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02.第二章



「エレク・クーロン?」
 名前を呼ばれた。その威圧的な声色に、エレクは思わず立ち上がり傍らのミランダを後ろへ押し下げた。声のした方へ視線を巡らせば、そこには目深くフードを被った一人の人物がいつの間にか立っていた。
「エレク・クーロンだな?」
「こいつ……『院』の役人よ」
 細くしなやかなエレクの腕に守られながら、ミランダが耳打ちした。
 今でこそ大きな抗争もなく、半ば黙認状態とも言われる奴隷市場だが、王国による介入が全く無いわけではない。時折こうして『役人』が鋭く目を光らせながら、行き過ぎた不正行為や不穏分子の芽を摘み取りにやって来るのだ。役人の目に止まり捕まれば、大抵はそのまま連れて行かれ、そして摘まれた者はそれきり帰ってこないという。
 噂によれば、院で殺されるか、もしくは古の学問である『錬金術』の実験台にされるのだろうと市場では恐れられていた。それがまさか今、自分の身に降り掛かることになろうとは。エレクの中で、危機感が波のように寄せて来る。
「今日はもう客を取る気はないよ。特に、あんたらみたいなお役人はね」
「……エレク・クーロンに違いないか?」
「人違いだ」
「奴隷市場に琥珀色の美しい竜人が居ると聞いた。君がそうだろう」
 役人は布で覆った顔を僅かに傾げ、低く篭もった声を発した。得体の知れない訪問者に、エレクの短く切り揃えられた髪の先が、僅かに逆立つ。
「彼が言うには王都に居るはずだとのことだったが……珍しいな、あの男が情報を違えるとは」
「エレクやばいよ……相手にしちゃ駄目だよこんな奴」
「わかってる。ミランダ、指輪はしっかりはめた?」
 エレクの問いに、ミランダが小さく頷く。そしてそれに無言で頷き返しエレクはその薄い金色――琥珀の瞳をきつく閉じると、それまでミランダを守るために開いていた腕を突如、夜の闇へと突き出した。
「!」
 瞬間、まばゆい閃光がエレクの指先から迸った。自然のそれとは違い、真横に走る雷が一直線に役人へと向かっていく。
「ミランダ! 走って!!」
 そしてすぐさまミランダの肩を押し、エレクは叫んだ。それと同時に、外套に隠していた竜の翼を大きく羽ばたかせ、地を蹴った身体を宙に浮かせる。そのまま彼の身体は勢いに乗って上昇し、高く舞い上がるとあっという間に住居の屋根へと辿り着いた。
「エレク!」
「娼館に戻って! あとは女将さんが何とかしてくれるから! 行って!」
 地上から不安げに見上げて来たミランダになおも叫びながら、エレクは役人を睨みつけた。逃げなくては。本能が、そう言っていた。
 やがてミランダの姿が市場の人混みに消えるのを見届け、エレクもまた屋根の上を駆け出した。瓦のぶつかる乾いた音がいくつも連なり、砕け、粉となって暗闇に消えていく。月明かりは妙に寒々しく、彼の不運を嘆くか嘲笑うかのようにも見える。
 屋根から屋根へと飛び移り、時には翼の浮力を利用してエレクはひたすら走った。目指すは市場最北部――ごろつきどもが多く潜む、危険な一帯だ。ここに向かえば、国の役人などすぐに撒くことが出来る筈だ。
「待て!」
 予想通り、役人はエレクの後を追って来た。
「金貨五枚積まれたって、あんたなんかと寝る気はないよ!」
 ミランダを追わなかったのを見るに、どうやら本当にエレク本人に用があるらしい。
「ほんと、下品な奴だな。売り子の買い方がなっちゃいない」
 意地の悪い笑みを浮かべ、エレクはそう吐き捨てながら市場を抜けた。そして寂れた貧民街へと逃げ込み、素早く後ろを振り返る。この一帯は浮浪者や追い剥ぎが多く、慣れない王都の人間などたちまち食い物にされてしまうだろう。もちろんその危険はエレク自身にもあったが、こちらには地の利がある。
 屋根の縁に腰掛け、エレクは周囲に危険が無いことをしっかりと確認し、ようやく翼をたたんで息をついた。仕事柄、多少の危険は慣れたものだが、まさか国から追われることになろうとは。確かに、胸を張って「真っ当に生きている」とは言い難い生活だ。しかしその生活は故郷であるエルネタリア公国に居た頃よりも大きな驚きと新鮮さに満ちており、悪くは無いと感じているのもまた事実である。
