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60年代の幻想と空白

60年代の「幻想と空白」
及川廣信


 1:始まったばかりの55年体制下で

 60年代を語るに当たって、その前の50年代の後半とはどんな時代だったのだろうか。1955年に社会党左・右両派の統一(10月13日)が起こり、それに対抗して三木武吉の辣腕により保守合同の自由民主党結成(11月15日)が既に発足していたのだから、同じ「55年体制」下にあった。しかし、 60年代とはちがって当時の少数の「怒れる若者」にとって「大人社会」はなかなか崩せない磐石の対立物であった。
 石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞をとったのは1956年だった。私がフランスから帰国したのは、その余波の「太陽族」が社会的に問題視されていた時だった。でも私の目には、この慎太郎、祐次郎の兄弟はその後うまく「大人の社会」に受け入れられていったように見えた。でなかったら、慎太郎がその後自民党に入党するわけはない。
 59年には、『禁色』によって土方巽と大野慶人がデビューした。スピリットの意味で、ダダイスト津田信敏による『女流アバンギャルド公演』の流れを継ぐものであった。その時点では、まだ土方は三島由紀夫とはなんの接触もなかった。無断で作品名を借用し、三島がそれを不愉快に思っていると聞いて、詫びを入れて作品をスタジオで観てもらい「まあ、いいだろう」と許可を得たのだった。
 59年には大野一雄の「老人と海」があり、60年にはジャン・ヌーボ、若松美黄、土方巽が独自の前衛的な活動をして来るべき60年代の幕を開けていったのである。

 土方巽が活動の場を得たのは小原庄を通じてネオ・ダダの美術家たちと接触を得てからである。小原庄と言っても今は知る人も少ないだろうが、篠原有司男の友人で、堀内完と安藤哲子の「ユニークバレエ団」の美術をやっていた。その後ブラジルに移住し、若くして向こうで亡くなったと聞いている。
 考えてみると、土方巽は「帰る場所を失った人間」だったのではなかろうか。その頃はまだ戦後間もなくて、新宿東駅前も乱雑な感じであったが、駅の傍の道路際の屋台で私と堀内と土方の3人で飲んでいたとき、うつむいていた土方が「ぼくは踊りを止めて秋田に帰ります」と言い出したのだった。「どうして?」と私が質問したが、彼はそのまま黙ったままだった。
 その頃の地方、とくに東北と東京との生活の落差は今ではとても想像もつかないだろう。結局、彼はいちど秋田に帰ったのだが、また踊りを止められずに戻ってきた。なぜあれほど踊りを諦めていた彼が東京に再び戻って来たのか。それが私には長年疑問だった。数年前、元藤燁子に誘われて細江英公と田中一光等といっしょに土方の故郷である秋田県の湯沢市に行って「西馬音内(にしもない)の盆踊り」を観たとき、はじめてその理由が解けたような気がした。あの踊りの中で生まれ育ったものには、一生踊りが捨てられないだろう。ちょうど寺山修司や豊島重之が青森の「ねぶた」や八戸の「三社祭り」の演劇的な興奮から抜け切れないように。彼等は揺り動かされる自分の思いをどうしても実現させたいため上京してきているのである。
 再度上京してきた土方は、今度はヨネヤマ ママコの世話になり、そこから津田信敏のところに出入りしていた。その時はまだ津田信敏は元藤はな子の夫で、目黒のアスベスト館は「津田信敏舞踊研究所」だったのである。そこで企画された何度かの「女流アバンギャルド」が舞踏の前身だった。

 土方はべつに津田信敏の弟子だったわけではない。居場所のない彼が転々としてそこに辿りついたのである。その「女流アバンギャルド」に賛助出演していて大野慶人にめぐり会ったのだろう。大野慶人はすでに私のところにマイムを習いに来ていた。私のマイム公演のパートナーは、第一回目は林陽子で、第二回目はヨネヤマ ママコ、第三回目は当時の土方の友人、図師明子だった。そういう関係から、土方はこの公演準備中は私のところにも出入りしていた。林陽子はバレエダンサーでぼくが主宰していた「バレエ東京」のメンバーだった。ヨネヤマ ママコは特異なダンサーとして注目されていて、マルソーが初来日してから自己流のマイムを演じていた。図師明子は「ユニークバレエ」団に所属していたが、それから直ぐに前述の小原庄といっしょにブラジルに渡ったのである。
 私の帰国後、マイムの最初の弟子は太田順三で、芸名はジャン・ヌーボだった。武智鉄二の古典を土台にした実験的な試みに参加したり、自分でも独特な公演をして新しい動きの先端を切っていた。舞踏の全身の白塗りの起源は彼なのだ。
 どこに行っても避けられ、居場所のない土方巽は、大野慶人と「禁色」を共演することによって新人賞を獲得し、その勢いで美術家だけでなく、音楽家や詩人たちとの「ダンス エクスペリエンス」を行っていった。

