【Nagi-logue】私家版「名木宏之’S」
 麻雀牌のものがたり


    平成10(1998)年、私は長い付き合いのあった出版社オーナーの依頼を受けて、千葉県いすみ市にある麻雀博物館の立ち上げに中心メンバーとして加わった。

    私の役目は蒐集された3万点余の膨大な数量の麻雀に関する文物を人文学的・体系的に研究し記録することだったが、彼オーナーは私が麻雀の由来について知悉していたことを踏まえて頼み込んできたのであり、軽く断れないような雰囲気だった。当時進行中の仕事を抱えていたけれども、私以外にはこの仕事は難しいだろうな、という自負の思いも手伝った。

    開館予定は翌1999年の4月10日だという。その日は作家・色川武大(阿佐田哲也の筆名で麻雀小説を書いた)の十周忌にあたり、オーナーは故人を偲んでその日の開館にこだわったのだ。

    私も阿佐田哲也さんとは縁があり、二十代初めに出版社勤めを始めたとき最初に原稿をいただきに伺ったのがこの人だったというようなことから、かなり親しくさせていただいていた。

    そんなわけで、厳しすぎる日程ではあったけれども文句も言えず、98年9月、有楽町の東京国際フォーラムで没後十年記念展『色川武大・阿佐田哲也の世界』を5日間開催したのを皮切りに、文字通り不眠不休の日々を重ねて、ようやく予定通りの開館にこぎつけたのだった。

    私はその麻雀博物館の研究誌に、世界的にも貴重な麻雀文化財のいくつかを『牌のものがたり』という連載でエッセイ風に少しずつ書いた。ところが、それを本にまとめないうちに研究誌の発行が中断したために、書き継がないままになっている。

    そこでこの欄を利用して、前に書いたものに手を加えつつ新しい原稿もまとめてみようと思う。途中で別の話を挿入したりすることもあるだろうが、そこは「-logue」。思いつくままに……

【名木宏之/プロフィール】
文筆家・出版プロデューサー。
1944年広島生まれ。広島大学理学部数学科在学中はボート選手として活躍する一方で著作をはじめ、4年時に中退。
東京の業界紙記者・コピーライターを経て日本文芸社に入社し、雑誌編集部のち書籍編集部に勤務。74年に独立して著作と出版プロデュース、アートディレクションを手掛け、多くの話題書・ベストセラーを生み出すとともに、国内外で新雑誌8誌を世に出した。

【CONTENTS】
麻雀牌のものがたり⓭ 菊池寛「文藝春秋牌」
麻雀牌のものがたり⓮ 福禄寿花辺牌
麻雀牌のものがたり⓯ 麻雀のミッシング・リンク 昇官牌
麻雀牌のものがたり⓰ 金漆銀嵌円卓
麻雀牌のものがたり⓱ 蟹と金魚の風雅牌 

五彩螺鈿づくりの「皇帝御牌」男牌(写真上)と女牌(下左)  ※写真はいずれも複写
    麻雀牌のものがたりCHAP.1  

ラストエンペラー愛新覚羅溥儀

の五彩螺鈿づくり「皇帝御牌」


文/名木宏之(Hiroyuki Nagi 

 
……(大晦日の)この日だけは、ふだん禁じられている双六や麻雀などの遊びも解禁とあって、男は男同士、女は女同士で、皇帝から頂いた「押歳銭
(ヤーソエチェン)を使って賭けに打ち興ずる。
  この「押歳銭」という賭け金は五十銭銀貨を三寸位(約九センチ)の高さに重ねて、皇帝の色である黄色の紙で包み、その上に「年年歳歳」と書いた赤紙が貼ってあるという凝ったもの。賭けに勝った数だけいただかれるが、これはいよいよ困った時しか使用できない金である。皇帝が困っている皇族たちに下賜される臨時のボーナスという意味もあるのだろうが、中国らしいおおらかな風習であった。》(流転の王妃』愛新覚羅浩著・1959年文藝春秋新社刊/カッコ内は筆者=名木)

時代に翻弄されたラストエンペラー
     激動の20世紀を清朝のラストエンペラーとして生きた愛新覚羅溥儀(下写真)は、時代に翻弄されてじつに数奇な運命を辿った。
 
    彼は1906年、第2代醇親王の第5子として生まれ、3歳のときかの西太后の指名により清朝最後の皇帝=第10代・宣統帝に即位。しかし3年後の1911年、孫文らの辛亥革命により皇帝の座を追われた。
    新政府・中華民国の〈清帝辞位後の優待に関する条件〉によって「皇帝」の尊号と紫禁城で生活しつづけることは許されたものの、外の世界とは隔絶され、権力も奪われて、ほとんど幽閉に近い生活を余儀なくされた。
 
    そうして1924年にはその優待条件も廃止され、溥儀は追われるように紫禁城を出て実家の醇親王府に移り、27年、日本公使館の保護のもとに天津の外国人租界に逃げ込んだ。日本関東軍の誘いに乗って中国東北部の新京(現在の長春)で満州国皇帝として君臨したのは1934年から太平洋戦争終戦の45年までである。
    その後はシベリア抑留を経て新生の中華人民共和国に戻り、1967年、62歳で亡くなるまで平民として生きつづけた。
 
    冒頭の引用文は、溥儀の弟・溥傑に嫁いだ日本人妻・愛新覚羅浩(元・嵯峨公勝侯爵の長女)の自伝書に書かれたもの。紫禁城の中で麻雀が行われていたことは他の文献にもいろいろ書き残されているが、日本人に馴染みのある浩の証言をここでは取り上げることにした。

    その浩が愛新覚羅溥傑と日本で結婚し、夫妻で満州に渡った(帰国した)のが1937年だから、彼女の宮廷内麻雀の記述は満州国・新京でのこととなる。

    このとき彼女が麻雀を見たり打ったりした際に実際に使用したのが、麻雀博物館に収蔵されている五彩螺鈿づくりの『皇帝御牌』である。

     浩が「男は男同士、女は女同士」で麻雀をしたと書いているとおり、『皇帝御牌』は大ぶりな〈男牌〉と小ぶりな〈女牌〉の二つのセットが黒檀五彩螺鈿細工の牌ケースに納められている。
    そうして麻雀の勝負決済を点棒で行わず皇帝から下賜された「押歳銭」という祝儀を賭けてやったと記述しているとおり、この牌のセットには点棒が一切入っていなかった。   【右写真】愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の結婚の儀

