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05.第五章



 やがてその足が湖に入った瞬間。ぱしゃり、と水音が鳴った。レネは慎重に、ゆっくりとその中へ身を沈めて行く。最後に彼はユランへ「頼んだよ」と念を押すと、そのまま『フェーデ』の中へ消えて行った。
 静寂が湖畔を支配している。ふと鳥の声が響き、その音色にはっと我に返ったユランはレネの残した荷物と未だ波打つ湖面を交互に見つめた。
「行っちゃった……大丈夫かな」
「どうだろうね……」
 茫然と呟くユランへ、エレアスもまた小さく声を漏らす。
「僕、じじ様に『見届けろ』って言われたからここで待つよ」
「そう……もし、何かあったら教えて。力になるから」
「うん、ありがとうエレアス」
 友の厚意をありがたく受け取り、ユランは去りゆくエレアスを見送った。そして彼は穏やかな陽光の中、木々に包まれながらレネの帰りを待つ。しかしレネは一刻、また一刻と時が過ぎてもなお、湖の中から出て来ることはなかった。
 やがて日が傾き、夕が訪れる。今日はここで眠ろうと考えながら、ユランはふと、レネの残していった荷物を見た。そこには大きな――と言っても、ドラゴンにとってはとても小さなものだが――革の背負い鞄があり、帽子や手帳を始めとした細々としたいくつかの道具が散らばっている。それらに興味を持ったユランは鞄をそっと爪でつまみあげると、傷をつけないよう器用に蓋を開けた。
「わあ、すごい」
 鞄の中から地面へ落ちる小物たちを見て、ユランは思わず声を上げた。そこには、ユランの知らない様々な『ガラクタ』の世界が広がっている。だが、それらはユランにとっていささか小さ過ぎた。
 どうにかしてレネの道具を観察したいユランは、かつて魔竜であるスヴァローグに教わった『変化』を試してみることにした。己を戦竜と称するユランだが、魔力が全くないという訳ではない。惜しむらくは、その才能が無いだけだ。
 『変化』をするためにまず最初に行うこと、それは忘却だ。ドラゴンたる己の姿を、そして己自身を忘却し、新たな表象を思い描く。レネと同じ、ヒトの姿をユランは念じた。二足で直立し、鱗を持たず、角も持たず、そしてドラゴンにとっては小さく脆弱とも思える存在。
 やがて心の中で自分と呼ばれるものが欠片となって散っていくのを感じながら、彼はそれに身を任せ忘却と想像を同時に行う。どうか上手く行きますように――そんな願いを込めて、ユランは『変化』した。
 急に視界が変わり、地面との距離が近くなる。若干の酔いを覚えながら、ユランは小さくなった自分の身体を確かめようと湖を覗き込んだ。するとそこには、表面に鱗の入り混じった、ヒトともドラゴンとも言えない姿が映っている。辛うじて翼を消すことには成功したものの、なんとも言えないその姿を見たユランは大きく息をついた。
「……まあ、いいか」
 エルネタリア公国に数少なく存在するような、血の濃い竜人の姿だった。ある意味では成功と言えるかもしれない。しかし、今回の『変化』の目的は見てくれの良さではない。身体を小さくすることだ――ユランは思い直し、レネの荷物へ歩み寄った。鞄からこぼれ出た物を、彼はひとつずつ手に取っては珍し気に眺める。旅に必要な保存食や飲料、替えの服、そして人間たちの通貨。それはドラゴンであるユランにとっていずれも馴染みのないものだ。
 しかし一通りレネの道具を見渡したユランは、やがてそれらへの興味を失った。意味が分からなければ、この様な人間の道具への興味も昇華する事が出来ないと知ったからだ。彼は諦めるように道具を抱えると、それをひとつひとつ鞄の中へ戻していった。
 そしてユランは元通りになった――と、彼自身は満足げだが決してそれは整理整頓されたものではない――鞄を湖に落ちないよう湖畔に引き寄せ『変化』を解いた。己のあるべき姿を思い出し、精神から身体へと固着させる。するとユランの身体は再びドラゴンへと変わった。
「これでよし」
 元に戻った巨大な身体を湖畔に横たえ、ユランは大きく息をつく。このままここでレネを待つとエレアスには言ったが、果たしてレネは帰ってくるのだろうか。帰ってくるのだとして、それはいつになるのか。
 数刻で戻って来るのならば、早い方かもしれない。下手をすれば、何日も湖の底『フェーデ』から戻って来ない可能性もある。ユランは不安だった。これまで『フェーデ』という存在は『決められたもの』であった。その目的も、役目も、在り方さえも。それが、今やレネが潜ったことで?揺らぎつつある。
 そしてその揺らぎは徐々に大きくなり、ユランの死生観そのものにまで波紋を広げる。ドラゴンの生きる意味とはーーそんなことまで、彼はここ数刻の間に考えるようになっていた。
 興味と言うには、随分と殺伐としたものだ。死とは、そして生とは。それを忘れながらに繰り返すとは、一体どんなことなのか。聞くところによれば、レネもまた転源に似た輪廻を続けているらしい。彼は、ドラゴンたちの死生観をどう見ているのか。
 そうしてしばらく、ユランは己の生命の在り方とレネの輪廻について思いを巡らせながら過ごした。途中で空腹に気付き、手近な所で食料を得てそれを食べる。時に眠り夢を見ながら、彼はレネを待って丸二日ほどを消費した。
 変化が訪れたのは、日が二回沈み月が二回昇り、そして三度目の太陽が現れた時だった。湖の水面が、不規則に揺れだしたのだ。
 眠気に閉じていた瞼を慌てて開き、ユランは『フェーデ』を見やる。すると、いつの間にか湖畔には草へしがみつくようにして湖から上がって来たレネの姿があった。
「レネ!」
 思わずユランはその名を叫び、湖へと近付いた。口で器用にレネの身体をつまむと、彼は一気に引き上げる。ばしゃり、と大きな水音を立ててレネは地上へと引き戻された。
「……っ! げほっ、げほっ」
 全身を水に濡らしたレネは、ユランに引き上げられるなり大きく咳き込んだ。どうやら、呼吸が苦しいらしい。しばらくそうしてレネは水を吐き続け、やがてユランの存在に気付くと顔を上げて息を切らしながら苦笑いした。
「やあ、ユラン……参ったね、失敗だよ。まさかあんなものがこの『フェーデ』の底に居たなんて……生きて戻れただけでも幸運だな」
「一体何があったの?」
「あれが、エレアスの言っていた『エブラスカ』なのか……?」
 ユランの問いに答えるでもなく、レネは顔を俯かせながら呟いた。
「どうやら、少し混乱しているようだ」
 頭に巻いた布を解き、レネは水に濡れたそれを絞る。緑の草地に水がしたたり、小さな音を立てた。その後もしばらく彼は一人悩み、己の身に起きたことを深く考えている。そしてレネは長い沈黙の後、口を開いた。
「今一度、エレアスに話を聞いてみた方が良さそうだ」
 その提案は至極真っ当なものだった。このヘルハイム共和国において、現状彼らが持つ最も有力な情報源は『フェーデ』に潜ることを習慣にしているというエレアスだ。彼は唯一、その真相に近いドラゴンとも言える。
「そうだね。僕もエブラスカについては聞いてるけど、詳しくはないから」
 ユランもまた、レネと同じ事を考えていた。レネが『フェーデ』の底で何を見、そして何を体験したかはまだ分からないが、それはエレアスと話すことによって明らかになるだろう。