 2:60年代をひらく安保闘争                                  

 私は56年に帰国してからはマイムの劇団とバレエ団を主催していた。しかし、じぶんの創るものが「大人の社会」の批評家には受け入れてもらえず嫌気が差していた。それが、その内「もう、どう他人に思われようと構わない」という気持ちになってきていたのだった。ところが、以外に私を理解し、支持する人が増えていき、60年に入って後援者の手で新橋の田村町に「マイム スタジオ」がつくられた。オープニングして間もなく安保改定反対のシュプレヒコールが街に反響しつづけた。
 旧安保条約は、もし日本国内に内乱や騒擾が起きたばあい、アメリカが出動してそれを鎮圧できるという占領下とあまり変わりのないものだった。その改定を目標に、首相の岸信介が推進した2年余の協議の後、60年1月19日に新安保条約を日米間で調印し、批准期間に入っていた。
 しかし、国会で論議が進むうちに、極東の平和維持のためアメリカが日本国内に基地を持つことができるという条項に対して国民の不安がつのり、野党や革新勢力が「安保改定阻止国民会議」をつくってそれに反対し、運動がしだいに拡大していた。そして、ついに5月20日、自民党が新安保条約を強行採決するに及んで戦後最大の大衆運動となったのである。
 6月15日、全学連主流派の7000人が国会突入をはかって警官隊との大乱闘が繰り広げられ、東大生の樺美智子が犠牲者となった。翌日の新聞を見ると、紙面の下の方にデモを傍観していた吉本隆明が逮捕されたという記事が載っていた。樺美智子の合同慰霊祭が東大で行われた6月18日には、デモが国会を包囲し、この日のデモ参加者は33万人にも及んだ。

 今思うと、この運動によって国民は多くのものを学んだのだが、結局自民党の思うがままに遂行された訳で、その敗北は55年に作られた保守の頑強な体制に対する、国民の民主的な政治意識が遅れをとっていたのが原因なのだ。それがいつまでも尾を引きつづけ、同じような政治体制とアメリカとの関係がいまだに抜け切れないでいるわけである。
 結局、政治も議会主義を通すかぎり、碁や将棋と同じで、対策を練って布石している間が勝負なので、はっきり負けると決まった段階でがむしゃらに当たってももう遅い。もっとも、ルール違反ということもあるが。
 自民党は1955年以来、したたかに生き残ってきた。いちど敗れたけれど社会党を首相に抱き込んで相手を骨抜きにするような術まで持っている。フランスの左派の地盤が固いのは、サルトルたちの戦後の政治へのアンガージュマン(参加)の伝統があったからだろう。
 それでも、1960年に入ってからは、われわれはどこか自分自身が体内から狩りだされるような落ち着かない気分だった。みんなの声が上ずっていた。すべての殻を打ち破りたい、あらゆるスタイルを変えてしまいたい衝動にかられていた。若者ぜんたいが狂いだしたみたいで、「狂気になれ」がアーティストの合い言葉だった。もう '50年代のように仲間は少人数ではなかったのである。

