学びのポイント


12月の学びのポイント

2015/11/28 21:42 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿

12月度のヨハネ福音書の学びのポイント ⇒ 他の3つの福音書(共観福音書)と比較して、ヨハネ福音書は、イエスの父なる神との神秘的な関わりについて、私たちに目を向けさせる。つまりヨハネは、共観福音書よりも鮮やかに神の子たるイエスの姿を浮かび上がらせることで、三位一体論の基礎を築いているのだ。ヨハネの示すイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものだ。また、キリストを贖い主として記録し、神の霊である聖霊を助け手(ギリシア語でパラクレートス)として描いている。そしてキリスト教の特徴としての「愛」を前面に押し出すことなどによって、以降のキリスト教に大きな影響を与えることになったのだ。

 

メリー・クリスマス!!  静かで豊かな、恵みに満ちたクリスマスでありますよう、お祈りいたします。



12月6日:ヨハネ福音書1:1~5「なお光は輝く」 ⇒ (底知れない安心感)

イエス・キリストは私たちの《光》である、とヨハネは述べている。そして《光》は《命》であって、その《命》の源こそ、万物を創造し、万物が存在するずっとずっと前から存在していた《言(ことば)》であった。そしてその《言》は《神》と共に居て、《言》は神であったと言っているのだ。つまりイエス・キリストは神であった、とヨハネは私たちに向かって宣言しているのだ。しかし《言》が《神》である、《神》が《言》である、と聞くと、物凄い安心感を私たちは感じるのではないか? それは私たちに理解を求めておられる神が、全く私たちの理解を“ゼロから出発していいのだよ、さぁ、何でも話してごらん、聞いてごらん”、という姿勢を取っておられるように感じて、ホッとしてしまうからだろう。そうか、《言》なのだ! 《言》だとしたら時間は掛かるかも知れないけれど、私たちもいつか神のことを理解できるかも知れないな、そんな思いを抱かせてくれるのではないか? また、逆に神が《言》だとしたら、私たちの悲しみや辛さ、苦しみや寂しさも分かってくれる。私たちの言葉で話し掛けることができる。私たちは神の前に立って、“さぁ、話してごらん、話し合ってみよう”とい神の語りかけのその原点に立たされている。コミュニケーションの始まりに立っているのだ、と感じることができるではないか!!

神さまとのコミュニケーション、何と素晴らしいことだろう。ヨハネ福音書の《言》は《神》であったという宣言は、私たちに《神さまとのコミュニケーション》の可能性を、示してくれているのだ。

 

1213日:ヨハネ福音書1:29 34(参照16~8、119~28)「光を証しする者」 ⇒ (霊によって示される)

ヨハネは、悔い改めのバプテスマ(洗礼)、水のバプテスマをヨルダン川で授けていた。そこに主イエスが来られて、ヨハネからバプテスマを受けられたのだ。そしてその時、聖霊が鳩のように主イエスの上に降るのをヨハネは見たのだ。そして、この方こそ私が救い主として指し示す方。この方を指し示すために自分は命を受け、生かされ、預言者として立てられた。この方こそ、まことの神、まことの救い主であると示されたのだ。この時、ヨハネは自分が生きている意味が明らかになったのだ。
 ヨハネが主イエスをメシアであると分かったのは、このように聖霊なる神による「示し」によってだった。自分は救い主・メシアを指し示すことになる、その方は「世の罪を取り除く神の小羊」であるとは、示されていた。しかし、それが具体的に誰であるのかは示されていなかったのだ。そして、主イエスと出会った時、聖霊が降るのを見て、この方だと分かったということなのだ。実に、主イエスこそ救い主であるということが分かるということは、この時のヨハネと同じように、私たちにも神の示しがないと分からない、と思う。牧師から、クリスチャンから、主イエスがまことの神であるという説明をいくら受けても、それで主イエスが「我が主、我が神」と分かるわけではない。本当にそれが分かる、本当に信じられるようになるためには、聖霊の導きがなければならないのだ。だから、まだ、主イエスが我が主、我が神としてピンと来ないという人がいるならば、「聖霊なる神さま、私に働いてください。そして、主イエスが誰であるのか、私にはっきり分からせてください」、そう祈ってほしいのだ。

 

1220日:ヨハネ福音書1:14(参照ヘブライ214~16)「肉となって宿られた」 ⇒ (救い主の誕生)

14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあるが、この「宿られた」という言葉は「天幕を張って住んだ」という言葉。天幕というのは、移動式の住居。私たちがどこに行こうとも、天幕ごと移動して、主イエスは私たちと共にいて下さるのだ。主イエスが肉体を取った、人間になられた、というのは、私たち罪ある人間の身代わりとなる為であり、同時に私たちと全く同じ姿を取ることによって、私たちと共に歩む為でもあったのだ。確かに二千年前の出来事クリスマスによって私たちに示された神の恵みの現実は、今も少しも変わらない。クリスマスにおいて、私たちの間に宿り、私たちと共に歩んで下さった主イエス・キリスト。この方は、今も聖霊として私たちと共におられ、私たちの歩みを守り、支え、導いて下さっている。クリスマスは、昔々の出来事を思い出して喜んでいるのではない。あの二千年前の出来事によって私たちに与えられた恵みの中に、私たちは今も生きていることを示しているのだ。だからうれしいのだ。クリスマスの時、私たちは神が私たちと共にいて下さるという、インマヌエルの恵みを喜ぶことができるのだ。

 ヨハネ福音書は、キリストを、世界のすべてを造られた言(ことば)、神である言である、と告げる。そして、その言に命があり、光であると告げる。言にも命にも光にもいろいろあるが、ここでキリストが言であると告げられる時、その言とは、天と地にあるすべてを造り、神と共にあり、神であられる言なのだから、この言とは最も根源的な言。すべての言葉やすべての秩序はここから生まれてくる、そういう言なのだ。命もそう。命あるすべてのものが、この方の命によって生きるものとされる、そういう命なのだ。光もそう。すべてのものを照らし出し、この世界が何であるかを明らかにし、私たち自身が何者であるかを明らかにし、この世界が、私たちが、どこに向かって歩むべきかを明らかにする光だ。この光がなければ、この世界全体が行き先を知らず、秩序もなく、混沌であるしかない、そういう光だ。この世界を導き、私たち一人一人を生かすまことの光。根源的、究極の光。それは真理であり、愛であり、希望である光だ。この世界も私たちも、希望がなく、愛がなく、真理も秩序もなければ、決して存在することも、生きることも出来ないだろう。私たちが存在しているということは、そのことを意識していようと意識してなかろうと、このまことの言であり、命であり、光であるキリストのお陰なのだ。そのキリストが肉体をとって一人の人間として生まれた。それが主イエス・キリストというお方なのだ。

1227日:ヨハネ福音書1:4351
「ナザレの人が神の子」 ⇒ (ナザレから良いものが出るのか?)

フィリポにイエスのことを伝えられたナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。これは、「出るはずがないではないか」という反語的表現。どうしてナタナエルはそんなことを言ったのか? ナザレの村に対しての差別的な偏見か? そうではない。ナタナエルは旧約聖書をよく読んでいて、本気で救い主を待ち望んでいたのだ。だから、聖書にはナザレから救い主が現れるなどとはどこにも書いてない、生まれるならベツレヘムだろう、そういう意味で「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのだ。しかし注目すべきは、このナタナエルの否定・拒否の反応に対してのフィリポの対応。これはよくよく心に留めておくべき言葉だ。これほどまでにはっきりと、拒否、否定されたにもかかわらず、フィリポは「来て、見なさい」と言ったのだ。来て、見なさい。来て、自分の目で見ればすぐ分かる。そう言って、結局ナタナエルを主イエスのもとに連れて来てしまったのだ。


11月の学びのポイント

2015/11/06 17:39 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿

11月度のエレミア書の学びのポイント ⇒

ユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた時代、まさに動乱の時代に神のことばを語ることがエレミ
ヤに定められた召しであり、それ故、彼は「涙の預言者」と言われるほどに、悲しみを体験した預言者だったのです。
しかし、エレミア書をじっくりと読み進めていく内に、本当に涙を流してくださっているのは、神ご自身であることに
気付くことでしょう。私たちは、今、夕拝で賛美する「父の涙」の意味するところを、今一度、再考することが求めら
れているのです。11月のエレミア書の学びには「偽預言者」も多く登場します。「偽預言者」の声に惑わされること
のない、真実の声に耳を傾けましょう。


11月1日:エレミア書24:1~10「悪いいちじくのただ中で」⇒(御心の悲しみに気付く)

何が見えるか、という主の問いに、エレミアはふたつのいちじくの籠が見えますと答えた。「良い方のいち
じくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」そしてエレミアに示された幻の意味は、
良いいちじくが先にバビロンに囚われていった人々であり、彼らはその地で悔改め、変えられ、このユダの地に
戻ってくるであろうということであり、他方、悪いいちじくとは、この地に残されたゼデキヤ以下の指導者たち
であって、彼らは当面の危機が去ると、楽観的になり慢心し、エジプトに頼って、反バビロンの画策を始める。
つまり彼らはまだ悔改めようとはしなかった、という事でした。常識的には、バビロンに囚われて行った人々は
神の裁きを受け、本国に残された者たちこそ神に選ばれた者と考えるでしょう。しかし、自分達が神に選ばれたと
思う時、人は慢心し、神の御心を思おうとしないものなのです。選ばれる人々は、神の裁きの前に打たれ、砕かれ
、そのどん底から神の救いを求めるものです。神は求めるものには答えられ、彼らは悔い改め、救われるのです。
裁きこそ救いであり、泣いた事のない者には本当の喜びは与えられません。人に裁きが与えられる時、ある人は
その裁きの中で自滅し、別の人は裁きを通して新しい存在へと生まれかわります。何が彼らを分けるのでしょうか。
「悲しみを御心として受け入れる」ことはすべての人に可能であるのに、です。第二コリント7:10「神の御心に
適った悲しみは、取り消される事のない救いに通じる悔改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」

11月8日:エレミア書28:1~17「ああ、ハナンヤ」⇒ (本当の預言者の務め)

