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01.第一章

 他者と何かを結び付けるものとは何か、と問うと大抵の者は「絆」だと言う。商人は金と商品をそう呼び、兵士は己の剣とそれを交える敵及び味方をそう呼ぶ。農民は日々の天気と糧を絆であると称し、学術者はこぞってよく分からないことを言っていた。
 では、貴族にとってのそれとは何だろう。地位か、権力か、富か、土地か。否、その地より生まれた血を彼らは何より大事にする。表面上は。
 呪われた子供というのが在る。忌み子。曰く、多く生まれた兄弟の末の子のことだ。とある地方領主の七番目の子供で、ほんの戯れから生まれ落ちてしまった端数であった。
 貴族の果たすべき責を何一つ背負うことは無いだろうと、親たちはその男児に「雌獅子」と名付けた。貴族の息子にありながら、その威風にはためく鬣を持たぬ存在。雌獅子が三つを数える頃には、もう屋敷の誰もが彼の存在を忘れようとしていた。半ば頑なに。
 付き人も居らず、言葉も覚えず、親の愛情も知らぬまま仕方なく使用人に育てられる彼の発育は歪んでいた。貴族にあるまじき姿だった。時折ひとり何処かへ走り去ったかと思えば、夜になって衣服を――それも一応は上等なものだ――をぼろぼろに汚して帰ってくる。それを親や兄弟、使用人たちは他人のように見下し、仕方なしにと片付けた。物と同じだった。そして不幸な事に、情緒を知らぬ雌獅子はそれが何なのかも理解しては居なかった。
 やがて忌み子は忌み子らしく育った。彼は血を好んだ。好戦的という意味ではない。文字通り、血を好むのである。
 農場の片隅で使用人が家畜をさばいていると雌獅子は必ず、必ずどこからともなくやって来た。使用人も慣れたもので、それを気味悪く思いながらも手際良く仕事を片付けて行く。やがて切り分けられた家畜の肉が浮かぶ血の溜まりを見ると、雌獅子は宝物を見つけたような仕草でそれを奪い、肉ではなく血溜まりに夢中になった。
 そしてその両手と袖を真っ赤に染めながら、まるで水遊びと見まごうばかりの喜びようを見せて彼の子は家畜の血と戯れ、最後には飲み干すのである。
 異様な光景であった。しかし、それ以上に彼は屋敷から見放されても居た。使用人にも、家族にさえも、彼の姿は見えていないかのようだった。
 そんな雌獅子が再び「他者の目に映った」のは、彼が珍しくも血を求めるでもなく家畜小屋を訪れた時であった。そこでは数日前から牛の一頭が出産の兆候を見せており、雇いの農夫たちがせわしなく、時には静かにその様子を見守っている現場でもあった。雌獅子が訪れた時には既に出産も終わっていたが、どうやら母牛の状態が良くないと農夫が誰にともなく呟いて居た。
 雌獅子はその場になお残る血のにおいに惹きつけられ、まっすぐに母牛のそばに寄ると腰を下ろした。今までに見て来た、屠殺される家畜の血のにおいとはそれがまるで違う事に驚きながら。
 母牛はぐったりとしていて、呼吸も安定していない。元気が無い、と子供の目には映ったであろう。そしてそれを心配するでもなく見下すでもなく、ただただ隣で観察していると。ふと、隣で声がした。
「いかんな、産褥熱か」
 女の声だった。掠れたインクの濃青を彷彿とさせる――低く沈み込む、否、感情にじわりと焼き付く色を持った声。
「君がこの母牛を見ていてくれたのかい? ここの農場の子どもか? もしそうなら、急いで誰か大人を読んで来てくれるか?」
「サン、ジョク……ネツ……?」
 声の主は牛の傍らに座り込む雌獅子を見るなり矢継ぎ早に質問をして来た。しかし、それは雌獅子にとって全く予期せぬ出来事であった。忌み子として生まれ扱われ、物心がつく頃には既に他者との会話も無くなっていた彼に、今更面と向かって話し掛ける者など居るはずがないと諦め切って居たからだ。
「そう、産褥熱。様子を見るに、この母牛はつい先日出産を終えたばかりだろう。しかし、生まれた子牛の面倒を見ることも出来ずこうして倒れこんで居る。恐らく子牛を産んだ時に腹の中を傷めてしまったのだよ。触ってごらん、ほら、熱があるだろう」
 驚く雌獅子になおも語り掛けると、青い色彩の女はぐいと雌獅子の細い腕を引き母牛に触れさせた。
「……あったかい」
 されるがままに母牛の腹に触れた雌獅子はポツリとそう漏らした。彼は牛の持つ通常の体温を知らない。己とその身の回りが常に「異常である」とされて来た彼にとって、既にこの状況が「異常」であるか否かという判断はつかないものとなって居た。