 正確に言うと、1960年は50年代の最終の年で、1961年になってはじめて60年代なのだ。私はなぜかこの1960年という年ははっきりと脳裏に刻まれている。同じ60年代でも他の年は非常に曖昧な記憶になっているのだが、この年ばかりは明瞭に記憶しているのが不思議だ。61年にはそれだけ大きな事件があったのと、私自身も外部の出来事を鮮明に感じとるだけの感性をまだ持っていたということだろうか。
 61年はアメリカとソヴィエトの対立が非常に緊迫した時代だった。この年の1月にケネディが米大統領に就任した。アメリカの喉もとにあるキューバがカストロの指揮下で社会主義化を宣言し、ソヴィエトの後ろ楯ですでに核ミサイルを保持しているという危険を孕んだ状況のなかで、フルシチョク首相とケネディ大統領の両首脳対談がウィーンで行われた。その一方、世界を二分するこの共産圏と資本主義圏の間で、互いに力を誇示するデモンストレーションが宇宙開発への実験競争というかたちで始まった。まずソ連が4月12日にガガーリン少佐の人類初の宇宙飛行が成功すると、アメリカはそれを追って5月25日にケネディが「アメリカは60年代に人間を月に上陸させる」と演説し、アポロ計画をスタートさせた。じっさいに「アポロ11号」で人類が月面に立つことができたのは69年の7月20日だった。
 同じ61年に、韓国では朴正煕少将がクーデターで政権を掌握し、日本では池田首相が「所得倍増政策」を開始した。それは、その後の高度経済成長への出発点にも当たっていた。日本はこのような世界の「冷戦」下で武力を持たないわが身に怯えながら、ただアメリカの庇護をたよりに経済だけを目標に進むことを選択していたようである。一般庶民はテレビで柏戸、大鵬の両横綱戦に湧き、ザ・ピーナッツや坂本九などを観て愉しみ、安保闘争の興奮からまだ醒めない者達は「反体制」の思想で生きることを決意していた。

 3:私は60年代をこう感じた(1)                              

 さて、このようにして60年代は出発するのだが、今にして思うと、60年代という時代は現実ではなく夢幻的であったような思いがする。いったい他にあのような時代があっただろうか。いちばん近いのはたぶん20年代なのだろうか。
 戦後の日本の文化はしだいにアメリカナイズされてきたと言うが、ジャズやロックがわれわれの生活に密着していたという限りにおいてはたしかにそうであった。
 私はジャズに惹かれていた時と、ロックに熱中していた時と両方あったような気がする。そしてジャズ喫茶でマイルスやモンクなどを聴いていたのは60年代の初期で、ラジオの渋谷陽一のロック番組でルー・リードやピンク・フロイド、サンタナなどを聴いていたのは中期だったのだろうか。反抗的な暗い時期はジャズで、ヒッピー的な平和への希望を抱いていた時期はロックに向かったのかもしれない。必ずしも意識した上でのことではなく、今にして思えばそのような動きをしていたようだ。もっとも、聴くのはラジオとレコードだけでロックのコンサートには足を運んだことはない。基本的にはジャズ サイドの人間なのだろう。
 詩とか難解そうな文学、革命とか「第三世界」とかはジャズ喫茶に向いていた。ジョン・ケネディ大統領がダラスで暗殺されたのが63年の11月22日だった。 

 1964年には東京オリンピック開催に備えて、新幹線、高速道路、地下鉄などの整備が行われ、表参道が広がり、街の生活様式が変わった。海外旅行も自由化された。このようにして10月10日のオリンピックが開催された。しかし、ベトナムではアメリカと南ベトナム政府軍はこれから続くどろ沼の戦いにすでに踏み込みはじめていた。
 そして、翌65年には北爆とベトナム本土への上陸によってアメリカはベトナム戦争に直接介入することになる。その後はオリンピック景気の反動での不況の下に、ベ平連の反戦運動や水俣病などの公害問題への抗議が表面化し、やがて60年代末の全学連闘争へとつながってゆくのである。
 66年にはビートルズが日本にやってきた。その頃から世界はじょじょに崩れはじめの徴候をみせていた。
 ベトナム戦争のどろ沼が継続し、アメリカではヒッピーの平和運動や、ウーマン・リブの運動が起こった。
 全学連闘争が始まったのは68年の1月からである。世界的にみれば、ちょうどフランスの「五月革命」と歩調を合わせていたことになる。この時にジャン・ルイ・バローは自分がディレクターであった国立劇場の「オデオン座」を学生たちに開け渡した。その後アヴィニヨン フェスティバルに押しかけたアメリカの「リビング シアター」はディレクターのジャン・ヴィラールに殴り込みをかける形となった。
 この時からフーコーの時代になった。アートは元ナンシー・フェスティバル ディレクターのジャック・ラングが支配的な立場に立ち、各地のフェスティバルの指導者は五月革命の波をくぐった者たちだった。

