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04.第四章



 その後、突如として現れた私と同じ名前――通称はレネ・ラカトーシュというそうだ――の老人は何日かずっと、ばば様やイヴと夜遅くまで話し合うことが続いた。驚いたことに、それ以来、イヴが私の傍へ寄り添うことも無くなった。時折話し合いを続ける彼らに出くわすとイヴは一瞬こちらを見るが、すぐにまたぎこちない動きでそれを老人へと向ける。そして、視線はそのまま固定される。
 しかし、驚きや困惑ばかりではなかった。閉じこもりがちな私に、初めて友人と呼べるものが出来たのだ。そう、あの老人を乗せてこの修道院にやって来たドラゴンだ。
 ばば様にやれ青二才だの坊やだのと言われすっかり持ち前の威勢を砕かれてしまった彼は、私と会話をする頃には既に大人びた仮面を取り外していた。ばば様の言う通り彼はドラゴンの中でもまだ少年期と呼ばれる過程であり、人間で言えば十代の子供だという。
「ねえ、レナは生まれてからずっとここで暮らしてるの」
 好物だという葡萄酒を樽から少しずつ舌で舐め取りながらユランは言った。
「そうよ。父も母も私が幼い頃に死んだと聞かされた。それから、お前は普通の人間じゃないから……自分が何者なのか、何をすべきなのか。それが分かるまでは絶対に一人で修道院の外に出るなって」
「鏡うつし、だからだよね」
「そうも言われた。でも何のことかさっぱり……修道院の図書室の本を洗いざらい読んでもそんな事、ちっとも書かれてなかった。『鏡を割って出て来た』だなんて、作り話にも程があるわ」
「……レネの言うこと、あんまり本気にしない方がいいよ。きっと、何かいい方法があるはずだよ」
 当人よりもなお不安げな様子でユランは何度か大きな瞳を瞬かせた。
「あのね。君が生まれるほんのちょっと前の話。このエルネタリアっていう国の首都で大きな戦があったんだ。僕もその時、前線で戦ってた。あと、ずっと君のお守をしてたっていうあの騎士もね」
 あの騎士、というのはイヴの事を言っているのだろう。そしてその戦というのは……あの悲しみに暮れた絵画の中にあるルメルグラッドの厄災のことだ。
「あの時、ようやく。僕らは争いの種を無くす事に成功したんだ。種を無くすってことは、もう花も咲かないってことだけど……でも、この国の王様はそれでいいって考えてた。人間にも竜人にもドラゴンにも……いいことないから、って」
「先公ライオネス様ね。国を作って、国を守って死んでいった」
「僕、彼に聞いたことがあったんだ。お前は一体誰の味方なんだ、って」
「……」
「最後にやっと、答えてくれた」
 ユランは溜息をついたようだったがその呼気は人間の私にとって随分と大きいもので、束ねた髪が突風に流れる。
「確かに彼は父親だった」
 父親、と評したユランの言葉が何を含んでいたかは分からなかった。しかし彼の満足そうな表情を見るに、求めた答えは得られたのだろうと思う。
「おいユラン、供の礼は出すと言ったが修道院の葡萄酒を飲んでも良いとは言っておらんぞ!」
 遠くから声が聞こえる。レネだ。
「だってレナが飲んでいいって」
「あの、葡萄酒を作るのも私たちの仕事ですから……」
「本当に何も知らんのだな、お嬢さん」
 心底呆れたといった風で、レネは皺の寄った口元をなおも歪ませた。
「ドラゴンの食事量を分かって居るのかい? こいつは大昔に小生がワインを飲ませたばかりに、人間顔負けの酒豪になってしまった。すっかり味をしめてしまったのだよ。二日三日で、放っておいたらゼルカリンゲン中の酒を一気に飲み干されてしまうぞ!」
 口早にまくし立てるレネに、ユランがまあまあと前足を振る。
「それで、話は固まったの? ずいぶん長い間籠もってたみたいだけど」
「……楽天家だな。『これ』が済んだら、次はまたいつ会えるかも分からんのだぞ」
「『いつ』だなんて、僕らにとっては些細な問題さ。会おうと思えばいつでも会える。人間たちは先の戦いから何回季節が過ぎた、って言うけれど……あっという間だよ」
 それは子供じみた理論にも思えたが、恐らくユランの本心でもあっただろう。彼らドラゴンが過ぎる時の流れは、私たち人間とはあまりに違う。
「人間ってかわいそうだね。転源の流れに身を任せることが出来ないんだから」
 そして「ああ、レネは違うんだっけ。ごめんね、最後のは独り言」と付け加えたきり、彼はまた目の前の葡萄酒をすすり始める。
「私は、死ぬの?」
「正確に言えば、生まれ直さなくてはならない。そこに苦痛が全く無いと言えば嘘になる。しかしこのままでは小生に未来は無く、そして君にも君たらしめる過去は無い」
 レネは続けた。
「それに君は、生まれてくるまでの間……無い過去を補填するために実に色んなものと混じり合ってしまったようだね。付着していると言うべきか。それを綺麗に落とさなくては……いや、還さなければならない。君はあまりに似過ぎている」
「誰に?」
「エリューシャ姫」
 その口から紡がれた名前に、私は自分の肩が跳ね上がるのを感じた。エリューシャ……この国の始祖フェルニゲーシュの妻の名だ。しかし、そこには齟齬もあった。エリューシャという女性を指して「姫」と呼ぶ人物など、この国には存在しない。何故なら彼女は私たち『エネタルの民』を産み落とした母であり、また私たちが彼女を認識する時、エリューシャとはフェルニゲーシュの妻、妃を意味するからだ。
「私が? 初妃に? 何を言っているの?」
「無理もない。姫の正確な肖像画など現存しておらん。国が国としての機能を完成させる前に、逝かれてしまったからね……長らく続いたムスチェルルイ王国をはじめ、この地に残っているのはどれも記憶と想像の産物だけだ」
 目元の皺を更に深く刻みながら、レネはどこか懐かしんでいるようだった。彼は言った。私には過去が無いと。その『過去』がどれほど昔のことで、どれほど鮮明であるかはレネの語り口にも明らかだった。彼は嘘つきなのではない。語るその物事があまりに遠く、私たちのように現在を生きる者にとっては霞んで見えてしまうのだと。この時、ようやく私は知った。
「貴方は知っているのね。私が……私たちが、何を、どうすれば良いのかを」
「最後に決断をするのは君だ。今の小生は、過去を語ることしか許されていない。未来は、君の胸の内にある。君もまた、未来を決断することで己が何をすべきかを知る」
 静かに、そして軽やかな口調をもって伝えられた言葉が何故か重くのしかかる。しかしそれは自由を奪う枷ではなく、翼となって私の背に新たなものを与えようとしていた。



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