いが吠えた。天を劈くような不吉な響きが鼓膜を襲う。メルセデスが魔法陣を使い封じているため直接的な被害は無いに等しいが、その禍々しさはこの世のものとは思えぬほどであった。どこかで、誰かがすすり泣くような――もしくは嘲り笑うような――歪な声が聞こえてくる。
「呪いよ、あなたに問います。あなたは何をもってこの若者の中に巣食うのです。あなたを遣わせた者は、今どこに居るのです?」
 気丈にも呪いの前へ立ちはだかり、メルセデスが杖を構えた。黒い液体のようなものが触手となって辺りに這い回り、それは徐々に杖へ、メルセデスへと絡み付く。
「この結界の中に居る限り、あなたは満足に力も出せないはずよ。だから教えて。あなたは怒っているの? それとも、悲しんでいるの?」
 精霊使いとして直接呪いと対峙するメルセデスには、いくらかその意志が分かるようだ。しかし、答える様子も見せずなおも絡み付いて来た呪いに彼女は遂に杖を振るうと強い語気で命じた。
「あなたの主のところへお戻りなさい。ここは、そして彼は、あなたが支配すべきものではない。そしてそれが出来ないのならば、しばらく大人しくしていなさいな」
 背後の『ルサルカ』もまた手を伸ばし、呪いを水で押し返す。やがて呪いはその勢いに飲まれ、断末魔のような声を上げるとそれきり、霧散した。
「……メルセデス!」
 辺りに充満していた暗闇が消えたのを確認し、ユトゥルナがメルセデスへ駆け寄った。ノヴァークもまた、周囲が安全であることを確かめるとベッドに横たわったレネの様子を伺う。相変わらず顔色は悪く、息も浅い。彼の身が回復するには、まだ時間がかかりそうだった。
「大丈夫? なんだったの、今の。気味悪い……」
「ええ、心配ないわユトゥルナ。呪いの方も、しばらくは大人しくしているでしょう」
 役目を終えた『ルサルカ』を解放し、メルセデスは小さく息をついた。
「ただ、少し汚れちゃったわね。お風呂にしましょうか」
「そうよそうしましょ、あんな汚らわしいモノがメルセデスの身体を這いずり回ったなんて、あたし耐えらんないわ! まったく、女をなんだと思ってるのかしら」
 見当違いな文句をこれでもかと散らしながら、ユトゥルナが悔しげに地団駄を踏む。
「というわけで、あたしたちお風呂入って来るから。あなたはしばらく彼の様子を見てて。メルセデスが何とかしてはくれたけど、まだまだ油断は禁物よ」
「わかった。元よりそのつもりだ」
 荷物の上に腰を下ろし、成り行きを見守っていたノヴァークもまた息をついて肩の力を抜く。なんにせよ、これで無事にまたレネとの契約を履行出来るだろうという安心がようやく戻り始める。
「あっ」
 足早に奥の湯浴み場へ向かっていたユトゥルナが小さく声を上げ、突然振り向くなり何事が考え込んでいるノヴァークを睨みつけて言った。
「覗いたらぶっ殺すからね」
 そんな趣味は無い、と言いかけたノヴァークであったが、視線を上げた先に見えたユトゥルナの殺気はあまりにも強く――結局彼は出掛かった言葉を飲み込んで、静かに頷く他ないのだった。
 
 
 精霊使いとは、かくも『強い』ものであった。元々魔術など縁のないノヴァークにでさえ、目に分かるほどの力を見せつけられた。暗殺ギルド『リヴデューザ』の持つ力とは、まさに対極に属する力だ。彼女のような精霊使いというものは、恐らく世の理というものを正すためにその力を行使するのだろう。しかし、自分たちのやっていることは――世の理を掻き乱す、極めて不純な力である。この大陸へトビトカゲという種族が移住したこと自体が、そもそも自然の理に反した行いだったのかもしれないが、その特異性がまた彼らの強みであることも、ノヴァークはよく理解していた。
 種族の壁とその力関係はいつでも争いの火種になる。例えば人間の治めていた国を、竜人が転覆させたエルネタリアように。そして、始祖エルフたちが治めていた国で己の権利を勝ち取るために過去立ち上がった、この国の住人たちのように。
 ふと、小さなうめき声が聞こえた。見れば、ベッドの中のレネがいくらか体温の戻って来た面持ちで虚空を見上げている。
「ここはどこだ……なんか、前もこんなことがあった気がするぞ……しかもつい最近」
「ハイエルフの家だ。お前の言う通り、アーストライア入国のため力を借りることになった」
 未だ身体を動かすのは難しいのだろう、首だけをなんとか動かしレネはノヴァークを見やると薄く笑った。
「そうか、そいつは良かった……」
「『呪い』とやらの方は、さっき精霊使いの女がなんとかしてくれたらしい。根本的な解決は無理だったようだが、しばらくは小康状態といったところだろう」
「……夢を、見ていたんだ」
 意識もおぼろげか、レネは突然ぽつりと言葉を漏らした。話の脈が噛み合ずノヴァークは首を傾げたが、そのまま黙り込んだ。
「ずっと、ずっと昔の景色のようだった……山の緑が綺麗でな――貧しそうではあったが――そこに居る人々は、幸せそうに暮らしていた」
「どこの国だ?」
「さあ、そこまではわからん……なにせ、夢の中の話だ。ただ……」
 しかし、それまで穏やかに夢の情景を語っていたレネが突然、言葉を詰まらせた。