 ジョン・ケネディの弟、ロバート・ケネディがロサンゼルスで暗殺されたのは68年の6月5日だった。その2ケ月前、黒人解放運動の指導者キング牧師も暗殺されている。この68年には、日本では「3億円事件」があり、チェコではソ連が軍隊を派遣して同じ共産圏の自由を踏みにじった「プラハの春」の事件があった。

 日本では過激な「日大闘争」の後、69年1月19日の東大安田講堂で機動隊8500人と籠城する631人の学生とが35時間に及ぶ攻防戦の末、さすがの安田城も陥落した。沖縄はまだ米占領下にあって、69年4月の沖縄反戦デーの日、東京の一部は争乱状態になった。翌70年には沖縄全軍労が米軍と衝突しつづけた。
 オリンピックにつぐ一大イベントの「大阪万博」は70年の2月4日からはじまり、3月31日には赤軍派の日航機「よど号」のハイジャクが起こり、11月25日にはあの三島由紀夫の割腹事件があった。
 三島のこの事件は、現代の常識からは納得できないものだった。私は劇場のロビーでの彼の異様な高笑いを思いだす。あれとこの事件とは三島の中でどのように関係していたのだろうか。
 70年代も終わりに近づいた、このような状況下ではビートルズよりもモダン ジャズのコルトレーンやアイラーの方が向いているのは当然だ。
 64年の「東京オリンピック」以来、日本民族が培ってきた良質な部分が剥ぎ落とされ、それに抵抗していたアーティストたちも70年の「大阪万博」以来、すっかり腰抜けになってしまった。しかも最後の反体制の生き残りである全学連は70年の「赤軍派の日航機「よど号」のハイジャク」に始まり、72年の連合赤軍「浅間山荘」とテルアビブ空港の乱射事件の結末によって、己の真の目的と判断の道を見失ってしまったのである。ここで60年代の内実が終わり、73年のオイルショックを契機に実質的な70年代へと移動してゆく。

 4:私は60年代をこう感じた(2)                         

 アメリカの影響を受けなかったものもある。たとえば 60年代半ば過ぎにフーテン族というのがあった。
 ふらりと当てもなく放浪の旅に出たり、ひとり街に放り出されたような日常を送る者たち。あるいは、深夜喫茶やジャズ喫茶にたむろしたり、睡眠薬のハイミナールを飲んでラリパッパ・パーティも開いた。当時、若い芸術家の溜まり場だった新宿の凮月堂には、じっと坐りこんで、一日中そこに棲みついている者もいた。
 フーテン族はハプニングと「環境芸術」につづく流れなのだが、アメリカのヒッピー旋風に巻き込まれて風化されてしまった。内部の空洞にのめり込んだフーテン族はふうせんのイメージがあり、なんとなくピエロ風に見えた。それに比べて、長髪、ジーパンのヒッピーの方が格好が良く見えたのが事実で、そちらに移行する者が増え、マスコミも掴みどころのないこのフーテンよりヒッピーの方にフォーカスしていったのである。
 私はフランスで学んだマイムが日本人の自分のからだにそぐわないことに気付いた。ハプニングはアクションペンティングとジョン・ケージの影響下に、画家、詩人、音楽家、舞踊家によって起こされた。それは、内発性を主眼に、自由と偶然をテーマにした運動だった。「マイム スタジオ」はアメリカでアラン・カプローが59年始めたというこのハプニングとは関係なく、独自のハプニングを行っていた。その後、マイムのハプニングは美術を取り入れ、行為の広がりを持った認識としての「環境」をテーマにした。ー「環境芸術」
 肉体と物との関わりの点で、同時期のイブ・クラインのヌーヴォー・レアリスムにもそれは近いものだった。われわれは66年に「ミモ・サピーエンス」を結成し、それまでのマイムからの脱出を計った。
 当時、私たちとは別に美術関係のハプニングを行っていた人は篠原有司男、アイ・オー、秋山裕徳太子、加藤好弘(ゼロ次元)たちであった。

