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化学物質過敏症

#7 薬剤散布による健康被害と化学物質過敏症(2009年9月28日)


松くい虫防除で有人または無人ヘリコプターで薬剤散布が行われる時に、散布最中や散布後の気中濃度をいくら測定しても、健康被害を起こし得るような濃度は検出されないし、散布された松林の周辺地域の住民に直接聞き取り調査を行っても、体調が悪くなったという話は聞いたことがない(本サイトの記事#2356)。

それにもかかわらず、場所によっては一部の市民から松くい虫防除で散布された薬剤が原因で体調が悪化したという訴えが出される場合がある。よく調べてみるとそれらの人々には共通性があり、一般市民というよりも、ほとんどはいわゆる化学物質過敏症と称する人達かそのグループに属する人達のようである。
私が、林野庁の「無人ヘリによる松くい虫防除の運用基準作成のための検討会」の委員(副座長)をしていた時、薬剤を散布する時は、当然そういうごく一部の特異体質の人達にも影響がないように配慮をしたいと考え、呼吸器疾患専門医のK委員とともに健康影響調査の試案も作成した。ところが、この化学物質過敏症自体がどういう病気なのか、医学関係者の間ですら明確ではないという問題があった。

化学物質過敏症というのは、現象としては、低レベルの化学物質に長期間曝露(または高レベルの化学物質に短期間曝露)されると、化学物質に対する過敏症が誘発され、超低レベルの化学物質への曝露でも様々な体調不良(疲労感、吐き気、筋肉痛、腹痛、記憶障害、多動、その他)が発症するようになる、と説明されているものである。

化学物質過敏症と似た症状として、シックハウス症候群(新築の家屋で建材などから放散されるホルムアルデヒドやトルエンのような化学物質で体調が悪くなる)というのもある。化学物質過敏症にしてもシックハウス症候群にしても、必ずしも特異体質の人の問題ではなく、環境中の化学物質や電磁波のような環境因子への曝露で誰にでも起こり得るという主張から、環境病と呼ばれることもある。
日本では、以下のように国のいくつかの機関が2004年にこれらの問題に関する検討結果を公表している。


化学物質過敏症は、英語ではMultiple Chemical Sensitivities (MCS)と呼ばれたり、Sick Building Syndrome(SBS)と呼ばれたり、Environmental Illness (EI)と呼ばれたり、Idiopathic Environmental Intolerance (IEI) [特発性(原因不明の)環境不耐性] と呼ばれたりする。そういう症状を研究対象にするClinical Ecology (臨床生態学=臨床環境医学?)という分野もある。外国でも、日本国内と同じように、化学物質過敏症というのはどういう病気なのか、あるいはそもそも身体の病気なのかということについて、いろいろな議論がある。 

調べてみると、MCSについては以下のように、すでに10年も前に外国で詳細な検証が行われており、さらに最近の研究結果の報告もある。

1998年に、Chemical Sensitivities: The truth about Environmental Illness という本の中で、Stephen Barrett, M.D. による詳しい総説 A close look at “Multiple Chemical Sensitivity” が発表され、結局、MCSというのはストレスに反応して発症するpsychosomatic disorder(精神作用で起こる体調不良)の可能性が高いとしている。

この総説には、付録として、Court Rulings Unfavorable to MCS つまりMCSになったと告訴して損害賠償を求めたたけれども因果関係が証明されないとして裁判で不利な判決が出された多くの事例のリストも載っている。同じ著者のStephen Barrett, M.D. (2008年1月22日)は、MCS-Related Disciplinary Documents and Depositions of Drs. William Rea and Alfred Johnsonという題で、MCSに関連して、医学的に認められない不適切な治療を施した医師が懲罰に直面している、という事例も紹介している。