 神殿でエレミヤは、預言者ハナンヤと対決しました。ハナンヤが語った内容は、エレミアが語る預言の内容に比
べて、まったく逆の幸せを告げる預言でした。重い重税を課せられ、王侯や貴族たちのほとんどがバビロンに連れ
去られている現状です。神殿の重要な祭具も持ち去られていました。しかし、そうした状況が2年後には解決される、
とハナンヤは言うのです。王や捕囚の民全てが帰ってきて、バビロニアの支配から脱して、再び自由な時が来ると
、言うのです。しかし、エレミアはこの言葉に反論します。たしかにあなたの言葉が実現して、持って行かれた祭具
や捕囚の民が戻ってくれば良いことだろう。しかし、これまでに現れた預言者たちは、皆、戦争や災害や疫病といった
不幸を予言した。あなたが語る平和についても、その平和が実現したそのとき、あなたが本当の預言者であるかどうか
わかる、というものだったのです。確かに預言者たちの役割は基本的に、世の中の流れに対して、批判的な事を述べる
役割があり、それは、楽観的な王や貴族たちに対する警告の役割を務めていました。そして、だからこそ時に命を狙われる
ようなきびしい状況に陥ることもあったのです。そして更にエレミアの心を言えば、本当に平和が来るとしたら何もしな
ければ良いのではないか、それまで待っていてはどうか、ということなのでしょう。しかし、ここで語られている平和は
そうではありません。2年後に自分達は解放される、その実現の為にバビロンに反抗しようではないか、という内容なのです。
しかしハナンヤは、エレミアが首につけていた軛をはずし、打ち砕き、神の預言として、11節のように語ります。「主は
こう言われる。」わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツアルの
軛を打ち砕く」。


 11月11日:エレミヤ書31:27~34 「建て、また植えようと見張る主」 ⇒ (暖かさと決意のもとでの契約)

 あなたたちが、今、苦境に陥っているのは、「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」からではない、と
工レミヤは言います。先祖の罪やたたりやバチや呪いなどではない、あなたたちのふるまいと心の向かっている方向が、
この事態を招いたのだ。しかしそこでエレミヤは神の言葉を告げるのです。「私は彼らの罪を赦し、再び彼らの罪に心を
留めることはない」
 人は自分の罪の報いを受けます。しかし、罪を裁くべき神ご自身が、もはやその罪を責めはしないと言うのです。
あなたがたの方では神を忘れていたかも知れないが、神はあなたのことを、一日たりと、一時たりと忘れたことはない、
変わらず、あなたを愛して、待ち続けていて下さる・・・・この約束こそ、新しい契約だ、とエレミアはいうのです。
神様は、この約束を、一人ひとりの心に直接書き記して下さる、胸の中にあたえて下さる、とエレミヤは告げるのです。
他の人が、とか、常識が、とかではなく、一人一人の心の中に、神はその約束をすでに与えて下さり、人々が応える
のを待っていて下さるのです。聖書が言う「契約」は、結婚の誓いのように、暖かい心と固い決意のもと、存在の
全てを賭けてなされる約束の事を指すのです。


11月22日:エレミヤ書32:6~15 「回復の証明]⇒ (意味付けるのは主なのだ)

 捕えられているエレミアの所に、故郷アナトトから甥ハナムエルが訪れます。「伯父シャルムが土地を売るので買
い戻してほしい」。レビ記25:25に記されているように、ユダでは売りに出されたその土地の親族以外の者は土地を
買えなかったのです。おそらく他の親族はみな断り、エレミアのところに話が来たのでしょう。エレミヤは買い取り
を承諾します。主がそうせよと言われたからでした。
アナトトは今、バビロン軍の占領下にあり、土地は無価値でした。また国が滅亡するその時、エレミアの生存も保証
されていないのです。しかし、エレミヤはそれが主の命令であると知るゆえに、無価値の土地を銀17シェケルで買っ
たのです。不条理な主の命令、意味があるとは思えません。バビロン軍は明日にも城壁を破って突入し、国は亡びる
かもしれないのです。この都が滅びるまさにその時に、「あなたは私に土地を買え」と言われるのか、と、当然エレ
ミヤは主に抗議します。主はそのエレミヤに答えられるのです。「私にできない事があろうか。この都を滅ぼすのは
私だ。その私がこの都を再建することが出来ないとあなたは言うのか」と・・・・。世界は神が支配しておられるのか、
それとも人間か?人間であれば人は何の希望も持ち得ない。弱い者は滅ぼされるのみなのだ。しかし神であれば異なる。


 11月29日:エレミヤ書42:18~43:7「聞くといったのに」  ⇒  (同時に二つは選べない)

 人々は神の御心に従おうとして、エレミヤに執成しを依頼しました。しかし、御心が自分達の願いと異なると、
エレミアの事を偽善者と言い始めるのです。結局彼らは、神の言葉に従おうとしないのです。人々は誰も
神の言葉を聞こうとしていないのです。人々が聞きたいのは、聞きやすい預言者の言葉であり、自分達の
希望を叶えてくれる神の言葉であって、決して自分達に苦難を強いる言葉ではないのです。
カール・バルトの「人々を満足させる牧師」という有名な説教があります。
 「偏りの預言者とは、人々に満足を与える牧師の事である。彼は福音の説教者、牧会者、奉仕者と呼ばれるが、
しかし彼は人間達の被用者にすぎない。彼は自分が神の名において語っていると夢想しているが、彼は世論の名
において、立派な人々の名において語っているに過ぎない。キリスト教はあなた方にとっては好ましく重要なもので
ある。あなた方は生活の美しい飾りとしてそれを好む。・・・神の意志と人間の意志との間の平和を説教し。現在
の生と新しい生を穏やかに賢く結び付け、民が築く隙間の多い壁に宗教という漆喰を上塗りし、人々を満足させようと
する、そのようなことには何の意味もない。この説教を聞いて、あなたがたがも「私はもう教会に行かない」「我々
には牧師は不要だ」というのも一つの選択である。しかしまた・・・神の意志によって克服され捉えられることも可能
である。あなた方は人があなた方に神について語りつつ「同時にあなた方を満足させてくれるのを、求めることは
出来ない。二つのうちの一つを選ばなければならない。」

10月の学びのポイント

2015/09/30 7:45 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿

ヨシヤ王の治世13年に預言者として召されたエレミアは、エルサレム陥落後というイスラエルの歴史に
おいて最も悲劇的な時代を生きた預言者です。つまり、ユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって
進んでいた時代、まさに動乱の時代に神のことばを語ることがエレミアに定められた召しであり、それ故
「涙の預言者」と言われるほどに、悲しみを体験した預言者でもありました。エレミア書をじっくりと
瞑想し読んでいくことにより、私たちは、神の御心の真意に触れることができるでしょう。

10月4日:エレミヤ書1:1~10「若者エレミヤの召命」⇒(預言者の使命)
 エレミヤは「涙の預言者」と言tっれるほどに、悲しみを体験した預言者でした。国が滅びる時は、国が既に容易
ならざる問題を抱えている時であり、その問題を告発するために、預言者は立たたされます。しかし往々にして預
言者は指導者や民から嫌われ、排斥されてしまう。それ故、エレミヤも、迫害や弾圧の中での生涯を送っていくこ
とになってしまうのです。
 7節の神の言葉には、預言者に与えられた二つの使命が明確に語られています。第一に、預言者は自分が行きた
いところに行くのではなく、主が遣わされるところへ、どこだろうが、そこへ行かねばならない。「だれのところへ
遣わそうとも、行って」という言葉において、そのことが明らかにされていきます。第ニは、「わたしが命じること
をすべて語れ」という主のご命令に従うことです。自分の考えでなく、主が命じられることを語ることにおいて、
預言者は真に神の使者で有り得るのです。神の命令に従うことによって、預言者は神の全権を委任された使者とな
ることができますし、預言者に委ねられた言葉にこそ、信仰と服従とを、人々に得させるカがあるのです。そして、
神は預言者に服従だけを求めるのではなく、約束を与えられます。「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」、と、
救済の約束を与えられるのです。預言者に臨庄と助けとを約束し、それによって語るべき人間の恐怖を取り除いて
いくのです。不安におののく孤独な人間エレミヤには、いつも彼と共にいる、と約束する神が居たのです。そして、
この約束は、孤独と不安の中で、神の救いにあずかる人間すべてに伝えられていきます。エレミヤは、この苦悩と
救いの体験において、孤独に生きるすべての者を励ます預言者に変えられて」いきました。主はエレミヤに向かい
「わたしが命じることをすべて語れ」(7節で)と言われているのです。

 10月11日:エレミヤ書7:1~15「主の新殿の門に立ち」 ⇒ (主の道が試されるとは?)
 エレミヤが力をこめて強調するのは、信仰と倫理・道徳は不可分のものだ、ということです。つまりエレミヤの
立場は、十戒という神との契約の基本とも一致しているのです。主イエスの山上の説教もその立場を旧約聖書から
受け、一層深め、為されたものです。しかし今やこの要請を破ってユダの民は、聖なる神殿を汚していました。工
レミヤは、彼らの神殿への信頼は、まるで強盗の巣窟のようだとキ旨滴し、お前たちには見えるのかと問い、主は「そ
のとおり、わたしにもそう見える」、という主の言葉を告げています。主イエスは宮きよめの際(マタイ1 2 : 1 2
以下)、エレミヤ書7章11節を引用し、エレミヤと同じ判断を下しました。確かに、神殿はイスラエルに恵みの手
段として与えられたものであり、それは日々の礼拝の湯所であり、祈りの家(イザヤ56:7)です。そこにおい
て行われる祭儀を通して、罪人は神との交わりを赦され、神の前に立つことができるのです。しかし、神殿本来の
目的が曲げられ、悪用される時、ヤハウエはこれをにふさわしい怒りを発せられるのです。
 しかし、エレミヤが聖所を強盗の巣窟になぞらえたことは、神殿を冒涜としたと人々に受け取られたに違いあり
ません。 13-14節は、神は祭儀が行われる場所・空間に拘束されることなく、むしろ、神の聖なる意思に民が
拘束されていることを明らかにしています。ヤハウエには、シロの聖所を破壊されるままに任せる自由と権限とが
ありました。それと全く同じなのだ、とエレミヤは叫ぶのです。主は、人々が悪行の隠れ家までに堕落させた工ル
サレム神殿を同じ運命に引き渡される。主の警告や訓戒は、主の善意から出るものです。預言者の口を通して告知
され、説明され、強調されるのです。神の呼びかけに民が耳を貸さずに、これを聞き流し続けれぱ、その責任はた
だ民にのみあります。 15節において、エレミヤは、この訓戒に耳を塞ぐ民に、「お前たちをわたしの前から投け捨
てる」という神の最後通牒を告げます。イスラエルの選びは、誰からも拘束されずになされる一方的な神の憐れみ、
自由な主権的な業としてなされているのです。だから同じように、この民を神がご自分の面前から『投げ捨てる』
ことも出来るのだ、と、これらの言葉は語られているのです。マタイ7:21で「私に向かって、『主よ、主よ』と
言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである』、と記されています。エ
レミヤカ求めるのもまた行為です。確かに行為が人を救うのではありません。しかし真剣に神を求める人は、主の
道を行うようになるのです。主の道を行うとは、主の民(隣人)に対し人間としての義務を果たすことなのです。

