荘子:斉物論第二(23) 五者园而幾向方矣

荘子:斉物論第二(23) 五者园而幾向方矣

2008年12月13日 04時36分52秒 | 漢籍
荘子:斉物論第二(23)

夫 大 道 不 稱 。 大 辯 不 言 。 大 仁 不 仁 。 大 廉 不
。 大 勇 不 。 道 昭 而 不 道 。 言 辯 而 不 及 。 仁 常 而 不 。 廉 清 而 不 信 。 勇 而 不 成 。 五 者 而 幾 向 方 矣 。

夫(そ)れ、大道は称せず、大弁は言わず、大仁は仁ならず、大廉(タイレン)は
(ケン=謙)ならず、大勇は(そこな)わず。道は昭(あきら)かなれば而(すなわ)ち道ならず、言は弁ずれば而ち及ばず、仁は常なれば而ち(あまね=周)からず、廉(レン)は清ければ而ち信(まこと)ならず、勇は(そこな)えば而ち成らず。五者は(ガン・まどか)なるに而(しか)も方(ホウ・かどある)に向かうに幾(ちか)し。

 大道すなわち真の実在には、名づけるべきことばがなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。真の仁愛は仁としてはあらわれず、真の廉譲は謙譲の徳を示さず(自己を卑下せず)、真の勇猛は人を害(そこな)うことのないものである。

 だから道が明示されれば、その道はもはや真の道ではなく、ことばも弁じたてれば、いよいよ真実に遠ざかり、仁愛が特定の対象に固定されれば、もはや普遍性を失い、清廉も潔癖すぎるとごまかしが生じ、勇気も暴力化すれば真の勇気ではなくなる。

 この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいていくよなものである。

line

(ケン)
 へりくだる。謙そんする。
謙に当てた用法。



   そこなう。
 支障の「支」(つかえる)と同系。
 会意兼形声。支(シ)は、竹の枝を手に持つ姿で、分かれた枝、つかえるなどの意を含む。枝(シ)の原字。?は「心+(音符)支」で、心中につっかかる気持ちを生じてじゃますること。



 「郭云。有常愛必不周」(荘子集解)


五者
而幾向方矣
 要するに、「大道」「大辯」「大仁」「大廉」「大勇」の五者は、あたかも円周があらゆる角を自ずからの内に包むがごとく、本来融通無碍であるが、それは また、円周が直線によって截(き)られると、そこに三角形や四角形が成立するように、大道は概念によって害(そこな)われ、大弁は言論によって害われ、大 仁は固執によって害われ、大廉は狷介(ケンカイ)によって害われ、大勇は暴力によって害われるという限定化・不自由化の傾向性を内有しているのである。(福永光司)

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