 実際、エルネタリアとは違ってルキフェニアでは物珍しい竜人・エレクの姿が、この市場に訪れる金持ちたちの目を大いに惹きつけるのは時間の問題だった。そして、そんなエレクに金を落とす連中は後を絶たなかった。それはこの市場にやって来た頃から変わることはない。
 『琥珀』――そう呼ぶ者も少なくはなかった。美しい宝石そのものだ、と。それをエレクは「下らない」とどこかで感じながらそれをひた隠し、表面上は媚びた笑みを浮かべながら金持ちたちと付き合った。自分をその名で呼んで良いのは、故郷エルネタリアの大事な顧客だけだ。ルキフェニアの地で自分がそう呼ばれる度に、エレクの心は少なからず擦り減っている。
 あの声を聞かなくなって、もうどれくらいの月日が流れたのだろうか。客としてエレクに接しながらも、金銭的関係と言うには到底説明のつかない愛情を一身に注いでくれた、あの少し偏屈な『客』の声を。
「金貨十枚でも、足りそうにないか?」
 ふと、エレクの夢想を切り裂く声がした。もちろん、彼が思い浮かべていた懐かしき声ではない。慌てて見下ろせば、眼下の道には先程の役人が一人佇んでいる。
「よく追いついたね。ここがどういう所かわかってるの? 危ないよ、お役人さん」
 エレクは油断のならない表情で役人を睨みつける。てっきり、この区画へ逃げ込めば役人など簡単に振り落とす事が出来ると考えていた。しかし役人は運が良かったのか、道程で何の障害に遭うこともなくエレクの元へと再び現れた。
 これは一筋縄では行かなそうだ―—エレクの右手に、再び雷の小さな閃光が走り始める。
「私としても、危険な橋を渡るのはよろしくない。だから、大人しくこっちへ降りて来てくれないか。いつまで鬼ごっこを続ければ気が済む?」
「嫌だね。そっちがその気なら、力尽くで落としてみろってんだ」
「力尽く……? そうか。痛いのがお好きかい、商売人?」
「!?」
 突如、役人の右手が輝いたと思いきや、エレクの足元が爆発とともに崩れた。衝撃を感じる間もなく、彼は翼も広げたままに土の上へと落下する。
(こいつ、魔導師か……!)
 落下の衝撃で強かに打った頭を抱え、エレクはその場にうずくまった。先程受けた石の傷が開き、血が滲む。
「やっと、捕まえた」
 やれやれ、とエレクの襟元を掴んで引き上げ役人が言う。朦朧とする意識の中、役人の目が笑っているように見えた。役人はそのままエレクへ馬乗りになると動きを封じ、布で隠した顔を近づけて言う。
「私の名前はマックス・ゾイファー。覚えておきなさい、少年。そして……君はこの名前に覚えがあるはずだ」
 マックスと名乗った役人は懐から一枚の手紙を取り出すと、それをエレクの胸に叩きつける。
「レネ・ラカトーシュ。私の同僚であり、君の『主人』だ」
「レネ……ラカ、トー……シュ」
「そうだ。君をこのルキフェニア王国へ送り届けた張本人だ。知っているだろう」
 いまだはっきりとしない意識の中、エレクは問われた名前を途切れ途切れ口にした。その名前を聞いたのは、実に一年ぶりのことであった。
「……ここは危険だな、移動しよう」
 先程の爆発音を聞きつけてやってきた浮浪者たちの姿を見やり、マックスと名乗った役人が舌打ちした。そして素早く後ろを向いて口笛を鳴らすと、一頭の馬が駆け足でやって来る。
「乗りなさい」
 訳も分からず促され、エレクはマックスに抱きかかえられる形で馬に乗せられた。そのまま手綱を引き、役人は向かう方角を確かめると一目散に貧民街を抜けていく。エレクの意識は未だ覚醒しない。先程ミランダを逃がす為に放った雷の力が余りに大きく、時間差を伴って肉体への負担が掛かっているのだ。
「ここは君が居るべき所ではないよ、少年。稼ぎは良かっただろうが、彼も君をそうしたくてルキフェニアに送ったのではない」
 薄れていく視界の中、耳元で囁かれた言葉は優しかったが、それを感受しきる前にエレクの世界は光とも闇ともつかぬ色で塗りつぶされ、次第に閉ざされていくのだった。

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