10月18日:エレミア書13:1~17「麻の帯とぶどう酒のかめ」 ⇒ (倣慢の罪ゆえに)
「麻の帯」は契約の民を表す象徴です。11節では、主ヤハウエに対する神の民の契約として密接に関連付けら
れていきます。ヤハウエという身体にぴったりと結び付けられた帯は、契約においてヤハウエの民として結び付け
られたイスラエルであり、ユダでした。「しかし、彼らは聞き従わなかった」。ここに主の審判の理由が明らかにさ
れていきます。帯は、後になってユーフラテス側の水によって朽ち果ててしまいますが、しかしかつては様々な危
機に際して、民は神によって滅亡から免れる神の守りを経験することができました。また、帯は水で洗われること
なく次第に汚れていったということを語りながら、そのような民の罪にもかかわらず、神はこの民を長い間忍耐を
もって担ってきてくださっていたことが示せれます。どちらにして、神の忍耐の偉大さを強調する点て違いがあり
ません。しかし最後の節になると、そのような見方は、きっぱりと否定されてしまうのです。神は自ら民を選び、
この民が神の飾り、又は誉れとなるようにと、また神の名が神の民の名と結びついて存続するようにと、契約によ
ってこの民をご自身に「しっかりと着け」られては、いました。しかしここで示されているのは「傲慢」というこ
とです。この民は自らの傲慢さゆえの不従順によって、不適格なもの、選びにふさわしからぬものであることを、
自らに於いて証明してしまった。それによって、彼らは神の救済の計画にとって無用なものとなってしまったので
す。ここにおいて歴史的にも救済史的にも一筋の道か終焉することになってしまうのです。

 10月25日:エレミヤ書20:7~9(参照20:1~6、10~18)  「押さえつけておけない主の言葉』
              ⇒ (大いなる御心を知る)
 愛する民が破滅に定められているというエレミヤに託された便信は、エレミヤにとって悲しみ以外の何物でもあ
りませんでした。それは彼自身からすれば、進んで告げたい使信ではなかったでしょう。しかし、預言者は、自分
の意志とは異なっていても、神から示されたことは、それを告げねばならないのです。しかしその結果は、当然、
同胞の敵意と激怒を挑発することになってしまいました。エレミヤの魂は打ちのめされ、そしてエレミヤの心が見
る神の審判は悲惨なものでしかなく、民への深い同情に彩られていきます。
 しかしエレミヤに敵対する者は勝つことができないことを、エレミヤは召命の日に知らされます。それは、「わた
しがあなたと共にいて、救い出す」といわれる主の臨在と救いの導きとしてエレミヤに与えられたからです。その
ようにエレミヤの心に働く主の言葉を、抑えようとしても抑え込めない燃え上がる火の力として、エレミヤはその
心に、その体全体に、その苦難の中で見出していきます。しかしエレミヤはこの苦しみの告白を通して、神への自
由を獲得します。その自由の中でエレミヤの嘆きと懇願の祈りが神に向けられることになりました(10,12節)。
このエレミヤに勝利する御言葉の力は、神に召されたすべての者に向けられます。この御言葉の力に支えられてい
るところにこそ私たちの真の希望と慰めがあるのです。

9月の学びのポイント

2015/09/02 4:43 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿   [ 2015/09/03 4:06 に更新しました ]

 9月の出エジプト記の学びのポイント

9月度は、この出エジプト記から、「聖」という意味を再考してみましょう。新しく生まれ変わったイスラエルが
モーゼとイスラエル、それぞれに起こった数々の出来事に直面させられていく過程で、神の「義」と「愛」の意味
を深く知らされていく。そして、神が「聖」なるお方である事に改めて出会っていく。そのプロセスを私達も共に
歩んでいくことが求められています。この出会いがもたらされた時、改めて私達はヤハウエなる神(在って在る方)
への気付きが起こされて行くのです。


9月6日 出エジプト記32:1~14  「なぜ、待てない」 ⇒(人間の弱さが求めるもの)
シナイ山中で、モーセが、幕屋のことや祭司のことについて神からの啓示を受けていた期間は、24章18節に40日間
続いた事が記されていました。待ちくたびれたイスラエルの民は、モーゼに代わって他の神をアロンに求めてしまい
ます。モーセが一緒にいないので、主なる神が共におられる事を意識する事が出来なくなり、彼らは待ちきれなく
なったのです。そしてその時行動に出たのが、「神を造って下さい」というものでした。
 私達は彼らの行動があまりにも突拍子すぎて、理解できないかも知れません。しかし彼らはずっと長い間、エジプ
トの地に生きてきたのです。エジプトではあらゆるものが神として拝まれていました。それはふだん彼らが見慣れた
ものであり、ある意味で愛着さえ感じていたかも知れません。私達は、主が一緒にいてくださるという意識が持てな
い時、その代用物として、ほっとできるものを造りたくなったり、持ちたくなってしまいます。生ける神が共におら
れる事が分らなくなり(信じられなくなり)、主を待ち望む事が出来なくなって、自分の」心に偶像を造ってしまう
のです。そして、古くから親しんできたもの、慣れているもの、自然に存在しているものに戻っていってしまう。
これは人間の弱さであり、この弱さが切っ掛けとなって、さまざまな罪を生み出して行くのです。私達の周囲に
どのような「偶像」と考えられるものがあるか、考えてみましょう。

9月13日 出エジプト記 33:7~17、(参照33:1~6「民と共に行って下さい」⇒ (神の臨在)
神様は、もはやイスラエルとは一緒に行かない、と言われているのです。なぜなら、イスラエルの民は「かたくなな
(うなじのこわい)民」であり、もし民が再び罪を犯すなら、神様は、今度は彼らを絶ち滅ぼされる危険性があるから
だ、と語られているのです。
聖であり義なる神は、罪を厳しく裁かれる方です。そうならない為に、神様は、イスラエルと一緒に行かないと言って
いるのです。この知らせを聞いた民は、悲しみ痛みます。そして、身につけていた「飾り物」捨て去るのですが、まさに
彼らにふさわしいものは、きらびやかな装飾物や祭りの衣装ではなく、悔改めの荒布で作った衣服であったのでしょう。
そして、イスラエルの宿営の真中にあるはずの臨在の幕屋は、民の罪の為に、宿営の外に建てられ、その幕屋におおいて
モーゼは、神様と出会うのです。神さまは、「人が自分の友と語るように」顔と顔とを合わせて、親しくモーゼと交わり
を持たれました。
 モーゼが最も求めていた事、それは民の中における神さまの臨在だったでしょう。神さまの臨在は、イスラエルとそれ
以外の民とを区別するしるしでした。イスラエルは、神様が共にいて下さる民なのです。神さまが臨在されないなら、
イスラエルの存在の意義は失われてしまうのです。そこで神様の臨在なしには、民を連れ上がれないこと訴え、モーゼの
ことをして「私はあなたに好意を示す」と言われたのだから、その道を示して欲しいと願うのです。
 私たちキリスト者とそうでない者たちを区別するものも、神の臨在です。イエス・キリストを信じ、新しく生まれ変わ
った私たちの内には、聖霊なる神が住んでおられるのです。私たちの内から聖霊の内住が失せてしまうなら、神さまの
子どもとしての存在意義は失われてしまうのです。

9月20日 出エジプト記34:1~10.27~28「もう一度そこに立ち」 ⇒ (顔の覆い)

モーゼは二枚のあかしの板を手にして山から降りてきました。ところが神の栄光の後ろ姿を拝し、神と顔と顔とを合わせて
語ったモーゼは、自分の顔が光を放っているのを知りませんでした。これは神の栄光の繁栄だったのです。アロンと他の人々
はこの光をみて恐れを感じ、モーゼに近づく事ができませんでした。しかしモーゼは山の上で語られた御言葉の全てを彼らに
伝えました。そして、これから後、モーゼは人々と接する時には顔に覆いを掛け、神と話す時にのみ、覆いを外すようになった
のです。それはモーゼの顔が光を放っていたからなのです。
 新約聖書Ⅱコリント3:6-18には、この「顔の覆い」に関する霊的な意味が説明されています。今日もキリストを信じない
人達は、ちょうど心にこの「覆い」を掛けられて、真理から隠されているようなものなのでしょう。この覆いはキリストに向き
、キリストを信じる時、初めて取り除かれるのです。そしてキリストを信じるものは内住の聖霊を頂き、この御霊の働きによ
って、鏡のように主の栄光を反映させながら、日々栄光から栄光へと、主と同じ姿になるよう、変えられていく事が約束されて
いるのです。

9月27日 出エジプト記35:4~29(参照40:34~38)「進んで心から」 ⇒  (安息の戒め)

イスラエルの民が、これから幕屋の建築に取り掛かろうとするとき、モーゼは、その前に、安息日の戒めをイスラエルに伝え
ました。幕屋の建築についてイスラエルの民は、とても喜んでいました。わくわくしていました。彼らは金の子牛を拝むという
罪を犯してしまいましたが、悔い改めました。そしてモーゼの顔が輝いているのを見ながら、再び主の言葉を聴きました。それに
よって、彼らの心は熱い思いで一杯になり、主にお仕えしたい願いと、主に自分自身をおささげしたい願いが強くなっていたの
です。
 そのような状態のイスラエルの民に対して、モーゼはまず、安息日の掟を教えたのです。7日目には必ず休まなければいけない。
その日は働かないで主を礼拝しなければいけない、と教えました。コロサイの信徒への手紙で、パウロは、安息日や祭りは、
次に来るものの影であって、本体はキリストにある。と言いました。(2:16-17参照)。この安息は、私たちの救いのために、
神がイエス・キリストにあってすべての働きを成し遂げられたことを意味しています。私たちが救われる為に必要なことは、
イエス・キリストが十字架につけられたことによって完成したのです。したがって、私たちは今、イエスさまが行って下さった
ところに休むことによって、安息を得る事ができます。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませて
あげよう。(マタイ11:28)とイエスは言われたのです。
 したがって、イスラエルが自分達を主にささげ、主のための働きをする前に安息の戒めを受けたのは、私たちクリスチャンが
すべての献身と奉仕の前に、キリストの十字架のみわざをあがめることを求められていることに他なりません。私たちの主に
お仕えする思いは、みな、自分の罪のためにキリストが死んでくださったという事実から生じてくるのであり、その深い愛に
駆り立てられて、奉仕へと、又福音宣教へと促されるのです。




8月の学びのポイント

2015/07/31 18:04 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿

8月度の出エジプト記の学びのポイント 
⇒ 出エジプト記は、神の「救い」の意味を明確に示してくれます。新しく生まれたイスラエルには、教育が必要となる
のであって、その教育の基本は、神の言葉を聞く事なのです。出エジプト記19:5、「今、もしわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るならば・・・」は、原文を直訳すれば、「聞く事(シエマー)を聞く事(シエマー)とする」となっているのです。