 私はマイムのほかにクラシックバレエをパリ・オペラ座のレオ・スターツがつくったコンセルヴァトワールに学んできた。そこはベジャルーが出た学校だが、私はベジャールにもローラン・プチにも関心を持てなかった。いちばん興味を持てたのは、バレエ技法をつくった19世紀のブラジスの仕事だった。彼がどのように人体構造を土台にしてバレエのメソッドと技術をつくったのか。それが私の中心テーマだった。
 帰国して私はマイム劇団のほかに「バレエ東京」というバレエ団を結成した。すでに有名なダンサーたちもいた。前述した林陽子もその一人だった。彼女の父親はバレエ団の後援者だった。結成後4年目に、当時日ソ協会の事務局長であった林さんがソヴィエト バレエの導入を考えついて、相談を持ち込んできた。それが今の「東京バレエ団」である。私は熟考した末、その時点でバレエを止めることに決意した。私は「日本のローラン・プチになれるだろう」と批評されたりしていたが、バレエに魅力を失いはじめていた。それにメソッドを変更することが何よりも嫌だった。私はバレエ団を解体した、私のところからダンサーたちが移動し「東京バレエ団」がやがて発足した。しかし林さんの娘の林陽子は、そのあとすぐに肺炎が原因で死亡した。

 ベトナム戦争に入ってからの時期、「ミモ・サピエンス」の吉村修がフーテンのアーティストたちと交流があった。というより、彼自身がフーテンだった。「サテド商会」という会社をつくり、もみじのてんぷらを売り出したらどうか、などと真面目に考えたりした。「サテド商会」はどういう意味か、と聞いたらば、それは「さて、どうしようかい」から発想されたものだと、これも真面目な顔でいう。
 吉村君に誘われて、新宿2丁目の「モダンアート」という怪しげな劇場に彼といっしょに作品を出したことがあった。怪しげなというのは天井桟敷や表現座と組み合わせで前衛ヌードというものも行われていた。そこでフーテンの中心メンバーに紹介された。牧朗という人がいた。有名な歌手の子息で、ヌードをカンバスにしてアンフォルメルのような絵を全身にスピーディに描いてみせた。小坊太子は、ヌードをうつ伏せに寝そべらせて、真面目にお経を読みながら、左手で木魚を打ち、右手でヌードのお尻をなでるのだった。この人は密教の高名なお坊さんの子息で修行中とのことだった。やがて、これが親元に知れ、太子という名称を使ったことを叱責され、出演できなくなった。廊下には、まずら流弾という人の墨絵がずらりと壁に掛けてあった。よく観ると、それはヌードのお尻に墨を塗って紙の上に坐らせ、秘所がちょど版画のような図になっていた。この人は本名は松平といって、もしかしたら徳川慶喜の後を継ぐことになったかもしれない血筋の人だという。3人ともあまり無駄口は言わず、言うときはじぶんの考えを明晰に述べる青年だった。
 今になって自分はフーテンだったという人はあまりいない。私の知る限り、はっきりとフーテンの民族的特性、または時代的価値を認めているのは夏目漱石の孫の漫画批評家、夏目房之介ぐらいである。
 水木しげる、つげ義春、林静一、谷岡ヤスジをつぐ現代までの漫画や今の若い映画監督がつくる映画やアニュメーションにはこのフーテンのどこかにつながる日本独自の感性があるのではないだろうか。

 5:私は60年代をこう感じた(3)                          

 60年代は、なんと言っても新宿が中心の街だった。街はきれいではないが、熱気に溢れていた。そこにいるだけで生きる喜びと、興奮に追いやられた。1日にいちどは新宿の街を一巡しないと、落ち着いて眠れないという風だった。若い者だけでなく、会社員や働く大衆が仕事が終わってくり出す盛り場だった。その頃の新宿の店は、それぞれに客を暖かく迎えてくれたように思う。書籍の紀伊国屋がそうだし、前述の凮月堂などは、よくあそこまで客の我が儘に耐えられたものだと感動する。
 その頃は歌舞伎町はまだ、魔窟化していなかったが、それでもネオンの輝きは人を引付ける魔力を持っていた。コマ劇場の裏を通って花園神社やゴールデン街に向かうと、また、二丁目とはちがった新宿の奥の顔が見えてくる。新宿は「演劇の街」だといわれるのはそういう裏があるからで、あらゆる欲望も悪さえも飲みこんだ街だからだろう。唐十郎の「状況劇場」が花園神社に赤テントを張り、芥正彦の「駒場劇場」が伊勢丹前の大通りでストリート パフォーマンスをやっても、それが当然のように見えるのである。

