全日本学生自治会総連合

1.基本情報

【名称】全日本学生自治会総連合

【結成】1948年9月18日


 全学連は全国の大学において組織される自治会の連合体。全学連については他の所でも詳細な歴史が語られているので本項では簡単に歴史を紹介するに止める。
 1948年9月18日からの3日間に亘る全学連結成大会において日共系の強い指導下で結成され、委員長に東大の武井昭夫を選出。この時点での加盟校は国公私立合わせて266校、学生総数22万を数えた。学生の政治運動を妨害しようとする大学法案反対闘争の勝利後の指導的立場の学生への処分に対する対応を 巡って日共指導部と対立が生じた。日共指導部と全学連の対立は続いたが、日共の所感派‐国際派分裂や武装闘争路線の決定などを受け、全学連内部にも分裂が生じ同時に強い弾圧を受ける事となり、学生運動も退潮した。
 その後の日共の武装闘争路線放棄や共産同の台頭と崩壊、60年安保の敗北、革共同系の台頭と分裂などを経て、60年代後半の反戦闘争や全国学園闘争のピークとされる‘68年を迎える直前の‘67年には、民青系・革マル派系・三派系に三分裂していた。
 ‘68年7月には三派系が中核派系と解放派・社学同等の反帝系に分裂。反帝系は、解放派・社学同旧統一派・ML派・プロ軍・インター系などでの全学連結成を目指すも、社学同旧統一派と解放派のゲバルトで直ぐに分裂し、社学同旧統一派と、解放派・ML派それぞれ反帝全学連第19回定期全国大会を持ったが、 どちらも役員に空席を残すことで反帝系としての統一への姿勢を残した。その後各党派間の闘争方針の相違から反帝系の統一ならず、‘69年7月、解放派は独自の全学連大会を持った。社学同も独自の全学連を持とうとしたが、共産同内の分裂によってままならなかった。
 これにより、全学連は民青系・中核派系・革マル派系・解放派系に四分裂していたが、解放派系は解放派の分裂により現代社派・赤砦社派に分裂し現在に至る。

2.ヘルメット

≪反帝系≫

【名称】全日本学生自治会総連合

【ヘルメット】赤地に「全学連」。



1968.06.21 明大前通りのバリケード構築【ASPAC粉砕神田カルチェ・ラタン闘争】

 反帝系の内、社学同統一派系の一部がこのような全学連ヘルメットを被ったことを確認している。上写真中央やや右の長椅子を左肩に担いだ学生のヘルメットにも「全学連」の文字が見出せる。


≪中核派系≫

【名称】全日本学生自治会総連合

【ヘルメット】白地に「全学連」。

2002.05.26 5・26全国総決起闘争(中核派『コミューン』通巻319号)

中核派全学連 ヘルメット



中核派全学連ヘルメット‎‎‎‎(京大哲研公式アカウント様提供)‎‎‎‎


≪革マル派系≫

【名称】全日本学生自治会総連合

【ヘルメット】白地に鉢巻状赤線「Z」、「全学連」。

1971.10.08 機動隊の阻止線を実力突破して進撃するデモ隊(青山通り) (1971.11.05付 革マル派『解放』212号)

「Z」の意味については革マル派の項で論じたのでそちらを参照。「全学連」と書かれたヘルメットはほとんど確認できない。


≪解放派系≫

【名称】全日本学生自治会総連合

【ヘルメット】青地に「全学連」。

'83-'84年頃(1984年 明治大学第34回和泉祭パンフレット 21頁より)


'91年頃「学費値上げ阻止! PKO法案粉砕!」をかけ16日間にわたってうちぬかれた91年学費闘争(1992年 明治大学第42回和泉祭パンフ 35頁)