8月2日:出エジプト記16: 1~15「荒れ野で飢えを満たす神」⇒(つぶやきへの戒め)

 出エジブトの民は、次第にシナイ半島の南部、山岳地帯に進んで来ましたが、ここはもともと1600メートル
に及ぶ岩山が連なり、道は、その問の狭い谷を縫っていて、旅は困難を極める地域でした。岩塊や砂礫が多く、食
糧の産出は極端に少ない。現在でも、ようやく六、七千人を養うに足る程度の地方です。そこに2百万人ものイス
ラエル人が入ったのですから、たちまち食糧も飲料も不足に陥ってしまったのです。困窮すると、つぶやきが洩れ
る。これは、ごく当たり前のことでしょう。しかしつぶやきは、力を結集しなければならない時に、タイヤに刺さ
った小さな釘穴のように、内側から力を抜く役割を果たしていきます。6-8節では、モーセとアロンが民のつぶ
やきに答えています。その中で、モーセとアロンに対するつぶやきは、主に対するつぶやきてあることが強調され
ています。「我々は何者なのか」。モーセとアロンが、主の立てられた代理人であって、ここまでイスラエルを導か
れたのは神ご自身であることを、イスラエルの民は忘れています。ですから、それが、たとえ人に対するつぶやき
であっても、主はそのつぶやきを聞き逃すことはないのです。神の立てられた器である指導者モーセに対する不平
不満は、実は、神ご自身に対して言ってることになるのです。神の救いをます求めるなら、明日何を食べようかと
心配する必要はなく、その日の苦労はその日だけで十分なのです。(マタィ6:25-34・「何よりもます、神の
国と神の義を求めなさい」「義」は「救い」と同義語なのです。)

 8月9日:出エジプト記1 6 : 1 6~36「それぞれの必要な分」⇒(わたしには何も欠けることがない)

 イスラエルは、この天からのバンを「マナ」と名付けます。それは、「これは何だろう」(マーン・フー)と、互い
に言った言葉かマナの語源であると言われています。人はなかなか、満足というものを知りません。今の給料で満
足という人は本当に少ない。しかし、富んでいることも大きな誘惑なのです。冨というものは、自分で持っている
ようであって、実は富にしばられてしまう、そういうことか起きるのです。富みから人は、なかなか自由になれない。
その富が自分を支えているかのように錯覚してしまうのです。ですから、貧の道も、冨の道も、実に誘惑に満ちて
いるものなのです。「足ることを知る」、これは、どの宗教でも言っていることです。仏教ではΓ人間、起きて半畳、
寝て一畳」と言っている。起きればタタミ半畳しかいらないし、寝るにはタタミー畳しかいらない。だから、大き
な家も家財道具もいらない。そんなものに心を奪われるなということを教えているのでしょう。「足ることを知る」
というのは、欲や心の動きをおさえることが出来るようになることだと考えられている。しかし、キリスト教では、
そうではありません。「わたしを強めてくださる方の中で、わたしを強めてくださる方につつまれて、わたしは何事
でもすることかてきる(フィリピ4:13)」と言っているのです。私たちキリスト者が良く言う「千リストにあっ
て」の「あって」は、ギリシャ語てはエン、英語てはインとなる前置詞です。つまり、エン・キュリオー。どんな
貧しい状況でも、豊かな状況でも、足ることが出来る、満足することか出来る、ということなのです。どうして満
足することが出来るのか?それは、キリストに包まれているからです。私という存在が、キリストの中にある。
私の全てがキリストの御手の中にある。貧しくても豊かでも、全てはキリストによって与えられ、備えられたもの
であり、それ故に感謝をもって受け取ることか出来るということなのです。「主は羊飲い、わたしにはイ可も欠けるこ
とがない」、詩編の23編の有名な言葉です。

 8月16日:出エジブト記17:1~7「ホレブの岩の上で」⇒(最初の思いを思い出す)

 さて、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、そこに素晴らしい楽園が待っていたかというと、そうではあ
りませんでした。イスラエルの民は、神様の約束を信じて、信仰の歩みをスタートしなけれはならなかったのです。
 シナイ半島の初夏は、灼熱の太陽に照りつけられ、一点の日陰もありませんでした。その中での旅は、まさしく
死の行進であったのでしょう。1節に「旅程に従って」、とありますから、恐ら<、レフィディムには「水かある」
という情報に基づいての旅だったのでしょう。しかし、予定されたレフィディムの水飲み場は、水が枯れ果ててい
ました。そして、期待を裏切られたイスラエルの民は、自らの過酷な運命を悟ることになるのです。もはや死を免
れる術は無い。そして、その状況の中で、イスラエルの民の意識の中からは、神様の存在やそのこ計画は、再び消
え去っていきます。この悲惨もたらしたモーセが恨めしい。モーセに復讐し、自らも死に絶える以外に思いつ<
事は無かった。その結果、モーセは、怒り猛った民に石をもって襲われそうになってしまうのです。
 このイスラエルの事例から、神様の、信仰者に求められる言仰に対しての「私たちの内実」が明らかにされてい
きます。神様が、イスラエルの民に、この試練を通し要求された点は明白でした。それは、目に見える全ての点
が不可解で絶望的であっても、約束された神様の言葉を信じ疑わないで、神様により頼む事以外には無い、という
ことでした。しかし、イスラエルの民の信仰の内実は、神様のご期待に答え得るものでは無かった。早々に神様を
忘れ、神様に従い、神様の御心を示してくれていたモーセを恨み、殺意さえ抱いてしまう。あれほとの神様の明白
な救いを体験し、神様が折り紙付きの指導者として選ばれた人物を、石打ちにすること以外、何ものをも受け入れ
なくなってしまうのです。

 8月23日:出エジプト記18 : 13~27「エトロの助言」⇒(助言に従う)

 今、モーセは40歳から80歳まで過ごしたミティヤンの地に入ってきました。。燃える柴を見たのはホレブの山
ででしたが、そこで主から語られて、イスラエルを救うように命じられて、それでエジプトに戻ったのです。これ
まで数多くの主の力強いみわさと、不思議なわざを見てきましたが、これらはだいたい一年ぐらいの出来事でした。
モーセがミディヤンの地にいたとき、彼は祭司エトロのところにいました。覚えているてしょうか? 彼が七人の
羊飼いの娘を助けて、その娘たちの父がエトロでした。そこでモーセはエトロのところで世話になり、娘のひとり
ツィポラを嫁として与えられ、ふたりの息子を生んでいたのです。そのエトロが、神が義理の息子モーセと神の民
イスラエルのためになさったすべてのこと、とのようにして主がイスラエルを工ジブトから連れ出されたのかを聞
いたのです。モーセの息子のひとりの名はゲルショムで、それは「私は異国にいる寄留者だ」という意味でした。
もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助け、ファラオの剣から私を救われた」という意味でし
た。モーセは、さぞかし、うれしかったことでしょう。一年程ぶりに、自分の妻と息子たち、そして舅に会うこと
ができました。礼をして、口づけをし、彼らと語り合う時を持ちました。モーセは舅に、主がイスラエルのために、
ファラオとエジブトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出
された次第を語りました。エトロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、エジプトの手か
ら救い出してくださったことを喜び、助言を与えてくれました。このように、異程走への証しが徐々に行なわれ、
最後にヤハウエが神であるという認識に至る場合は、聖書の中にはいくつもあるのです。

 8月30日:出エジプト記20:1~17「10の言葉をくださった神さま」 ⇒(神のことばを聴く)

 パウロは、ローマのィ言徒への手紙1章20・21節で、「従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、
神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、白か鈍く暗く
なったからです」と記しています。つまり、神がおられることを知らなかった、と何人も言い訳かできない、と言
っているのです。十戒は、そのために「ことは⇒文字」をもって記されたのです。私たちは、それと同時に、イエ
スさまの到来(新約時代の幕開け)によって、旧約の多くの規制は取り払われたに関わらず、十戒は例外であり、
キリストに従う者は、旧約に属す人にもまして、これを大切にしなければならないことを知らなけばならないの
です。また、契約の特徴は、相互的であることが普通です。ノアの契約やアブラハムの契約は一方的契約ですが、
モーセの契約は神と人との相互契約てあり、イエス・キリスト以前、以後、そして現在まで、イスラエル人(クリ
スチャン)を拘束し続けています。つまり、「主の戒めに聞き従うならば祝福をし、主の戒めに従わず、あなたち
とは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける(申前記11:26-28参照)」と言う関係です。しかし、
その本質は、「神はイスラエルの民を鷲の翼に載せてエジプトから救われた」と言う言葉に象徴されている、と思い
ます。鷲は子羊等の獲物を一方的に捕え、自分の巣に持ち帰ります。同様に神は、イスラエルの民を彼らの意思に
関係なくご自身の山に運んで来られたのです。人間の救いは、このように本人の意思や願いに関係なく、神様の一
方的意思によるものです。人間の思いや願いは、奪われる小羊に象徴される様に、救いとは全く無関係である事は
明確なのです。いやむしろ聖書は、「神の救いが、人間の意志に不可抗的に働き、その救いを実現される」事を例証
しているのです。そのことは、今までの出エジブト記の学びの中で、私たちはハッキリと見続けてきたところです。

7月の学びのポイント

2015/07/04 0:04 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿

 7月度の出エジプト記の学びのポイント
 ⇒ 
人間には、神が準備してくださった「弱さ」ということがあります。それは、神の救いの歴史が、私たちの人生とい
う弱く小さな歴史に意味を与え、目的を与えてくださるためなのです。私たち自身が、「俺が」「私が」「自分が」
という意識を捨て、自分の人生を、「私が」という主語ではなく、「神が」、そして「キリストのみ身体である教会が」
、という主語をもって語り出していったとき、初めてすべてが新しくされていくのです。


 7月5日:出エジプト記5:1~6:1「主とは何者なのか」⇒(主は唯一の審判者)

