荘子:斉物論第二(14) 古之人,其知有所至矣

荘子:斉物論第二(14) 古之人,其知有所至矣

2008年11月05日 00時16分17秒 | 漢籍
荘子:斉物論第二(14)

古 之 人 , 其 知 有 所 至 矣 。 惡 乎 至 ? 有 以 為 未 始 有 物 者 , 至 矣 , 盡 矣 , 不 可 以 加 矣 ! 其 次 , 以 為 有 物 矣 , 而 未 始 有 封 也 。 其 次 , 以 為 有 封 焉 , 而 未 始 有 是 非 也 。 是 非 之 彰 也 , 道 之 所 以 虧 也 , 道 之 所 以 虧 , 愛 之 所 以 成 。 果 且 有 成 與 虧 乎 哉 ? 果 且 無 成 與 虧 乎 哉 ?

古(いにしえ)の人は、其の知に至(きわ)まれる所有り。悪(いずく)にか到(きわ)まれる。以て未 (いま)だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽くせり。以て加(くわ)うべからず。其の次は以て物有りと為す、しかも未だ始めより封(ホウ・かぎるこ と)有らざるなり。其の次は以て封(ホウ・かぎること)有りと為す、しかも始めより是非(ゼヒ)有らざるなり。是非の影(あら)わるるや、道の虧(か)く る所以(ゆえん)なり。道の虧(か)くる所以(ゆえん)は愛の成(な)る所以(ゆえん)なり。果たして且(そ)も成ると虧(か)くると有りや、果たして且 (そ)も成ると虧(か)くると無きや。

 昔の絶対者は、最上の知恵を所有していた(到達した境地があった)。最上の知恵(到達した境地)とは何か。「はじめからいっさいの物は存在しない」とする「無」の立場であって、彼は「天鈞」としての道、「両行」としての実在とそのまま一つになって、これが道だと意識し判別することさえもなかった。この渾沌と一体になった境地、知を忘れた境地こそ、至高最上の境地なのであり、もはやつけ加えるべき何ものもない。
 これに次ぐ境地は、物は存在すると考えるが、その物には、他と区別される境界がないとするものである。最上の境地、すなわち体験そのものの世界が、一歩 人間の認識の世界に引き寄せられると、そこに「物有り」という判断が成立し、道の実在性が意識されるに至る。しかしこの段階ではまだ道の実在性は意識され ながらも、その意識された道は、なお雑然たる異質的連続、すなわち渾沌であって、そこにはまだなんらの「封」すなわち、境界ないしは秩序も発見されない。 いわゆる道と一つである自己が意識されている境地であって、これは最上の境地ではないが、それに次ぐ境地といえよう。
 さらに第三の境地は、境界があるとは考えるが、是と非との区別、価値の区別はまったくないとするものである。「封有りと為す」、渾沌は次第にその境界秩 序を認識の世界の中に明らかにし、道は本来自ずからの中に渾沌と包んでいた万物の形として現れる。すなわち、一が多となり、絶対が相対の諸相として展開す る境地である。ここでは、道の「一」は万象の「多」に分たれ、心知を絶した実在の世界は、人間の認識世界の埒(ラチ)内に位置づけられるが、「しかも未だ 是非あらず」、何(いず)れを是、何(いず)れを非とする価値判断はまだ施されていないのである。そして、この境地は、第一の「未だ始めより物有らざる」 境地、第二の「未だ始めより封(ホウ)有らざる」境地には及ばないが、それでもなお、道の純粋性は僅かに保たれているということができる。
 ところが、「是非の影(あら)わるるや道の虧(そこな)わるる所以」、是非の価値判断が確立されると、道の完全さがそこなわれることになる。「道の虧 (そこな)わるる所以は、愛の成る所以」、道の完全さがそこなわれるところには、人間の愛憎好悪(コウオ)の妄執が簇(むらが)り生ずる。
 ところで、いま道の完全さがそこなわれるといったが、はたして道には完全と毀損(キソン)ということがあるのだろうか。それとも道には完全も毀損もないのであろうか。
 このように考えてみる時、真実在としての道は、本来「成」もなく「毀」もない絶対の一なのである。

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