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03.第三章



 それは翠の影のようにも見えた。風となって飛来する、鳥の姿が上空にある。しかしそれが鳥では無いと気づいた瞬間、その影は私の居る吹きさらしの通路を目掛けて、あまりに速く接近して来ていた。
「下がれ」
 そして更なる驚きが私を襲う。しかしそれは飛来する影ではなく、隣で同じようにして上空を見上げていたイヴだった。
「下がれ、危険だ。あれはドラゴンではないか」
 その声は、とても魔法で生きているなどとは言えないほどに深く、肉感のあるものだった。
 イヴが声を発するのは、これが初めてのことだった。それまでずっと、私が修道院の禁書庫に忍び込んだ時でさえ――悪巧みをする私に何一つ意見することもなく、またそれが露呈してばば様に私よりもきつくお叱りを受けた時でさえ――イヴは一言も喋らなかった。そういう、生き物なのだと思っていたのだ。
 瞬間、イヴは私をその長い腕で後ろに追いやると素早く腰の長剣を抜いた。飛来するあの影が発する音とはまた違う、鋭く風を切り裂く音が鳴る。やがてその風切り音同士が間近に迫り、翠の影は迷う事なく修道院の中へと突っ込んできた。
 驚くべき速度で飛来したドラゴンが、洞穴の外壁に深く爪を立てて舞い降りる。その大きな頭をぬっと柱の間から覗かせ、ドラゴンは低い鳴き声と共に息を吐いた。
「その長剣、見覚えがあるな……血を求める怨鳴がうるさくてかなわんぞ。さっさとしまえ」
 老年に差し掛かる頃だろうか。突然やって来たドラゴンが放ったしゃがれた声の響きは人間の老いを彷彿とさせた。
「去れ、此処は聖域だ。貴様のような野蛮な生き物が来るべき所ではない。目の敵たるフェルニゲーシュの祠でも荒らしに来たのか? ヘルハイムの竜よ」
 再び剣を構えたイヴの態度は明らかな敵意に満ちていた。まさか、これがばば様の言う私の守護者としての姿なのだろうか。高飛車で、憎しみをまとう高慢な騎士……それは、私の知るイヴの姿では、最早なかった。
「待って、待ってイヴ」
 一触即発にも思えたその場を平和的解決へ導こうと、私は思い切ってイヴの横からその手を掴んだ。すると、ドラゴンの喉元からも同時に制止の声が上がった。男の声だった。
「待て、待てユラン」
 ドラゴンの首につけられた、巨大な首飾りのようなものの中から声は聞こえた。か細いが、芯のある声だった。ちょうど人が一人ほど入れる大きさの箱の蓋がゆっくりと開き、弱々しい動きで細い腕が宙を掻く。現れたのは、年老いた旅人風の男だった。
 老人は言う。
「ようやく見つけたよ、『レナトゥス』……まさかこんな灯台下暗しであったとは誰が予想しただろう? てっきり、小生と同じく流浪の旅をしているものだと思い込んでしまっていた」
 広い帽子のつばを掴んでぐいと上げて見せた旅人の、山瑠璃色の瞳が光を受けて煌めく。それはこの地に二つとないと言われた、私の持つ瞳の色であった。
「……本当に?」
 それまで黙り込んでいたイヴが、茫然と呟いた。そして、ぎこちない動きで私をその赤いマントで覆うなり剣先を前へ突き出して一歩、二歩と後ずさる。
「イヴ?」
 イヴは言った。前方を睨みつけるままに。
「あなたの名は何という」
 それは小さな声だったが、私に問われたものか、それとも突然の来訪者に向けられたものかは分からなかった。
「……え?」
「ヤルガ・バルバ! 此方へ! 『鏡うつし』が二人などと、納得の行く説明をして貰えるのだろうな!?」
 突如声を荒げてばば様を呼ぶイヴに、私はその手の中で震えた。イヴの身体は金属の鎧に覆われて冷たかったが、彼の動揺と怒りにも似た感情は熱風となって周囲を駆け巡っていた。
「なんだい、20年ぶりに喋ったと思ったら……癇癪持ちなのはずっと変わらないね、あんたも」
 やがて騒ぎを聞きつけた修道士たちが窓際の通路に集まり、外壁に張り付いていたドラゴンの姿を見るなり悲鳴を上げてまた散って行った。その中を、ただ一人悠然と歩くのは先ほど声を荒げてイヴが呼んでいたこの修道院の長――ヤルガばば様だった。
「なんの用だい、フェルニゲーシュ様に文句でも言いに来たかい? 青二才のドラゴンや」
「青二才……っ!?」
 ばば様の言葉に、ドラゴンは狼狽した。その小さな身体で巨大なドラゴンに立ち向かうばば様の姿は、久しく忘れていた――彼女が古き昔よりこの修道院の管理を任されているという筋金入りの指導者の――凛々しき姿だった。
「あまりヒトを甘く見るんじゃないよ。その様子だと生まれてまだ50年も経っちゃいないね? なら尚のこと、アタシの方が年上さ坊や」
 にんまりと笑みを浮かべたばば様に、ドラゴンは図星を突かれたのかぐうの音も出せず静かになった。やがて「我らにも、先に生まれた者への敬意を払う文化くらいは持ち合わせている」とその大きな身体に似つかわしくない小さな声で呟く。どうやら、ばば様より年下というのは本人も認めるところらしい。
「いやいや、変わらず強気で何よりだよヤルガお嬢さん。小生のことは覚えているね? そこの娘に用があって来たんだよ。少しの間このユランと一緒に厄介になっても構わんだろうか」
 すっかりしょげてしまったドラゴンに代わり、その喉元から顔を出した老人がふんぞり返るばば様を呼んだ。するとばば様は驚いて老人と私とを交互に見比べ、唸り始めた。
「どういうことだい。アタシは『レナトゥス』が生まれてからこの20年、ずうっと育てて来た……それなのに、今になってどうしてアンタが現れる? この娘は正真正銘の『鏡うつし』さ。アンタがそうだったように、ゼルカリンゲンの鏡を割って現世に現れた。『鏡うつし』は、一人じゃなかったのかい?」
「彼女の名前は未来。小生はその過去だ……分かたれてしまったんだよ、『我々』は」
 ようやくドラゴンから洞穴の中へと乗り込み、老人は大きく伸びをして言った。
「それが証拠に、彼女は……イーヴァインのことを知らない。恐らく彼がどんな生き物なのかも分かっておらんだろう。なあ、ノスフェラトゥ?」
 聞き慣れぬ名前でイヴを呼ぶその老人は旧友との再会を喜んでいるようだったが、それはどこか白々しいものであった。そこに浮かんでいる笑顔には、一見何の疑惑も感じられない。しかし、どこか直感的に。あの老人の目的が再会そのものではないと確信する。イヴもそれを薄々勘付いているのだろうか。私を抱える左手に力がこもり、右手の長剣が僅かではあるが小刻みに揺れていた。
「彼女をどうするつもりだ、主(あるじ)」
「ほう、小生をまだ主と呼んでくれるか。ならば、この罪の無い可哀想な老人の願い事を叶えてやってくれ」
 見てくれこそ老人の姿をしている来訪者だったがその精神は若く、私と同じかそれより少し年上といった雰囲気だ。
「今一度……逝かねばならんのだよ、『我々』は」
 そして山瑠璃色の瞳を細めて、老人は言ったのだ。
「生まれ直そう、レナトゥス」



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