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Seminar3

自然知能セミナー(第3回)

日時:2016年5月7日(土) 14:0016:00
会場:多摩美術大学八王子キャンパス 情報デザイン棟2F 25–205教室
アクセスマップ:http://www.tamabi.ac.jp/prof/facilities/hachioji/h_facility.htm
主催:自然知能研究グループ
主催:日本光学会ナノオプティクス研究グループ
参加費:無料(事前申し込み不要)

プログラム:
新しい美学を作る:自然計算と美学、その先にあるもの
秋庭史典(名古屋大学)

「人間に依拠しない美、人間に依拠しない芸術、人間に依拠しない知能」を考えるとき、「人間に依拠しない」ところまでどのようにして到達するか、哲学の世界では、そのルートは三つくらいあると思われます(最終的に、ほんとうに人間に依拠しない、と言えるところまでたどり着けるかは別にしまして)。たとえば、
  1. メイヤスーやハーマンなど、「人間―およびその思考―からこの世界の実在を切り離す」ことを目指す「思弁的実在論」を経由する道
  2. ドゥルーズ&ガタリが「ハバシニワシドリ」を例に論じたように、動物のテリトリー(なわばり)形成などを例に、芸術は人間の特権ではないと論じる道
  3. 心(認知システム)は、「皮膚と頭蓋を越えて」「道具や他者を含む環境にまで広がっている」とする「拡張された心」論者の言う「他者」を自然にまで拡張するような道
の三つです。それぞれに問題があると考えます。以下簡単に述べます。

たとえばメイヤスーについて。ハイデガーに代表される相関主義を克服しようとする彼の試みには同意します。が、その主張の前段をなす彼の科学理解には、何か奇妙なところがあるように見えます(あえてそうしているのかもしれませんが)。人間ならびに地球上のあらゆる生命に先立つ現実、たとえば宇宙の年齢や星や地球の形成に関する科学的言明(メイヤスーが人間の営みとは関わりがないと考えるもの)も、それが現在の研究者が地上で行う種々の観測に依拠している以上、現存する人間の営みと関わりがないとはわたくしには思えません。また、数学的なものの絶対性をそれ自体では数学的ではない絶対的なもの(以前なら神の不可謬性、メイヤスーでは偶然性の絶対性)から保証しようとするデカルト流のやり方を継承することも、時代錯誤なものに映ります。知識の正当性を保証すると思われていたものそれ自体が見直しを要求されることはこれまでにもありましたし、そのような絶対的なものを想定しないからこそ、健全な科学が可能と思われるからです(また、宇宙や星に関する科学的言明を支えているのは数学だけではないことも重要です)。

また2については、すでに指摘されているように、人間の芸術を前提に、そこから自然の芸術を見ているため、人間に依拠しない、とは言えないのではないか、というギモンが残ります。3も人間の心が出発点にあるため、同様のギモンを残します。

こうした問題点を考慮すると、「人間に依拠しない」美や芸術、さらには知能や計算について考えるには、人の信念にすべての知識の正当化の基礎を置くようなデカルト流の基礎づけ主義を継承することは考えず(そうではなく知識を自然化する)、また人間の芸術から自然の芸術を見出すのではなく、逆に、生物から始めてその進化の過程のなかに美や芸術や知能が湧いてくる様子を見出すという、戸田山和久『知識の哲学』(産業図書2002年)や同著者による『哲学入門』(ちくま新書2014)で採用されたのと同様の方針を採るのがよいのではないか、と思われます。そのなかで、過去に提唱された、いくつかの「機能」概念(J.v.ユクスキュルのそれやR.G.ミリカンのそれ)を参照していくことができるのではないか、と考えています。