 イスラエルの民の信頼を得たモーセとアロンは、彼らの期待を一身に担いつつ、神さまの命令通り勇気をふるっ
てファラオのもとに出かけて行きます。ファラオは、エジプトで神とも仰がれている最高権力者であり、彼の背後
にはエジプトの大軍団が控えています。対してモーセは、エジプトでは前科者で、逃亡していたモーセが帰って来
たと分かれば捕らえられてしまうかも知れないのです。しかし神があえて問題のあるモーセを用いて事をなさろ
うとするのには、理由があります。それは、事が速やかになされる事ではなく、紆余曲折や、挫折や失敗を、人間
が生きる中に学ぶことなのです。そして、もう一つは、人間の歴史が、神の支配のもとに置かれていることを示さ
れることなのです。なゼなら人間の歴史とは、実は神のご計画だけが実現していく歴史だからなのです。この、出
エジプトの時代も同じでした。しかし当時の、神を信じるイスラエルの民は、事もあろうに、問題の解決を神にお
願いするのではなく、自分たちを搾取し滅ぼし尽くそうとしているファラオの前にひれ伏し礼拝し、嘆願しようと
する状態から抜け出ることは出来ませんでした。つまり、この人々にとって大切なのは、豊かな生活であり、池上
の繁栄だったのです。それゆえ神とそのしもべモーゼに尋ねる事をせず、この世の権力者ファラオを敬い、命令に
服していたのです。最初の人間が神の言葉を聞きながら、蛇に姿を変えた悪魔の声を聞き入れ,、神とその言葉を疑
い、拒否し、悪魔に信頼した出来事と全く同じなのです。この地上では、神の言葉を拒否するものも、ひととき受
け入れてもすぐに忘れる人も、真剣にみ言葉に取り組む人も、同じ結末である死は迎えます。そうです、人生は死
で終わるのです。しかし聖書は死の向こうに神の世界が有り、地上で生きている時にどう生きたか、の報酬を神か
ら受ける、と教えてくれているのです。

7月12日:出エジプト記12:29~42    「エジプトからの出発』⇒(悔い改めの基準とは)

 悔い改めとは、それがどれだけ人を悲しませることだったのか、霊的にはそれぴどれだけ神を悲しませることだ
ったかを知る事です。私達は悔改めの基準を聖霊の基準ではなく、道徳的な基準で探してしまいます。 自分
の道徳というラインを引いて、そこから落ちていなければ悔い改める必要はないと思ってしまうのです。姦淫の罪
を犯したとか、窃盗をしたとか、そういう大きな罪を犯した時には悔い改めるかも知れませんが、今の自分の|犬態
には寛容なのです。でもそれは聖書の基準ではなく、自分で引いた道徳的なラインの中で寛容なのです。誰にも気
づかれない罪で、道徳的なラインで判断するだけならば、そんなことはほおっておけばよいかも知れません。しか
し、神さまは、私たちに神の基準である「聖」を求めておられます。ヒソプの一束を取って鉢の中の血に浸し、そ
の鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけ、神がエジブトを打つために行き巡られ、そして、その戸口を過ぎ越さ
れるのを待つ。このかもいと門柱に羊の血を塗るために、イスラエルの民たちは、傷のない一歳の雄羊をほふりま
した。それはキリストの十字架を象徴的に表わす結果になりますが、当時は自分の身代わりに動物を殺すという意
味でした。自分の身代わりで動物が死んだのです。それは、ただ、神さまの災いを過き越せば良いということでし
ょう。自分か罰せられないための逃げ道に過ぎません。私たちはイエスさまを信じて罪を赦され、天国に行けると
いうことだけでは不十分なのです。子供が悪いことをする時、親は悲しむのはあたりまえなのです。私たちがもし
本当に神の子供なら、神の悲しみを知り、自己中心の自分、肉の自分、罪の自分を殺す真の悔い改めの思いが起き
るでしょう。罰を免れることが目的ではないのです。罪に死んで新しく生きること、それが本当の悔い改めの意味
であり、バプテスマを受けることの霊的な意味なのです。

7月19日:出エジプト記13:17~22「遠回りの道」⇒(いのちの道を歩む)

 この時イスラエルは、奴隷から解放された喜びと約束の地カナンに行ける希望によって、主に聞き従います。し
かし人間ま弱い者です。喜んでいる時、希望が見えている時には、主の御声に聞き従うのです。しかしそれが見え
なくなると主なる神に対して不平を語り、主に逆らうようになってしまうのです。あれだけ主によって数々の奇跡
を見せられ救われてきたイスラエルですら、そうなのです。こうしたことがなぜ起こるのか? イスラエルを守
り、救い、導いて下さる主なる神さまを忘れるからであり、それは同時に主なる神こそが、ゴールである約束の地
カナンに導いて下さる方であることを忘れてしまうからなのです。
 それでは現任に生きる私たちはどうでしょうか? イスラエルと常に共にいて下さった主なる神は、霊の導きに
より私たちと共にいて下さいます。しかし目で見ることが出来ません。耳で面接声を聞くことができません。奇跡
を直接見たりも無いでしょう。自然科学は進歩し、情報がすぐに手|こ取ることが出来る現在、人々は目で見ること
が出来ないもの、耳で聞くことができないものを求めようとはしません。自分で納得出来ることが全てなのです。
それ以外のことを全て排除していく。こうした状況が、言葉の権威をおとしめるのでしょう。語られる言葉一言一
言に重みを感じられなくしてしまうのです。誰もが言葉に責任を持ちません。そして、その自ら責任を持たない言
葉が、今、インターネットや携帯電話に氾濫しています。そういう状態の中、人々はさまよっています。最終的な
ゴールが見えないために、自分が納得する道、我が道を歩んでしまうのです。まさしく、今、この世にあって生き
ている私たちは、最終的なゴールを見失っている羊と同じなのです。
 イスラエルの民は、霊の柱、火の桂が動くとついて行かなければいけませんてした。てすからたえず誰かが起き
ていて見張りをし、柱が動けば荷物をまとめてついて行きました。私たちはそうてあってはならない。見えること
な<聴くこともない中に、神の具体的な守りや、導き、臨在を、聖霊の働きを通して感じる者になりましょう。聖
霊をいつも受けて、聖霊を祈り求めていきましょう。私たちは目覚めて祈りながら主の働きに期待し、聖雲に導か
れる神の民としての歩みをしていきましょう。神が示した道は命の道です。出エジプトの苦難と試練が無いクリス
チャンはいないのです。どんなに険しくても、どんなに狭くても命に通じる門だったら、命に通じる道ですから、
この道を歩みましょう。共に信仰の手を共に握って歩みましょう。

7月26日:出エジプト記14:5~31  「行くしかない」⇒ (窮地に在って、なお主を信頼す)

 「恐れてはいけない」。この言葉を、神は、創世記の族長たちの生涯の中で、彼らに対して一度ずつ用いていま
す。アブラハム(創世15:1)、イサク(創世26:24)、ヤコブ(創世46:3)。これらの言葉が語られたのは、
彼らにとっては最大の試練の時でした。しかし、どの時点でも、具体的にどのように、神が栄光を現されるかは、
明らかにはされてはいなかったのです。たとえ明らかにされても、信じられなかったかも知れないでしょう。彼ら
は、ただ主を信頼することだけが求められたのです。神は、あえて私たちを試練に導かれます。しかし、それは神
の栄光が現れるためなのであり、どんなときにも、私たちが、神から離れないことを試すことであって、私たちの
訓練のためなのです。
 迫り来るエジプト軍を目にしたとき、モーセに率いられたイスラエルの民は、狼狽してしまいます。そのとき、
モーセは、しっかりと民の前に立ち、叫びます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行わ
れる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはな
い。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい(13節)」。しかしこのモーセの叫び
に対して、なお、神は、モーセの前に立たれるのです,そして、語られる「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」、
と・・・。さて、このときの神は、どうして、そのような言葉を発せられたのか、ということを、考えてみましょ
う。イスラエルの民に「救い」を与えるために出エジプトを準備された神が、どうして、そのように語られたのか?
 出エジプトの出来事に私たちは、「救い」を思い浮かべます。そして、私たちの考える「救い」とは、平安と喜
びにあふれたものでしょう。つまり「平和」である状況です。しかし、聖書の与える平和は、人間の期待とは、ま
た、違ったものなのです。そこには、私たち人間の考える「平和」とは正反対の物がある。私たちが、普通に考え
る「平和」とは違って、「不安」と「心かき乱される」状況が、神の示される平和には、有ることが分かるのです。
 イエスさまは、ヨハネの福音書14章27節で言われています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたし
の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない・・・・。」そして、この出エジプト1
4章の場面では、特に、救われた人々に神が与えられることが、絶体絶命の窮地に陥れることであったことが分か
ります。しかし窮地に在って、私たりはなお、神に信頼することが求められるのです、

6月の学びのポイント

2015/06/05 0:34 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿

6月度 教会学校 学びのポイント

6月度の出エジプト記の学びのポイント 
⇒ 
 出エジプト記の1章から3章までを一言でまとめ括ってみたとき、そこには人間に対して神が準備してくださった
「弱さ」ということの大切さへの気づき、ということがあるでしょう。神の救いの歴史が、私たちの人生という
小さな歴史に意味を与え、目的を与えてくださるためには、私たち自身が、「俺が」「私が」「自分が」という
意識を捨て、自分の人生を、「私が」という主語ではなく、「神が」、そして「キリストのみ身体である教会が」
、という主語をもって語り出していったとき、初めてすべてが新しくされていくのです。


 6月7日:出エジプト記1:1~21「エジプトでの苦難」⇒(迫害の始まり)

 信仰の結果は、常に単純なハッビーエンドになるわけてはありません。モーセの誕生から、イスラエルのカナン
侵攻まで120年かかったように、神の祝福が最終的に成就するまでに、イスラエルは更に長い忍耐の時を必要と
したのです。その最初の試みが苦役でした。エジブト人はイスラエルを奴隷として、重い苦役を負わせたのです。
しかし、神の守りの中で、このような苦役をも祝福に変えられていったのです。12節、「虐待されればされるほど
彼らは増え広がった」と記されています。しかし、結果、エジブト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イス
ラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労動によって、彼らの生活はますます過
酷を極めた。のです。そして二番目の試みが起こります。それが民族の抹殺でした。エジブト王は助産婦に命じて
イスラエルの男児を殺そうとしたのです。しかし、二人の助産婦は、王の命令に逆らって、ヘブル人の赤子を救い
ました。王よりも神を恐れていたからてした。
 人はこのような迫害とそれに対する神の助けを通して、神の民とされていくのです。ヘフル12:5-6に、「わが
子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛す
る者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。

6月14日:出エジプト記仁22~2:10「モーセの誕生」 ⇒(「したたかさ」の連携)