「『あったかい』? いいや、これは『熱い』というものだよ。このまま熱が上がり続けると、牛は死んでしまう」
 そしてようやく目の前の子どもが「普通ではない」と勘付いた女は、静かに雌獅子を諭し彼に目的を与えた。
「とにかく、誰か大人を呼んでおいで。その間、牛の面倒を見ておくから。立派な乳牛だ、みすみす死なせる訳にもいかんだろう」
 そっと掴んでいた手を離し、女は言う。雌獅子は最初躊躇ったが、女の発した「死」という言葉に弾かれて一目散にその場を駆け出した。
 死、死とは何だ。己が無意識に好む血の香りの先にあるものか。いや、今まさにあの母牛の血の香りの向こう側にあったものは紛れもなく「生」だ。それを、死に転ずる訳にはいかない。幼いながらも決して愚かではなかった雌獅子は、道中めまぐるしく思考を巡らせながらすぐ先にある母屋の扉を叩いた。
「サンジョクネツ。あの牛、死んで、しまうって、大人、呼んで来いって、」
 突如現れた領主の息子に、農夫たちは驚いた。その存在が霞んで居るのはもちろん、まさか声を発するなどと彼らは思いもしなかったのだ。
 彼らは領主からきつく言いつけられていた。「七番目の子に関わってはならない、『あれ』は『呪い』だ」と。しかし、今目の前で母牛の危険を訴える子どもの瞳に映っている感情は、あまりにも人間的な健気さであった。農夫は決意した。
「誰か、医家の先生でもいらっしゃったのかい」
「坊ちゃん、ありがとう」
 次々と声を掛けながら母屋で途方に暮れていた農夫たちは慌てて牛小屋へ走って行った。そして息を切らしながらそれを見送る雌獅子に、少しばかりの安堵が訪れる。やがて彼は自分の目的を無事に果たしたと見て、とぼとぼと来た道を戻って行った。
 牛小屋に戻ると、初めてここへ来た時とは打って変わった様子で幾人もの大人たちが倒れた母牛を取り囲んで居た。そしてその中心に居たのは、やはりあの青い色彩の女だった。
「まずは落ち着いて。落ち着いて対処をすれば助かる見込みはぐんと上がる。母牛は子牛を産んだ際に腹の中に傷がついた。そしてそこから、悪いものが入り彼女の身体を蝕んで居るんだ。熱はその悪いものを追い払う為に彼女の身体が必死に抵抗している証だ。しかし、このまま戦い続けて体力が無くなると、いずれ衰弱から命を落としてしまう……まず解熱をしなくては。この辺りに、薬草の取れる場所はあるか?」
「あんた、医家の先生かい?」
「いいや、学者だ。ゼルカリンゲンから来た」
 不安げに問う農民に、女はきっぱりと答えた。農民はうろたえたが、そんな彼らに女は更に畳み掛ける。
「このまま家畜専門の医家を探しても良いが、それでは間に合わない。早急に手当をする必要がある。良い牛ほど、出産後に産褥熱に苛まれるものだ。あなた方も、そんな資産をみすみす手離したくはないだろう? とにかく解熱に使える薬草を探して、急いで煎じなくては……」
 それは決して強制でも、また詰問でもなかった。女はあくまでかろやかに語る。一歩引いた位置からではあるが、心配をしているのだ。それも親身に。
 そんな女の裾を小さく掴んだ手がある。雌獅子だ。薬草、という言葉に覚えがあった彼は、女を導こうとありったけの勇気を振り絞って言った。
「やくそう、あるよ。あっち……」
 それは消え入りそうなほどに震えた声であったが、それを聞いた女の顔はふわりとほころんだ。
「本当? そりゃあ頼もしい。あっちか、連れて行ってくれるかい?」
 その笑顔を一身に受けながら、雌獅子はささくれ立った気持ちになって居た。この旅の者は、彼が呪われた子供で、忌み子であることを知らない。だからこそ、そんな風に笑って居られるのだと。領地の誰もが腫れ物に触るかのような――もしくは触れようともしない――態度で接する雌獅子の実情を知れば、この学者もきっと目を逸らすようになるだろう。早くもそんな失望が、子供の胸の裡に広がる。しかし、それはすぐにも撹乱された。
「なあ、君。どうして目を逸らすんだい?」
 まるで鏡に映されたかのような、互いの疑問。雌獅子が驚いて見上げると、女は真っ直ぐこちらを見ていた。空とも湖とも違う、不思議な青色の瞳が優しく瞬いている。
「目を合わせると相手を石にでも変えてしまうのかい? ははは、まさかそんなことはあるまい……ああ、でも今はたっぷりと魔封具を装備しているからか……後で検証しよう」
 にっこりと唇の端を上げる女には何の邪念も見えない。そしてようやく雌獅子は知るのだ。世の中はこの限りでは無い、と。


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