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01.第一章



 しまった。もう少し、薄く作るべきだったか。その大きな黒い瞳にゆっくりと隣人が倒れていくのを映しながら、ノヴァークは鉄仮面よりもなお冷たい無表情の裏で密かに焦りを感じていた。さすがに雇い主を不手際とはいえ己の手で殺してしまったとあっては、後でギルドから何を言われるかわかったものではない。
「おい、大丈夫か」
 危うく焚き木に顔から突っ伏すところであった雇い主を支え、それとなく声を掛ける。直前まで彼が口をつけていた小さなガラス製の器が音を立てて転がり、主人の代わりに火の中へと落ちていく。
「だ、だいじ、ょう……ぶ……?」
「疑問系で言うな。こっちが聞いているのだ、ラカトーシュ」
「これ……ほんとうに、う、すく、したんだろ、うな……?」
「間違っても致死量ではない。そこだけは安心してもいい」
 既に力の抜け始めた表情筋をそれでも懸命に動かし、雇い主はノヴァークを睨み付けていた。しかし、それも束の間。今度はそのまま後ろへ倒れると、それきり、彼はすぐに静かになった。昏倒してしまったのである。
 隣人が「痛みもないのでそのままにしていた」という奇妙なうじゃけた傷から、恐らく『呪い』に掛かってしまったことに気がついたのはほんの二日前のことであった。野犬にでも咬まれたかのような、鋭い牙の痕。それを最初に発見したのは、エルネタリア公国を離れるという雇い主レネ・ラカトーシュと共に乗り込んだ、アーストライア連合王国行きの馬車に乗る行商たちであった。「お前さん、その首の傷はどうしたね?」商人の何気ない問い掛けに、ノヴァークの神経は途端に逆立った。
 旅の用心棒としてレネと契約を交わし、その報酬も既に受け取ってある。その内容は『雇い主であるレネが無事にアーストライアへ辿り着けるよう護衛をする』という、ノヴァークからすればそれは少々退屈な契約内容であったが、山越えをするにあたって野生の動物や魔獣といった敵性の存在は旅人にとって脅威そのもの。もちろん、それらはノヴァークが逐一掃討し、戦闘経験もなさそうな――もしくは書房以外に重いものを持ったことがないのではないかとも思わせる――雇い主のレネをずっと守ってきたのだが、まさかその間、知らずに傷を負わせてしまったのかと彼は我が身を省みた。『リヴデューザ』とあろうものが、そんな不名誉な事態に陥ってしまうことだけは何としても避けたかった。
 しかし、いくら考え込んでも自分の護衛としての行いに不備があったとは思えず、ノヴァークは愛用のナイフを手入れしながらふと傍らの調合皿を見やった。レネが呪いのせいで突然体調を崩し移動すら困難になったため、急遽乗り合っていた荷馬車を降ろしてもらい彼はレネを担いで徒歩での移動を開始した。何やら近くにハイエルフの住処があるらしい。まずはそこへ向かい、少しでも呪いを癒やそうというレネの提案はなるほど理にかなっていた。商人たちの足を止める理由は、自分達には微塵もない。
 呪いは、強力とも微力ともつかない独特の病状を見せた。日中は死んだように動けなくなり、ひたすら渇きを訴えて水分を求める。しかし、いくら葡萄酒を飲ませたとてその渇きは癒えず、刻々と体力を削られていく。日が落ちればいくらかレネも回復の兆しを見せたが、全身を巡る鋭い倦怠感にやがて「眠れなくなった」と小さく漏らした。
 ノヴァークはしばし黙考し、仕方なく山に自生する薬草をいくつか採取するとひとつの薬を調合した。本来は暗殺用に使う眠り薬の類なのだが――普段はそれを、ノヴァークは海綿に染み込ませて携帯している――これをとにかく薄く作れば、死ではなく一時的な眠りだけをもたらすことが出来るのではないか、と考えたのだ。当の本人はといえば、ノヴァークが薬を調合している間も何かと気になるのかあれこれ質問をして来たが、答える義理などない。暗殺任務を主とするリヴデューザの扱う技術は、そのどれもが一級品の『秘密』だ。高級な秘匿なのである。
「おい、ラカトーシュ」
 返事はない。
「寝たか」
 誰にともなく呟き確認すると、ノヴァークは残っていた薬を土に埋めた。木の枝でそっと火の中の器を取り出し、丁寧に灰を払う。それを荷物の中に戻し、今度は代わりに先日仕留めた鹿の肉を彼は取り出した。そろそろ腐敗が始まる頃である。たった二人旅の食糧として鹿一頭は大きすぎる獲物であったが、肉の使い道は食べる以外にもある。ノヴァークはそれをいくつか持って立ち上がると、焚き木から離れた茂みの奥へと投げ入れた。