文献2 
Int. Arch. Occup. Environ. Health (1994) 66:213-216 に掲載されたC. Wolfによる Multiple chemical sensitivities.  Is there a scientific bases? という論文では、MCS患者の訴える主な症状として、頭痛(headaches)、元気がでない(general weakness)、集中力欠如(loss of concentration)、記憶力低下(memory disturbances)、眼の刺激(eye irritations)、咳(cough)、喉の痛み(sore throat)、下痢(diarrhea)、その他の特定できない訴え、を挙げて、このように何でも起こり得るということが臨床学的な定義を困難にしていると指摘している。これらの症状は、我が国でも、群馬県や静岡県や島根県出雲市で松くい虫防除で薬剤散布が行われた時に化学物質過敏症グループの訴えた症状とよく似ている(本サイトの記事#2356参照)ことは、興味深い。

この論文の結論として、毒性学的(Toxicological approach)、免疫学的(Immunological approach)、神経学的・神経生理学的・精神医学的(Neurological, neurophysiological and psychiatric approach)アプローチで検証しても、clinical ecologist(臨床環境医学者?)の提唱した理論ではMCSを科学的には説明できないとしている。

J. Allergy Clin. Immunol. (2006)118:1257-64に掲載されたJ. Das-Munshiらによる総説 Multiple chemical sensitivities: A systematic review of provocation studies では、MCSに関する誘発研究の総合的検証を行っている。MCSの原因に関しては、次の3つの仮説があることを指摘。
1. 免疫、神経、内分泌、呼吸器などの器官が影響を受けたことによる、低レベル化学物質への生物学的反応。免疫的過敏性とは異なる。
2. 身体の学習による反応であり、心理学的な作用。
3. 環境汚染に対する恐怖感、工業化への不安などが関係した社会文化的な現象。

この論文で、検証の結果得られた主な発見と結論は:
  • MCS患者は厳密な盲検下では誘発物質を識別できない(上述した日本の環境省の実験結果と同じ結論)。
  • MCS患者と健常者の間に誘発物質感知の閾値に差はない。
  • 学習された身体症状は、時間が経っても記憶される(行動の条件付け)。
  • MCS症状発症には精神作用が働いている。MCS治療には認知行動療法(少しずつ慣れさせて条件付けを解いていく等)が使える可能性がある。

Clinical Toxicology (2008) 46:443-449に掲載されたS. Bornschein らによる Double-blind placebo-controlled provocation study in patients with subjective Multiple Chemical Sensitivity (MCS) and matched control subjects という論文でも、MCS患者のグループとそうでないグループの間で、誘発物質を感知する感受性、特異性、正確性について差異は存在しないと結論している。

これらの論文から明らかなことは、日本でも外国でも化学物質過敏症と呼ばれる、原因の解明も治療方法も確立していない共通の症状に苦しんでいる人達がいるということ。症状は多岐にわたって、通常の病気のように定義できない。これらの症状に苦しんでいる人達は、化学物質や環境因子に対する感知能力や感受性が特に高いわけではないが、化学物質に対する恐怖心が異常に高いという共通点がある。従って、恐怖心によって惹起されるpsychosomatic disorder、すなわち精神作用で体調不良が起こっている可能性がある。つまり、健康被害をもたらす危険な化学物質が存在すると想像することが心的ストレスになって、体調悪化を起こす、ということのようだ。

今まで調査されたほとんどの場合、松くい虫防除で薬剤散布が行われた松林の周辺地域での薬剤の気中濃度は、ある程度の期間吸入し続けても健康に悪影響を及ぼすことはないとされる基準値に達していない。さらに、検出限界以下であっても、あるいは散布自体が行われていなくても、体調不良の訴えが出されることがあるということは、散布された薬剤自体ではなく、まさに心的ストレスが体調不良の原因であることを示唆する証拠ではないだろうか。そうだとすると、散布を中止させたり、曝露を避けるために散布地域を離れたり、検出されない薬剤に対する解毒剤を処方したりすることは、一時的な安心感を与えて心的ストレスを軽減するという効果はあるかもしれない。しかし、根本的な治療方法ではないように思われる。これらの措置によって、化学物質過敏症で苦しんでいる人達に対して、むしろ化学物質に対する恐怖心を増幅したり、恐怖心をいつまでも固定するということになっていないのだろうか。

上記の文献3では、治療方法として認知行動療法が使える可能性を提案しているが、医学関係者による研究の一層の進展により、化学物質過敏症の真の原因が解明されるとともに、それに基づいた適確な治療方法が確立されることを期待する。