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01.第一章



 同僚が戻って来た。その一報は、マックスを少なからず動揺させた。王の命を受けて数年前にルキフェニアから国交回復のためにエルネタリア公国へと旅立った学術者レネ・ラカトーシュが、大陸での数々の旅を経て国へ帰還したというのだ。
 その瞬間、マックスは焦りにも似た感情を抱え同僚の元へと向かっていた。病魔を封ずるため幾重にも重ねられた歩きにくいローブも、顔面を覆うマスクの下でしめる肌も、気にすることなく。
 多少なりとも、彼の身を案じる程度の愛着は持っている。それ故に、人目も気にせず彼女は走った。久々に『走る』という行為に支配された身体はすぐにも音を上げが、マックスは浅く早い呼吸をなだめることも忘れ、勢いよく同僚が居る仕事場のドアを開け放った。
「おや、ノックも無しとは君らしくないね」
「……レネ」
 吐息交じりに掠れた声の先では、旅立った時と寸分変わらぬ姿の同僚が立っていた。いつものように頭には厚く細布を巻き、それを右のこめかみできっちりと結んでいる。異国情緒漂う刺繍の施されたベストを着込み、足は旅に適するようやはり細布が巻かれている。
 そして手には、妻から贈られたというあの革表紙の手帳。見紛うことなき、それはレネ・ラカトーシュその人であった。
「いつ、戻って来たのです」
「昨日着いたばかりだよ。いやあ、エルネタリアから南に進路を取ったが予想以上に時間が掛かってしまったね。手紙を何度か送ったが、読んでくれたかい? 返事の出しようもなかったろうが、君への報告は必要だと思ってね」
 まるで数日の小旅行とでも言わんばかり、手帳を扇代わりに揺らしながらおどけて見せるレネに悪気はなさそうだ。とても十年以上国外に出ていたとは思えぬ仕草に、思わずマックスは肩をすくめた。
 旅先のエルネタリアで一時消息を絶つという問題が発生し、しばらく――というには実に長い時間だったが――帰国の途に就くことも難しい状態だったレネ。その彼が、戻って来た。
 恐らくその姿はルキフェニアのあちこちでも確認されたことだろう。ひと月もすれば、レネが戻って来たという噂は院や王宮のみならず国中を巡るに違いない。それ程までに、彼の帰還はマックスにとっても一大事であった。「焦るな」と言う方が難しい。
「少し資料を整理してから、君の所に行こうと考えていた。まさか君の方からこっちに来てくれるとは意外だったよ、小生は果報者だな……何か心境の変化でも?」
「十年振りに戻って来た同僚の安否くらい、私だって問いますよ」
「それはありがたい」
「院や国王へは? それに、奥様も」
「そちらは先に昨日済ませておいた。随分と驚かれたよ、まるで死人が生き返ったような目で見るんだからな……」
「それはそうでしょう。あなたは死んだのだと噂する者も少なからずルキフェニアには居ましたから。……事実、」
「うん?」
「私ももしあなたが死んでいたのなら、次に会えるのは今よりもっと後だと思っていました」
 マックスは深く息をついた。そう、彼女は既にレネが死んでいると考えていたのだ。十年以上という長い間。これほど待っても、彼は帰って来なかったのだから。
「そうか。君は小生のことをよく知っていたんだったね」
 レネはマックスの言葉に納得した様子で頷いた。そしてカバンの中を漁ると、彼は大きな瓶を取り出す。
「これ、お土産」
「土産……? 砂、ですか?」
 マックスが受け取ったそれは、瓶に詰められた美しい輝きを持つ砂だった。一見ただの砂にも思えたが、それを手に取った瞬間、マックスはその砂に魔力の流れがあることを察知する。
「これは……普通の砂では、ありませんね」
「さすがは我が同僚。ご明察」
「魔力が感じられます。これは一体?」
「ラルギネアで手に入れた『魔導書』だよ。かの国は素晴らしい魔導の国だ。実は旅先でちょっと厄介ごとに巻き込まれてね。その助けになるかと思って魔導書を手に入れた」
「厄介ごと?」
「うん」
 珍しく情報を出し渋るレネに、マックスは疑いの目を向けた。なかなか口を開こうとしないレネの次の言葉を待っていると、彼はようやく小さな声で言った。
「実は、エルネタリアに追われているかもしれないんだ。詳細は君も知っているだろう」
「ええ……だからこそ私はエレクをあなたの元に。その後、エレクは息災ですか」
「ああ、彼は見違えたね。君には礼を言わなくちゃいけない。最後に会ったのはエルネタリアを出る時だが、元気だったよ」
「そうですか。なら良かった」
「あと、それだけじゃなくてね……いや、これは落ち着いてから話そう。君にその砂の魔導書を解読してもらいたいんだ。それが終わったら、知らせてくれ。会いに行くよ」