奇跡的に散逸を免れた歴史証言牌
    この麻雀牌セットが麻雀博物館に収蔵されるまでには深く微妙な事情と経緯があった。といっても、もちろん正規の道筋で入ってきたことには間違いないのだが、ここでそのルートを明かすわけにはいかない。
    これは中国近世史を証言するまことに貴重な資料であり、中国のある文学者などはこの牌を目にするなり絶句して、「これは中国の国宝級のものです。これが中国になく、日本にあるということが(中国人として)恥ずかしい」と呟いた。  
 
    文化大革命の厳しい時代に、まっ先に破壊されるはずの〔走資〕の結晶のようなこの宝物が、よくぞ散逸も破壊もされるもことなく完全な姿で生き残ったものである。

    それを思うと奇跡としか言いようがないし、貴重でありすぎるゆえに出元を明らかにできないというジレンマも生ずる。溥儀に非常に近かった近親者によって大事に保管されていたとだけ、ここでは言及するに留まろう。

    その最終保管者のメッセージによると、この牌は「紫禁城から天津、新京と宮中にずっとあった」ものだという。
    造りか らすると1900年代の初めにつくられたものだと思われるが、とすれば、溥儀が清朝最後の皇帝に即位した時にはすでにあったか、あるいはその前後に紫禁城に持ち込まれたものだと推測できる。
広壮なかつての紫禁城(故宮)と宮廷内で使われたとされる朱塗り金箔銀嵌円卓() 

     溥儀自身は麻雀を打ったのかどうか。浩が宮廷内でふだんは麻雀が禁じられていたと書いているとおり、ある時から溥儀は麻雀を打たなくなった。宮中(写真上/現在の故宮)で麻雀禁止令を出したりしたくらいだから、自身はかなりの決意をもって麻雀から離れたことがわかるが、それまではよく麻雀を楽しんでいたと多くの文献にある。
 
    その「ある時」というのは、1928年の〈東陵事件〉だ。溥儀が天津の外国人租界にいたとき、賢帝で名高い清朝第4代皇帝・乾隆帝と西太后が眠る北京郊外の東陵という墓所が国民軍によって襲撃され、めちゃめちゃに侵奪破壊される事件が起こった。溥儀は自身の帝座が危うい時期でもあって大変なショックを受け、以後復活のために自らを律して好きな麻雀を絶ったと当時の宦官らは書いている。
 
    
溥儀が宮中で麻雀を楽しんでいた頃に愛用された御用牌こそが、のちに浩も使用したこの『皇帝御牌』なのである。
    この牌のセットは、牌も収納箱も黒檀背に夜光貝の精巧な五彩螺鈿細工が施されている。〈五彩螺鈿〉は清朝・康煕期(1661~1722)に始まった装飾技法で、以後清朝の貴人は好んでこの五彩螺鈿の陶磁器や家具調度を用いた。*写真は収納箱側面の五彩螺鈿「児嬉図」

    牌身そのものは牛棒骨(太腿の骨)で変哲のない彫りに見えるが、豪華な装飾を加えていない分、かえって厳かな気品を感じさせる。その1牌1牌の細工模様がまったく同じで見分けがつかないところに、この牌の凄さが醸されるのだ。     
  
    愛新覚羅浩は1987年、北京で73歳の生涯を閉じた。
    遺骨は翌年日本に帰り、先祖の縁があった山口県下関市の中山神社の境内摂社・愛新覚羅社に、天城山心中(昭和32年)の長女・慧生とともに眠る。
 
    日中の懸け橋としてあり続けた〔流転の王妃〕浩が宮中で貴族たちと親しんだこの牌は、いま日本にある。彼女がもし故国でふたたびこれを手にすることがあるならば、いったいどんな感慨を示すだろうか。
    この牌は貴女の魂を追って日本にやってきたのですよ――と、そんなことは決してないのだとしても、私ならそう説明してさしあげるだろう。
(文中敬称略=以下同/初出=2005年1月「麻雀博物館会報」)
 
   【皇帝御牌―― 1900年代初期製/牛骨製・黒檀背/男牌・縦30.5 ㍉ ×横21.0 ㍉ ×厚さ14.5 ㍉ (象牙の厚さ6.0 ㍉)





  故宮(紫禁城)余聞
 
     200610、私は北京の故宮(紫禁城)の奥の院に入る幸運を得た。
 
    紫禁城は現在、故宮博物院として一般公開されており、私はその4年前には上海交通大学の先生に、さらにその7~8年前には北京の編集者に連れられて見学したが、今回はちょっとちがった。麻雀の古い遊具が相当数出てきたのでそれらを鑑定してもらえないか、という故宮博物院からの要請があり、麻雀博物館の調査団の一人として私も加わったのだ。
 
    故宮はとにかく広い。部屋数がおよそ9000もあるといえば、その規模がどんなものかお分かりだろうが、そのうち現在公開されているのは4割ていど。開かずの部屋がまだたくさん残っている。その部屋のいくつかから麻雀の牌とか卓とかが見つかり、博物院側はそれらの年代や文化財としての価値などを詳しく把握したいということだった。
 
    一般見学者は午門といわれる正門(世界最大の城門)の前にある通用門から入場する。私も前2回は当然そこから入ったが、こんどは先方の招きなので、中南海(中国要人の住むエリア/写真Aの左上の池に囲まれた所)から特別に西華門を通って鑑定する部屋に入った。
 
     私たちはそこで麻雀牌を30組以上、麻雀卓を20卓ほど丁寧に見たが、皇帝が使った麻雀博物館の「皇帝御牌」ほどにはいかないにしても、さすがに宮廷で使用されたものだけあって、上品かつ美麗な牌や卓ばかりであった。博物院ではこのうちの一組を「鳳光室」という部屋で開催される「ラストエンペラー展」に展示するという。
 
    この牌は清代光緒期(1875-1908)まで遡れる古いもので、あとで同じ種類の牌について書くことになるけれども、風子牌は東南西北でなく「公」「侯」「将」「相」、三元牌は白發中でなく「龍」「鳳」「白」という珍しい古牌。鍵付きの収納箱の蓋には「吉羊()」の文字がある。羊は古くから吉を呼ぶ動物として崇められていた。(写真右)
 
    調査を終えた夜、私たちは故宮博物院の研究スタッフと宴席を囲んだ。
     博物院側からは麻雀博物館の麻雀研究の奥行きの深さに感心したむねの話があり、両博物館が姉妹提携して今後研究の質を上げていきたいという申し出があった。こちらももちろん異論はない。
 
