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01.第一章



 何かが来る。
 そう言ったきりすっかり怯えて縮こまってしまった友は、ただでさえ小さな身体を雨の中で更に小さくさせていた。そしてその背中に、そっとユランは寄り添う。分厚い鱗越しでも、友が震えているのがわかる。ユランは出来る限り優しく、前脚で目の前に横たわる小さな身体を撫でた。
「トリグラフ、どうしたの」
 震える友に、ユランは声を掛ける。
 雨が降り出す前に大慌てで作った木枝の屋根は、形こそみすぼらしかったがしっかりと雨風を防いでくれていた。しかし、雨がもたらす気温の低下と時折鳴り響く雷だけは避けられない。稲光が空に瞬き、それに少し遅れてゴロゴロと雷鳴が轟く。その音は大きく、しばらく空の怒りは収まる様子を見せなかった。
 ユランは最初、トリグラフが雷に怯えているのだと思っていた。だが、それは違った。「何かが来る」と、トリグラフが雷の鳴る方向の逆に頭をもたげて言ったからだ。
 ヘルハイム共和国東部・サザスハイムの一角。ドラゴンたちが好んで食べる『栄光の金林檎(プル・オーウェルング)』の森のさらに東――時折魔獣が侵攻して来ると言う未開地区のすぐそば、この場所を住処とするドラゴンが居る。「オラグ」と呼ばれる世代の中のふたつの命、トリグラフとユランである。彼らは出会ってまだ間もない友人同士だったが、その立ち位置は揃って悲運極まりないと言ってもよいだろう。
 竜の国、ヘルハイム共和国を構成するいずれの種族にも属することが出来ないまま成長したドラゴンたち。その世代を、ヘルハイム共和国のドラゴンは「オラグ」と称し他の世代と区別している。その意味は不全や未完成といったもので、「オラグ」は俗に半端者とも呼ばれ他の世代から蔑まれている。トリグラフとユランは、はそんな悲しき世代に属する若きドラゴンだった。
 奇形竜であるトリグラフはその特異な外見と精神の歪みから、生まれてすぐにこの地へと追いやられた。最初こそ付きっきりで世話をするドラゴンがいたものの、すぐにトリグラフの奇異さに音を上げ姿を消した。それからはまるで懲罰のごとく、罪を犯したとされるドラゴンなどが彼の世話をしに訪れるようになる。そしてそれもいつしか回数が減り、無くなった。
 幼い頃にシュヴァイスラントに捕えられ、最近になって命からがら「はぐれ竜」としてエルネタリア公国へ落ち延びたユランは、その後無事にヘルハイムへ戻ったものの「よそ者」としての扱いを受け住居としてこの地を宛がわれた。彼にとって東の僻地での生活はシュヴァイスラントでのそれに比べ苦ではなかったが、仲間として認めてもらえず、厄介払いされたのだという事実は少なからず理解していた。
 彼らは孤独であったが、決して孤立している訳ではないのが唯一の救いだ。いかに辺境に追いやられようとも、そこにはヘルハイム共和国の長ゴーシュの強力な結界、そして「目」が行き届いている。評判さえ、そして魔獣の襲撃さえ気にしなければ、実に静かで住み良い場所なのである。
「ねえ、トリグラフ。どうしたの?」
 ユランは再度、友に尋ねた。雨は強く、屋根の葉を濡らしては滴り落ちる。
「怖……い……」
「な、何か、か、く、来る」
「おお音、音が、音が、うるさい黙って!」
 すると、ユランの問いに三つの答えが返って来た。トリグラフはここヘルハイム共和国でも珍しい三つ首のドラゴンで、その性格は脆弱の一言に尽きる。不完全に入り交じった薄い色彩の鱗、過敏な感受性とその強さ。そして、生まれて以来この国の主であるゴーシュによって封じられた、この世の罪を見透すと言われる六つの瞳。
 それら全てがトリグラフという存在を物語り、脅かしている。彼は先ほど「何かが来る」と感じて以来、ユランの声も聞くことなく怯え出した。普段から何かを恐れて震えているトリグラフだが、今回ばかりはその様子が違った。
「トリグラフ……具合が悪いの?」
 震えるトリグラフに前足を添え、ユランは心配げに問う。
「大丈夫? 何が怖いの? ドクトルに診てもらった方がいいんじゃない?」
「そん……な……」
「じ、時間、時間がな、いよ」
「いい、から静かにして!」
 しかし、そんなユランの厚意もこの状態のトリグラフには受け入れられない。ユランは溜息をつくと言われる通り静かになった。癇癪持ちというにはあまりに繊細かつ横暴な物言いに、彼は文字通り口を閉じることで応えるしかなかったのだ。
 そしてしばらく沈黙に任せるままにしているとトリグラフはようやく落ち着いたのか、もたげていた三つの頭を静かに伏せた。大きく息をつき、彼はユランに言う。