 どんなに過酷な環境におかれても、人はしたたかに喜びをつかんで生きていくものだということを、今日の聖書
箇所は示します。神を礼拝する時、特別な役割を担うレビ人出身の男女が出会い結婚し、待望の赤ちゃんが生まれ
ます。この時ほど二人が幸せを感じたことはなかったでしょう。しかし、2人が幸せを感じたのはつかの問です。
エジプト王は、イスラエル人の生まれた男の子は、1人残らすナイル川に放り込めとエジプト全域に命じたのです。
やがて、成長すると、この赤ちゃんは王女の子として生きることになり、モーセと名付けられます。神は背後に隠
れながら、これら無力な、しかし小さな命に寄り添い続ける女性たちを用いて、やがてイスラエルの民を奴隷から
解放するのです。登場する人々の無力さにだけ目を留めていると、何の希望もないでしょう。むしろ無駄なあがき
として片付けてしまうような出来事かも知れないのです。しかし、このテキストの中に、「戦うこと・殺すことがで
きる人間」と、「それがどうしてもできない人間」とが、《向き合わされている》構図を見ます。「できない人間」は
一見弱いように思えます。しかし、「できない」ということは強いことなのかも知れません。神はそのような人々を
用いて歴史をつくっていくのです。やがてそれらの無力な女性たちの抵抗は、連携していき、イスラエルの民全体
の解放へと展開していきます。ここに神の導きが隠されています。私たちは、見えない事実を確認する信仰によっ
て、これらの人々の背後に隠れた神の導きを知ることができるのです。そしてこのイ言仰に立った時、一見希望のな
い時代に、積極的な可能性が満ちていることに気付き、新たな希望に支えられて、私たちは生きることができるの
です。時代がどれほど困難に思える時にあっても、ここに登場する女性たちのように、あくまでしたたかに小さな
命に寄り添い生きることの大切さは、神の不思議な導きに与る喜びの中に知ることがてざるのです。

6月21日:出エジプト記2:11~25「寄留者モーセ」⇒(「備えられた時」に気づく)

この世ては、私たちは旅人、寄留者(ゲール)であり、この世は一時的な通過点に過ぎない。だからこの世のこと
に囚われることはないのです。この世でいかに栄え、富み、繁栄し、あらゆる物を所有しても、それらのものは、
天の国には、持っては行けない。まさしく、いつまでも残るものは、信仰、希望、愛だけなのです。私たちは、こ
の地上のものではなく、上にあるもの、天にあるものを目指していかなくてはなりません。聖書の中に登場する聖
徒たちも、神さまに仕えたにも関わらず、迫害され、苦しみ、なんの報いもなく死んで行った者たちもたくさん居
ました。人間的に見るなら、何と無駄で、無意味で、惨めで、つまらない人生でしょう。しかし、彼らは、この地
上のことだけを見ていたのではなく、天にあるもの、後に与えられる栄光、祝福、報いを望み見ていたのです。イ
エスさまご自身も、人類の救いのために十字架にかかり、死なれたのです。三日目によみがえられたが、やがて天
に帰り、福音宣教による魂の実は見なかったのです。しかし、それでもご自分のこの池上での使命を全うされ、後
の魂の救いを見て喜びました。この地上は一時的な通過点であり、私たちは旅人、寄留者なのです。まさに、「神の
なされることは、時に適って美しい」世界が、私たちの前には、広がっているのです。「ゲール」。この言葉の持つ、
はかなさ、美しさに、私は、魅かれてしまいます。
 王女の養子となってモーセはエジブト人として40年間育てられました。しかし、出自はヘブライ人なのです。
自分はいったいエジプト人なのかヘブライ人なのか、そしてこの世に神がいのちを与えた意味とか使命とは何か?
 モーセは自分のアイデンティティの確認のために、時間が必要だったのです。そして殺人を犯してしまった結果、
エジプトを逃れミディアンの地で暮らしながら、この問いを問い続けたのでしょう。それは静かな平凡な生活でし
たが、厳しい羊飼いとしての40年間の暮らしでした。そしてその生活が、「それから長い年月がたち、エジプト
王は死んだ。」時まで続いたのです。しかし、この引きこもったような平凡な暮らしの中にこそ、実は後の出エジプ
トに至る激しい生き方へと招かれる、そのエネルギーか蓄積されていったのです。歴史において一見無駄に見える
時間、そこに実は意味があるということを出エジブト記の著者は私たちに示します。出エジブトの出来事はただ単
に、偶然に、それも急に始まったわけではなくて、神が呼ばわるまでの「時間」が準備されているのであって、そ
の期間が大切なのです。本当に呼ばわれた時に働くためにも、この準備のために備えられた神の時間が、私たちの
信仰のあり方にとっても重要なのです。良く考えてみると、それが私たちの礼拝ではないでしょうか?今こうし
て集まっている礼拝の時、この一見、無駄にも思える時間こそが必要なのです。自分が生活している現場、その現
場から一旦退却し、家庭や職場での役割を放棄する、学生であるならば学びの時を一回放棄して、ただただ神の前
で無為であるということを受け止めながら、共に神の前に集まるという時間が必要なのです。その時があるからこ
そ、新たな歩みに呼ばわれていく、そういう道筋を、私たちは気付きたいのです。

6月28日:出エジプト記3:1~15「道をそれた先で」⇒(弱くあり続けること)

 旧約の文化の中では、履物を脱ぐという仕草は、所有権をはじめ様々な権利を相手に委ねる・手放すということ
を象徴することでした(参考:ルツ4:7)。「今、行きなさい……」。召命はまず命令から始まりました。しかし、
ミディアンの荒野で謙遜を学び、自己の無力を悟ったモーセは、以前のモーセではありませんでした。また以前は、
ファラオの娘の子でしたが、亡命し一介の羊飼いとなった彼に、どれほとの力があると言えるでしょう。モーセは
その任務の重大性と、その任務を遂行するに当って伴うであろう様々な困難を思って、また、エジプト王家の力を
熟知しているだけに、「わたしは何者でしょう……」と答えました。その使命の大きさに対して、現在の彼は、あま
りにも小さな存在だったのです。しかし、神の答えは、神がモーセと共にあるということでした。モーセにとって
必要なのは、彼自身の人間的な力でも、身分でもなく、主が共におられるということであり、主によって遣わされ
たのだという使命感てした。自分に力があると思っている間は、神に用いられることはできないのです。自分の力
に頼ってしまい、神に頼ろうとしないからなのです。しかし、砕かれ、へりくだり、自分の無力を悟る者を神は用
いられるのです。それは、その人が、もはや神以外に頼るものを持たないからなのです(マタイ5:3参)。
 人が弱くあり続けることの大切さへの気づきこそが、最も大切なことなのです。神は、強いあなた、偉いあなた
ではなく、弱いあなた、小さいあなたをこそ求めておられるのです。いえ、むしろ、誰かと比べて弱いとか、小さ
いとか、そんなレッテルもすべて取り去ったあなたをこそ、神は求めておられるのです。

5月の学びのポイント

2015/05/01 18:59 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿   [ 2015/05/01 19:14 に更新しました ]

5月度の使徒言行録の学びのポイント ⇒ 
「聖霊行伝」と呼ばれるこの書の学びの中で、私たちは今再び「教会を形成する」ということについて総復習
している。
地域協働プロジェクトのに置かれた教会として、今、その第2ステージに置かれる中、改めてこの5年間の
歴史の総点検をしている。神の救いの歴史が、私たちの人生という小さな歴史に意味を与え、目的を与えて
くださってきたか? そして、それを知った者は、自分の人生を、「私が」という主語ではなく、「神が」、
そして「キリストのみ身体である教会が」、という主語をもって語り出してきたか、が、今、改めて問われて
いるのだ。


5月3日:使徒15:1~21「恵みに圧倒されて」⇒(信仰のみで救われる)

 今日の聖書箇所は、紀元後48年頃、エルサレムで聞かれたキリスト教が全世界に広まっていく、そのことを決
定付けた世界で最初の教会会議での出来事を記しています。
 バウロとバルナバによって為された異邦人伝道は次第に実を結び、その結果、ユダヤ教からの改宗者、つまりユ
ダヤ人キリスト者を中心とする従来からのエルサレム教会と、異邦人キリスト者を多数としたアンティオキア教会
という二つの中心教会が生まれたのです。しかし、エルサレム教会では、主イエスを信じるだけては救われない、
モーセの律法も守らなければ救われない、そう主張する人たちの影響が、相変わらす強くありました。その結果が、
割礼という儀式を異邦人でキリストを信じた者も受けなければならない、という主張に端的に表れていたのです。
もちろん、パウロやバルナバを中心とするアンティオキアの教会は、割礼は必要ない、イエス・キリストを信じる
信仰によってのみ救われるのであって、律法を守ることは救いの条件ではない、異邦人は割礼を受けてユダヤ人に
ならなくても主イエスを言じる信仰だけで神の民に加えられる、そういう主張をしていました。聖書は、この二つ
の立場の対立が相当激しいものであったことを、「激しい意見の対立と論争が主じた」と記しているのです。それは、
生まれたばかりのキリストの教会における、最初の最も大きな危機だったのです。このままならキリスト教が分裂
していってしまう、そういう状況が生じたのでした。しかし、パウロやバルナバを中心とする「信仰のみ」の立場
が教会の公の見解として、このエルサレム会議で採用されることとなりました。もし、この時パウロたちの立場が
退けられていたなら、キリスト教はユダヤ教の中の一つの教派にとどまり、世界中に広がっていくことはなかった
でしょう。だから、このエルサレム会議は、その後二干年のキリスト教の歴史を決定付ける、重大な会議だったの
です。

5月10日:使徒17:28~34(参照17:16から21)「アテネでの宣教」⇒(「いずれ」は来ない)

 30節、「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆、悔い改
めるようにと、命じておられます」とあります。バウロはここで悔い改めを求めているのです。ここでの悔い改め
というのは、あれがいけなかった、これが駄目だった、と「反省」する、というようなことではありません。偶像を
拝んでいた歩みから、まことの神を拝む歩みへと「方向転換」する、つまり生き方を変えることなのです。神を利
用しようとする者から、まことの神を信頼し、愛し、畏れ敬う者になるということなのです。それは、まことの神
のもとに立ち帰るということであって、この悔い改めなしに、私たちが神の子となり、神の救いに与るということ
は、到底出来ないのです。
 そしてすべての人を悔い改めへと導き、救うために主イエスは来られたのです。この主イエスの十字架と復活
を語らなければ、主イエスの福音を告げることにはなりません。パウロは一気にこれを語り出しました。しかし、
死者の復活ということを聞くと、ある人はあざ笑った、と、聖書には記されているのです。復活ということが信じ
難いのは、今に限ったことではありません。これを聞いたとたんに、アテネの人々の反応が冷たくなったのです。
ある人はあざ笑い、ある人は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったのです。「いず
れまた」、この「いずれ」は二度と来ることのない「いずれ」なのです。

5月17日:使徒18:1~n『わたしの民が大勢いる」⇒(恐れるな、語り続けよ)