    私もスピーチを求められたので、「トランプやダイス、ドミノなど世界で遊ばれるゲームのほとんどが中国をルーツにするとおり、中国はかつて遊戯の先進国だった。麻雀も中国で発祥した至高のゲームでありながら、一時期その本場で軽視されるという不幸なことがあった。いま故宮でその価値をもう一度見直そうという風が吹き始め、喜ばしいことだと思っている」といった話をした。
 
    そんなこともあって、中国文化院ではいま麻雀をユネスコの世界文化遺産に登録すべく準備を進めている。私にも協力を求められているが、雑駁に集めた知識でも少しでもお役に立つことがあるのならうれしい。

*写真は複写

   麻雀牌のものがたり Chap.2   

麻雀古書に記された

幻の名品『天女散花牌』

……花牌は麻雀一組に四個又は八個付随しています。絵は千差万別で一定したものではありません。しかし必ず絵の中にはその絵に相当した字が一字刻まれています。四個一組で一座といいます。二座ついているものは一座ずつ同じ色の文字になっています。

    一座の四字合わせて一句になり、例えば春夏秋冬、梅蘭竹菊、山間名月、江上清風、琴棋書画、晴耕雨読、あるいは娥奔月、天女散花などという類いのものです。これを使うには文字の順序を覚えねばなりません。例えば春夏秋冬とあれば初めの春より順に荘家()南家、西家、北家の役牌になるのです。これを座花といいます。》 (『麻雀競技法』中村徳三郎著/1924年・大連千山閣書房刊 原文は旧かなづかい 太字およびカッコ内は筆者=名木)
ロンドンの骨董店で発見
    平10(1998)年、まだ麻雀博物館が形になっていないときに、この「天女散花牌」(写真上=複写)を目の前にして涙を流さんばかりに感動した一人の男があった。浅見了。名古屋に在住する当代一の麻雀碩学で、熱心な麻雀文化財のコレクターでもある。
    
彼は麻雀博物館創設の発起人の一人であり、打ち合わせで飯田橋の竹書房会長室を訪れたところで偶然、ロンドンから届いたばかりのこの牌に面会することになった。
    娥奔月、天女散花……はあー……この牌が出てきましたか!」
    彼はそう言ったきり押し黙り、目を潤ませて牌に見入った。この牌こそが彼が長年追い求めていた古牌だったのだ。
    
   引用した『麻雀競技法』の花牌の件(くだり)を、彼はそれまで何度目にしていたことか。この本は大正13(1924)年『支那骨牌 ・麻雀』(林茂光著・華昌號刊)とともに日本人による初めての麻雀教則本として出版され、日本の麻雀揺籃期に麻雀愛好家のバイブルとして読まれた名著である。
    その本に紹介されているさまざまな花牌文言の古牌を彼は何度も目にし自分で蒐めてもいたが、「(こうが/じょうがとも)奔月」「天女散花という花牌をもつ麻雀牌だけはいくら探しても見つからなかった。あまりに出てこないものだから、この牌の存在さえ疑いかけていたのだ。特別に美しい響きをもつ文言であるだけに、著者・中村徳三郎のつくり書きではないかとまで思った。
 
    その夢にまで見た、浅見にとっては幻の牌が現実に眼前に出てきたものだから、彼の驚きはいかばかりだったか。そうして、その牌の言いようのない美しさに息を呑んだ。さらに感激することに、136枚と花牌8枚が1牌の瑕疵も欠損もなく保存されている。
 
    しばし言葉を失ったまま牌に見入っていた浅見は、紫檀・浮彫りの見事な細工の箱型収納箱(写真)をそれこそ宝物を扱うように丁寧に鑑賞し検分した後、ようやく口を開いて野口恭一郎(故人・麻雀博物館創設者・元竹書房会長)に訊いた。
    「どこで……この牌が見つかりましたか?」
    「ロンドンですよ。骨董店にありました」
    「ほお……ロンドン、ですか」
    浅見はそれからまた口をつぐみ、いつまでも飽くことなくこの美牌に見入りつづけたのである。麻雀の奥まで知り抜いている男だからこそ持つ一段上の感動がその場を包んでいた。

希少の花牌がなぜ古書に紹介されたのか
   この花牌の文言「娥奔月」「天女散花」は、ともに京劇の有史以来の大スター・梅蘭芳(メイランファン/1894-1961)が演じた中国神話に基づく人気演目である。
   
娥奔月 とも書き、中国晋代(265-420)の『捜神記』(千宝著)に題材を採る月の女神(天女)の話。日本の竹取物語の原典だ。梅蘭芳はこれを1915年、21歳時に北京吉祥園で初演し、スターの足場を築いた。
     天女散花の「散花」は「散華」とも書き、「さんげ」と読む。菩薩や釈迦の大弟子らが法(真理)を行うときに天女が降らせた花が大弟子の身体にくっついて落ちなかったという、仏典『維摩経』の一節を劇化したものだ。梅蘭芳はこれを1917年、23歳時に初演。ミュージカル風の斬新な演出で京劇界に革命をもたらし、のちの『覇王別姫』と並ぶ彼の十八番となった
  〔注〕麻雀博物館には梅蘭芳が愛用した名品「遊龍戯鳳牌」が収蔵されている。
    
    いま「娥奔月」も「天女散花」も、その言葉は女性の美しい姿態を示す代名詞とも使われ、娥奔月」は中国で切手などにあしらわれているし、「天女散花」も中国銘茶や打ち上げ花火などの品名になっている。日本の横浜みなとみらい日本丸パークには、その文言のまま「天女散花」という石像もある。
 
    そういったことを頭に入れてこの牌を見ると、また一段と美しく見えてくる。
    牌の左肩に洋数字とイニシアルが刻まれている(欧米の麻雀牌にはすべてこれがある)ので、欧米輸出用につくられたものであることは間違いないが、それにしても、短時日のうちに欧米の麻雀牌はなんという充実をみたことか。
 
    梅蘭芳が京劇「天女散花」を初演したのが1917年で、米スタンダード石油の中国・福州支配人J・Pバブコックがはじめて補数字入りの麻雀牌を欧米で売り出したのが1919年のこと。本格的に麻雀牌輸出が始まったのは1920年になってからだった。中村徳三郎が『麻雀競技法』を上梓したのが192410月で、中村の脱稿時期から推察すると、この牌は1920年初めから248月頃までの間に世に出たものと考えられる。バブコックの初輸出以来何年もしないうちに、欧米の麻雀牌はここまで昇華しているのだ。
 