 どことなく覇気の無いレネの姿は、マックスが今までに見たことのないものであった。塞ぎ込んでいるのか、それとも傷ついているのか。とにもかくにも、今は全てを話す気分ではないらしい。
 どうしたと問えば、彼は「体調が良くない」と一言だけ答えた。珍しいことだった。
 マックスは受け取った砂瓶を抱えると、無言のまま一礼してレネの部屋を去った。あのままレネの部屋に居る理由が、これ以上見つけられなかったというのが正しいだろうか。その理由探しをしながら、彼女は自室への道を歩いた。
 レネが己の落ち込んでいる姿をマックスに見せるのは、ともすれば初めてだったかもしれない。どんな時でも「何でもない」「どうにかなる」と笑って見せるのが常である。その彼が、どうして。
 旅先で――いや、エルネタリアで何かあったのだろうか。何もないはずも無いのだが。本人の自覚は無いにせよ十年という長い間、レネは軟禁されていた。その後遺症か。マックスは長い廊下を歩きながら、あくまで論理的に考える。
 状況は複雑だ。固い決意と意志によって引き起こしたこととはいえ、レネを巡る事態は深刻化している。レネがルキフェニア王に謁見したとするならば、その波紋も大きく広がることだろう。レネの身柄は、そして国交はどうなるのか。
 公式には伏せられるだろうが、軟禁されたレネの救出をマックスは独断で計画し行った。その際に、エレクという心強い魔導の弟子が居たことは幸運だった。ルキフェニアを離れることが出来ないマックスにとって、エレクの存在はかけがえのないものだった。そしてその手綱を引いたマックスには、いくつかの思惑があった。
 レネを助けたい。そしてレネを通じて、エルネタリアの詳しい現状が知りたい。それが彼女の一番大きな目的だ。
 マックスがエルネタリア公国――その頃は、まだムスチェルルイと呼ばれていたが――を出奔しルキフェニアへ来てから、既に二十余年の月日が流れていた。故郷がどんな風景であったかさえ、今のマックスには思い出せなくなりつつある。
 それでも、彼女は思い続けていた。厳しくも美しい、あの国の自然を。人々の営みを。
 ルキフェニアへ身を寄せたのは自らの意志ではなかった。両親に連れられて、この国の土を踏んだのが始まりだった。隣国とはいえ、ルキフェニアは異国の地。人間と獣人が共生している社会ではあったが、そこにエルネタリアの竜人が座れる椅子など当時は無かった。
 両親は気にもしていなかったが、己が血の濃い竜人であることを気にしていた彼女は、何とかこの国の空気に慣れようと必死だった。見られてはいけない。他人を刺激してはならない。常に焦燥感と怯えがついて回った。
 結果として、マックスは医術と魔導の道を進んだ。魔導はマックス自身の適性から進んだ道だが、更に医学を修めようとしたのは至極単純な理由からだ。
 己の背中に生える大きな竜の翼を切り落としたい。その為には、安全に『手術』を行う技術が必要だ。そして医者であれば、厚く着込んだローブで皮膚病のように浮かぶ四肢の鱗を隠すことも出来る。素性を知られることも無い――そんな、劣等感に満ちた願望からだった。
 自覚はあった。己が人間に対する劣等感の塊であるということの。何をしても満たされることがない、空虚な存在。
 幸いにもルキフェニアの騒がしくも忙しい環境はそれを誤魔化してくれるが、それでもどこか穴の空いた感覚は無くならない。誤魔化しに抱く感情すら、そこから流れ落ちて行ってしまう。それはマックスへ時に耐え難い苦痛をもたらした。
 そんな穴をそっと埋めてくれたのが、あの飄々とした同僚だった。望むもので満たされることは無いものの、その穴を別の何かで埋めてくれる――そんな魅力が、レネにはあった。
 だからこそ、選んでしまったのかもしれない。選ばれてしまったのかもしれない。
 ふと浮かび始めた後悔に幻痛を覚え、マックスは胸に手をあてた。
「また、厄介なモノを持って帰って来たものだ……」
 渡された瓶を抱え、マックスは自嘲気味に笑う。レネが変わった品を旅先から持ち帰るのは日常的な行動だが、彼はそれ以外にも持ち帰るものがある。
 それは『感情』だ。
 マックスが旅先のレネを案じているように、レネもマックスには一定の愛着があるように見える。長年同僚として共に仕事をしているのだ、ある程度の信頼は持って然るべきだろう。だが、その感情が時に水の如く姿を変えることがマックスには悩ましかった。
 出会う度に変わらない、そしてどこか違うレネがそこには居る。定住者と流浪の旅人。相反する属性を持つ二人の相性は決して悪いものではない。むしろ良いと言えるものだ。それ故に、マックスには後悔がつきまとう。
 何故、この男を選んでしまったのだ――。
 薄暗い部屋の中で、机と瓶のぶつかる鈍い音がする。



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