 ユランは背にレネを乗せ、エレアスの元へと向かった。ヘルハイム共和国の北東、国内の鉱山から産出する大きな石の六角柱・リッテンコーラン(月光草)が聳える一角だ。時刻は折しも、ちょうど夜を迎える頃だった。
 リッテンコーランは日光を蓄え、夜になるとその光を解放して淡く輝く。その見事な景観に、ユランの背に乗るレネが感嘆の声を上げた。
「いやあ、これは素晴らしいね。ゼルカリンゲンの鏡ヶ原にも劣らぬ美しさだ」
 幻想的な光の調和。夜の青と星、そしてリッテンコーランの淡い光が混じり合い周囲は聖域とも言えそうな程に美しく、また静かであった。
「すごいでしょ。僕、ここであの光に囲まれて星を眺めるのが好きなんだ」
 翼を大きくはためかせ、ユランは巨大なリッテンコーランの頂上へと飛んでいく。すると、彼はすぐ目当ての場所にエレアスの姿を発見した。エレアスもここで、星を見ていたらしい。
「こんばんはエレアス。こないだの話通り、助けが必要になったから来たよ」
「やあ、ユラン。それに、旅人さん。無事だったんだね。フェーデはどうだった?」
「なんとも不可思議な空間だったね。『アレ』は、一体なんなんだい」
「エブラスカのこと?」
「……そう、多分そう」
 フェーデの底に在る、なんとも形容し難い存在についてレネは言葉を濁した。
「エブラスカは、あなたの前にどんな姿で現れたんだろうね……僕の他にエブラスカを知っているのはほとんど居ないから、興味があるな」
「それについては、その……まぁ、君たちになら言っても問題ないか。君たちがエブラスカと呼ぶ存在だと思うが、『アレ』は人の姿をしていた」
「僕らとは違うの?」
 レネの思わぬ発言に、ユランは驚いて問うた。ヘルハイム共和国とそこに住むドラゴンたちにとって重要な役目を持つ存在なのだから、てっきりそれもドラゴンであろうと彼は考えていたのだ。
「エブラスカはエブラスカだよ。その姿は見る者によって規定される。レネさんの場合は、そうだったんだね」
「そういうことか……どおりで似ていると思った」
 エレアスの答えに、レネは独り言のように呟く。彼が誰の事を指しているのかは分からなかったが、どうやらそれはエブラスカを規定するに足る――レネにとって、それは重要な位置を占める――人物であったと想像出来る。
「『あなたの中にある子をここへ還す事は出来ない』と言われたよ。何か許しが必要なのか――まだ何か足りないものがあるのか……」
 移りゆく星空を見上げ、レネは嘆息した。もともと可能性は低いと考えていたが、それがやはり叶わぬ目的であったことを実感し、彼は少々落ち込んでいるようにも見えた。
「やはり、戻らねばならんようだな」
 そしてしばらく沈黙の後、彼は呟いた。その声は決意を滲ませ、空に消える。苦渋の決断とも言える表情が、レネの顔には浮かんでいた。



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