    それにしても、と私はいま一度思う。中村徳三郎はこの牌の存在をどこで知ったのだろうか。彼はこの牌を実際に見たことがあったのか、なかったのか。
 
    
先に触れたようにこの二つの文言を持つ麻雀牌は決して多くない。中村がその本で紹介した他の文言の花牌は麻雀博物館に数多く収蔵されており、量産されたらしいことがわかるのだが、この二つの文言の花牌は他に二つとない。麻雀博士の異名をもつ浅見了でさえ、これまでずっと探しつづけてきてまだこれ以外に見ていないというのだ。
    断言できないにしても、この牌は世界唯一無二のものではないか。私が知る限り現時点ではそうである。
 
    のまさに希少の花牌を、中村はなぜ他のものと同じようにポピュラーな例として日本の読者に紹介したのだろうか。その時代の一般的な花牌文言なら、冒頭引用の文言のほかにも「福禄寿喜」だの「漁樵耕読」だの「八仙上寿」だの、いろいろ出回っていたにもかかわらず、彼はわざわざこの二つの文言を選んでいるのだ。
    中村はその原文で「娥奔月」「天女散花」の前に「あるいは」という接続詞を挿入して他の文言との列記を避けている。特別にこれも紹介する、というようにもとれる文章で、彼の本意はじつはそこにあったのではないか。
    
    この牌の存在を噂で聞いたのか、写真で見たのか、あるいは実物を見たか。そのことをしるした記録はないので今となっては確かめようもないが、私は、中村がこれを実見したほうに賭けたいと思う。
    彼はきっとこの牌をどこかで見たのだ。そしてあまりの美しさに打たれ、これを本に書かざるを得なかったに違いない。
 
    肌合いが体温を伝えるような牛棒骨(太腿の骨)の乳白色の牌身に、細密な彫りと秀麗な彩色が施され、花牌にあでやかな八体の天女と1索に不老長寿の吉祥鳥・鶴が舞う。天女と1筒の竜、1索の鶴には金箔が施されているが、それも成金趣味のいかにも金ですというのとは違って、さりげない高級感を醸し出している。
    この天女散花牌に対面するとき、私はつねに何かこう、感謝に似たような気持ちが湧いてくる。それは、麻雀の素晴らしく奥深い歴史と文化に対するありがたい思いと、この牌を1枚も損なうことなく美しく保存してくれたおそらくヨーロッパ人であろう愛好家への、敬意と感謝の思いにほかない。 (文中敬称略/初出=2005年4月)
     ※付記 2013年に打ち上げに成功した月探査船にも「嫦娥」の名前が付けられた。
 
    【天女散花牌】――1920年代初期製/牛骨製・竹背/32.0×21.5×14.0(骨厚9.0)


 
 
【Nagi-logue】メール: shoubunn@gmail.com

※写真は複写

     麻雀牌のものがたり Chap.3    
アメリカ 〔黄金の20年代〕の 
絢爛豪華「桑港(サンフランシスコ)花辺牌」


「マージャンもよく売れた」
    身内の話を持ち出すのは気が引けるのだが、私の母方の祖父母(竹広鶴次郎・マサノ)20世紀はじめに20年ばかり、米国サンフランシスコで東洋美術商を営んでいた。祖父が写真を勉強するため単身でアメリカに留学し、そのまま居着いて商売を始めたのだ。
    自宅は郊外のパロアルト*という町のスタンフォード大学の近くにあって、母はそこで生まれた。       パロアルト――現在はシリコンバレーの中心地として知られ、グーグルやフェースブックの拠点がある。

    折から東洋美術の大ブームで、祖父母は商売を相当手広くやっていたようだ。
    そのために白人社会から疎まれるようになり、ちょうど〔黄禍〕がいわれだした頃、日本人排斥の嵐が吹き始める前に店をたたんで日本に帰った。そして持ち帰ったレコードや輸入盤を増やして、東京・神田で日本初のジャズ喫茶『東亜』を開いたり呉服商をやったりした。
 
   祖父は昭和26年に亡くなったが、祖母は広島でわりと長生きした。家が近かったこともあって、私は子どもの頃から祖母のところへよく遊びに行った。話を聞くのが愉しかったし、何よりワッフルを焼いてくれるのがうれしかったのだ。
    おふくろも当時はまだ珍しかったパイだのクッキーだのをつくってくれたが、面白い形のプレートで目の前で焼く祖母のワッフルはまた特別の魅力があった。孫の私に気前よかったせいもあろう。
    
    駐留軍(当時は進駐軍といった)が近くに来たりすると、街の人が祖母のところに通訳を頼みに来る。ガイジンとペラペラ英語で談笑しているのを見て、バアちゃん何者なんだ !? と、幼心に畏怖を感じたこともある。    
     私が大学生になって麻雀を覚えたての頃、祖母はまだ達者で、アメリカ話を聞きたがる私にこんなことも言った。サンフランシスコの店では浮世絵やら仏像、陶磁器やらが「おもしろいように売れた」が、「扇子やマージャンもよく売れたよ」
 彼女の言うマージャンとはもちろん、麻雀牌セットのことだ。
 【上写真】20世紀初めのサンフランシスコの東洋美術店(人物は筆者の祖父母と、間にいる幼児が母)。右下隅のショーケースに麻雀牌らしきものが見える。

骨董店の片隅にひっそりとあった
    博物館開館の前年、野口恭一郎(故人・麻雀博物館創設者)は麻雀文化財の蒐集で世界を飛び回っていて、アメリカ西海岸の蒐集旅行では多くの〔掘り出し物〕を手にして帰ってきた。
    その一つがこの「桑港花辺牌」で、彼はよほどこの牌に自信があったらしく、どうだ、と言わんばかりに私と鈴木知志(故人・元麻雀博物館副館長)の前にガバッとこれを広げて見せた。
    なるほど凄い牌である。私も鈴木もしばらく口がきけないほどに驚いた。
 
