荘子:斉物論第二(36) 昔者莊周夢為胡蝶

荘子:斉物論第二(36) 昔者莊周夢為胡蝶

2009年01月05日 01時36分44秒 | 漢籍
荘子:斉物論第二(36)

昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與。周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化

昔者(むかし)、荘周(ソウシュウ)、夢(ゆめ)に胡蝶(コチョウ)と為れり。栩栩然(ククゼン)として胡蝶なり。自(みずか)ら喻(たの)しみて志(こころ)に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然(ガゼン)として覚(さ)むれば、則(すなわ)ち蘧蘧然(キョキョゼン)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為(な)れるか、胡蝶の夢に周と為(な)れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分(ブン・けじめ)有らん。此れを之れ物化(ブッカ)と謂(い)う。

 いつのことだったか、荘周(ソウシュウ)は夢のなかで一匹の胡蝶(コチョウ)となっていた。ひらひらと飛びまわる蝶になりきって、楽しく心ゆくままに空を舞っていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。

 ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく自分は荘周である。いったい、この荘周が胡蝶となった夢を見ていたのか、それとも、今までひらひらと舞っていた胡蝶が夢のなかで今、荘周となっているのであろうか。自分にはさっぱりわからない。

 けれども、世間の常識では、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるだろう。それにもかかわらず、その区別がつかないのはなぜだろうか。

 ほかでもない、これが万物の変化というものだからである。



 彼には結局、今までの胡蝶であった夢が本当の現実なのか、今人間である現実が実は夢なのか、さっぱり分からない。しかしそれがいったい自己にとってどうだというのであろう。
 ・・・(中略)・・・
 実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周であろう。一切存在が常識的な分別のしがらみを突きぬけて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。
 人間はただその万物の極まりない流転のなかで、与えられた現在を与えられた現在として、楽しく逍遥すればよい。
 目ざむれば荘周として生き、夢みれば胡蝶としてひらひら舞い、馬となれば高く嘶(いなな)き、魚となれば深くもぐり、死者となれば静かに墓場に横たわれ ばいいではないか。あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに、真に自由な人間の生活がある。絶対者とは、この一切肯定を自己 の生活とする人間にほかならないのだ。(福永光司)

 荘子にとっては、夢も現実も、それを「分有り」とみるのは人間の分別であって、実在の世界では、いわゆる夢も、いわゆる現実も、道 ─ 真実在 ─ の一持続にすぎない。自己と胡蝶とは確かに同じ物ではないが、そうかといって一を夢とし、一を現実とする必要はどこにもないのである。
 ・・・(中略)・・・
 荘子はこの生きたる渾沌のなかで、与えられた自己の現在を自己の現在として逍遙する。美もまたよく、醜もまたよく、生もまたよく、死もまたよく、夢もま たよく、現実もまたよく、人間であることもまたよく、胡蝶であることもまたよい。一切の境遇をよしとして肯定する荘子は、この篇の冒頭の南郭子綦(ナンカクシキ)とともに、万籟のひびきを天籟として聞いているのである。(福永光司)

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栩栩然(ククゼン)
 飛ぶ羽のように自由で愉快なさま。嬉しげに楽しむありさま。
「栩」・・・ 「木+音符羽」で、羽のように葉の飛び散る落葉樹。


蘧蘧然(キョキョゼン)
 はっと我にかえるさま。
 「蘧」・・・ 会意兼形声。「艸+(音符)遽(キョ・はっとする、不安定に動く)」。
 「蘧蘧」・・・ ぎょっとして悟るさま。
 「蘧然」・・・ はっとするさま。


物化
 万物が変化すること。

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