「ただ……」
「どうした」
「……フェルニゲーシュ……?」
 茫然と呟いたレネの耳には、既にノヴァークの声など届いていないようだった。ついで、ぽたりと――その山瑠璃色の瞳から雫が落ちる。
「おい、どうした。傷が痛むのか」
「いや、違う、違うんだ、大丈夫だ」
 拭うことも叶わず、そして恐らく溢れ出した涙の意味さえわからないままレネ自身も困惑しているようだった。
「……はは、参ったな。安心して気でも抜けたか」
 誤摩化すように笑う彼の目尻から、またひと雫こぼれ落ちる。
「何にせよ、小生を助けてくれた礼を言わんとな……そのハイエルフは、どこに?」
「今は風呂だ」
「風呂? ああそうか……アーストライア人は湯浴みが好きだものな。入ったら最後、しばらくは出て来んぞ。よく長風呂をしてのぼせている馬鹿を知っている」
「前に言っていた、友人の伝手を頼るというのはそいつのことか?」
「ああ。アルセニオス・リュッケルト。ルキフェニアに居た頃の古い友人だ。彼なら、小生がルキフェニアへ戻る手助けをしてくれるだろう……」
 エルネタリアを脱出した彼らが次の目的地にアーストライアを選んだのには理由があった。ひとつは地理的な利点で、鎖国同然であったエルネタリア公国が前王朝時より変わらず貿易の相手としていたアーストライアへの南下経路は、行商が多く行き交うことから比較的警備も手薄だ。そしてもうひとつの理由が、レネの友人でありアーストライアの有力者でもあるリュッケルトという人物の存在だった。リュッケルトはルキフェニア王国への留学経験もあり、また優秀な魔術師だという。その彼に、レネは助力を請おうとしたのだ。
「その友人とやらは今、どこに居る?」
「イレクスという町だ。エルネタリアを出る数日前にも彼からの手紙を受け取った……そこへ行けば、きっと小生の『これ』も、何とかしてくれるだろう……」
 ふと、レネの発したとある地名にノヴァークの黒い瞳が僅かに揺れた。イレクス――山中で遭遇したあの不気味な鬼火も口にしていた場所だ。鬼火は、そこで待っていると。まるでノヴァークがアーストライアを訪れ、そして結果的にその町へ移動することを予見していたのだろうか。にわかに、凍てついた心の中がざわめき始めた。
「調子はどう?」
 いつの間にか湯浴みから戻ってきていたユトゥルナに声を掛けられ、ノヴァークは深く沈んでいた意識を記憶から現実へと浮上させる。レネを見やれば、彼はまた静かな眠りに落ちていた。
「今晩はメルセデスが診ててあげるそうだから、あなたも今日のところは休んだら? 明日もし出発出来そうなら、麓の町まであたしが送って行ってあげる」
「おかしなことを言う娘だ。暗殺者に眠れと諭すか」
「別に取って食いやしないわよ。ただ、疲れてるでしょうから。お腹は空いてる? トカゲさんの口に合うものがあるかは分からないけど、その様子だと国を出てから満足なものは食べてなさそう」
「いや、これといって」
「あ、そうだ。こないだラルギネア産のいいワインを仕入れたのよ。あとね、兎肉とチーズもあるわ」
 遠慮がちなノヴァークを無視して一人勝手にユトゥルナは厨房へ消え、少ししていくつかの料理とワインを持ち寄ってきた。やがてそこへ遅れてやってきたメルセデスも加わり、気づけばささやかな食卓が広げられる。
「持ってきたはいいけど……食べられる? 魚とか虫とかの方が、もしかしてよかった」
「お前は俺を何だと思っているんだ……」
 すっかりエルフたちの調子に舌を巻いたノヴァークは諦めたように呟くと、差し出されたチーズを口に運び、次いでワインをあおった。
「明日は、そこの彼に何か身体に良いものを作ろうと思うわ。好きなものはあるのかしら?」
「さあな。何せ知り合ってまだたったの数日だ。ワインはよく飲んで居たようだったが」
 移動していた頃よりはいくらか落ち着いた様子で静かに寝息を立てているレネを覗き込み、メルセデスが呟く。
「あなた、良い雇い主さんに恵まれたわね。何かを守るというのは、とても素敵で大事なことよ」
「そういうことは騎士にでも言ったらどうだ。奴等は無駄に名誉やら恩やらを尊ぶ」
 ハイエルフの持ち寄った食料はなるほど、目利きの商人たちが多く存在するアーストライアとあって美味であった。国内で生産される岩塩は今や大陸各国に輸出されており、本場で是非その塩を使った料理をと、味を求めてこの地を踏む旅行者も多いと聞く。茹でた兎の肉は柔らかく、そしてそこに振りかけられた家庭的な調味料のあたたかな味わいは、久しく彼が忘れていた『家』というものを僅かながらに思い出させた。
 そしてワインが充分に腹へ染み渡るのを感じながら、ノヴァークはやはり冷静な観察眼をもって『ここが安全である』ということを確信する。やがて夜が更け、皆が寝静まった頃にようやく訪れ始めた眠気を前にノヴァークは毛皮のマントを身体に巻き付け部屋の隅に位置をとる。いざという時のため武具は変わらず身につけたままであったが、静かな森の中の一軒家で珍しくも彼は自然な眠りに落ちていくのだった。



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