    「この牌はね……危うく見逃すところだったんです」
    と、野口は手柄を褒められたい子どものような顔をして言った。聞くとこうだ。
    彼はサンフランシスコのめぼしい骨董店をしらみつぶしに歩き回り、あそこなら(古い麻雀牌が)ありそうだ、という情報をもとに7軒目の店に入った。ところが、店頭に展示されているのは焼き物などの高価な美術骨董品ばかりで、麻雀に関係する物は一切見当たらない。
    店内をひと回りし、ここも駄目だな、と見切りをつけて店を出ようとしてふと玄関口の上の棚を見上げると、んん! 雑多な物が積み上げられた中に埋もれるようにして、彫金の麻雀牌ケースらしき物がひっそりとあるではないか。
 
    
急いで降ろしてもらって中身を見る。と、これが驚くほどの〔上物〕だったのだ。野口は口の中が乾くほどの興奮を覚えたが、店主にそれを悟られないよう、胸の鼓動を抑えるのに苦労したという。
 
   店にしてみれば、麻雀ブームだったのははるか昔の話、古い麻雀牌に興味をもつ者など少なく、どんなに美しい出来の牌であろうと雑器の類いでしかない。高くも安くもない適当な値段を言って、いかにも早く持って行ってくれと言わんばかりの対応に終始した。
  こういった風景は、じつは麻雀博物館が誕生するまではよく見られたものだった。今はそうはいかない。世界各地の骨董店やオークションで、古い麻雀具は格段に高くなってきているのだ。蒐集する側はやりにくくなったにしても、麻雀牌が文化財として正当な評価を得られるようになったということで、反面喜ばしいことでもある。雑に扱われて散逸したり破損したりしなくなっただけでもいい。
 
    ……私は野口のサンフランシスコ土産話を聞きながら、祖母の昔の言葉を何十年ぶりに思い出し、もしかしてこの牌、祖父母が扱った物ではなかったかと、別の空想にとらわれていたのだった。

アメリカ麻雀史が違うのか
   ところがまあ、これは私の勝手な空想でしかないわけで、この牌と祖父母を結びつけるのはむずかしいということが調べてすぐにわかった。わずかに時期がずれているようなのだ。
    祖父母がサンフランシスコから日本に引き揚げてきたのは、明治45(1912)年生まれの母が満7歳の時で、尋常小学校の新学期の編入に間に合ったというから、1919年の6(誕生月)より後で204より前である。
 
   当時、日米間は船便しかなく、母の記憶によれば、日本に近づくと「ニッポンだ!」という叫び声が聞こえ、水平線の先にまっ白い富士山が浮かぶように見えてきたという。冬の何月かに横浜に着いたということだ。
 
  J・P・バブコック(前出・写真左)が中国からイニシアル入りの麻雀牌の欧米輸出を始めたのは1919年だったが、本格的な販売普及は20年に入ってからだった。それからすると、祖母の言葉は合わない。ちょっと早すぎるような気がする。
 
  「マージャンも〔よく〕売れた」
    と、彼女は50年近く前、確かに私にそう言った。これは絶対に間違いない。私はそのころ覚えたてで麻雀漬けの日々を送っていた。「バアちゃんがアメリカで麻雀牌を売った」というのは、大変インパクトのある話だったのだ。
  祖父母の帰国時期を最も遅く想定しても、19202月にはサンフランシスコを出航していなければならない勘定だが、麻雀史ではその時にはまだそれほどブームにはなっていなかった。祖母の店で麻雀牌がよく売れるようにはなっていなかったはずなのだ。
    これはどういうことなのか!?    祖母がありもしない話を私に言ったか。アメリカ麻雀史がずれているのか。
 
    祖母はそれから2年後に亡くなった。もっと詳しく聞いておけばよかったと、今更ながら悔やむ。母は広島に存命しているが、にして耳が遠い。アメリカでのことを今更聞いても私が得心するような話には至るまい。
     この疑問を検証するなら、アメリカで麻雀が流行する前から在米中国人の間ではさかんに麻雀が行われていて、彼ら相手に麻雀牌が売れたと考えるのが普通だろう。
    だがそれも、祖母の言葉を思い出すと違うのだ。祖父母の店には東洋人の客はこなかったと言っていた。こなかったというより、祖父母のほうで敬遠していたというのが正確だろう。いやな話だが、祖母はこういう言い方をしていたのだ。
  「日本人や中国人が出入りする店には、アメリカ人は入らなかったからね」

     ならば答えは一つしかない。アメリカで麻雀は西海岸でまず流行して、全米に広まった。
    国際都市のサンフランシスコでは、麻雀史にあるより前からアメリカ人の間で麻雀が行われていたのではなかったか。バブコックはそういった〔下地〕があるのを知っていたからこそ、麻雀牌のアメリカ輸出を思い立ったのではなかったか。
    私は実際に聞いた祖母の言葉のほうを信じるから、当時の当地の資料を丹念に洗うとそういった新事実が出てくるのではないかと思っている。 
  写真欧米では日本より少し早く1920年代初めに麻雀が大流行した。この写真は「麻雀に興ずる貴婦人たち」としてアメリカの雑誌(1923年)掲載されたものである
 
祖母の言葉は正しかった
     ……といったことを、私は8年前に書いて発表した。
    そして、この「桑港花辺牌」が祖父母の店を経由してアメリカ社会に届き、それが日本に戻ってきたという空想物語を頭に浮かべて、胸躍るような気持ちを書いた。
 
    はたしてはたして、その後新しい事実が出てきたのである。
    どういう事実か。結論的には祖母の言葉は正しかったし、アメリカ麻雀史も間違っていないということなのだが、私はそれを胸を張って言うことはできない。あっさり白状すれば、私の勘違い・記憶違いだったのだ。胡乱(うろん)にすぎて、ともかく恥ずかしい。
   身内の話を出すとつぎつぎとプライバシーを表に出すことになるけれども、母は100歳を過ぎてなお広島で健在している。しかし、耄碌(もうろく)はした。夢遊の世界と現実との間を行ったり来たりしているようだ。
 
    その母と去年、わりとしっかりしている時に話ができた。で、それとなく訊いてみたら、こういうことなのだ。
   「アメリカからの船が日本に近づいたとき、白い富士山が見えたと言ってたよね。7つの記憶がよくはっきりしてるもんだなあ」

    7歳の自分の記憶にははっきりしているものもあり、まったく思い出せないものもあり、あやふやなものだから、母の記憶はどうなのかな、といった疑問は前から持っていた。 *写真は 当時の日本郵船北米航路の主力船「天洋丸」