 それとは別に銀座から、赤坂、青山・表参道への盛り場の流れがあった。やがて渋谷、六本木へ波及してゆく。それはデザインとファッションの街だ。まず50年代の銀座のみゆき通りに現われた「みゆき族」がじぶんでわが身を飾ろうとするファッション意識の発端だったのだろう。
 それについで赤坂の「テレビ東京」のあった 「一ッ木通り」 を中心に、プロダクションとデザイン関係の事務所が集まる。たとえば同じビルの中に、3人のカメラマン、資生堂の横須賀功光、マックスファクターの藤井秀樹、サンキストの西宮正明の製作事務所があって、互いに友人関係を結んでいた。その後表参道の整備が出来てからは、隣接する青山にファッション デザイナー、美容師、メイクアップ アーティストたちが美容院やブティックを出店しはじめ、美的センスを競い合ううちに魅力あるファッションの街が出来ていった。
 青山は旧い街でひとつの村のような、変化のある小路を抱えておっとりした処だった。それらを各人がデザイン感覚の美意識でうまく変えていった成功例だろう。もともとここはデザイナーたちが以前から住んでいた街だった。50年代から青山学院の近くのアパルトマンに杉浦康平が住んでいて、そこに粟津潔たちの日宣美の若手メンバーがよく集まっていた。それに田中一光が青山に住むようになってからは青山へ移転するデザイナーの数が増えた。ファッション関係ではスタイル画の長沢節が青山・高樹町に50年代の後期から研究所を持っていた。そういう地盤を青山はすでに持っていたのである。

 1954年に立ち上げた大阪の具体美術協会は、世界的にみてもパフォーマンスの最初のきっかけをなすものだった。読売アンデパンダンがそれにつづき、1960年には荒川修作、吉村益信、篠原有司男らがネオダダ・オルガナイザーを結成。そして、高松二郎、赤瀬川原平、中西夏之の3人の頭文字を英文にした「ハイレッドセンター」が62年5月に結成される。イベントには川仁宏、小杉武久、刀根康尚などが参加した。川仁宏は60年代末に「美学校」をはじめた。
 60年代のイラストレーターとしては横尾忠則と宇野亜喜良。音楽家では武満徹、諸井誠、湯浅譲二。滝口修造を中心に美術家、音楽家、舞台美術、照明家たちが51年に立ち上げた「実験工房」のグループには武光徹と諸井誠の2人がすでに入っている。カメラマンには「プロヴォーク」の中平卓馬と森山大道。三島由紀夫、土方巽、大野一雄を撮った細江英公。それに55年の「砂川闘争」以来の抗議運動と舞踏・パフォーマンス運動を記録しつづけた羽永光利を加えよう。小杉武久と「タジマハール」は69〜76年の活動であった。
 60年代の前半の舞踏の勢いを受けた感じで、後半はアンダーグランド(アングラ)の演劇が活動する。状況劇場、天井桟敷、自由劇場、早稲田小劇場、転形劇場、発見の会などである。60年代の末ともなると学生運動も演劇もますます過激化していった。

 68年の7月に草月会館主催で「変身あるいは現代芸術の華麗な冒険」が次のようなメンバーでなされた。

宮井陸郎「映像とネオン  プロジェクションによるシネマ・ハプニング」
富岡多恵子 長谷川龍生 谷川俊太郎(仮面座出演)=詩・自作朗読
針生一郎「ああ無情、夜嵐お百」(発見の会出演)
粟津潔『ホリディ・オン・プリント」(8つのプロジェクション・デザイン)
横尾忠則・一柳慧(テレビによる映像のコラージュ)
及川廣信「人体記号透視術」(ミモ・サピエンス出演)
松本俊郎「つぶれかかった右眼のために」

