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12.終章



 その声は彼にしてはこの上なく穏やかなものだった。決して短くない時間を共に過ごしていたレネは、ライデンフロストのその様子には少しながら驚いたようだ。
「……それは正規の方法に則って、ということかな? 小生もまともに管理していたとは言えない身だが……奴隷として買い付けた以上、彼は奴隷として手放さねばならん」
「それはもちろん」
 二人の会話を緊張した面持ちでエレクは眺める。そう、自分は奴隷なのだ。今更ながらに思い出した事実に、彼は徐々に俯いて行く。奴隷という役割の重要さや、その地位についてはエレクも少しながら理解している。ともすれば、今後はレネに付いて旅をすべきだとも頭のどこかで考えて居た。しかし、それがライデンフロストの一言で覆りつつある。自分は、どちらを選び、また誰に選ばれるのか。
「俺、必要ならレネと一緒に行くよ」
「それはありがたい申し出だが……旅が君にとって危険だということは、その……十年前に別れた時も言ったはずだ」
 エレクは固い決意の元に自分の意見を表明したが、レネは迷っているようだった。あくまで助けるためにエレクを奴隷として買ったというレネだが、その管理まではなかなか手が回らないのはこの十年の出来事にも如実に表れている。しかし、エレクは決して自分が捨てられたのではないことを理解していた。レネにはレネの、事情があったのだ。それを再会を果たしたこの場で今更責める理由は見当たらない。
「残念だが、ここでお別れだよエレク」
 しかし迷った末、やはりレネはエレクと別れることを選んだ。その顔には申し訳なさが滲んでおり、少なからず彼もまたエレクと共に居られないことを悔やんでいるようだった。
「せっかくまた会えたのに? 助けに来たんだよ? 一緒にルキフェニアまで行こうよ。隣の国だもん、すぐだよ」
「それがね、そうも行かないんだ」
 状況を整理しているのか、レネは手帳を開くとそこに書き入れながら言った。
「小生は今や追われる身だ、それに君を巻き込むわけにはいかない。君は良い子だ。本来ならきちんと連れ帰って『管理』すべきなんだが……やはりライデンフロストが言うように、彼の元に居る方が安全だろう」
「うん……それはそうなんだろうけど……」
 十年前に奴隷として買われ、それを数日で手放され――そして今また、十年の時を経た再会も、たった数日で終わってしまう――レネを魅力的だと思いこそすれ、薄情な男だとは思わないが――それはエレクにとってそれは非常に残念な結果となった。結局、エレクはレネとライデンフロストの提案を飲んだ。
「わかった。そこまで言うなら後は話を続けて。俺ももう子供じゃない。状況は分かってるつもりだよ」
 エレクは大きく伸びをすると、話を二人に預けた。この先は彼らが取り決めてくれるだろう。そしてしばらくの沈黙の後、ライデンフロストが口を開いた。
「それで。琥珀を買い付けた時の値段は覚えているか」
「確か、金貨70枚だったと思うが」
「それの四倍を出そう」
 突然飛び出した高額な値段に、エレクはぎょっとして二人を見た。金貨と言えば庶民に馴染みのないものだが、その価値は一枚で庶民が一ヶ月贅沢に暮らせる額だ。それが、70枚。自分が十年前そんな高価な値段で買われていた事にも驚いたエレクだったが、その四倍の額を出して身請けをしようと提案するライデンフロストの判断基準にも彼は驚いていた。
「お前、そんなに価値があったのか。普通、奴隷と言ったら金貨50枚前後が相場だぞ」
「知らないよ、決めるのはいつも他人だもの」
 思わず声を掛けて来たノヴァークに、エレクは慌てて反論した。自分の価値など、自分で測ったこともない。いつも自分は他人から選ばれ、そして価値を決められていた存在だ。それは男娼として働いていた子供の頃から変わることの無い事実。しかし、今回については奴隷としての自分の価値にエレクは懐疑的だった。元々奴隷として他人の手を渡り歩いていた訳ではないし、ノヴァークの言う相場とやらでさえ、今知ったばかりだ。
 そうこうする内にレネとライデンフロストは『商談』を済ませ、互いに今後のやり取りについて話し合っていた。そしてそれは、エレクには遠い世界のようにも見えた。もう子供じゃない、大人になった、と豪語するエレクであったが――彼の年齢は、既に二十も半ばだ――そこには、まだ知らぬ「大人の世界」があるように思えた。
「それでは、代金は後日ルフトツァック商会経由で。私が使っている架空の商店名義がいくつかある。そこから送ろう」
「そうしてもらえると助かるよ。状況が状況だ、後払いで構わない」
「レネはこれからどうするの」
 話が区切られたのを見計らい、エレクはレネに尋ねた。彼は自分の身が取引されていることよりも、今はレネのことの方が心配だった。レネはこれから、どうするのか――ルキフェニアに戻るのだろうが、その道はレネが言う通り、そしてエレクの考えとは違い、険しそうに見える。
「このまま大陸南部を経由して、ルキフェニアに戻ろうと思っている。アーストライア、そしてラルギネア……道は長そうだな」
 煙草をふかし、レネが言う。そして彼は焚き火に照らされた顔に苦笑を浮かべた。
「まぁ、元より流浪の身。エルネタリアに居た十年に比べれば、軽いものか」


 次の日の朝、レネは旅支度を整えるとイニマ湖を去って行った。夜の間に契約を交わしたのか、エレクとの契約を終えたノヴァークが今度は彼に付き従う。役目を終えたユランも、北のヘルハイム共和国を目指して飛び立って行った。
「みんな行っちゃったね」
 静かにそよぐ風を頬に受けながら、エレクは呟いた。その声は湖の水面のように穏やかに、波紋を広げて消えていく。別れはいつも唐突だ。しかし彼は、同時に安住の地も手に入れていた。ライデンフロストである。
 隣に佇むライデンフロストが、エレクの言葉を受けて慰めるように肩に手を置いて来た。それは優しく、愛情に満ちたものだった。
「これからは私の傍を離れないでくれ」
「うん……」
 静かに抱き寄せられ、エレクはライデンフロストに身を任せる。幼い頃より男娼と客として、そして掛け替えのない伴侶として接して来た二人は、十年の時を経て再びその身体を確かめ合う。
「何はともあれ『おかえり』、琥珀」
「……『ただいま』」
 ただ二人残った湖畔に、穏やかな風が吹く――。

(了)




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