    母はアメリカ・パロアルトの友達の名前を何人もはっきり覚えているし、フレズノとかロスガトスとかサクラメントとか、行った所の地名も覚えていて、何度も口にしていた。
  「そう真っ白い富士山がね ‥‥でも、わたしが日本に帰ったのは8つの時よ」
  「ええっ! 8歳だったの? 数えの8つじゃないよね」
  「満、よ。満の8つよ」

   本当に物書きとしてこれでいいのかと猛省せざるを得ないが、間違った情報を何十年も頭の中にインプットしたまま、前の原稿を書いて発表してしまったわけである。
    でも、弁解もしよう。身内のことでそれぐらいの記憶違いは誰にもあるのではないか。私は早くに実家を出た。だから、親との話もそんなに丁寧にできてきたわけじゃない。
    私が若いころには年配者は数え年の年齢を口にする人が多く、おそらく母が言った年齢を勝手に自動的に満年齢に換算してしまい、そのままになったということだろう。そうとしか考えられない。

〔黄金の20年代〕に湧くアメリカ
   1年遅く日本に帰ったのなら、これまでの話はまったく問題がなかったことになる。
   アメリカに麻雀が入って流行りだした1920年の翌年まで、祖父母はサンフランシスコで商売をしていたのだ。アメリカ生活の終わりのほうだから、「マージャンがよく売れた」という記憶に間違いのあるはずがない。
    だからといって、私は7年前の原稿で書いたアメリカ麻雀史の前倒しの推論を引き下ろすつもりもない。アメリカ西海岸の麻雀ブームの火のつき方は、漢字含みの東洋文化でもあることだし、まったく下地なしにあれほどの速さで燃え上がるとは思えないからだ。
 
   1920年に本格的にアメリカでの麻雀牌販売が始まって、早22~23年には全米で大ブームとなっている。パーティーの二次会といえば決まって麻雀となり、ホテルには専用の麻雀ルームが作られた。バブコック以外にも麻雀牌の製造販売を始める業者が続々と現れ、ニューヨークタイムズ(写真右/1923年2月)には連日でかでかと麻雀牌大売出しの広告が掲載された。
   そういったことを知らない麻雀愛好家も多く   「えっ、日本や中国以外でもやってるの!」とことさらに驚いてみせる人もある。
    そういう向きには、日本より欧米のほうが先に麻雀人気が高まり、遊戯文化として尊重されたむねを説明するが、その私も全米中に一気に広まった麻雀伝播のあまりのスピードの速さには、分析が追いつかない。
 
  「アメリカ人は、豪華な物が好きなのよ」
    祖母はそうも言っていた。店で好まれたのは、渋いわびさび趣味の物より一見豪華な物だったという。見栄っ張りだから、付き合うのに骨が折れたとも。日本人事業家が白人社会で伍してやっていくには、郊外に家があって、自家用車を持っているのが最低条件だったと。これは祖父が言っていた言葉として母から聞いたことである。
    たしかに当時のアメリカは、19世紀後半の〔金ピカ時代(Gilded Age)から第一次世界大戦の落ち込みを経て、1920年からの空前の大繁栄期〔黄金の20年代(Golden 20's)〕を迎えたころだった。

    この「桑港花辺牌」は、その祖母の言葉をそのまま表わした、まさに黄金の20年代にぴったりの豪華きわまりない牌である。
    こういった装飾花辺牌(牌に草木や花の縁取り文様を彫り込んだもの)は、かつて欧米の富裕層や外交官、貿易商らがよく土産物や進物用に特別注文してつくらせたというが、それにしても、ただこれで麻雀ゲームを楽しむだけなのに、ここまで豪奢に気張らなくても、と思うし、その心意気がまたうれしくもある。この牌を見るだけで、当時のアメリカ人気質が分かったような気がするではないか。

    そうしてこの極め付きの豪華麻雀牌が、祖父母の店を経由してアメリカに入っていたとしたら……ああ、それを思うだけで心が躍る。その可能性は以前に書いたときよりもずっとずっと高くなったと思うのだ。
    芸術を好み最初期のフォード車に颯爽と乗っている祖父の1世紀も前のアメリカでの写真()を見ても、この派手な麻雀牌をアメリカに持ち込んだのはうちのジイさん以外にあり得ないのではないか――私は今そんなふうに思うようになっている。(文中敬称略/2005年10月の初出稿に加筆)
【桑港花辺牌】――索子(ソウズ)牌は中国南部にできる縁起のよい仏手柑という柑橘類。筒子(ピンズ)牌には不老長寿の団鶴(舞う鶴)。萬子牌の縁取りには胡蝶を配す。花牌の文言「済公活佛」「八魔闘法」はともに故事に材を得た京劇の題名である。この牌は2005年、ニューヨークのアジア・ソサエティ美術館において、欧米を代表する麻雀牌として貸出し展示された。1920年代初期製/牛骨製・竹背/31.5×22.0×14.0(9.0)
1910年代初め、自家用車=フォード1910年式モデルT-ツーリングに乗る
筆者の祖父(運転席の人物/後部座席の白帽子が祖母)
背景は1894年、国際博覧会の際に造園されたゴールデンゲート・パークの
日本庭園の建物と思われる
 
⇓1900年代初め、祖父はフォードの最初期モデルに乗っていた

 
※写真は複写
     麻雀牌のものがたり   Chap.4    
 袁世凱 大総統が愛用した 

青花児嬉図 景徳鎮磁器牌


これ、全部焼き物ですか?!

   10年ほど前、世界的に知られる中国系米国人の物理学者の訃報が外字新聞に小さく載っていて、心にちょっと引っかかったことがあった。
    名を袁家という。中華民国初代大総統・袁世凱(えんせいがい)の孫で、この人の中国系の夫人・呉健雄が世界で初めての原爆開発に携わった唯一の女性科学者だった。かつての軍閥の影が孫の嫁にまで及ぶのかと、驚いたものだ。
 
    私は広島出身で、一族のほとんどが市の中寄りに住んでいたものだから、原爆で壊滅的な被害を受けた。
    母と兄と私(当時1)は郡部に疎開して無事だったが、父を失った。さらに、母が原爆投下の翌日と翌々日、父や親戚の安否を尋ねて爆心地を歩き回ったものだから、二次被曝にやられ、戦後しばらく苦しんだ。
 
    しかし多くの被爆者が後遺症で長く辛い目に会ったのに、弱いと思っていた母が100歳を越したのだから、わからない。私も母に背負われて爆心地に長時間滞在し放射能の悪い影響をたっぷり受けたはずなのに、71のこれまでこれといった病気はしなかった。無責任なことは言えないけれども、放射能に強い体質、弱い体質というのはあるのかもしれない。