 三池支援の際の写真でも少数ながら確認できることは確認できるが、’67年10・8以降、鮮明な写真で確認できる「全学連」というヘルメットは1968年1月の空母エンタープライズ寄港阻止闘争の際のもの(20世紀の記憶『1968年』23頁)である。しかしこれ以降のゲバスタイル確立・普及の一方で「全学連」や全学連を構成する「自治会」或いは自治会を表すと思われる略号(例えば京大農学部自治会は農業を表す英語“Agriculture”の頭文字Aを○で囲んだマークを掲げた。)を正面に書いたヘルメットはあまり登場せず、セクトのヘルメットの後部に「全学連」と書いたものの方がよく見受けられるようになる(1968.04.02王子闘争・前掲51頁、1968.11.22日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会・前掲85頁など)。構改派だと全学連にあたるものとして後部に「自治会共闘」の文字を書き入れている例がある。この様に全学連や自治会共闘がの様な連合体が独自のヘルメットをあまり使用せず、党派のヘルメットの後部に書き入れていることが多いことも「自治会共闘」のヘルメットが珍しい事の一因になっているのかもしれない。

 私なりにこの理由を考えてみた。まあ飽くまで想像にすぎないので話半分に読んでほしい。
 全国学園闘争は、各大学の全共闘
(大学によって名称は異なるが同じ位置づけにあたる「全闘委」「全中闘」なども含む。以下単に「全共闘」と総称する。)を主な結集軸として闘われた。(但し元々多くの大学には全共闘出現の前から実体を伴って自治会は存在していたから、自治会主導で全共闘なしに闘った大学もあるだろうだがそもそも大学によって全共闘と自治会の関係は一様ではなかったと思われる。自治会メンバーも参画した全共闘、自治会とは全く別に形成された全共闘、そもそも自治会が存在しなかったり存在が当局によって許されなかったところで生まれた全共闘、自治会の事実上の闘争実行委員会であった全共闘などなど様々な形態があっただろう。)
 しかし闘争が沈静化するに連れて、例えば各セクトやノンセクト(ここでは闘争に参加したセクト色の無い一般学生と解釈してほしい。以下同じ。)の同居によって形成されていた全共闘からは、ノンセクトの学生が抜けて行ったり、ほぼ時を同じくして始まったセクトの分裂やセクト間の内ゲバにより、内ゲバを起こす様なセクトが参加している全共闘が大衆的支持を獲得できなくなったり、また或いは「全共闘」の勝利または敗北によって、全共闘が全共闘としての機能停止に陥ったり、役目を終えたり、そのままでは存在できなくなったりして、何らかの形で全共闘は消滅したと考えられる。
 このように全共闘を結集軸としていたどの大学に於いても全共闘は遅かれ早かれ消滅し、そしてそれに代わる組織立った組織
、学生生活全般を担当する自治会やそれに代わるもの、或いはサークル間の連絡組織である文連・理連・サ連などの体系的組織(以下「自治会等」と総称する)へと全共闘が担っていた機能が移って(或いは“戻って”)行ったと考えられる。
 60年代後半の写真で、全共闘や全共闘を構成するであろう各学部闘争委員会のヘルメットというのは多く確認できる。このヘルメットを被っていた人々の多くは、恐らくはセクトの学生組織には加入していないそもそもは特定のセクトには属さない人々の筈で、どこかの段階で全共闘のヘルメットを脱ぎ、そしてそれに代わる組織、即ち前述の自治会等のヘルメットを被るようになったと考えられる。

全共闘運動の発生前から自治会のヘゲモニー争いは存在したが、それが60年代後半のゲバスタイル定着後はヘルメットにも表れるようになった。白ヘルの「自治会」(中核派系)、赤ヘルの「自治会」(全学連を持たなかったが第四インター系の自治会、例えば三・ニ六で死亡した新山君が所属した山形大などが使用)、青ヘルの「学生会」(明治大学一部全学自治会の名称。解放派系)など、その自治会を握った全学連やセクトの系統によって色が分れた。このヘルメットを被るのは、セクトに入っているがその自治会の役職を持っている者やサークル動員でかき集められた一般の学生たち以外では、かつて全共闘に結集し全共闘のヘルメットを被っていたのと同じ層、即ちセクトの学生組織には入っていないシンパか、学生運動を志した人々だったと思われる。
 では、このような自治会のヘルメットが普及したのがいつ頃かということと、こういった自治会等のヘルメットの細かな使い分け、例えば中核派系において「全学連」「自治会」「○○大(例えば法大・東北大等)」のヘルメットの表記の違いは何を表すのかが疑問である。前者については今一時期が判然としない。これは今後の課題としたい。後者については私見だが正直これについてはさほど厳密な使い分けもなかったと思うし、従って区別をつける必要はないかとも思う。