 腐敗した肉は、容易に獣を寄せ付ける。しかし、そんな彼等も腹が満たされればそうそう人を襲いはしない。獣たちが積極的に『人を殺そう』と思わない限り、その知性が無い限りは、餌さえばら撒けば危険は容易に回避できるのである。下手をすれば、餌がもらえると知り懐いて来る獣さえ時には居る。『人間』たちはこぞって野生獣や魔獣の類を危険視し排除すべきと考えているが、リヴデューザにとってはそうではない。契約の履行に役立つものであれば何でも使う。それが、ノヴァークの持つ確固たる信念のひとつでもあった。
 ひと通り鹿の肉を撒き終え、ノヴァークはレネの居る焚き木の傍へ戻ろうと背後を振り返る。本来ならそのまま自分も仮眠を摂ろうとしたところだったが、その予定は早くも打ち砕かれた。彼の黒い瞳が、異変を察知して大きく見開かれる――焚き火の傍に、もうひとつの火が灯っていたからだ。
「何者だ。精霊か」
 生まれてこのかた、魔術や魔法といった概念には縁の無い身の上である。しかし、そんなノヴァークの目にさえ映る『もうひとつの灯火』は不吉に揺らめき、彼がこちらへやってくるのを待っているようだった。
「名のある精霊であるのならば、ここで一晩を明かすのを許して欲しい。我らは旅の途中なのだ」
 静かにそう言い、ノヴァークは灯火へと近づいた。もちろん、腰の投げナイフに手を添えて、である。
『貴様、リヴデューザか』
 灯火は轟くような声を発した。瞬間、表皮である鱗がピリ、と焼け付くような感覚を覚える。
「確かに、俺はリヴデューザの戦士だ。だが、精霊にまで恨まれるような真似をした覚えはない。今一度問おう。何者だ」
 ナイフを掴む手に力が篭もる。暗殺を生業とするリヴデューザは過去にも現在にも実に多くの者を、暗闇の手に掛けて来た。そのため標的の血族が復讐に走るということも少なくは無いのだが、ノヴァークの言うとおり、リヴデューザが行うのはあくまで『生きているもの』への死の制裁だけだ。形ないものへの暗殺など、見た事も聞いた事も無い。
『この山を抜ければ、やがてアーストライアに辿り着くだろう』
 灯火はやはり、低くそう告げた。
『イレクスへ向かうがいい。待っているぞ……』
 そしてそれきり、灯火は途端に光を無くしその場から消え失せてしまった。急激に聴覚へ襲い掛かった静寂が耳鳴りを起こし、ノヴァークはナイフを握っていた手を離すと耳に添え、灯火が漂っていた場所をしばらく見つめていた。イレクス――アーストライア連合王国とエルネタリア公国の国境にほど近い有名な宿町だ。そこに、先程現れた灯火の正体が居るとでもいうのだろうか。彼は考えたが、それがすぐに無駄な行為であることに気付く。
 考えても仕方の無いことだ。ノヴァークはそれきり怪しげな灯火への興味も捨て、焚き火のもとへと戻るとゆっくり腰を下ろした。リヴデューザともあるもの、他者の恨みには慣れたものだ。仇討ちと称して問答無用に襲い掛かってきた、何人もの戦士を一度に相手したこともある。そしてその度、ノヴァークの戦歴は蓄積の一途を辿ることとなったのだが。死体は何も語らぬ。語ることを許されるのは、いつでも生き残った者達だけなのだ。
 荷物の中から毛皮のマントを取り出し、ノヴァークはそれをきつくまとう。初夏を迎えたとはいえ、人里離れた森の中は未だ冬の残滓をまざまざと見せ付けている。『人間』とは違い、トビトカゲは気温の低下にとにかく弱い。恐らく、北の大国と言われるシュヴァイスラント女王国では生きていくのにも苦労するだろう。否、生きて行けるかどうかすら怪しい。ギルドの仲間の内には冷えた冬の日々に耐えかね、何日も寝込んでしまう者が居るほどだ。この大陸の外――はるか南より伝来したトビトカゲ族唯一の弱点と言っても過言ではない。
 焚き木の火はそのままに、ノヴァークもまた隣人と同様に瞳を閉じた。満足な睡眠などここ数年まともに摂った試しはなかったが、いずれ自分がその『睡眠』を摂る時は、恐らく死へ直面しているであろうことも。彼は良く、知っていた。




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