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危言を加える者
はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ(9~10)」。最初に主は、「恐れるな」とパウロは告げられま
した。ということは、この時バウロの中に恐れがあったということでしょう。バウロは何を恐れていたのでしょう
か?この言葉は、「語り続けよ。黙っているな」と続いています。この時のパウロは主イエスの福音を語ること、
伝道することに対しての恐れがあったということなのです。私たちは、バウロといえば勇敢で、どんな困難や迫害
にも屈することなく、いつでもとこでも大胆に主イエスの福音を宣べ伝えた伝道者であったと考えがちでしょう。
確かに、彼の伝道はいつも迫害を受けたのですが、それでも彼は伝道をやめるようなことはなかったのです。しか
し、「だからパウロには恐はなかった」と考えるならば、それは間違いです。彼は恐れたのです。福音を語り続け
ることが出来ないほどに恐れたのです。今まで、死にそうな目にパウロは何度も遭っています。第一次伝道旅行で
のピシディア州のアンティオキアで、イコニオンで、リストラで・・。私たちは、このバウロの恐れが良く分かる
のてはないでしょうか?そういう中で、アキラとプリスキラというキリスト者夫妻との出会いがあったのです。
私たちには今、「恐れるな。語り続けよ」との御言葉が与えられています。恐れずに語り続けることが出来る具体的
な状況、助け手、同労者との出会いというものが、きっと神から与えられるのです。神は、私たちにただ、「歯を食
いしばって、たった一人で、とにかく恐れすに語り続けよ」、そう言われるのではないのです。神は、「わたしが共
におり、わたしがすべてを備えているから、安心して、恐れずに語り続けよ」、そう言われているのです。

5月24日:使徒20:17~24「聖霊に促されて」⇒(神の栄光を現す者たちの集まり、教会)

 パウロはエフェソの教会の長老たちに向かって語りかけていきます。この箇所に記されていることは、教会の長
い歴史の中で、長老が任命される時に読まれてきた「教会の憲法」とも言うべきものてあるとも言われているので
す。ですがここで語られていることは長老たちだけがわきまえていれば良いということではありません。主イエ
スの救いに与ったすべての人がわきまえていなければならないことなのです。ここには、教会とは何か、長老とは
何か、長老が心しておかなければならないことは何か、が語られていると言えるのです。
 その第一に私たちがしっかりと心に刻んでおかなければならないこと、それは教会は「御子の血によって神のも
のとされた神の教会」であるということです。キリストの教会というものは、主キリストの十字架の血という代価
によって、神に買い取られたものなのです。私たちは、自らの罪の代価をイエスの十字架の血によって代わって支
払っていただいた、それによって神のものとされた者だちなのてす。私たちは、自分でイエス・キリストを信じる
ようになったからキリスト者てあり、救われていると思っているかもしれません。しかし、私たちが言じる前に、
イエスが私たちのために、私たちに代わって十字架の上で裁きを受け、血を流されたということがあるのです。だ
から私たちの歩みも教会の歩みも、ただただ神のものとされているということを明らかに示すものでなければなら
ないのです。神の子、光の子とされているのに、闇の子のような歩みをしてはならないのです。また、神のものと
されているのだから、ただただ、神の栄光を求め、神の栄光を現す者として歩まねばならないのです。

5月31日:使徒28:17~31「もはや止まらない」⇒(聖霊が先立って行くのだ)

 異邦人に福音は広がってい<。その時パウロは、「ユダヤ人はどうでも良い」などとは、思いませんでした。ただ、
神の救いの御業の秩序の転換が主イエスによって為された、そう理解していたのです。主イエスの福音が異邦人へ
と伝えられていく。今はその時。けれど、やがてすべての異邦人に福音が伝えられたならば、ユダヤ人もイエスを
受け入れ、すべての者がイエスの救いに与るようになる。そうパウロは信じていたのです。パウロは諦めない。同
胞を愛してやまない。「あなたたちは頑固だ」と言って諦めるようなことはしない。どうしてでしょうか?それは
パウロ自身か頑固であり、キリスト者を迫害する音だったからです。しかしその自分が救われた。だから、頑固
である、キリスト者を迫害している、そういうことはその人が救われない理由にはならないのだ、と、そのことを、
彼は自分が救われたことから、骨身に染みて知っていたのです。私たちも諦める前に、語らねばならないのです。
愛する者に語らねばならない。「一緒に教会に行こう」、「一緒に祈ろう」、「一緒に聖書を読もう」。断られても、し
つこいと思われても語らねばならないのです。バウロもしつこかった。どうしてでしょうか? それは、神がしつ
こいからです。神の愛はしつこいのです。だからこそ、私たちは救われたのです。神がしつこい方でなかったら、
私たちは誰一人救われていないのです。バウロは、私たちをどうしても救おうとされる神の「しつこい愛」の道具
とされたのです。ですから、私たちもそうなろうではありませんか!! 聖書はその後のバウロの活動については
全く沈黙しています。それは使徒言行録が聖霊の行伝であって、ペトロやバウロの行伝ではないからなのです。


4月の学びのポイント

2015/03/30 21:12 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿   [ 2015/03/30 21:15 に更新しました ]

4月度の使徒言行録の学びのポイント ⇒
 2012年の12月から2014年9月までの約2年間、「聖書の学びと祈祷会」で学んできた「使徒言行録」を思い出し
ましょう。「聖霊行伝」と呼ばれるこの書の学びの中で、私たちは今再び「教会を形成する」ということについて
総復習していくことになりました。地域協働プロジェクトに置かれた教会として、まったく新しくされた教会の形成を
目指してきた私たちですが、今、その第2ステージに置かれる中、改めてこの5年間の歴史の総点検をしてみたいと
思っています。神の救いの歴史が、私たちの人生という小さな歴史に意味を与え、目的を与えてくださってきたか?
 そして、それを知った者は、自分の人生を、「私が」という主語ではなく、『神が」という主語をもって語り出して
きたか、が、今、改めて問われているのです。

4月5日:使徒1:3~11「なぜ天を見上げているのか』⇒(聖霊に満たされて)

 使徒言行録を読み進めていくと、キリスト教会誕生の発端は、イエスさまの昇天の出来事にあることが分かりま
す。イエスさまが、聖霊を約束通り、送ってくださったペンテコステ、つまり、聖霊降臨の出来事が起きて、この
地上にキリストの教会が生まれた。聖霊は、神さまが、御約束なさったもので、私たちがイエスさまに対する信仰
の告白をすること、そして教会の起源は、聖霊の働きによる。それは、人開か準備さえしたら、聖霊が降ってくる
というようなものではない。順序としては、聖霊が降るから、あなた方は備えなさい、ということなのです。
 ヨハネは水でバプテスマ(洗礼)を授けましたが、イエスさまの弟子たちは、上から、聖霊のバプテスマを受け
て、イエスさまを、救い主と告白し、又、その告白の上に、教会が建てられたのです。そのためには、私たちに対
する神さまの恵みは、イエス・キリストが、その、命の代価を払って得られたものであることを、忘れてはならな
いのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤ
とサマリアの全土で、また、他の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。他の果てに至るまで、と言うの
ですから、使徒言行録の終わりで止まってしまう、のでは、ありません。この約束は文書としての終わりを、突き
抜けるようにして、教会の歴史を貫いている約束、なのです。そしてイエスさまの復活の出来事は、一瞬のこと、
イースターの朝一回だけのことではありません。40日間にわたって、復活されたイエスさまは、その姿を弟子た
ちに現し、弟子たちを教えられたのです。40日間というのは、決して短い期開ではないでしょう。イエスさまの
昇天を覚えるということは、イエスさまが40日にわたって、復活された御姿を弟子たちに表し続けられたという
ことを覚えることでもあるのです。イエスさまによる救いの御業は、十字架・復活で終わったのではなくて、聖霊
降臨の出来事へとつながり、教会の時代、キリスト者としての私たちの日々の歩みへと続いているのです。そして
復活がペンテコステの出来事へとつながる為には、どうしてもイエスさまは天に昇られなければならなかった。そ
れは、いつでも、どこでも、誰とても、イエスさまが共におられる為です。目に見ることの出来ない聖霊というあ
り方で、私だちと共におられる為なのです。

4月12日:使徒9:1~19前半「主が選んだ器」⇒(直線通り)

  ダマスコの町に入ったサウロは、《直線通り》という通りに面したユダの家で、たたずんでしまっている。
 自分の信じるユダヤ教にとっては、異端ともいうべきキリスト教を信じる者たちへの、戒めを与えるための旅で
した。ユダヤ教の律法を、律法ともせず、サウロの信じる《義》なる神をして、《愛》なる神に置き換え、ユダヤ教
の神殿から、ともすれば離れ、自分たちだけのコミュニティを造り上げつつある、イエスという男を信じる者たち
の群れ。その群れに、自分は神の制裁を加えるのだ。そんな一途な思いの中に、自分自身を投入してきたサウロで
した。それが、突然、自分の目の前に、あのイエスという男が現れ、自分に向かって、「なぜ迫害するのか」、と声
を発せられた。あのイエスという男は、確かに死んだはずではなかったのか? 確かに、あのイエスという男が、
十字架にかけられ、死んだはすなのに、復活して、自分の弾圧しているキリスト者たちの前に現れた、という噂は、
かすかには、聞こえてはきてはいました。しかし復活など有り得ないこと、ではないか? 死んだ者が蘇る、な
とということは絶対信じられない。
 きっと、サウロは、そう思っていたに違いありません。しかし、そう思っていたサウロの前に、確かに、あのイ
エスという男が現れた。そして、余りの出来事に、我を失ってしまったのか、サウロでさえも、あの方の威厳に満
ちたお姿を前にしたとき、思わず《主よ》と叫んでしまったのです。そして今、サウロは、直線通りに面したユダ
の家で、不安と恐怖と、とまどいの中にたたずんでしまっていた・・・。一方、15節のアナニアに対する「行け」
という主の言葉。これは、主のご命令です。神はアナニアの反論には答えないのです。ただ、命ぜられた。神には
神のご計画があり、それに逆らうことを神はお許しにはならないのです。こうしてアナニアは、主の命令に従って
サウロのもとに行ったのです

4月19日:使徒1 1 : 1 9~30「神の恵みを見て喜び」⇒(教会を整える)