「み、み、みんなに……知らせた方が、いいよ……」
「ああ、あいつが、来る、から」
「黒い、黒い、裏切り者だ……!」
 その言葉に、ユランは愕然とした。それは断片的であったが、トリグラフの言う『黒い裏切り者』という表現に思い当たる節があったからだ。ヘルハイム共和国において『黒い』モノとは、その初めから終わりまで恐らく「最大の裏切り者」とされる存在。
 それはヘルハイムにかつて存在していた黒竜であり刻竜である、フォロ・フェルニゲーシュのことではないか。ユランは慌ててトリグラフに鼻先を寄せた。
「ねぇ、それってもしかしてフェルニゲーシュのこと? 彼はもうずっと昔に消えたはずだよ」
「ち、違うの、消えた……けど……」
「きえ、消えてない」
「あいつ、生きてるんだ……!」
「生きてる……?」
 相変わらず不鮮明なトリグラフの言葉に、ユランは首をかしげる。フェルニゲーシュはその昔、ヘルハイム共和国を離反し隣国の地で果てた。しかしその身体は元より魂と呼ばれるものさえ、転源の理の中へ還ることは許されなかったとも聞く。しかし、彼にまつわる逸話はいずれもある一つの事を物語っている。それは、フェルニゲーシュが「死んだのだ」ということだ。
 ヘルハイムのドラゴンはその生と役目を終える時、国を巡る川の中域にある湖『フェーデ』を目指す。そしてその中へ身を投げることで全てを捧げ、忘却し、また新たな命を紡ぐ。古来より続くドラゴンの掟だ。しかし、フェルニゲーシュはそうではなかった。彼は人間の妻と共に、人間の地で潰えることを選んだ。
 転源を経ることのないドラゴンの死とは、一体どんなものであろうか。ユランは思い浮かべる。
 ともすれば、この大陸に生きるモノのどの死とも似つかない現象が、ドラゴンの「死」には起きるのかもしれない。隣国であるエルネタリア公国には、何らかの理由でヘルハイムを出国していたドラゴンやその子孫が死に場所を求めて飛来するという。いわゆる「はぐれ竜」である。「はぐれ竜」はヘルハイム共和国へ、『フェーデ』へ向かい、あと一歩のところで正気を失い、そして命をも失う。
 本来なら何の問題も無く、ドラゴンたちは『フェーデ』へ辿り着ける筈だ。しかし、それが出来ない。『フェーデ』を介さずに「死んで行った」フェルニゲーシュの怨念が、かの地で同胞たちの転源を邪魔している、などと言うドラゴンさえ居る。それほどまでに現在のヘルハイムにおけるフェルニゲーシュの地位は低く、また『裏切り者』として確立されていた。
「トリグラフ、もしそれが本当なら大変なことになるよ」
 その『裏切り者』が生きて、そしてこの地へやって来るとあってはただ事ではない。ヘルハイムで過ごす時間も短いユランであるが、まだシュヴァイスラント女王国へ拉致される以前、ほんの幼竜だった頃に聞かされた昔話の類は今でも鮮明に覚えている。人間の妻を娶り、祖国を裏切った黒きドラゴン――それが再びこの国の土を踏むとあっては、許されることではない。
「僕、じじ様に伝えてくる」
 ユランは一言告げるとトリグラフと別れ、ヘルハイム共和国の長であるゴーシュの元へ向かうことにした。雨の中、大きく広がる森を抜け、ドラゴンの食糧かつ好物である『栄光の金林檎(プル・オーウェルング)』の畑に入る。そこにはユランの友人である、エレアスという同世代のドラゴンが育てる木があった。
 魔竜ではないユランにとって、この金林檎の木は貴重なものだ。金林檎は魔竜から魔竜へと受け継がれるもので、許可が無ければそれ以外のドラゴンは触れることさえ出来ない。しかし幸運にも、ユランは友人からこの金林檎を分けてもらえるという約束をしていた。
「エレアス、いくつかもらうね。じじ様に持って行くよ」
 誰にともなく呟きながら、ユランはその実を数個手に入れる。運が良ければ、ユランの言葉はこの地に生きる精霊や動物たちが彼に伝えてくれるだろう。
 その後北へ向かい、霊峰ニヴルハイムをユランは行く。飛び交う魔竜たちに混じって、彼はひたすら翼を羽ばたかせた。強い霊場であるニヴルハイムに登るのは、これが何度目だろうか。十はまだ行かないかもしれない。それでも、決して慣れることはない。ニヴルハイムにはいつでも、どこか殺伐とした緊張感が漂っている。
 ユランはあまり、ニヴルハイムへ登るのが好きではなかった。そこではユランは確実によそ者として扱われるのが目に見えているからだ。ここは自分が来るべき所ではない、そんなことさえ考えてしまう。
 しかし、彼はひたすら空を突き進んだ。行かねばならない。大切な友の警告を、この国の長へ届けるために。



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