    そういったことがあるから、どうしても原爆の話には敏感になる。中国系物理学者の訃報にも、人とは違って強い印象をもたされることになった。
 
    その袁家騮の訃報を見た日からほんの2~3週間後のことだった。
    用事があって野口恭一郎(前出)の会社の部屋を訪ねると、顔を見るなり彼は言った。
    「いい牌が見つかりましたよ」
    こういう時の彼は何ともうれしそうな、そわそわした顔になる。100㌔の巨体のまさに事業家然とした風貌がころっと変わるのだ。
     麻雀()がほんとに好きなんだな、この人は――と、その一途な熱心さには感心する。で、私も釣られるように、まだ見ぬ前から期待感を持たされてしまうのだ。
 
    目の前に出された牌はしかし、私のその期待をはるかに超えてすばらしいものだった。
    「これ……全部、焼き物ですか! すごいなあ」
    牌の一つ一つをじっくり見させてもらおうと思っていると、野口は先を急ぐように牌の収納箱に目を遣り、いかにもそっちを見なさい、というような目顔になった。
    「ほう……ケースも磁器張りですか!」
    感心していると、野口はさらにじれったそうにして言った。
    「字を見てみなさい、字を」
    私はあっと一拍遅れで声を上げた。〈袁世凱大総統珍玩〉の焼きこみ文字が見えたのだ。
   「袁世凱……あの袁世凱が持っていた牌なんですか!」

落款の呉なる人物は誰か
    その時は気づかなかったのだが、後で私はあれっと別のことに思い当たった。この牌と収納箱が同時的に作られたものだとすっかり思い込んでいたが、違うのではないかと思うようになったのだ。
    自分で収納箱を特注したとしたら、自分の名前を入れて「大総統珍玩」と焼き込んだりするものだろうか。他者が袁世凱への贈り物として作らせたのなら分からないでもないけれども。ついでに言っておくなら、この「珍玩」なる言葉、「珍」は貴重なという意味で、大事に愛用したものをいう。

    何週間か後に麻雀博物館に行く用があったので、気になっていたことを確認するため、展示されたその牌の場所に急いだ。そして収納箱の側面の磁器板を見て、やっぱりそうだと私は確信した。
    「袁世凱大総統珍玩」のその文字とともに、「民国十七年春月」とあり、さらに最初に見たときには気にも留めなかったのだが、「呉」という落款が焼き込まれている。
 
    民国17(1928)年なら、袁が死亡した同5(1916)年より12年も後である。そしてこの収納箱を作った人の名も、呉とはっきり明示されている。牌と収納箱が別々に作られたことは間違いない。
    いろんな想像が頭を巡った。袁世凱が亡くなった後、呉なる人がこの牌を譲り受けてずっと保管・愛用していたが、そのままではその牌が袁世凱の所有物だったという証がどこにもない。それで、時期的にはそう、十三回忌を迎えるにあたり、袁の偉大さを偲ぶために収納箱を新造することにしたのではなかったのか。家宝として愛蔵するためにも。
 
    勘繰れば、袁世凱の名を騙って自分の持ち牌セットを格上げしたかと思えなくもないが、ま、それはないだろう。後で触れるけれども、中国の陶磁窯の事情がちょうどこの時期、受難期ともいえる最悪の状態だった。加えて袁世凱という人が、死しても中国の国内外でまことに評判が悪かった。「人民の敵」とまで言われていたのだ。
    そんな時世に袁世凱の名前を被せた手の込んだ焼き物の収納箱をあつらえたとして、誰がこれを貴重に扱うだろう。袁によほどの忠誠心を持っていなければこんなことはしないだろうし、人前に出すのではなく秘蔵するつもりでこの収納箱を作ったのではなかったか。
 
    そんなふうに考えていくと、この呉なる人物がとても気になる存在となった。呉とは誰なのか。
    この牌セットが中国の骨董商から入ってきたので元の持ち主を特定できない状態にあるが、袁世凱の愛用品を譲り受けるような人物となると、それなりに彼と近い関係で身分も高かった人ということになろう。
    同時代の著名な呉姓の人というと、まず浮かぶのが呉佩(1872-1939)である。山東省蓬莱の人で、軍閥。袁世凱の部下で頭角を現した 国祥の後輩だから、袁との縁由はかなり強く、この人が第一本命といえる。北洋軍閥直隷派の巨頭で相当な人物だ。     ※呉佩孚の愛用牌(『漆塗り犀角牌』)も麻雀博物館に収蔵されている。
 
    もう一人、あまり大物ではないけれども、呉銭孫という軍・警察畑の人がいる。袁世凱という人物はとにかく人望がなかったが、ずっと忠誠を尽くした人もわずかにあったようで、呉銭孫がその一人だった。
    当時の書『袁世凱(佐藤鉄次郎著/1910年・天津時聞報館刊)にこうある。
 《袁世凱が抜擢した人間をみると百鬼夜行の感がある。(中略)これが袁が失敗した原因である。袁には袁の党などはない。誰もが袁を利用して立身出世するだけだ。ただし、袁に誠意を尽くした人間もいないわけではなく、袁が罷免されたとき異議を申し立てた学部侍郎(文部次官級)・厳修、警官を派遣して袁を護衛した天津巡警督弁・呉銭孫がいる。》
    この呉銭孫だったら、終生袁世凱に忠誠心を持ち続けたかもしれないが、残念ながらこの人の出自も袁との関係もよくわからない。
 
    ほかにも「四絶」と称えられた書画家の呉昌はじめ呉姓の同時期の著名人はかなりの数いる。しかしいずれも袁との接点が見出せないか袁より先に物故しているかで、候補者とはなり得ない人物ばかりしか浮かばない。
 
    ならば最初の二人のうちのどちらかだな。と、そう思いかけたとき、何か重要なことを忘れているような気がして、はて何だったかと頭の中で浮かべてみた。
    「呉」という姓で何かほかに引っ掛かりになることがあったかな……
    こういうときに、歳をとって健忘が進むと、なかなか核心に近づけないのである。
    これを読んでいる人は、冒頭の袁世凱の孫の訃報の記事で呉という姓の人が出てきたことを覚えておられるだろうが、私がこの推理をつづけているときにはその新聞記事の内容などとっくに忘れてしまっている。外字新聞もすでに手元にはなく、女性物理学者の呉健雄などという人名はすでに頭の隅っこにもなくなっているのだ。
 