 エルサレム教会はバルナバをアンティオキア教会に送りました。エルサレム教会としては、何よりも、彼らアン
ティオキア教会の信仰が、自分たちの信仰と同じてあるかを確認しなければならなかったのです。 23節、バルナ
バは、「固い決意をもって主から離れることがないようにと、皆に勧めた」、とあります。キリスト教会は、その始
めから、その信仰者が生涯キリスト者てあり続けること、そのことを眼目としていたのです。信仰は永遠の神との
契約です。そしてそれは永遠の命に連なり、永遠の住まいへ招かれることです。だから途中で信仰から離れてしま
えば、永遠の命の約束は果たされない、救われないことになってしまうのです。そんなことでは、回心して与えら
れた信仰はまったくのムダになってしまいます。信仰は一時の心の高揚のようなものではありません。生涯キリス
ト共に、キリストの救いの恵の中に留まり続け、歩むことなのです。ですからバルナバは、以前に回心してエルサ
レムの教会に自分が紹介したサウロをタルソスまで行って見つけ、一緒にアンティオキアでの伝道と牧会をするこ
とにしたのです。
 26節「二人は、丸一年の間この教会に一緒にいて多くの人を教えた。」とあります。この生まれたばかりのアン
ティオキア教会が、キリストの教会として整えられていく為には、どうしてもこの二人の優れた伝道者による一年
間の指導というものが必要だったのでしょう。自分たちは何を信じているのか。聖書をどう読むのか。自分たちは
どのように生活するのか。その一つ一つのことについて、パウロとバルブバからの指導が必要だったのです。

4月26日:使徒13:1~3、44~52「異邦人の方に行く!」⇒(二人の上に手を置き、出発させる)

 今日の聖書箇所から私たちが知るることは、当時のアンティオキア教会が、たくさんの異邦人キリスト者たちが集
められていた、ということです。そんな豊かな多様t生ともいうべき内容を含みつつ成長を続けたアンティオキアの
教会から、初めての宣教師、バルナバとサウロとが派遣されていくのです。そして、この伝道旅行から、サウロは
パウロというギリシャ風の名に変わっていきました。それはつまり異邦人への伝道者パウロの誕生ということです。
使徒言行録は、これ以降、バウロの伝道の記事が続いていきます。そこから知らされることは、神の救いの業は、
具体的な人を起こしその人を用いて為されていく、ということです。この神の御用のために立てられた者が献身
者であり、伝道者なのです。皆がバウロやバルナバになるのてはないのです。パウロもバルナバも、神によって選
ばれ,、立てられたのです。しかし、アンティオキアの教会の人々は、彼らを遣わし、彼らを支えることによって、
同じ神の救いの御業に仕えたのです。3節に「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」
とあるように、アンティオキアの教会がこの二人を遣わしたのです。パウロとバルナバは、自分たちがそうしたい
から、伝道旅行に出発したというのではありません。これはとても大切なこと。伝道は聖霊なる神の業であり、教
会の業です。個人の業では決してないのです。

3月の学びのポイント

2015/03/01 1:05 に 新潟主の港キリスト教会 が投稿   [ 2015/03/14 17:06 に更新しました ]

3月度のルカの学びのポイント
 ⇒ ルカ福音書は、イエスさまの愛を神の義によって裏打ちされた愛であることを強調します。
ともすれば「愛」ばかりを強調してしまう私たちです。神の「義」を置いてきぽりにした「愛」は、
「愛」を人間的愛、ヒューマニズムの愛に留めます。安っぽいものとしてしまうのです。
「愛」プラス「義」=「聖」 この方程式をいつも心に留めた、聖なる信仰を持ちたいものです。


3月1日:ルカ16:1~9「粋な主人」⇒ (不正のたとえで義を示す)

 会計報告書の提出を求められた管理人は、不正は隠しようがなく、解任を覚悟しました。しかし解任された後、
どうして暮らしていけばよいのか、途方にくれてしまいます。そこで思いをめぐらし、一つの方策を考え付いたので
す。管理人の権限を用いて貸し与えていた人々に利益を与え、恩を売っておけば、職を辞めさせられたとき、自分
を家に迎えてくれるような者たちも出て来るだろう。そしてこの管理人は、更に不正を行ったのですが、「主人は、
この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのです。
 主人は管理人の不正によって更に大きな損害を受けることになった。ですから、自分に損害を与えた管理人の「抜
け目のないやり方」を知ったうえで、それをほめるということは、普通は理解しがたいものです。この理解しがた
い主人の態度がどうして弟子たちへの譬えとなるのでしょうか?
 イエスさまは弟子たちに、この管理人よりも賢く行動するように求められたのです。この管理人が主人の信頼を
裏切り、与えられた権限を利用して自分の保身を図った「不正、不義」がほめられているのではないのです。残さ
れた僅かの時を有効に用いて、解雇される危機に備えた「賢い」行動がほめられ、この不正の管理人に代表される
 「この世の子ら」が、自分の仲間に対して行っているそのような賢い行動以上に「光の子ら」であるあなたたちは
 「いっそう賢く」行動するように、と求められているのです。本来神のものである与えられた財産や才能や知識、
またそれで得た地位や名誉などは、それを神の栄光のために、人間は隣人に仕えるために用いるよう、イエスさま
は示されているのです。ですからこそ、自分が獲得したものだから自分のために用いるのは当然だ、と私たちが考
えてしまう時、それらの価値あるものはすべて「不義の富」となってしまうのは当然のことなのです。


3月8日:ルカ18:9~14「二つの祈り」⇒ (義とは?)

 ファリサイ派の男は、自分が罪を犯していないことを感謝しています。しかレそれは、あくまで他人との比較で
語られているのです。他人がどれだけ罪人であるか、律法を守ることが出来ていないかを並べ立てることで、自分
の「清さ」「潔癖さ」を証明しようとしているのです。また、彼は、自分の律法への熱心さを誇り、人よりも倍の努力
をしていることを主張します。しかし多くの人々は、かえって毎日の生活の中で、そのような「義しい(ただしい)」
生活をしている人たちから、自分に向けられる軽蔑を感じてしまうでしょう。ファリサイ派の男は、そんな「義し
くない」人(徴税人たち)の心の内や、抱えている事情には思いも馳せません。彼にとっては、徴税人や「罪を犯し
ている他の人たち」の存在は、あくまで自分の「義しさ」や「清さ」といった価値を比べて測る「物差し」でしかなかった
のです。他の人たちがどんな事情や背景を持っているかは、彼にとってはどうでもいいことです。しかし神さまが
その声を聞き、「義しく、ふさわしい者」と認めるのは、「自分が義人である」ことを鼻にかけて、他の人たちの声や
祈りの思いを聞こうとも知ろうともせずに、その人たちを軽蔑するファリサイ派の男のような者ではありません。
そうではなく、袖さまが「義」と認められるものは、袖さまの前で謙虚になって自分を省みる者であり、実は「罪人と
見なされた」徴税人のような人たちの方なのだ、ということなのです。ですからこそ、自分のあり方を他人と比べた
としても、常にそこから神さまの前で謙虚になって、自分を省みる者でありたいのです。罪を悔いている人たちの
声を聞き、その思いを一緒に心を合わせて折る者でありたいのです。そして、その罪の状態を一緒に克服すること
を目指す者でありたいのです。


3月15日:ルカ19:1~10「今日、あなたの家に泊まりたい」⇒(その場で生きる)

 ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経斉的には恵まれていました
が、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押
されていたのです。もちろんザアカイ自身、自分の生き万は神に背くものだと感じていたでしょう。注意したいこ
とは、イエスさまはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に
泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づいたことです。どん
なに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたには善いことをする
力がある、とイエスさまは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えら
れるでしょう。イエスさまはザアカイには「わたしに従え」と要求しません。ザアカイもすべてを捨ててイエスさま
に従う、とは言いません。ザアカイは徴税人であることをやめません。ただ自分の置かれた揚で精一杯、正しいこ
とを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスさまは、その決意をも「わたしに従え」とい
うみ心への応答として受け入れ「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言するのです。


3月22日:ルカ22:24~30「踏みとどまってくれたあなたがたへ」⇒(仕える)

 弟子たちは、偉くなりたいと願っていました。では、弟子たちの考える「偉い人」とはどんな人のことでしょう
か? それは、人間的価値観を超えることのない、支配し、権力を持つ者だったのでしょう。ともかく人の上に立
ち、上から権力を振るい、人を支配する者でした。「食事の席」(27節)で言うならば、「給仕をする者」ではなく、
 「食事の席に着く者」(27節)でした。しかしイエスさまは、「それではいけない」(26節)と言われるのです。
そして、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようにな
りなさい」(26節)と諭されたのです。
 イエスさまは上に立つ者が下の者に仕えるべきだと考えておられるのです。だから、この世の上下関係は参考に
ならない。上も下もなく、人を人として、相手に仕える心で接することを教えておられるのです。そのために、食
事の席でご自分が給仕をなさり、弟子たちにその具体的な生き方を示されたのです。
 私たちは他の人に、本気で仕えたことがあるでしょうか?人のためと思いながら、いつもどこかに自分のため、
があるのではないでしょうか?いや、人のためと思ってすることは少なからずあっても、それが喜びになってい
ないのではないでしょうか? だから、イエスさまに仕えられている、ということが分からない、”仕える”とい
うことの深さが分からないのてはないか、と思うのです。
 イエスさまが弟子たちの給仕をされ、足を洗われた延長線の先には、イエスさまの十字架の死があります。十字
架の上で弟子たちのために、ご自分の命を捨てられたのです。だから、仕えるということの究極は、いえ、本来の
意味は、その人のために自分の命を捨てる、ということです。そして現実に、だれかのために命を捨てることが
私たちの人生にもあり得るかも知れないでしょう。けれども、実際に命を捨てれば、私たちの人生はもちろんそこ
で終わりです。そう簡単にポンッと捨てられるものではない。でも、もう少し小さくした形で、人のために命を捨
てることはできるのではないかと思うのです。


3月29日:ルカ23:32~43「十字架のイエスをはさんで」 ⇒ (今日、わたしと一緒に楽園にいる)

 死を目の前にした人聞が苦しむのは、どんなことでしょうか? それには三つのことかあるのてはないでしょう
か? 一つは、自分の今まで犯してきた罪や過ちに対する後悔、二つは、今の苦しみの状態を避けたいという思い、
三つは死んだらどこに行くのだろうか、という、将来に対する不安と恐れ、です。
 イエスさまと共に十字架につけられた一方の強盗は、「私を思い出して下さい」と言いました。大胆な信仰決心を
したわけではないのです。こんな罪深い私でも、あなたの御国に入れるなら、どうぞ、その時には罪深い私をも、
ちょっとてもいいてすから思い出しこ下さい、という控えめな、つつましい言葉です。自分がおいそれと救われる
とは思っていなかったからでしょう。それに対して、イエスさまは、「あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる」
と宣言されました。クリスチャンは死ぬと同時に楽園に移される、と考えられています。そこで主の再臨の時を待
つのです。楽園に行った人は必ず、天国へ行きます。どんな小さな信仰であっても、イエスさまは決して見捨てら
れません。「今日、わたしと一緒に楽園にいる」、とおっしゃって下さったのです。この主イエス・キリストの大き
な恵みと十字架の贖いの業を感謝しつつ、「私を思い出して下さい」と祈りながら、受難過を共に過ごしていきたい
と思います。

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