 6:70年代ヘ ー 結論                            

 時代はこのように、ネオ・ダダ、ハプニング、ポップ・アート、サイケデリック、エンパイラメントと、内容的に連鎖反応の関わりをもって次々と問題提起され60年の後半に及んでゆく。そして問題の70年の万博に当面する。「反対」を旗印に、資本に組するもの、しないものとが二派に分かれる。『環境芸術」後、光とイメージの空間構成を得意とするアーティストは誘われるまま万博に協力するものが多かった。
 私の差異人類学の師である山崎清博士が大阪万博の住友館に顔面表情に関する作品を提示していたのだが、私は会場に行くことをしなかった。先生はその作品のことを親切に説明してくれたが、私の顔の表情を推測できずに、無理に観に行くことを勧めなかった。

 このように60年代を振り返ってみると、この時代はなんと激しい政治の時代であったことか。激した時代の風潮に突き動かされて、若者は熱気から狂気へと変じていったのである。
 「幻想と空白」ということばが、文の主題に使われているが、この時代の白熱した行動を追憶する今となっては、それは現実味のない幻想的な現象のように思われるからだ。そして、ただその時だけに覚えた抵抗の充実感だったのか、後には空白な時間が残っているだけなのである。正直に言ってしまえば、ほんとうは、60年代がじぶんにとって何だったのかなど考えてもみたくないのである。私だけでなく、たぶん全共闘に参加した者たちも同じだろう。75年の「スト権スト」の敗北と企業統合以来、政府と資本家協同の抱え込みによって60年代を支えていた構造自体がもはや空白になってしまったのだから。
 この文章も前章までは単なる記録に終わっている。しかも行われたたくさんの事柄も、紙数の関係もあるが、「もうそんなことはどうでもいい」というすべてを無の中に埋没させたい気持ちが勝って、とてもまともに書く気になれなかったのが本心である。それでも後につづく人のために書き残す必要もあるのだと思い返し、私の側から感じたままを記すことだけに止めた。

 私はこの60年代でパリで学んできたバレエとマイムを捨ててしまったのである。残ったものはジャン・ルイ・バローを通じてのアントナン・アルトーその人と身体観だけだった。バローを通じてのアントナン・アルトーということは、アルトーが自分の書物に書いてない彼の身体技術をバローに伝授していたからである。
 ことばあるいは観念でなく、彼の身体技術あるいは呼吸・話術を通してアルトーの思想を理解することが、また、彼の示唆によって、彼自身が求めていたものが東洋の身体メソッドと結びつくということが、ひとつの目的となったのである。「アルトー館」はこのようにして1968年に設立された。
 60年代の狂気にしても、自分が狂わないと安心しているものが狂気になれたのである。アルトーは彼の晩期に「俳優を狂気にする」という演技術を書いているが、彼はじぶんの次元にまで俳優を高めてじぶんが感知している世界への通路を分かってもらいたいと思ってのことであっただろう。
 彼自身は狂気になろうとはしなかった。そうでなくても狂人とみなされていたのだから。俳優として気分を高めることはあっただろうが、彼は生涯、正気と狂気の間にゆれ動いていたのだろう。
 アンドレ・ブルトンの提唱したシュルレアリスムにしても、ブルトンを含めてみなシュルレアリスムを夢みていたのだが、彼の日常がそのままシュルレアリスムだったのである。
 そういうことを考えると60年代というのはある種の甘えがあったのではないか。それは情念ということばがよく使われたように、感情が主体であった。アメリカの70年代のパフォーマンスが「冷たいパフォーマンス」でコンセプチュアルなら、 80年代のパフォーマンス経験を経たヤン・ファーブルの演劇は、それまでの感情中心の演劇を超えて、人間を「知性/感覚/官能」の三面から捉えたものだった。

 70年に入って、私は読書だけに閉じこもる「10年計画」を建てた。じっさいには12年間経ってしまったのであるが。世間的にはそれは冬眠状態に入ったことになった。やっと冬眠から抜けだしたのは1982年だった。私は1年かけて翌年までに星野共主幹の『肉体言語』に「アントナン・アルトー特集号」を編集した。
 それが終わった84年に、星野共たちと『肉体言語』主催で「ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバル」を開催した。これに「シュウ ウエムラ アートシアター」の 85年の1年間に亘る「東京アートセレブレーション」と前記の85年のヤンファーブルの演劇「劇的狂気の力」とを加え、このポストモダンの三者の側から60年代を振り返ると、その特徴がよく見えてくる。(2004年3月記)
Ċ
snbnsx,
Dec 18, 2008, 10:45 PM
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