    だが私はずいぶん経って、なんとかこの人にたどり着くことができた。インターネットのおかげである。しかも偶然に。
    件の女性物理学者は「中国のキュリー夫人」と称される有名人だったので、彼女の記事はネット上でけっこう頻繁に出ている。で、なんかの拍子に突然、呉健雄の名前が私の頭にリンクしてきたのだ。  
 
 
   呉健雄(写真/ウィキペディア)なら、袁世凱の孫の夫人。大いに候補者たりうる。
    急いで彼女の出自を調べると、生まれは1912年で1997年に亡くなっている。
    なるほど……。麻雀牌収納箱が作られた年1928年)には彼女はまだ16歳で、袁の孫とアメリカで知り合い結婚したのは194230歳の時だった。とすると袁世凱の没年次(1916年)からして、彼女がこれに関わったという線はまず消える。
 
    では彼女の父親だったらどうか。父親は呉仲裔という教育者だったということだから大いにあり得るが、はたして彼が袁世凱と人生のどこかで繋がっていたかどうか。彼の祖籍は中部の江蘇省太倉で、主に上海で活躍した人だから、北洋軍閥の袁とは接点が見つけにくい。
 
    そこまで調べたのだから、肝心の袁世凱の婚姻関係はどうだったかと今になって当ってみると、これがなんともはや。大変な精力絶倫ぶりで一妻九妾との間に31(1714)もの子どもをもうけているのだ。
    それじゃ男の子孫に呉姓*の女性が何人関わっていたか見当もつかないから、結局は袁世凱の親族だったというつまらない推理結果に落ち着きそうだったが、袁が関係した10人の女性はと調べてみてさらにがっかりすることになった。正妻は於氏だが、なんと4人目の妾に呉姓の女がいるではないか。 呉姓* 〕中国では女性は結婚後も姓が変わらない
 
    ばかばかしい。下手な推理を延々と続けて、結局は一番つまらない線に落ちてしまったのだ。形見分けをしてこの麻雀牌を呉なる妾が獲得したという、たったそれだけの話だったのではないのか。彼女なら十三回忌の年に袁世凱を偲んで磁器板を焼いて収納箱を作っても、何ら不思議も疑問もなかろう。
    ここまでこの下手な推論にお付き合いいただいた読者にも申し訳ないが、ネット百科事典にも文句を言いたい。これを大真面目に調べているときに、ウィキペディアの袁世凱の項にはまだ配偶者の名前など載っていなかったのだ。彼の妾の名を記録した文献もまったく見当らなかった。

皇帝の自分に贈った最後の大贅沢
    袁世凱は中国近世史の第一級の巨魁である。小躯ながら大きな権力を得て、欧米では「ストロングマン」と呼ばれた。字(あざな)は慰亭、号は容庵。1859年に河南省項城に生まれ、2度の郷試(科挙)に失敗して、軍に入る。准軍で活躍して李鴻章(1823-1901/直隷総督・北洋大臣)の信任を得、朝鮮派兵で頭角を現した。
 
    義和団の乱(1899) を鎮圧して清朝に認められると、当時の最高権力者・西太后に取り入ってうなぎ上りに出世し、ついに李鴻章の後を継いで直隷総督・北洋大臣(州知事級)に就任。1911年に辛亥革命が起きると、朝廷に反して孫文と妥協し宣統帝(ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀)を退位させて12年に大総統となった。
 
    さらに国民党と国会の解散を行い、第二革命を弾圧。1915年、帝位復活運動を起こして自ら中華帝国皇帝・洪憲帝を号した。
    これにより国民から大きな反感を買って、反袁世凱の蜂起が相次いで起こり、翌年、帝号を取り消すとともに失脚。まもなく憤死した。 
     袁の出世街道をみると、権謀術数と賄賂のかぎりをつくしている。とくに西太后への贈り物攻勢はすさまじく、たとえば彼女の73歳の誕生日にはこんな具合いである。
……狐の毛皮で出来たガウン2着、宝石をちりばめた大きな沈香木、金銀線条細工に真珠をちりばめた鳳凰ひとつがい、人間の背丈ほどもあるサンゴを贈ったのであった。それより前、日露戦争の不安な時期には、袁は彼女(西太后)に自動車を1台贈り、また彼女をもてなすためインド人のサーカス団を宮廷につれてきたりした。》 (『袁世凱と近代中国』J・チェン著/守川正道訳/1980年・岩波書店刊)
    袁は洪皇帝を名乗ると、今度は〔皇帝〕の自分への贈り物を自分で行った。
  《1916年の初頭に、袁は郭宝昌という男を景徳鎮にさしつかわし、(自分の)宮廷のために4万個の陶磁器を140万元かけて作る監督官とした。他の出費に比べればこれは小さな金額でしかなかった。……(同書)
   「青花児嬉図袁世凱磁器牌」が作られたのは、まさにこの時だった。景徳鎮(中国最大の製陶地)の官窯制度(陶器廠)はこれを最後に廃止され、中華人民共和国が誕生(1949)して再興されるまで、陶工のほとんどは廃業して、一部が民窯として細々と生産を続けたにすぎなかった。
     袁世凱が最後に行った〔皇帝〕の自分への大贅沢な贈り物。その一つがこの麻雀牌だったのだ。 
    そうして改めて見ると、この牌の凄さがいや増してくる。
    寸分も違わぬこの磁器の11牌が、すべて手作りで焼かれたのだ。コンピュータによる均一大量生産品に慣らされた若い世代には想像もつかないだろうが、この精巧な技術と根気はもはや人間の業を超えている。
 
    権力というものは、時に人の域を超えたとてつもないものをつくり出す。例えるにはあまりに大きすぎようが、万里の長城もそうであったように。      
 (文中敬称略/2005年7月の初出稿に加筆)
【青花児嬉図袁世凱磁器牌】――袁世凱が愛用した景徳鎮・磁器製の貴牌。牌背には子どもたちが無邪気に遊ぶ吉祥の水墨図(児嬉図)が焼き込まれている。索子牌は河南地方の馬吊(麻雀の前身の紙牌)に見られる鯉の絵柄で、袁世凱が河南の人であることと一致する。
収納箱には山水画の磁器板があしらわれ、これに「袁世凱大総統珍玩」と「呉」の落款の焼き込みがある。1910年代製/35.0×25.0×15.0

⇩第5話「仏兵捕虜の手製アルミ牌」以降は

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